第三章 金色の王墓
第二話
 
 
 アッサラームを発った先の旅路も、幾分強い魔物の群れが立ち塞がった。蝙蝠の如き翼を生やして旅人の生血を求めて飛び回る吸血鬼―バンパイアや、異常に肥大した体を持つ上に気性の激しい暴れ猿、麻痺の毒素を鱗粉に持つ巨大な羽虫―痺れアゲハといった魔物を相手に、油断は許されない。
 遠くからの気配さえ察知できるホレスの聴力を生かして常に先手を打ち、牽制して追い払ったり別所に注意を向けてやり過ごしたり、時には奇襲をかけて一気に決着をつけたりもした。そのお陰で、ここに至るまでに特に大きな怪我などの被害を受けることはなかった。

「……ついにここまで来たな。」

 熟練の旅人であっても油断ならぬ道の中で気を張り詰めた末に目にすることになった光景を前に、ホレスは思わずそう呟いていた。

「砂漠…か。」

 アッサラームから続く荒野を越えた先の一面に広がる黄砂の大地。今は正面に沈む夕日を受けて、炎のような赤に染め上げられている。空に応えるようにして刻々と色を変えていくように、砂漠の気候もまた一日の内でも急激に変化することは、一つの常識として知られていることだった。
 この世界の中で最も広いとされる砂漠―ともすれば大陸一つに匹敵する広さのものが目前にある。僅かな標以外に何もなく、ただその場にあるだけで体力を奪われていく不毛の地。だが、これを越えなければイシスに辿りつくことはできない。とはいえかつてはこの砂漠越えを大地の神―ガイアーラの試練に準えている部族もいる程で、今の旅人達もいずれは乗り越えるべき試練とみなしていることが多かった。

「レフィル、その鎧、大分馴染んできたようだな。」
「はい…。」

 振り返りつつ、ホレスはレフィルへと調子を尋ねていた。厳しい気候と凶暴な魔物の両方が猛威を振るう魔境にも等しい砂漠を行くには、行く道の標の下調べや水や食料の準備をぬかりなく行うことはもちろんのこと、魔物に抗するだけの力も当然必要になる。
 今レフィルが身に付けているのは幾つもの板金を基盤に打ち込んで全身を覆うように組み上げられた鉄の鎧であった。脚絆や小手を差し引いたとしてもかなりの重量になるはずだが、以前と変わりなく問題なく動いているばかりか、その重みを逆に利用して自らより体格の大きな魔物をも圧倒する程の強みにさえしていた。素早さで劣る代わりに磨き上げてきた技と鍛えてきた力を以ってこれまでの難関を切り抜けてきたレフィルにとって、今回の買い物は概ね理に適ったものであった。
「だが、この先は……。」
「……。」
 しかし、この砂漠を抜けるにあたっては、少しばかり事情が違う。確かに、砂漠の魔物を相手に中途半端な防具で挑むのは厳しいものになるが、その分代償は高くつくことになる。
「日が暮れるな。そろそろいいだろう…。」
 それを見越して、ホレスは暫くこの場で休息を取ることを二人に勧めてこの場に留まっていた。そして、赤く照りつける太陽が正面の地平の境に沈まんとするその時になって、不毛の大地へと第一歩を踏み出した。




 その頃、ロマリア西部にある国境の門。大河を隔てた先は別の王国の管轄にあり、容易に過ぎ去ることなどできようはずも無かった。今もまた、番兵が見張りに立ち、この静寂を守っていた。大河の地下に通じる道を阻む堅牢なる石の扉は、何者も拒むように静かに佇んでいる。

 だが、不意に亀裂のような光の紋様が扉を彩り始めて、次の瞬間には巨石は何か大いなる力に押されるようにしてゆっくりと開き始めた。
「ホントに開きやがるのな。すげえぜ、こりゃあ。」
 知られざる力によって仕組まれた扉のからくりの動きに魅入ったように巨大な扉のふもとに立つ青年は思わずそう呟いていた。纏った藍色の外套の隙間から差し出される手には、銀細工とも見紛う程の美しい装飾の鍵が弄ばれている。

