何処へと 第三話



 大陸の中心に位置する闇から最も離れた地の沿岸に、潮風は微かながら吹き続けている。
 だが、太陽の温もりもない中で流れる風は淀んだ水の臭いを孕んでいた。日を浴びることも長いこと叶わずに弱り続けて、死に逝く者達が醸し出す雰囲気は、芳しい生の香りとは程遠いものだった。
 闇の帳の下で視界も狭く、文字通り暗渠へと向かわんばかりのそのような海路は静けさに満ち、今まさに久方ぶりに往かんとする者達がいることも感じさせなかった。
 川の下流の先に位置する沿岸に、大きな帆船が泊められている。その船縁から下ろされた縄梯子の傍で、船員達が慌ただしく動きまわりながら余念なく船の状態を調べ上げていた。

「終わったぜ!これならいつでも出港できるぞ!!」

 長年の間閉ざされていた海路を目指すべくして行われた船出の支度は、程なくして終わりを迎えた。
「ああ、すぐに準備してくれ。」
 古びた帆船でありながらも、致命的に朽ちた部分などもなく、問題なく海へ漕ぎ出すことができるとのことだった。外にまともに動ける船などもない中では確かに奇跡的ではあったが、当たり前のことのように感慨ひとつ見せずにホレスは静かに指示を出していた。
「あんたの時には出し渋っちまって悪かったな。」
「……。」
 マイラとリムルダールの道中を繋いでいた渡し船。だが、魔物が凶暴になるにつれて人里離れたこの場に辿り着くことさえも至難の業となってしまった。そのために、ホレスが以前にこの海峡を訪れた時は船人の手を借りることができず、干潮の合間を縫って通らざるを得なかった。
「だが、今度は聖剣と護甲、それにルビス様のお守りがある今、怖いものなんて何もねぇ。お前さん方を必ず聖なる祠まで連れてってやるぜ。」
 随所が危険な場と化した中で、このように旅の道を閉ざさずにはいられなくなり、行き交う人々も冒険者かそれに付き従う者だけとなっていた。冒険者程には魔物の扱いに手慣れておらず多くの者達を渡す役目を棄てざるを得なかった以上、仕方のないことだった。
 しかし、今度は二つの神器と呼ばれし武具がここにあると知るなり、彼らの内から闇の世界の魔物に対する恐怖はすっかり無くなっていた。大魔王に敗れた武具と知らずにいるのか、ここに集う皆が根拠のない勇気に満ち溢れている。
「行くぞ、聖地とやらにな。」
 以前に訪れた時とは明らかに違う港の雰囲気をしばし黙って見守った後、ホレスはレフィルへと一瞥しつつそう告げると、大きく跳躍して一気に桟橋に降り立った。
「………………うん。」
 促すような言葉と裏腹に、できることならば避けて通りたいと言わんばかりにホレスの表情はいつもにも増して険しく見えた。だが、大魔王の思惑を止めるためにあらゆる障害を厭わぬ覚悟を決めた今、ここで退くことはできない。
 胸につかえるような漠然とした不安を抱えたまま、レフィルは竜鱗の小手に包み込まれた右手を縄梯子へとかけた。

 深緑と黄金色を基調とした具足を纏い、腰と背に一振りずつの大剣を携え、薄れた紫の外套に身を包んだ少女がやがて甲板に降り立つ。その時、鎖がすれ合う音と共に錨が上げられ、大きな船体が岸を離れて、暗闇に包まれた沖合に向けて静かに流れて行った。




 マイラ、リムルダールを経て更に南の海に浮かぶ険しい山。ルビスの神殿と並び聖地と称される、古代の英雄を讃えるべくして築かれた神性の象徴がその頂に位置している。

――もうここも……。

 アレフガルドにおいて最も高みに位置しているこの地からでも、日輪を目にすることは叶わない。そして、古の勇者の縁など何ら関わりなきように、既にこの地も血に飢えた魔物達が闊歩していた。
「可哀そうに、苦しんでいるのね。」
 静けさの中で時折魔物同士が喰らい合う音を遥か下に聞きながら、黒い外套に身を包んだ少女は彼らに手向けるようにそう零していた。
「でも、私では助けになれない。今はまだ……。」
 生きとし生ける者を救わんがために闇に呑まれることも恐れずにひた走って来たが、結局は真実を知っただけで絶望を深めるばかりでしかなった。長きに渡りあらゆる苦難を超えて、様々な叡智を駆使しても、道は結局切り開けない。
 闇から還り着くことができたといえども、天賦の才を持つ魔道士――人々を導く賢者と称されてきた自分にできることなど大したことはない。

