冒険ばとん そのさん
しかし、だれもいなかった!
 
 下卑じみた笑い声が、この地を踏みにじる音と共に次第に大きくなっていく。
 到来してきた招かれざる客は、ただ獣の如く目に映るものを貪るかの様に里を蹂躙し始めている。

「…あいつら、また…!」

 駆け込んできた男の警告を受けて、ディルジはその端正な顔を険しく歪めていた。

「ああ、じきにここも狙われる!すぐに…」
「…分かってる!今度は…私が…!」

 樹海の里人達にとってこの上ない厄介者達の”再度”の到来が、激しい焦燥感を生む。
 一刻も早く逃げなければならない状況である事は、二人の会話を聞き届けるより先に理解していたつもりだった。

「…あんたが?何故…?」

 一方、ディルジが思いつめた表情で俯きながら言い放った言葉の意味が気にかかり、少年は彼女にそう尋ねていた。
 この場に踏み込まんとする者達の目的、どことなしに分かっていた様な気はしていたが、思わずそう訊かずにはいられなかった。

「ディルジは狙われてるんだよ。奴らにな。」
「やはり、娘攫いか…」

 体に宿る力は男性よりも総じて弱く、捕らえられやすい。また、男性にはない多くの魅力を買われて人身売買の折には聞き分けの良い子供共々、高い値打ちで取引され、売り払われた先で良いようにされてしまう。
 そうした数多くの理由から、若い女は総じて略奪の対象となりやすい。
 ここでもし捕らえられてしまえば、ディルジの希望は失われてしまう事だろう。

「坊主、巻き添えを食いたくなければお前も隠れておくんだ。いいな?」
「………。」

 相手は己の欲を満たすためならば如何なる悪行にも手を染める正真正銘の悪党である。少しは旅慣れているとはいえ、成長途中の少年や、平穏の内に過ごしてきた里人がまともにやって勝てる相手ではない。
 余所者である自分にまでそうして気を回してくれる男の心遣いは、一体何処からきているのだろうか。

「…もう、遅かったみたいだな…」
「なに…、…っ!?」

 だが、既に近くにまで足音を感じ取った少年には、その思いを満足に味わう暇などなかった。
 少年が険しい視線を向ける先を見やった瞬間…


「でりゃあああああっ!!」


 渾身の力を全身に溜めた後に打ち下ろされた巨大な斧。それは、眼前の木の壁など一瞬で叩き割ってしまう程の勢いで、その衝撃で混乱の悲鳴を上げるように、家中が騒ぎたて始めた。


「へっへっへ、…見つけたぜぇ…ガキ共ぉ。一番乗りは頂きだなァ。」


 撒き散らされる木片と共に現れたのは、多くの者を捕らえてきたであろう巨大な腕と、小山の様な体躯を有する大男であった。
 目に爛々と輝く光は、真っ当な道を歩んできた者のそれではない。手にした斧もまた、尋常ならざる程に刃毀れと血吸いの跡が目立ち、見るものを怯えさせるには十分過ぎるものであった。


「何てこった…」


 醜悪さを感じさせるまでに巨大なその体躯と、下卑じみた笑みを浮かべる顔が、人食いの獣以上の凶暴さを醸し出している。
 同時に、弱者を虐げるに事足りないまでの暴力を幾度となく振るってきた事によって歪められた人の情―残虐さを増しているのが感じられる。
 大きな斧も、その男が握るとあたかも小刀の様に小さく見えてしまう。
 その様な圧倒的な相手を前には、大抵の者はなすすべもなく驚き留まる事しかできないだろう。

「ぐっへっへっへ、大人しく女を寄越しなァ。さもねぇとてめぇら皆殺しだぜえ?」
「…誰が、あんた達なんかに…っ!!」

 男は大斧をちらつかせながら、三人に告げながら下品に笑いかけた。
 だが、この威圧に屈してしまっては、この先に何があるか分かったものではない。
 ディルジは近寄ってくる男を前に後じさりながら強く拒絶の意を示そうとした、そのときだった。

「ホレス!?」
「………。」

 手を伸ばそうとしてくる男の行く手を阻む様に、怯えを見せるディルジを庇う様に、彼はその両者の間へと割って入っていた。

「んぁあ?誰だァ、クソガキ?」

 驚きの声を上げる少女を他所に、大男は黙したまま立ちはだかる銀の髪の少年を見下ろしていた。

「………。」
「…な…なんだぁ…テメェ…」

 だが、少年はどれ程大男が迫ろうと、一歩も引こうとせず、ただただ侮蔑の眼差しをもって相手を睨みすえていた。
 逆に前進しようとさえする気迫に、大男は思わず気圧されて後じさっていた。

「…やめろ、坊主!お前が叶う相手じゃ…!」
「邪魔ずんなぁああっ!!」

 だが、それが大男を余計に激昂させる結果となってしまった。
 制止しようとする声も虚しく、大男は少年へと大斧を振り下ろした。

「―――っ!」

 肉厚の刃は、少年の胸元へと思い切り叩きつけられた。
 それをまともに受けた彼の口から、一抹の血が吐き出される。

「嫌ぁあああああああっ!!ホレスーーーーーっ!!!」

 ディルジの悲痛な叫びを聞いたのを最後に、少年は意識を闇の内へと落とされた。






「……っ…く…。」

 だが、それでも彼が死ぬ事はなかった。

「気がついたか!坊主!」
「…どうにか…。」

 微かに胸の辺りに苦しみを感じながらも、少年は確かに生を留めていた。
 身につけていた胸当ては大きく拉げていたが、代わりに斧の斬撃の威力を大きく削り取ってくれた様だ。
 少なくとも肋骨が折れていても可笑しくない一撃を受けて、大した傷を負わずに済んでいる。
 行き倒れた時に続いてこうまで来ると、つくづく運がいいと感じられる。

「ディルジは?」

 だが…

「これで…もう五人だ……。くそ…っ!」
「…五人、か…。」

 この幸運と引き換えにして、自分にそれを授けてくれた少女は攫われてしまった。
 無力を噛み締めるディルジの知人の男の姿に、この里が見舞われた不幸が目に見える様であった。

「全く…冗談じゃない……。」

 生き延びる事こそできたが、結局は人攫い達の思い通りにさせてしまった。
 それに少年は舌打ちしながらゆっくりと立ち上がった。

「…お、おいっ!?坊主!!何処へ!?」

 そのまま出て行こうとする彼の姿を見て、男は思わず引き止めずにはいられなかった。

「まさか…ディルジを助けに…っ!?お前…死ぬ気か!!」

 少年が向かう先には、先ほどディルジが焼いたパンが入ったバスケットがあった。
 それを一つ一つ丁寧に包み、自らの荷物の中へと入れていくのを見て、彼がすぐになにをしようとしているのかを察した。

「…そう簡単に死んでたまるか。助けられた以上は…何としてでも…」

 彼女がいなければ、自分はあの場で野たれ死んでいた。
 情に薄いつもりでいる少年とて、こうして救ってくれた恩を忘れたつもりはない。
 
 ディルジの縁の者が止めるのも聞かず、彼はただ一人で樹海の中へと入っていった。