―今頃は砂漠にいるんだろうな。ま、ごくろうなこった。

 その品を手に入れた地から、先に出会った小さな好敵手が向かう道がふと頭を掠める。彼の者もまた、ずっと王都に縛り付けられているわけではなく、既に新たな旅立ちの最中にあるだろう。立ち塞がる魔物こそ脆弱なものでしかなくとも、あのような渇きと熱気は正直何度も味わいたいものではない。
「じゃあ行こうぜ、旦那。」
「ええ、参りましょうか。サイアスさん。」
 後ろで扉を見上げている褐色の肌の小柄な男性―背負子を担ぎ長槍を右手に携えている行商人を促しながら、彼―サイアスは今しがた開け放たれた扉を通り過ぎて行った。





 悠々と続く不毛の砂丘。標とするべく立てられている幟を頼りに足を進めて三日過ぎた今も、その光景は変わることはなく、後ろにはこれまで辿ってきた足跡が長く尾を引いている。踏みしめる度に足を取られて、少しずつ確実に体力を奪われている。

「……最悪だ。」

 日が昇り始めてしばらく経って再び熱気を帯びてきたところで、ホレスは近づいてくる魔物の気配を感じて舌打ちした。森のように身を隠せる場所もなく、戦いは避けられそうにない。これまでも降りかかる火の粉は払ってきたが、疲弊している今に来られたのは些か運が悪かった。
「仕方ない…レフィル、ムー、行くぞ!」
 それでも、迎え撃たないことには休むことすらもできない。ホレスは二人に呼びかけながら、魔物が迫る音が聞こえる方を指差した。
 先に示されたのは、大空から襲い来る翼ある魔物―キャットフライだった。巨大な猫の両前足が蝙蝠のような翼を成して自在に宙を舞い、更にはこちらの呪文を封じ込める力も宿す厄介な存在である。
「イオ」
 ホレスの合図を受けるやすぐに、ムーは舞い降りる魔物の群れに向けて理力の杖をかざしつつ呪文を唱えた。三日月状の鈍器のような杖の先端から何条もの光が迸り、キャットフライの群れに当たるなりそのひとつひとつが爆発を起こす。小さくも無数に巻き起こるそれらをまともに受けて、キャットフライ達はなすすべもなく砂漠へと落ちて行った。
「下だ!」
 次いでホレスが指差した先は、レフィルの足元の辺りだった。思わず飛び退くと同時に、その中から砂を巻き上げながら焼けるように赤い甲殻を持った巨大な百足が飛び出してきた。
「火炎ムカデ!」
 身をかわしたまま引き腰になっているレフィルが、その魔物の名を声に出していた。目的地をイシスへと定めた時から、その周辺で現れる魔物については一通り調べていた。
「…!」
 不意に、火炎ムカデの口から炎が吐き出された。巨体と甲殻の固さを生かした体当たりも十分危険ではあるが、本当に怖いのは云われにもなっているこの炎の方だった。火炎ムカデの群れに襲われて、荷物もろとも焼き尽くされた隊商も少なくないと聞いていた。
「く…!」
 だが備えが幸いしたか、とっさに構えられた鉄の盾が百足の炎を遮った。盾で炎を受け止めながら、レフィルはそのまま火炎ムカデへと突進して体当たりを仕掛け、体勢を崩した所で剣で薙ぎ払った。甲殻の隙間に的確に決まった斬撃で体を両断され、火炎ムカデはそのまま己の内の炎に焼かれて燃え尽きた。
「……大丈夫か?」
「え…ええ、どうにか…。」
 直後、ホレスが近くへと駆け寄って気遣うように尋ねつつ、彼自身もまた前方から迫る魔物の群れと戦っていた。鎖付きの小さな鎌を投げ飛ばすように振るい、痺れアゲハの群れをまとめて斬り裂いて、何もさせることなく止めを刺した。

「まだ来るぞ!!」

 だが、それで終わりにはならず、次の魔物の群れが倒したばかりの羽虫達の後ろから現れた。緑の甲羅に全身を包んだ大蟹を見て、ホレスは焦りを覚えた様子で叫んでいた。
 魔王が台頭し始めて以来、幾度となく旅人達を危機に追い詰めてきた砂漠の脅威―地獄のハサミだった。
「強い、でも……!!」
 その名の謂れにもなっている巨大な鋏を振り回すその力は、確かに今のレフィルには十分手強いものだった。だが、太刀打ちできぬ程ではない。
 身を挟まんとする緑の鋏を鉄の盾で打ち払うと同時に、レフィルは懐に飛び込むようにして鋏と本体を繋ぐ関節部分へと斬撃を叩き込んだ。