『そうね。あなたが思うような救いは、もう決して訪れはしないでしょうね。』

 ふと、闇の帳に覆われた空の片隅から吹きつけるようにして一筋の風が掠めると共に、白い裾が彼女の眼の前を過った。灯の光を照り返すような純白の色合いと裏腹に、視界さえ霞ませる程の重圧が感覚を暗く歪ませる。
「……ディズ。」
 やがてここに来るであろう新たな勇者たる者を見届けに来たのは、何も彼らに希望を託した者だけではないということか。この世界を闇に堕とした元凶たる大魔王に選ばれし者――絶望を抱く者達の筆頭たる少女・ディズもまた、ここに姿を現していた。




 標ひとつない暗黒の海。上下左右問わず漆黒のみが広がる中で、いくつもの灯明の呪文により呼び起された光が、羅針盤の上から遠く離れた陸地を照らしている。それを伝うようにして、船は南へと航路を進めていた。

「思った通りにはいかないか。いくらルビス様の加護があってもこれじゃあなぁ……。」

 向かい風を受けてはためく帆を張るマストに深々と刻まれた一筋の傷を眺めながら、船の主は不安を露わにそう呟いていた。この船が擁する伝承になる程の力を実際に目にしてきたとは言え、それだけで盤石と言えぬことに対する無常さを実感している様子だった。
「当たり前だ。そんな不確かなものをあてにする方がどうかしている。」
 神霊にも頼りたくなる彼の意を汲むこともなく、ホレスはあっさりと男へとそう言葉を返していた。勇者の盾も王者の剣も、所詮は担い手の力の及ぶところまでしか守ることなどできず、ルビスより授けられた護符もまた、この船全ての人間の命を保証するものではなかった。
 もっとも、それを抜きにしても元より凶悪な魔物との戦いに備えて、船体の補強やスカラの呪文の応用による船の強化は十分に行われていたのも事実だった。そんな様々な趣向を凝らした船も、海を飛び越える魔物自体の侵入を阻むことはできず、幾度も彼らとの戦いを強いられることとなった。
 それでも度重なる襲撃を退けてきたことを示すかのように、半魚人の最上位主・マーマンキングや、暗黒の空から現れた怪鳥達の亡骸が甲板に転がっていた。彼らを倒したのは、船の用心棒やだったが、皆が大魔王との戦いに赴くと聞いて駆けつけた者達だった。
「でも、やっぱり大して強くない。」
 勝鬨を上げる集いし者達を余所に、ムーがホレスとレフィルへとそう囁く。
 確かに彼ら自身の力量が精兵に匹敵する程高かったこともあるが、何より魔物達がなりふり構わぬ程の凶暴さに反して弱り切っていたのがここまでの戦いの勝因となっていた。
「やっぱり海も……。」
 ガライの家を訪れた時にも遠くに目にした海の魔物同士の戦い。そうまでしなければならぬ程に飢えてしまう程に、海もまたかつての肥沃さを失っているのだろう。強者とはいえ一介の傭兵に過ぎない――それも神器はおろか魔法の加護の一つない武器しか持たぬ人間達に歯牙にもかけぬ程に蹴散らされてしまう程になってしまったことに、レフィルは哀れみを抱いていた。
「全く、この船ももう最後かもしれないんだ。無駄な抵抗のために傷のひとつを増やしたくはないものだね。」
「そりゃあそうだなぁ。」
 魔物達のなれの果てを前に、事情を顧みない傭兵達の拍子抜けしたような声が飛び交う。同じく光を標として生きてきた者達であれ、急に呼び起された暗黒の中で適応できなければ淘汰される外はない。その事実と、大魔王ゾーマが現れなかったら続いていたはずの調和――真の意味で海の脅威として立ちはだかっていた過去との差異はあまりに違いすぎる。
 アレフガルドの魔物達を相手に戦える程の傭兵達を前には、海の魔物達は所詮はこのまま順調に目的地にたどり着ける程度の障害でしかなかった。
「ま、これでホントにゾーマをぶっ倒せるってんなら、タダでだってこの仕事引き受けてやったワケだがなぁ。」
「いいや、カネ積んだって引き受けるもんか。もうこんなのただの鉄くずでしかねぇ。だが、このバケモノどもをギャフンと言わせるチャンスが来たってんなら話は別だ。いっそのこと、徹底的にやっちまおうぜ!!」
 逆に言えば、海へ出ることを躊躇わせる程の魔物を蹴散らせる程の強者がここに集まっていることでもあった。弱り切って尚凶暴化を重ねる魔物だけならまだしも、絶望を与えんと迫る闇の手の者達により、息を潜めざるを得ずにいた。だが、雌伏の時を過ごす中で聞き及んだ知らせは、その終わりを一斉に告げることとなった。

