第一章 誘われし者
第三話
 
「………。」

 ルイーダの酒場では仲間を得ることは出来なかった。ならば尚更アリアハンには用はない。
「…先を急ごう。」
 結局レフィルはただ一人…誰の目にも留まることなく静かにアリアハンの町を去った。



 アリアハンの城下町を出ると、そこには広大な平原が広がっていた。生い茂る草が春の風に吹かれて波のような揺らめきと共にざわめきを奏でている。
「……。」
 そこは城下町のような喧騒もなく、レフィルただ一人がいるだけの静寂に満ちた無味乾燥な空間だった。歩き続けても草地が踏み鳴らされる音は風に消えるのみで、常に静けさの中にあった。
 暫く草むらを進んでいると、何の前触れもなく甲高い鳴き声が耳に入り、レフィルは歩みを止めた。
「スライム…」

 スライム
 しずくのような形をした弾力性のある体を持つ、ユニークな外見な魔物。
 数が多く、世界中に様々な亜種が確認されている。

―本物を見るのは久し振りだな…
 前を見ながらレフィルは耳元へと手を触れた。目前で跳ねている青い生物―スライムを模した耳飾り、スライムピアスが小さく揺れていた。
「……。」
 更に一歩踏み出すと、スライムはようやくこちらの存在に気付いたらしく、驚いた様子で大きく飛び上がった。すると、先程と同じような鳴き声があちこちでこだました。
「仲間…か…」
 どうやら最初に見た一匹だけではなかったらしい。レフィルの行く手にスライム達が続々と現れて、合わせて四体がここに集った。
「………。」
 驚きとどまっているスライムの群れを見て何を思ったか、レフィルは暫くこの場に立ち尽くしていたが、やがて何もなかったように歩き出した。

『ぴっ…!!』

 ゆっくりと近づいてくるレフィルに、スライム達は警戒して体をぷるぷると震わせた。そして、不意に緊張が限界に達した一体が、大きく飛び上がり、落下の勢いでレフィルへと体当たりを仕掛けた。だが、その攻撃はレフィルが身に付けていた皮鎧に衝撃を吸収されて、さしたるダメージは与えられなかった。
「……。」
 今のスライムの体当たりを受けて、レフィルは再び足を止めた。その視線を受けて、スライム達は怯えきった表情を露わに後じさった。

「通して。」

 しかし、レフィルは背負った剣に手をかける事もなく、ただ小さくそう告げただけで、何も言わずに通り過ぎて行くだけだった。
「…ごめんね。」
 去り際に…スライム達に対してか、小さくそう呟きつつレフィルははるか遠くに見える橋に向かって歩き始めた。その背中に途方もなく暗い闇のようなものが漂うのを、スライム達はおそるおそるといった様子でずっと見守っていた。


 背後で夕日が沈み始め、目の前には自分の影が長く伸びている。既に夜の帳が下り始めた空の下には灯りが灯り始めるのが見えた。

「レーベの村…か。」
 アリアハンから歩き始めて半日、レフィルは前方に見える集落を見て、何の感慨も無くそう零した。
―魔法の玉の事…ここで分かるかな…。
 現状では、アリアハン大陸から出る手段は、誘いの洞窟を抜ける他無いと見ていいだろう。閉ざされた入り口を切り拓くために一番有効な手段が魔法の玉である。無論、自分で製作することは出来れば避けたいものだが。
―もう少し…。夜になる前に先を急ごう。
 夜の闇に閉ざされば、視界が悪くなり…突然魔物に襲われた時の対処がかなり難しくなる。いらぬ危険を避けるべく、レフィルは歩むペースを速めた。

「うぁああああっ!!」
「ぱ…パパァアアアッ!!」

「…っ!!」
 だが、その時突如として、物音と共に男の悲鳴と、子供の絶叫がその耳に入ってきた。
―森の…方から!?
 今の音は左方に見える森から聞こえてきた。レフィルはそれ以上何も考えずに無我夢中でそちらへと走った。
「……っ!!」
―キラー…エイプ…!?
 レフィルはその姿を見て恐怖に目を見開き、体に震えが起こるのを感じていた。

 キラーエイプ
 紫の体毛に覆われた巨躯を有する大猿。
 非常に凶暴な性格で、不注意に刺激すると危険。

 薄暗い森の中でレフィルが目にしたものは、まさに暴力と言う言葉をそのまま体現したような凶悪そのものであった。その魔物、キラーエイプは荒い息をつきながらその視線の先にある小さな少年の方へとのし歩いている。
「パパぁーッ!!ママぁーっ!!起きてよーっ!!」
 その子供の下には、彼の両親と思しき男女が血を流して倒れている。彼がいくら呼びかけても、身を揺すっても全く動く気配がない。
「死んじゃいやだぁーっ!!」
 少年は尚も物言わぬ両親へと働きかけた。既に背後にキラーエイプが近づいている事にすら気付かず…

