冒険ばとん そのご
便利なものほど磨り減るのも早い。
 
 個が集いて衆とならば、各々の個が宿す要素は総じて失われる。
 全てが無双の存在であるそれぞれの木々でも、寄り集い巨大な樹海の内ではその個性は無きに等しいものでしかない。
 一つ一つの個が湛える小さな波をことごとく静寂に帰すこの場に闇雲に踏み入れようものならば、流れなき深緑の牢獄にたちまち捕えられる事になる。

―こっちか。

 深き森を進む一人の少年。彼がその入り口に踏み入ってから、既に三日の時が経とうとしていた。
 だが、この無明の闇の如き魔境にあって明確なる標を得たかの様に、その足取りははっきりとしていた。
 地面を踏みしめる音の微細な違いをその耳で感じ、緑の瞳が捉える光景にある小さな歪みの如く違和感の源を、培ってきた判断力を以って評し、進むべき道を決める。

「さて…」

 暫く足を進めたところで、少年は何となしに近くに佇む大木に目をつけて、その根元へと腰掛け、担いだ荷物を降ろした。
 辺りに魔物の気配はなく、小休止には丁度いい静かな雰囲気であった。

「これが、最後だな…。」

 袋の中から取り出した小麦色の物が発するほのかに香しい匂い。自分を助けてくれた女性―ディルジが焼いたパンは、既に本来持つ魅力を失っていた。
 程よい歯ごたえを持つ乾いた食感は、森の湿気を長く浴びている内に無くなっている。
 それでも、決して無駄にはしまいとしっかりと袋の中で守ってきた甲斐あって、十分食糧としての役目を果たしていた。

―…流石に、もう長くはもたないな。

 金髪の少女のパンを少しずつ千切ってかじり、糧とするべくして途中で集めた木の実を割った中にある身を食しながら、少年は自らが置かれている状況をそう捉えていた。

 背負った袋の中身は既に殆ど空っぽである。途中で道具として拾い集めたものも、幾度か出遭ってしまった魔物との戦いでその役目を果たして失われていった。
 お陰でこれまで深い傷を負う事も、毒に身を苛まれる事もなかったが、結局手元には何も残っていなかった。
 これでは食糧も何もかも失って行き倒れたあの時と、何ら変わりはない。

―あとは…

 自らを振り返る最中にふと気にかかった腰の小さな巾着袋の中に入っているのは、森に入って最初に手に入れた青色の草であった。
 他の数々の有用な道具達が使命を果たしていく中で、手元に残った唯一の物。
 何の変哲もない何かの薬草を、少年は今も尚、その身に帯びていた。

「さて…、どうしたものだか。」

 残っていた食料の全てを胃の中へと収めたところで、少年は無感情にそう呟きながらゆっくりと立ち上がった。
 どのみち帰るべき道はない。ただ前に進む事が、今の少年の全てであった。


「…ん?」


 ふと、近くに布の切れ端の様なものが落ちているのが目に付いて、少年は足を止めた。
 それは、引き裂かれた誰かの外套の一片であった。黒地の布の欠片に、微かに血の匂いが付いている。
 彼は、その元を辿るべくして辺りを注意深く見回した。

「これは……」

 すると、そう遠くない位置に、更に多くの黒い欠片が落ちているのが見えた。近くにはその主の亡骸と思しき白い石片が見受けられる。
 おそらくこの者もまた、この森の中に迷い込んで苦闘を続けてきた果てに傷ついて力尽きたのだろう。

「………。」

 何者にも看取られる事なく孤独に死す。それが、道を誤った冒険者の末路というものなのかもしれない。

「何を、今更…」

 ふっと頭の中に再び過ぎった不安を払拭しながら、彼はそう一人ごちた。
 そして、近くに落ちていたものの数々を物色し始めた。

 見た事もない様な固く不思議な素材ながら、どこか貧相さを醸しださせる指輪。
 入れ口が星型になっており、全容は妙にくびれた形となっている奇妙な壷。
 先端にひび割れた紅い魔石が埋め込まれた以外は何の変哲もない檜の杖
 外側に雄叫びを上げる豪壮な顔つきの熊の姿が描かれた巻物。
 食卓で馴染み深い食器を更に大きくした様な、鈍い銀色の三叉の鍬。
 そして…所々に割れ目が生じて脆さを感じさせる、大柄ながらも儚い印象を与える大盾。


「俺は、生きるんだ…」


 これらが、この今は亡き冒険者の唯一の形見と言える品々であった。
 しかし、少年はその様な感慨など一切感じぬままに、それらを拾い上げて袋の中へとしまい込み、そのまま先へと進んでいた。

 この生を許さぬ秘境の奥底で生きるには、一つでも多くの道具が必要である。ただそれだけの事であった。