「そうだろ?勇者サマよ!」
「…………。」

 虹の架け橋――大魔王の下に赴くための鍵となるもの全てを集めたとの知らせは、彼らをこの場に導くには十分な動機となり得た。更には、レフィルが大魔王ゾーマの手先を退けたとの噂を聞き及んだ者さえおり、今の彼女に懸けられている期待はかつての勇者に対するそれを上回りつつあった。
 皆が大魔王ゾーマを討ち、世界に光を取り戻さんという思いを本気で信じている者達であると彼らの熱意から実感し、レフィルは予想以上に心身にかかる重圧を覚えていた――それが、本来背負うべきものでないと知っていたとしても。



 見渡す限りの闇の彼方から、向かいの大陸の沿岸をなぞるように、黒い海の上から幾筋もの光が現れている。
3 それは確実に、かつての決戦から長きにわたり進入者を拒んできた聖地へと近づいている。

『全てを等しく救おうなんて、あの子みたいじゃない。そんなことができると思ってるんだ、サファラは。』

 鍵となるものを携えし者達が間もなくこの地へと至ることを見届ける中で、サファラは自分に向けて投げかけられる皮肉めいた言葉の主へと向き直った。
「等しく、なんてそんなこと……」
『あなただって随分賢いはずなのに、まだそんな考えを捨てられないのね。人間ってそういうものなのかしら。』
 全てを等しく、それは人と魔物を救うそのものの意味よりも、かつての世界の姿に戻さんとすることと、ディズには容易く理解することができた。そのようなことは最初から不可能と知りながらも、心のどこかでそう願っていることを、サファラは否定することができなかった。
「……生きていれば、最後まで譲れないものでもあるの、かもしれないわね。」
 滅びへと向かう世界を変える一石が見せるものが、闇の世界を終わらせる希望であることは確かだった。だが、それが必ずしもサファラが――アレフガルドの人々や魔物全てが望む姿とはなり得ない。先が見えぬ中で、サファラもまた愚かしい願望を抱いていることには変わりなかった。そしてその暗闇の中でただ一つ抱く願いこそ、全ての存在が己であるために持ち得る最後の一線であった。

『そう……ならばそれが、どこまで続くのか、見てみましょうか。そして、あなた達が抱く光の差す影の深さがどれほどのものかを。』

 今にも押し潰され兼ねぬばかりの重圧の中で、絞り出すように告げられたサファラの見た光。それを肯定した上で、ディズは愉悦に満ちた眼差しを道を求めて駆け回る灯の中心へと向けていた。


 生きる中で得た様々な意思を這い上がることもできない程の暗渠の底へと閉ざしてしまう深い心の闇。あらゆる手を尽くしたところで光が戻らぬ中で、奥底に押し込められていたそれらが徐々に表立ち始めている。
 今この船に集う者達もまた、新たな光の下に集まる虫の如く、奇跡的に希望を見出すことができた幸運に導かれた者に過ぎない。心身共に強靭なものを持ち合わせる彼らとて、全てに絶望するのは時間の問題でしかなかった。

「これは……」

 数日に及ぶ航海の先に、間もなく目的地に辿り着くと皆が確信する中で、ホレスは船に迫る気配を先んじて感じていた。
「おい兄ちゃん。あんたも気づいたみてぇだな。」
「海の中から……よりによってこれ程のやつらが。」
 同じくして、海の中の異変を察知した傭兵の一人――無精髭を生やした壮年の男が、ホレスへと同意を求めるように語りかけてきた。他の者達のように陸上の魔物と戦うためにあるような甲冑の類は身につけておらず、腰に帯びた厚みのある小刀と右に持った大銛は良く手入れされている。一目見るだけで万人に海を熟知した者であると分からせる程の雰囲気を纏っていた。
「……悪い予感程良く当たる、これもご時勢って奴かねぇ。おい!おめぇら!!ボヤっとしてねぇで持ち場に付きやがれ!!」
 海賊の頭にも似た風貌のその男は、ホレスが告げる言葉と顰められる顔から、事の深刻さを改めて実感して嘆息していた。その後にすかさず、船中に通る程の大音声で皆に向けた警鐘を鳴らした。
「へいへいっと……」
 ここに集った面々の中で最も海戦の経験を積んだ男に逆らうのも愚かしいと分かっていながらも、逸れ者気質の傭兵達には指図されるのも億劫なことだった。彼らは重い腰を上げながら、それぞれの武器を携えて男の指示に従って警戒態勢に入っていた。
「ったく、今さら怖いモンなんてねぇだろ。こっちには神サマがついてんだからよ。」
 襲い来る回数こそ多くとも、然したる苦戦もせずにこの場まで乗り切れたことに油断の心が生じているのは明らかだった。魔物達が想像していたよりも異常に弱いことを、神の加護によるものと穿き違える者も少なくなく、船内の緊張感は皆無に限りなく等しい程しかなかった。