「だめっ!!逃げてっ!!」

 気付いた時にはレフィルは少年へとそう叫んでいた。自らも背中の剣をとり、少年とキラーエイプの間に割って入る。
『うがぁああああっ!!』
「……ぁ…っ!!」
 だが、魔物が発する身の毛もよだつ程の咆哮を受けた瞬間、レフィルは息の詰まるような感覚と共に全身の筋肉が引きつって身動き一つ取れなくなった
―け…剣が…!!
。程なくして、手にした剣は乾いた音と共に地面に落ちた。職人の手によって鍛えられた頑丈で鋭利な刃を有する鋼鉄の剣も、使い手のもとを離れては何の役目も果たせない。
「……っ!!」
 何も出来ぬまま、レフィルはキラーエイプが伸ばした右手の内にあっさりと捕らえられた。
「ああああああああああっ!!!」
 その巨大な手によって全身を強く握られて砕かれるような感覚に、レフィルは悲痛な叫びを上げた。意識すら失われる程の激痛が全身を脈打つと共に、レフィルは巨大な右手の内に伏した。
『うぐるぅううう…』
 レフィルが力尽きたのを見て、キラーエイプは口を大きく開けて、捕らえた獲物に喰らいつこうとした。だが…

「メ…ラ……!」
『!!』

 消え入りそうな声を絞り出すようにして、レフィルはそう唱えていた。

『うがぁあああああっ!!』

 その時、不意に右手から炎が上がり、それはやがて右腕全体を包み込んだ。思わずその右手を緩めてレフィルを手離しながら、キラーエイプは絶叫を上げつつその場から逃げ去って行った。
―体が…動かない…。
 受けたダメージが大き過ぎたのか、レフィルは地面に落ちた体勢のまま立ち上がることも出来ず、そのまま意識を失った。


―おお…レフィルよ…死んでしまうとは不甲斐ない…。
 ……王様…?
―ああ…、何てことでしょう…!!あの人ばかりか…レフィルまで…!
 母さん…?え…?死んで…って…これは…?


―死ぬのは…怖い?

―あなた、勇者になんかなりたくないってずっと思っていたんでしょう?
 どうして…それを?
―だったら丁度いいじゃない。
 …丁度…いい…?
―使命を投げ出すことも出来ない。でも、それを終わらせることもできない。そのままでいいの?
 ……。
―ほら、やっぱりどうしようもないでしょう?そんなあなたに生きている意味はあるの?
 生きている…意味…?
―あなたはただ流されているだけ。自分の力で生きていないじゃない。
 生きて…いない…?
―今のまま、本当にあなたの人生を生きられると思っているの…?
 わからない…、それでも…
―……。

 わたしは…生きていたい……。



「…う…っ…!」
 不意に奇妙な息苦しさを感じて、レフィルは目を覚ました。その体は清潔感漂うベッドの上に横たえられている。
「……ここは……?」
 キラーエイプと戦っている最中に気を失ったはずだが、どうやら自分はまだ生きているらしい。

「あっ!良かった!起きたんだね!」

 そうしてベッドの上でじっとしていると、不意にドアが開くと共に、明るい調子の子供の声が聞こえてきた。
「…君は…。」
 レフィルはその少年に見覚えがあった。魔物に両親を殺された少年その人であると、すぐに分かる。
「具合はどう?どこか痛くない?」
「…大丈夫だよ。それより…ここは…?」
 辺りを見回すと、寝泊りに困らない程度の…しかしその一つ一つがより質の高い家具の類が綺麗に配置されている。部屋の隅にはレフィルが身に付けていた服や鎧、持っていた荷物、そして…鋼鉄の剣が丁寧に整理された状態で安置されていた。
「レーベの宿屋だよ。もう三日間も眠り続けたから…心配しちゃった。」
 気を失っている間に自分はレーベの村にまで運ばれていたらしい。おそらくはこの少年が助けを呼んでくれたのだろう。
「旅人さんが助けてくれなきゃ、ぼくもあいつに食べられちゃうところだったから…。」
 彼もまた、自分を助けてくれたレフィルに感謝しているようだ。しかし、その僅かに悲しげな表情からは両親を失った悲しみはまだ根強く残っていることが窺える。
「ぼくはシン。旅人さんは?」
 そのようなものを微塵も感じさせない親しげな調子で、少年―シンはレフィルにそう尋ねた。
「…レフィル。」
 少し迷うように間を空けた後、レフィルは小さくそう名乗った。
「…えっ!?レフィルって…あのオルテガさまの…!?」
 その名を聞いた時、シンは目を丸くしてまじまじとレフィルを見た。

「そっかぁ…レフィルさまって女の人だったんだぁ。偉いなぁ…。」

 緩やかな白い寝巻きから見えるレフィルの体、白く細い腕に全体として丸みを帯びた体つき、それは間違いなく女性のものであった。
「レフィルさま…お願い。魔物をいっぱいやっつけて。ぼくのパパとママもあいつに…」
「シンくん…」
 両親を失った時を再び思い返して涙するシンの懇願を前に、レフィルは今はただ…その胸に彼を抱き締めてやることしか出来なかった。
―これも期待…なのかな…。
 女性の身、しかも一人での旅立ちを余儀なくされたことなど知る由もなく、人々が”勇者レフィル”へ抱く思いは強くなる一方であった。しかし、今のレフィルにはそれを受け入れることなどできず、勇者と呼ぶにはあまりに頼りない自身の行く末を憂うしかなかった。