『スクルト』

 だが、鋼鉄の剣が鋏を断ち切る刹那、地獄のハサミの一体がそう唱えていた。
「……っ!」
 奇しくも甲殻と同じ緑のオーラを纏った地獄のハサミは、一撃の下に仕留める渾身の剣を弱所に受けてもびくともせず、逆にレフィルを体ごと弾き返した。思わぬ介入に備えられず、レフィルは砂漠へと転がった。
「い、いけない…っ!!」
 その衝撃で、剣が左手から離れてしまった。すぐさま追いかけてくる地獄のハサミが上げる砂に埋もれて見えなくなってしまう。
―迂闊……!
 防御呪文スクルト―一時的に物質の硬度を本来のものより引き上げる強化の力。それは、元々強い物であればある程に効果を発揮するものだった。
 そんな性質の悪い力をこの地獄のハサミが有していたことは既に分かっていたはずだった。魔物に対抗する膂力を持ちながらも、鉄壁の守りを前に攻めあぐねた戦士も数多いと聞く。それを己の身を以って味わうことになるのだから、滑稽極まりない。
「邪魔だっ!!」
 その時、地獄のハサミの一体へとホレスが踊りかかった。人の子一人握り潰すことも容易い鋏の脅威に恐れることなく猛進しつつ、その右手を体の一点へと叩きつける。その程度の微々たる攻撃など、堅牢な甲殻を前には役に立たぬはずだった。
 だが次の瞬間、不意に地獄のハサミがその動きを止めたかと思うと、体を支える八本の足をしきりに痙攣させて、最後には地面へと崩れ落ちた。その上を乗り越えていくホレスの右手に、大きな針状の武器が握られている。それで急所の一点を突いて、塗られた毒を与えた結果だった。
「レフィル!呪文だ!!」
「!!」
 そばに降り立ちながら、ホレスはすぐにレフィルに指示を出した。スクルトで守りを固められてしまったが、呪文はまだ通用する余地がある。
「ラリ…」
 攻めに転じようにも、基本呪文の一つや二つ受けたところで反撃されるのが関の山である。

『マホトーン』

 そう思い直したレフィルの答えが解を成そうとしたその直前、不意に空から別の韻がレフィルへと投げかけられた。
「…っ!!」
 同時に、頭の中が縛り付けられるような奇妙な感覚が彼女を襲った。
「呪文が…!」
 この不快な閉塞感は、金切り声のような耳障りな音で紡がれた呪文封じ―マホトーンによるものに他ならない。

「くそ…し損じた!!」

 同時に、後ろからホレスが悔しそうにそう叫ぶ声が聞こえてくる。呪文を促した直後に空から来る何者かの気配をすぐに察知できたが、構えられた弩弓は狙いを逸れて、急襲者を仕留めることはできなかった。
「キャットフライ…!!」
 にゃあにゃあと嬉しそうに笑いながら正面を舞う影を見て、レフィルの顔が蒼ざめた。それはムーが相手にしていたものとは違うキャットフライの群れだった。
「きゃああっ!!」
 程なくして化け猫の群れに一斉に襲われて、レフィルは必死になって身を守るより他なかった。
「レフィル!!くっ…!!」
 剣を落し、呪文すら封じられた今、敵に抗う術はない。だが、ホレスもまた地獄のハサミの群れに行く道を阻まれて、助けに入れない。
「かくなる上は…」
 ホレスは意を決して爆弾石の入った袋の封を解いて、その一つを手に取った。なまじ爆発力が大きいために、砂を巻き上げて視界を遮ったり、最悪自らも巻き込んでしまうかもしれないが、こうなると最早手段を選んでいる場合ではない。