「そうそう、勇者サマだってい、……っ!!」

 弛んだ者達の発言に乗じて、優越感に浸る者達が軽口を叩き合うのを、船全体を襲う激しい揺れが遮った。
「な、何だあっ!?」
「ちぃ、今までのはやっぱり前座でしかねェってことかよ!!」
 錯乱する一部の者達を余所に、それまでやる気なさげにしていた傭兵達の顔色が真剣なものへと変わっていく。
 大魔王によって変えられてしまった海路の恐ろしさが、この程度ではないと最初から分かっていたとばかりに、皆が狂騒の中でも戦闘に向けて意識を砥ぎ澄ましていた。
「この揺れは……」
「でけぇぞ!今度は一体なんだ!?」
 船体に施されたスカラの力でも、海中から襲い来る巨大な者からの衝撃による船の揺れまでは止められない。幾度も打ち据えられるようにする中で、それは船縁へと突如として絡みついた。

「うわっ!?」
「しょ、触手!?」

 それは紫の斑紋に彩られた深紅の触手だった。船の側面を一斉に掴んだそれらの先にある重量により、全体が大きく右方へと傾き始める。
「すぐに斬りおとせ!!引きずり込まれるぞ!!」
 足場を失いかけて皆がバランスを崩し始める中で、男がすぐに指示を飛ばした。それよりも先に状況を判断した者達が剛力に任せて振り下ろした武器で触手を断ち切ったり、船縁自体を破壊することで勢いを緩める。
 そして、我を失いかけた者達が男の激を受けて無我夢中に触手を引き剥がして、程なくして船を押さえつける力は失われた。

『ほう、随分と活きのいいエサがこれ程紛れ込んでこようとはな。』

 傾ぎを元に戻そうとする船体が激しく揺れ動く中で、退けられた触手が引っ込められていく海中から重苦しい響きの声が聞こえてくる。程なくして、そこから先の触手と同じ深紅と紫の怪物が海面に浮上していた。
『時の移ろいがもたらせし恵みといえような。』
『この好機、逃すわけにはいくまいて。』
 引き続くようにして、同じ種の魔物達が次々と海の底から姿を現していく。彼らの視線は全て、聖なる祠を目指して航海しているこの船――そして搭乗している格好の餌食に向けられていた。
 帆を張ったような三角の頭部に、先には触手と見ていた十本の足。それらはまさに、烏賊の怪物としか言いようがなかった。

「クラーゴンだと……!?」

 平穏な時代に名こそ知られて語り草になりながらも、実際にその怪異と出会った者はほとんどいない。それ故に、半ば伝説上の怪物として謳われることとなった海の脅威――クラーゴン。だが、闇の世界と転じた今、海の奥底に身を潜めていたはずの彼らは、弱りゆく魔物達を次々と喰らい、表層へと姿を現していた。
「おい……この数、流石に危険過ぎるだろう。」
「ああ、へたすりゃこの船、ここで沈むな。」
「な、何だとぉっ!!?」
 ただ一体だけでも船一つ沈めることなど容易いまでの力を持っていたが、皆が目にした光景はその上を行っていた。囲われることこそなくとも、壊された側面の先に見える百数本にも及ぶ深紅の烏賊足の怪異は、まさに絶望的なものだった。
 あれ程の烏賊の群れにもう一度捕らわれる事があれば、今度こそ海の藻屑と消えてしまうことだろう。
「どわああっ!!」
 面舵を取り、群れから逃れんと走らせる船の後方に、先頭のクラーゴンが触手を叩きつけてくる。
「スカラじゃ捌き切れねえ!!」
「こ、こりゃあマジでやばいかもな……」
 逃れるように動く船に絡ませることは叶わずとも、叩きつけられた部位は目に見えて壊されていく。船上に侵入するまでもなく一方的に戦える敵を相手に海を隔ててまともに渡りあうこともできず、徐々に壊されていく船ごと沈められるのも時間の問題だった。

