第二章 最初の出会い
第四話
 

 ロマリアを出て、北の平原を抜けた先には高い山脈に東西を囲まれた険しい山道が続く。湿った岩場や滑り落ちた崖などの悪路が、通るべき道にあることも珍しくない。

「あと少しでカザーブだ。」

 その様な幾分過酷な三日程の行程を経て、レフィル達は目的地の途中に位置する辺境の村、カザーブに辿りつこうとしていた。
「ふぅ…。」
 ほんの三日とは言え、旅立ってからこれだけ長く野の中に身を置く経験などない。旅立つ覚悟を決めたときの想像以上に厳しい道の中で疲弊して、レフィルは思わず溜息を零していた。
「無理をさせて悪かったな。」
「すみません…本当に色々と……」
 ロマリアからカザーブへ続く道の険しさは、人伝に聞き及んでいた。旅慣れて気力も充実している者であれば、然程気にする程でもなかったが、冒険者になったばかりの少女には厳しいものともなり得るだろう。まして、先日に負った傷が癒えぬままでこの山越えを遂げようとなれば、無謀と言って差し支えない。
「いや、大したことじゃないさ。初めてでここまでできれば寧ろ上出来だ。」
 自分が手を差し伸べなければ、レフィルがこの道を抜けることは叶わなかっただろう。だが、彼女も助けられてばかりではなかった。経験こそなかれ、旅立つまでに身に付けてきた知識は確かなものであり、結果としてホレスの旅を的確に補佐していた。
―…こいつも、随分と苦労してきたんだろうな。
 魔物の脅威に苦しむ人々の英雄にして、一流の冒険者でもあった勇者オルテガ。レフィルとて、伊達にその血を引いている訳ではないのだろう。そして、それを開花させる努力を支えたのは望まぬ使命より生還せんという強い意志に違いない。

「!」

 そうして物思いに耽ろうとしたその時、微かなざわめきがホレスの耳を揺らした。
「……レフィル、構えろ!」
「…はい!」
 その小さな物音を感じた方向へ向き直ると共に、レフィルもまた呼び声に応えて身構えた。こちらへと近づいてくる魔物の気配をホレスの聴力が捉え、もはや戦いは避けられないと告げていた。
「この臭い…ゾンビ…?」
 真っ先にこちらへと近づく影が放つ、腐ったもの特有の異臭がレフィルの鼻を突く。
「ああ、そいつは…アニマルゾンビだな。」
 アニマルゾンビ―屍となった動物に再び命を与えんとしたがために、不完全な姿で蘇った異形の者達の総称である。その一種たる狼達が、二人の前にその姿を現していた。
「……こんなことになっても、まだ生きているなんて…」
 元は大柄な狼であったが、腐りかけた肉体はあちこちが崩れ始め、骨や内臓がむき出しになった凄絶で無残な姿を野に晒している。
「…おまけに、ポイズントードにキラービーと来たか。レフィル、油断するなよ。」
 死して尚もこちらに牙を剥かんとする狼達の遠吠えを聞きつけて、別の魔物もじりじりと近づいてくる。蒼の表皮に毒を宿した巨大な蛙・ポイズントード、異様に膨れ上がった毒針を尾に持つ青緑の体色の巨大な蜂・キラービー。猛毒を宿した魔物達の手に掛かれば無事では済まない。ホレスはレフィルに注意を促しつつ、短剣を取って敵へと一瞬で距離を詰めた。
 そして、陽光に照らされて銀白に輝く刃を、飛びかかろうとする蛙へと突き出す。一突きで心臓を貫かれたポイズントードは何が起こったか悟ることもなく、そのまま死へ落ちた。
「…おっと。踏み入り過ぎたか。」
 だが次の瞬間、周りにいた魔物達が一斉に襲いかかってきた。半ば危険を省みずに前に出たために、囲まれる危険性があることは承知だったが、実際に読みを誤ったらしい。キラービーの麻痺毒の針を下がってかわしたと同時に、アニマルゾンビの爪が黒の外套を引き裂いていた。
「ホレスさん!」
 いきなり魔物に囲まれた上に手傷まで負ってしまっては、危険であるのは間違いない。レフィルは思わず駆け出していた。
「おい!無茶をするな!!」
 体力も回復し切っていない中で、前に出られても足手まといになるだけである。その禁を破ったレフィルを叱責するように叫びながら、飛びかかる狼を蹴り上げつつ、尾の毒針を突きだしてくるキラービーの羽を切り飛ばす。助けに入ろうとするも既に遅く、一体のアニマルゾンビがレフィルに牙を剥いていた。