「ヒャダルコ」

 覚悟を決めて一歩を踏み出したその時、後ろの方から聞き慣れた声で紡がれる呪文が聞こえてきた。正面に立ち塞がる魔物の群れの間に、砂漠の熱気と逆の凍てつく冷気が一瞬で立ち込める。
「……!」
 次の瞬間、地表から無数の氷の柱が勢いよく立ち、地獄のハサミの群れを空高く掬い上げた。突然のことに心中で驚きながらもこの好機を逃さず、ホレスはすぐさまレフィルに襲いかかるキャットフライ達へと鎖鎌を振るって追い払った。かわし切れなかった数体のキャットフライ達が身を切り裂かれて落ちていく。
「ムー!」
 氷雪の上級呪文―ヒャダルコを唱えたのは、いつしかホレス達の後ろに現れていた魔法使いの少女―ムーであった。どうやら無事にもう片方のキャットフライの群れを撃退してきたらしい。
「……。」
「どうした?」
 ホレスが礼を告げようとしたその時、ムーは無言で彼を見返していた。その双眸は、やはり真っ直ぐにホレスのそれに吸いつくように向けられて離れない。
「な、何だ??」
 ほんの僅かな間でしかないはずの視線の交錯の中で何かを言いたそうに見えたが、結局その意図が読めず、ホレスは首を傾げるばかりだった。表情ではなく、目を以って何を伝えんとしたのか。決して良いものにも見えず、かと言って責めるようにも見えない。少なくとも、今は漠然とも感じられるかが疑わしい。

「とりあえず、今はおしおきが先。」

 そんなホレスを横目に、ムーは空に逃れて再び機を窺っているキャットフライと、ヒャダルコの呪文で吹き飛ばした地獄のハサミのそれぞれの群れを見やりながらそう言い放った。
「何だと……?」
「お、おしおき…??…って、ええええっ!!?」
 唐突に告げられたおしおきと言う単語を前に二人が顔を見合わせた時には既に、ムーは砂を思い切り蹴って空高く跳び上がり、キャットフライ達へと向かって行った。地上から突然物凄い勢いで迫り来る少女に、魔物の群れの間に一瞬動揺が走る。

 その一瞬、キャットフライの一匹が理力の杖による殴打をまともに受けて、地面に思い切り叩きつけられた。
「!」
 今の一撃で誰もが目を見張ったその僅かな間に、落下の勢いで残ったキャットフライ達もまとめて薙ぎ払われ、尽く叩き落とされていく。
「う…嘘…!?」
 砂漠に転がるキャットフライの群れを前に、レフィルはただ呆然としていた。自分よりも頭二つ分程小柄な少女が、それに似合わぬ圧倒的な力と鳥のように軽い身のこなしを以って魔物達をあっと言う間に沈める、そんな理不尽な光景が未だに目に焼き付いている。

「バイキルト」

 キャットフライ達を仕留めた次は、と言わんばかりに今度は地獄のハサミの群れへと向き直りつつ、ムーは呪文を唱えた。
「バイキルト…!?ム、ムー…っ!?」
 強化の呪文によって、炎のような真紅の霊光がムーの体へと纏わりつく。バイキルトの呪文が与える膂力のためか、戦鎚のように重たそうな先端を持つ理力の杖を先にも増して軽々と振り回している姿に、小柄で物静かな少女らしからぬ荒々しさが現れ始める。
 レフィルがたじろぎと共に叫んだときには既に、ムーは群がる緑の甲虫達へ向けて一気に駆け出していた。戦意を露わにした彼女に応じるようにして、地獄のハサミ達もまたムーに向けて鋏を振り上げた。
「まて!!奴にはスクルトが…!!」
 その瞬間、ホレスが焦った様子でムーに呼びかけた。既に地獄のハサミ達はスクルトの呪文によって、甲殻をより堅固なものと化している。そんな相手に対して単純な力技など通用するはずもない。既に遅く、ムーの理力の杖と一体の大蟹の鋏がぶつかり合う…

「……!!」

 だが、次の瞬間―迎え撃とうとした甲虫が振り上げた鋏の方が逆に砕かれて、戦う術を奪われていた。
「…お…お前……」
「………。」
 地獄のハサミは砂の中にめり込んで動けずにいる。まさかスクルトの守りすらお構いなしに打ち破ってみせながら、表情一つ変えぬムーに、流石のホレスも驚きを隠せずにいた。そんな彼を尻目に、ムーは次々と残った大蟹達へと突進していく。それに対して、仲間を傷つけられていきり立ったように地獄のハサミ達は次々とムーへと襲いかかる。