「メラゾーマ」

 必死に逃れ行く中で、不意に少女が唱える呪文の一声とともに、クラーゴンに向けてその巨躯を丸ごと飲み込まんばかりの大きさの火球が直撃した。海上であることも構いなしに爆ぜた炎が火柱となって立ち上り、内に閉ざされた敵を焼き尽くす。
『小癪。』
「!」
 だが、不意にその炎の中より伸びる触手が、呪文を唱えた少女目掛けて飛来した。とっさに手にした巨大な杖で迎え撃ち、海の底へと叩き返した先には、灼熱の業火を受け切った海の脅威の姿があった。
「丸焼きにされに来たわけじゃないみたい。」
「まさに怪物か……。」
 正面からメラゾーマの呪文を受けて体中を焼き焦がされながらも、然したる傷となった様子もない。大魔王ゾーマでもその配下の者達でもない思わぬ強敵を前にして、ムーの顔にも焦りが浮かんでいた。
 魔法使いとしての純粋な戦力であれば、紛れもなく最上位に位置する実力を持つ彼女ですら手に余る相手である以上、相応の脅威と認めざるを得なかった。
「奴らの元々の住処は深海だったな。」
「……なるほどな。だが、これはどうしたものかねぇ。」
 他の魔物達が尽く弱りゆく中で、これ程の力を発揮できるのは、光届かぬ海の暗闇で生き抜いてきたがためか。いずれにせよ、地の利も純然たる力も完全に相手にある以上、勝機も血路も無きに等しい程に絶望的な状況だった。
『抗うだけ無駄だ。おとなしく我らの糧となるがよい。』
 逃げ回ることしかできぬ人間達の、徒労に終わる抵抗をあざ笑うかの如くクラーゴンの内の一体がそう宣告していた。徐々にではあるが、確実に船との距離は狭まっていく。それでも武器を届かせることも、満足に呪文を浴びせることもできぬまま、触手が船の帆をなぎ倒さんと打ち下ろされる。

『!』

 が、帆へと届かんとしたその時、それは半ばから断ち切られていた。
『貴様は……!』
 次の瞬間、今しがた一足を断ち切られたクラーゴンの体が、その足を中心として半ばまで凍りついていく。一体何が起こったのか分からぬままに、唐突にこれ程までの深手を負わせた彼女へと、クラーゴンは本能的な怒気を向けていた。
「お、おい……あれ……」
 最上級呪文でも然したる足止めにならなかった怪物を、掠めるような一撃のみで斬り伏せた現実。敵味方の双方とも、そう見える異様なまでの光景に時が止まったように呆気に取られている。彼らの視線は、甲板へと降り立った少女へと例外なく集まっていた。
「何だ、あの力は……!?」
 そこで初めて、異質さを感じさせる程にあまりに膨大な力の流れを目の当たりにすることになる。脅かす敵に対する戦意に呼応するようにして、吹雪の剣が辺りの空間を吸い込み続けている。その流れが行きつく先には、剣の力を司る翡翠色の精霊石と力を伝える青い刀身があり、溢れんばかりの魔力をやがて飲み干していた。
 今にも爆ぜ飛びそうな程に剣の中に押し留められているもののと共鳴しているのか、流れの止んだ剣の回りの空間の周りに赤みを帯びた薄い紫の光が波打ち、剣そのものも悲鳴を上げるように鳴動していた。
「待て!!レフィ……!?」
 ホレスが引き止めんとその名を呼ぶより先に、レフィルは左手に取った吹雪の剣を魔物の群れに向けて斬り下ろした。

『……!』

 集った力が一閃した軌道に乗せられて、凍えんばかりの吹雪となってクラーゴン達諸共、海を氷と化していく。過ぎゆく後には、細かな氷晶が舞い散る巨大な烏賊の群れの形をなした氷海だけが残っていた。
――あいつ、また無茶を……!
 たった今呼び起されていた冷気を操る最上級の呪文・マヒャドに匹敵する程の寒波を目の当たりにして、ホレスは焦りを覚えていた。吹雪の剣、そしてレフィル自身が本来持ち得る限界――闇の衣も光の加護もない全力。それを引き出すのを後押しするように、彼女の心は追い詰められていたということか。