「堕したる歪みよ、光の導きに従い在るべき姿へ還らん!ニフラム!」

 狼の牙がレフィルの喉笛を掻き切ろうとしたその時、素早く紡がれた言の葉が完成し、おもむろにかざされていた手から白い光が迸った。それは、アニマルゾンビが纏う淀んだ気を切り裂き、肥大した光はそのまま全身を覆い尽くした。光が収まったその後には、何も残らなかった。
 それこそが、現世を歪める力によって蘇った亡者の類に効力を発揮する浄化の呪文―ニフラムの力であった。
「…そんな呪文の心得もあったのか。」
 心配するまでもなく、自らの身に降りかかる火の粉を払ってのけた力を少女が持っていたことを意外に思いつつ、ホレスもまた立ち塞がる魔物達を蹴散らしていた。こちらの攻撃も通じずに自分達の同胞を呆気なく倒されて気勢を殺がれ、残った者達はただ逃げ去ることしかできなかった。
「終わったか。」
 遠くまで耳を澄ましてみても、もうこちらに向かってくる足音は感じられない。その静けさの中で、戦いの終わりを確信できた。
「ホイミ!」
 その時、後ろからレフィルが再び別の呪文を紡ぐ声が聞こえてきた。同時に、アニマルゾンビから受けた傷が、蕩けるようにして消えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、またすまないな。」
 今の感覚、回復呪文の治癒を受けたのはこれが初めてではない。平原を行く途中でも、巨大な芋虫・キャタピラーの猛進を掠めて手傷を負った際にこの恩恵にあずかっていた。その力を持っているからこそ未だ傷が癒えずとも、決して旅の邪魔にならない程の一層の心強さをレフィルより感じられたのかもしれない。

「…なにっ!?」
「!」

 …が、感銘を受けている暇などなかった。
―しまった…!こいつ…まだ!?
 振り返った先にいたのは、先程倒したはずのアニマルゾンビであった。既に死した身である以上、並の攻撃で倒せる道理はない。不意を突かれたホレスに、狼が崩れた体から考えられぬ程の敏捷を以って飛び掛かる。避ける術は…ない。

「…!?」

 だが、牙がホレスへ届こうとした瞬間、歪み一つない鈍色の軌跡が縦に走った。鞘から抜き放たれた鋼鉄の剣は、アニマルゾンビの体を一刀の下に両断し、左右へと別っていた。
「……。」
 あの瞬間、刃を駆ったのはレフィルであった。魔物を斬り捨てたそのままの無表情で、崩れ落ちたアニマルゾンビを沈黙の下で見守っている。闇の如く暗い紫の双眸は、感情を全く乗せていない。
「な…レフィル!?」
「…え?」
 無の中へ溶け込まんとする静寂の中、驚愕した様子で呼びかけるホレスの声に、レフィルはふっと我に返った。
「……いや、助かった。」
「う…うん。」
 何かに驚いているようであったが、レフィルにはそれを知ることはできず、言葉を濁すように告げられた感謝の言葉に曖昧に頷くことしかできなかった。。
―左利き…じゃないのか……?
 無心で繰り出された剣の一閃。それは、未熟な冒険者とは到底思えぬ程に極められた一撃であった。しかもそれを、痛めた利き腕ではなく、逆手であるはずの右手で繰り出している。そんな離れ業を見てのホレスの驚きは、まだ言葉にならなかった。