「ムダ。」

 …が、交錯する直前に、ムーは一言そう呟いた。それを現実のものと示すが如く、理力の杖が力強く薙がれる。
 数多の旅人との力比べに勝ってきた地獄のハサミの膂力も、この小さな少女を前にまるで歯が立たない。交わされたが最後、嫌な音を立てながら巨大な鋏が何本も千切れ飛び、砂漠へと突き刺さった。
「またか……。」
 これが本当に魔法使いと呼ばれる者の戦い方なのか。習得に才知が必要とされる呪文の使い手―それも子供のような外見の少女が、このような力任せの手法に及ぶ姿を再び目にすることになるとは思わなかった。
 地獄のハサミの群れは、圧倒的な暴力を振るってくる少女を前にもはや戦意を失い、左へ右へと必死に逃れ始めた。
「ボミオス」
 だが、ムーがそれを見逃すはずもなく、すぐさま次の手を打っていた。ボミオスの呪文がもたらす呪縛が甲虫達へと絡みつくと共に、その重圧で動きを鈍らせていく。逃れる足さえも封じられて混乱する地獄のハサミ達に、ムーは難なく追いすがり、理力の杖で力任せに跳ね上げていた。全部が終わったときには、四方八方へと逃げ去ろうとしていたはずの彼らは、また同じ場所に集められていた。
「………。」
 そして、あの巨大な鈍器を手に、ムーがゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。何を考えているのかを読ませない無の表情を浮かべる姿は、魔物達にすら畏怖の対象となり得るものであった。地獄のハサミの群れには、もはや天敵と呼ばれる恐怖の到来を待つしかなく…

べきっ!!ずごっ!!ごきんっ!!

 程なくして、破砕音が韻を刻むようにして砂漠に響き渡った。からくり人形のように杖を振りかぶっては叩きつける動作を繰り返し、ただ破壊を続ける。その一撃一撃が、スクルトの守りごと地獄のハサミを覆う強固な甲殻を打ち砕き、緑の欠片が次々と宙を舞う。
「お…おい、お前まさか……」
 その淡々としながらも凄絶な仕打ちを躊躇いなく行うムーの姿から、ホレスはすぐに一つ感づいた。
 表情のない顔と感情を感じさせない言葉からは相変わらず何も掴めないが、間違いなく怒っている。それも相当。ただこの魔物達が自分に牙を剥いたことに対するものだけに留まらず、別の大きな何かに対して憤りを覚えている。そう感じたからこそ、ホレスには今のムーが、まるで子供の八つ当たりにも似た行動をしているように見えてならなかった。

「……。」

 一方的に苛烈な責苦を受け続けた果てに、地獄のハサミ達はついに力尽きてその場に沈んだ。それでもムーは、尚息を留めて力なく蠢いている彼らの内の一体へと理力の杖の先端を突きつけていた。見下ろす緑の瞳には、いつしか内なる激怒を表すような凄まじい眼光が宿っている。

「…待って、ムー…。」
「!」

 今まさに止めを刺そうとした時、誰かが弱々しい声で呼びかけながらその肩に手を置いていた。
「レフィル?」
 その感触に、ムーは思わず全身に込めていた力を解いていた。バイキルトの力も静かに立ち消えて、先に見せていた怒りも見る影もない。
 振り返った先にいたのは、鎧を着込んだ少女だった。だが、その甲冑の質感とは裏腹に、生気が抜けているように顔色が悪い。
「もう…いいよ…。そんなことしなくても……」
「……。」
 震える声で哀願するように告げるレフィルの言葉を聞いて、ムーは無言の内でうつむきつつ理力の杖を下ろした。自分達を喰らおうと襲ってきた魔物への制裁とはいえ、これ以上痛みつけられる光景はレフィルにとっても見るに堪えないものだった。
 命のやり取りをしていることには変わりはないものの、戦わなくていい相手に余計な手出しはしない。それが甘えにも似た考えであることを承知しているからこそ、レフィルも普段から剣を振るうことに躊躇いはなかった。それでも、命を奪わずに済むのであれば……常々そうした思いがあった。
「レフィル。」
「は…はい……大丈夫です。」
 もはやこれ以上魔物が襲ってくることもない。全てが終わったところでホレスに呼びかけられ、レフィルはすぐに応えた。だが、砂漠に片膝をついて、息も心なしか荒げられている。先の戦いでの疲労が大きいのは間違いなかった。
「また、暑くなってきたな…。」
 ふと、日がいつしか先に比べて南の方へと昇っているのが目に入る。それに伴うようにして、砂漠の熱気と乾きがますます強くなっていく。その中で、ホレスもいよいよまた汗をかき始めた。
 ここ数日間も、このうだる程の暑さの中を己の足で歩み続けてきた。ホレス程機敏ではなく、ムー程呪文に優れているわけでもない中で、己の身を守るために鉄の鎧を纏っているレフィルにとっては特に辛い道のりであったことだろう。

