冒険ばとん そのいち
流浪の少年
 
  外から見える一部からも、内に秘めたる何よりも深い闇を醸しだす、そんな深い森。

 その中に、ただ一人彷徨う少年の姿があった。
 頭に生えた銀の髪は、長く野に佇むその果てに汚れと傷で錆びついたかのように、その輝きを失っている。
 濃い緑を湛えた瞳には既に生気はなく、光なき樹海の内では映し出す光もなかった。
 そして、長きに渡って何も口にしていないその体は酷くやせこけて、暗い死の影が深く色づいている。
 
 だが、それでも彼は何も言わずに黙々と歩き続けた。死に逝こうとするその姿とは逆に、彼は確かに生きようと足を前に進めていく。

「…っ!こんなときに…」

 朦朧とする意識の中、前方に魔物の気配を感じ取り、彼はすぐさま身構えた。
 既に手持ちの道具は殆ど失い、残ったものはこの身を守る最後の牙…常々多く用いられてきた古びた小振りの剣だけであった。

「デス…ジャッカル……か…」

 死した後に光の理に反して蘇らされて、腐敗の中で滅びを待つだけの血塗られた猟犬―デスジャッカル。
 群れからはぐれて獲物も見い出せずにある末に飢えた一体が、待望の時にようやく糧に巡り会えた歓びの唸りを上げる音を、彼は静かに聞いていた。
 互いに飢えて倒れようとしている身。勝ち得た者だけがこの場を生き残る弱肉強食の理。それはこの場においても裏切る事なく存在していた。

「……こ…の…!!」

 不意に飛び掛ってきた死した猟犬の爪牙をかわし切る事は叶わず、彼はその身を守る黒の外套ごと、肩口を引き裂かれて三筋もの傷を負い、苦悶に表情を歪めた。

―まずい…

 それが宿す毒素は、獲物を捕らえるべくして己が身の内で練り上げし蠍や蜂などのそれとは比較にならぬ程弱いものであった。だが、それでも自浄の能を失った腐敗の徒の爪も、死肉を貪る小さき者どもが宿るが故に決して侮れない脅威である。

「…ちぃ……っ!!」

 満足に手当てをする暇などなく、再び襲い来るデスジャッカルの攻撃を身を翻して交わし、黒の外套の内へと巻き込んだ。

「そこだ…!」

 行く手を遮る黒い布にぶつかって猟犬が僅かに怯んだ隙に、少年は短剣をその首筋へと勢い良く突き刺した。腐臭漂う死肉は、今の一撃で刻まれた傷より広がる皹によって壊れ始め、やがてはその体は湿気を多く含んだ様な重苦しい音と共に地面へと崩れ落ちた。

「…うぐ…ぅ…っ!!」

 だが、少年もまた、傷の激痛に耐える事はできず、肩口を手で押さえていた。どうにか身を立てようと足は地に着かずにあったが、それでも震えは止まらなかった。

「くそ…!!ここまで…か!?」

 飢えによって身を苛まれている以上、負わされた傷を自らの力で癒せる時も無い。
 しかし、死は元より覚悟して出でた旅の内でも、おめおめと命を捨てるつもりもない。
 彼は最後の力を振り絞って、必死に生への道を闇雲に探り始めた。

「…っ!?」

 …が、不意にその足元が虚空を踏むのを感じ取り、彼は思わず息を呑む。

「―――っ!!」

 正しい認識を失った今の彼の感覚では、そこにあった断崖の存在を正確に感じ取る事はできなかった。
 少年は吸い込まれる様にして、地の底へと落ちていった。




「…!」


 だが、それは決して彼の死を意味したものではなかった。

「……俺は…生きている…のか…?」

 開かれた目が映し出しているのは切り出された木々によって形作られた骨組みによる天井。
 横たえられた身を支えるのは白いシーツと柔らかい布団が敷かれた清潔なベッド。
 最後に目に映ったのは死出の道。そう理解していた彼にとって、今目の前に見える生に満ちるこの場は、全く解せぬものでしかなかった。

「あら、気がついたのね!」

 そのとき、甲高い歓喜の声が唐突に少年の耳を打った。そのかしましさに微かに顔をしかめながら、彼はその声の主へと振り返った。
 そこには、金色の長髪を後ろで束ね、前髪を綺麗に切り揃えた若い女の姿だった。年のころは、微かに感じられる艶やかさから見て、少年よりも幾分か上と見られる年齢であろうか。

「このまま目を覚まさないかも…って、心配したのだけれど、目を覚まして良かったわ。」

 たおやかな笑みを浮かべながら、彼女は手にした椀の中身を匙ですくい上げ、少年の口元へと運んでいた。
 清楚にして美しい、そんな慈母の様な、優しい姉を思わせる姿。
 だが、それを目にしても、少年の表情は全く変わる様子はなく、ただなされるがままにされていた。

 肩の傷は幾らか癒えたのか、既に痛みは大分引いている。
 しかし、今の彼には身を起こす気力は残されていなかった。大分汗を流したのか、身を包んでいる寝巻きは大分湿っているのが感じられる。
 その最中で体力が失われた…とあれば、このまま体の重みに身を委ねる他はない。それだけの事であった。

「わたし、ディルジ。あなたは?」

 運ばれてくる温かな糧を拒む事なく身に受け入れる少年を見て満足げに笑いながら、彼女―ディルジはそう問い掛けてきた。



「ホレス。」



 その問いに対して、彼はただ、静かに素っ気なくそう返すだけだった。