 カザーブ―ロマリアの北に連なる山を越えた先にある尾根に佇む小さな村。
 天が夜の帳に包まれんとする中でこの村に辿り着くなり、二人は宿を取って食堂で再び落ち合った。山菜をふんだんに使われた郷土料理を食し、腹も満たされると共に旅の疲れも取れるような気がした。

「伝説の武闘家と呼ばれた男がいたそうだが、既に病に倒れたと聞いた。」
「……。」
 主菜まで食が進んだ所で、ホレスはその話を持ち出した。
「弟子も二人いたようだが、一人は殺人拳に傾倒して破門され、もう一人は武者修行の旅に出たとか。」
「……やっぱり、わたしがやるしかないんだ…。」
「ああ。盗賊団の奴らも、俺達の動きを既に事前に知っているかもしれない。戦力は一人でも多いに越したことはないだけに残念だな…。」
 この村に纏わる武闘家の噂はこの大陸はおろか、海を隔てた先にあるアリアハンにも伝わっていた。レフィルが携えている冒険者のリストの中にもその名を連ねている剛の者―熊殺しのヤック。だが、徒手空拳で荒ぶる魔物どもを蹴散らしてのけた豪傑も、寄る年波と病魔にはついに勝てず、ついにこの地に骨を埋めることとなったという。
 残された二人の弟子もまた師と同じく遠く名の通った―そして、師を超える程の力の片鱗を見せていたが、その内兄弟子にあたる男、疾風のジンは極められた拳の力に魅せられたがために、師の生前に破門されていた。また、もう一人の弟子、不動のゲンブは己の力を磨く足掛かりを見い出すべく、このカザーブの村から旅立ったばかりであるという。
「ところでレフィル、今はどの程度呪文を使えるんだ?」
「はい、えっと…」
 新たな仲間を得るという思惑は無為なものと化した。その一方で、ホレスには幾つか気になっていたことがあった。
「ホイミ、メラ、ルーラ、ギラ、それにさっきのニフラム…か。契約はどの程度している?」
 軽い手傷を癒す回復呪文はともかく、先程のニフラムの他にも幾つかの呪文を扱えるらしい。それを聞いた上で、更にそう尋ねていた。
「攻撃呪文を少し…ベギラマとイオラ…だったかな…。」
「これらはまだ使えないのか。」
「はい。上級呪文を使うには…まだ…。」
 呪文を示す言葉や順序、方法は数あれど、そのために必要なものはそう変わるものではない。呪文を知り、扱い方を覚え、幾度も使うことで身に馴染ませ、やがて極める流れに沿うことが一般に知られる呪文の習得方法であった。契約、慣熟、そして修得。レフィルが歩んだ道は、およそそのようなものであった。
 既に脳裏に収めてはいるものの、未だ使うことのできない上級呪文。より莫大な力を操るには、それに見合った精神力、或いは体力をも必要とする。それを得る最も早い道は、旅の中で己を鍛えるか、ひたすらに下位の呪文を使って力の扱い方を覚えることと広く知られていた。
―攻撃呪文…か
 勇者としての旅路を行けば、いずれここの魔物など生温い程に強大な力を有した敵と戦わなければならないことは自明である。それを見越して上級呪文の契約を交わしたレフィルの内に重くのしかかる勇者たるものの重圧も、未だ扱えないことに対する焦りの気持ちもおのずと伝わってくる。
「だったら、違う呪文を使ってみないか?」
「え?」
 そんなレフィルの心を感じながら、ホレスは一冊の書をレフィルへと手渡した。
「これは……魔道書?」
 呪文を使う前に必要な過程の一つ、契約を行うにも、その方法を知らなければどうしようもない。それを記されているのが、この世に出回っている魔道書の類であった。
「幾つかの簡単な呪文が記されている…が、今の俺には無用の長物だ。よかったら使ってくれ。」
「…は、はい。」
「お前ならすぐにでも力を引き出せるだろう。まだ傷も癒えていないから、いざという時のためにもな。」
 力を求めることを強いられたことあってか、攻撃の呪文は十分に内に眠っている。今必要となるのは、傷を負った今でもあらゆる事態に対処するための道具となる技巧の類である。既に初歩の呪文を己の力としているレフィルにとって、資質に合った簡単な呪文であれば、習得は容易であるとホレスは考えていた。
「明日は準備のために一日取ろう。今の内に休んでおくといい。」
「あ、ありがとう…。」
 力の片鱗を見せているとはいえ、まだ旅慣れぬ中で山道を進んだことで、レフィルが明らかに疲れを見せている。それを重んじて告げたホレスの意見に、彼女は感謝の意を述べながらも、申し訳なさそうに暗い表情を浮かべた。
「だが…お前、まさか両利きだったなんてな……。」
 そのとき、もう一つ気になっていたことをホレスが言葉に出していた。
「え…?ああ、これ…?うん…ちょっと、ね…。」
「…??」
 すると、レフィルは気恥しそうに首を振り、顔を背けていた。思えばあの山道での戦いだけではなく初めて出会ったあの時も、レフィルは逆手で剣を取っていた。にも関わらず、あの剣閃は利き腕で放たれたそれと間違う程の鋭さと力があった。両手それぞれで剣を使えるようになるまでに、一体何があったのだろう。ホレスの疑問は絶えることはなかった。