「私に任せて。」

 この先のことを考えて顔をしかめるホレスと疲労を隠せずにいるレフィルに、ムーは突然そう告げつつ、理力の杖の石突を砂漠に突き立てた。

「ラナルータ」

 それが何かを問われる前に、ムーは一つの呪文を唱えた。すると、何か黒い幕のようなものが静かに閉じるように、視界が徐々に閉ざされていく…。



 そして、帳が徐々に開いていく中で見たのは、真紅の夕日に照らされた赤い黄砂の大地だった。

「え?ここは…?」

 違和感と共に闇の中へと誘われ、その先に続いていた光景。それは吹き荒れる風によって多少その姿を変えているものの、先程までいたその場所に相違なかった。
「驚いたな、こんな呪文まで使えたのか…。」
 レフィルが不思議そうに辺りを見回す一方で、ホレスはこの現象を起こした呪文の正体を知って素直に関心を示していた。
「魔法使いだから。」
「いや、ラナルータもかなり上位の呪文のはずだろう。」
 先程ムーが唱えたラナルータの呪文は、昼夜を反転する呪文として知られていた。詳しい原理は未だによく知られていないためにかなり高度な呪文とされている。今ホレスがそれを受けての感触は、闇そのもののような結界の中で幾時かが過ぎ去るのを待ち、日暮れを迎えた時に結界が解かれるようなものだった。
「それだけの腕がありながら、なんでカンダタ盗賊団に…?お前は一体何者なんだ?」
 そんな得体の知れない力を好んで使う者など少ない中で、敢えてラナルータの呪文を修得するまでに至ったことを疑問に思い、ホレスはそう尋ねた。

「……分からない。」

 …が、ムーは暫く黙した後にそう返した。
「…何?」
 その言葉が意味するところを読み切れず、ホレスは思わず首を傾げた。直感的に、それが単に自分を認識しかねるという意味ともまた違うように感じられる。

「記憶がない。カンダタと出会う前の全部。」
「…!!!」

 しかし、ムーが発した答えはその単純に述べられた言葉と裏腹に、ホレスが予想していたものよりも遥かに凄絶なものだった。
「ええっ…!?」
 レフィルもまた、聞かされた思わぬ事実を前に、驚きのあまり口元を押さえていた。
―記憶が…ない!?
 ムーと初めて出会った時から常人とは違い何かが欠けているような奇妙なものを感じていたが、それがまさか過去の記憶とは思わなかった。
「この呪文も、突然使えるようになった。だからやっぱり良く分らない。」
「おい、待て。じゃあこれも、記憶を失くす前の契約によるものか…?」
「多分。少なくとも私は契約してない。」
「それを使えるのか……。」
 一部の魔物によく見られるように先天的に呪文が使える事象も珍しくはないものの、一般には契約と呼ばれる呪文をよく知る段階を経るのが通例である。まして、上級以上の呪文を行使するのであれば尚更避けて通れぬ道であるはずだった。
 だが、ムー自身はラナルータの呪文については、使えるようになるまでその存在すら認識していなかった。記憶を失う前に学んでいた呪文が使えるというケース自体が知られていないものではあるが、基本どころか上位に位置するものをろくに知らぬ上で操るなんて話は、そもそも想定すらできない。
―こいつの過去に一体何があったんだ…?いや…そうじゃない。こいつも……。
 並外れた才覚を持っていることもまた、失われた記憶と何か関係があるのだろうか。ともかく、ムーの話を聞いている内に、ホレスは大きく引っ掛かるものを感じていた。人とは違う異質であるが故に、普通の人生を歩むことも難しい。過去に纏わるものに関して、何か通じるものがあるような気がしてならなかった。