 北方に広がる海、東に見える大平原、南にある山脈。その全てを見渡せる高みの上に、夜遅くに立つ影が佇んでいる。

「お、帰ってきたか。」
 そこに後ろから現れた子供のような小さな影に、大きな影の主が振り返りながら野太い声で出迎えた。
「またロマリアに行ってたな?どうよ、何か面白いことでもあったか?」
「……。」
 家族のように親しげに話しかける大男に子供、否…少女は何も返さなかった。
「やれやれ、何だよその顔は。ちったぁ笑えっての…。これじゃあ愛想ねえみてぇじゃねえか。」
 夜目が利くのか、天に普く月明かりのみの暗闇の中で大男は少女の表情を読み取っていた。それは、彼にとって味気ないものであったらしい。
「ん?…何、ロマリアが?さては…あの弛んだ騎士団がまた来やがったか?」
 その時、少女は大男の耳元に飛びつきつつ、何かを小さくつぶやいた。それを聞いて、大男は目を細めつつ、これから起ころうとしていることを推測した。
「違う、今度はオルテガの娘。」
「ああ、そういや誘いの洞窟から一人来てたってな。で…どんな奴だった?」
 その予測は、ただ一つだけ見誤りがあった。かのオルテガの娘がアリアハンからこの大陸を訪れたという情報は、既に耳に入っていた。勇者の力を知る以上、これは只事で済む問題ではないと思っていた。
「面白かった。」
「ああ?何だそりゃ…?つーか、お前の言う面白いってのは…」
 だが、少女はただ、あっけらかんとした言葉でその勇者たる者を評していた。その言葉から、悪戯が成功した子供のような愉快なものを感じられる。先程まで感じていた緊張もまた、おのずと弛んでいくような気がした。
「まぁ、いずれにせよお客サマが来るって言うなら、もてなしの準備でもしてやらねえとな。」
 それでも、油断できない相手であることには変わりはない。冗談可笑しく一人ごちる中で、男はこれからやってくるであろう少女を如何にして迎えてやろうかを考えていた。

「偉大な親父を持つってのも大変なモンだな。お前もそう思うだろ?ムーよ。」
「……。」

 父の名声のために、女でありながらも自らも勇者であることを嘱望された少女。どう思おうと、その道のりが過酷であることは容易く想像できる。その話を、男は何故か少女の方に面白そうに振っていた。だが、彼女はそれをどうでもよさそうにぼーっと聞き流すだけであった。その手に携えた円錐状の先端を持つ幅広の黒い帽子、それは、魔法使いを象徴する三角帽子に他ならなかった。