『味な真似をしてくれる……』

 だが、それだけで仕留めることは叶わなかったのか、クラーゴン達が自ら閉じ込めている氷を力任せに打ち砕いていく。その拍子に、吹雪が過ぎ去った中で形成され、彼らを繋ぎとめていた厚みを帯びた氷海に亀裂が生じ、いくつもの氷河と化したそれらをかき分けて尚も追ってこようとしていた。
 氷の嵐によって幾分弱った様子を見せながらも、そのまま沈めるまでに至らない。良くて足止めにしかならなかった現状を前に、船員や傭兵達の間に更なる戦慄が走る。

「あなた達も、分かっているのでしょう?」

 その緊張感の中で、クラーゴンの群れと真っ向から向き合いながら、レフィルは剣を構えたまま唐突に彼らへと語りかけていた。

「このままでは、みんな滅びてしまうって……。」
『……。』

 闇の世界と化してより海の表層にいる魔物達が勢力を弱め始める中で、影響を受けずにその支配者と成り替わったクラーゴン達。だが、飢えて急激に衰退していった以前の魔物達と同じように、彼らもまた同じ道を歩むこととなるのも滅びゆくこの世界においては時間の問題に違いない。
「だから、死にたくなければ道を開けて。わたし達は、先に進まなければならないから……。」
 より力をつけんとする本能のままに、恵みの全てを享受せんとする彼らに向けて、レフィルはあくまでも説得を試みていた。
 だが、終始抑揚こそ優しく諭さんとするものであれ、ねめつける視線は行く手を阻む彼らに対する明確な戦意を見せていた。自らも退けぬ以上、邪魔をするなら斬ることも辞さない。これまで彼らに貪り食われてきたであろう魔物達と同じ道を辿る気など毛頭ない。

『貴様如き脆弱なる者に何が出来る?』
「……!!」

 しかし、そのようなレフィルの言葉も、やはり元より糧を求めて襲撃に至った彼らには全く届かなかった。そして、威圧せんとするレフィルの力そのものさえも真っ向から否定すると共に、彼らは一斉にレフィルへと襲いかかった。
「く……!」
 船ごと揺るがされたところで体勢を崩し、受け止めた盾ごとそのまま薙ぎ倒されて、氷海へと叩き落とされてしまった。

「レフィル!!」

 更に足場の悪い氷上へと追いやられて、おまけに何匹もの怪物と同時にやり合わざるをえなくなり、確実に窮地に陥っている。海に叩き落とされるも、重量により押し潰されるも、一つ誤れば命のない状況に置かれてしまったのは間違いなかった。
『まずは貴様から血祭りにあげてくれよう。』
 海ごと凍りつかせるという奇襲に及ぶも、群れの真っ只中に引きずり込んだ中では打つ手はない。船から離れ行く氷の上に立つ少女を狙い、クラーゴン達が隙間なく囲んでいた。
 作り上げた氷から引きずり下ろさんと、体当たりや触手による攻撃を執拗に繰り出して来る中で、レフィルは相手の動きを見定めて必死にかわすより他なかった。

「やっぱり、これだけじゃ……」

 連続的に襲いかかる中でのわずかな縺れによる合間を見切り、レフィルは再び吹雪の剣を振るい、凍えんばかりの冷気を気を叩きつけていた。
 吹雪が広がる前方の範囲に立ちはだかる敵全てを一斉に凍らせて、背を向けた隙を突いてきたクラーゴンに振り向き様に極冷の刃でその触手を斬り払う。
 だが、群れを被う氷河もまたやがて再び打ち破られてしまうだけで足止めにしかならない。何より、彼らの懐にまで斬り込むには至らずに、執拗な反撃を許してしまうことは免れえなかった。
『大人しくその身を捧げるがよい。』
 餌食となるものの最後の抵抗を認めながらも、既に見えた戦いに飽き果てたかのように、レフィルを囲うクラーゴン達が口々に勧告してくる。
 レフィルに警鐘を与えるとともに、これまでにない程に手に馴染む吹雪の剣の力に、勇者と祀られるだけの英雄オルテガより継承した資質。だが今持ち得るそれらだけでは、彼らが告げる通りこの状況を覆すには至らない。

「こうなったら、また……」

 四方八方、更には真下にまで迫らんとする魔物の群れを前に、もはや他に手はない。右手に携えるオーガシールドを背負って、代わりに王者の剣を取る。そして、それまで揺れる氷の上にしがみ付くように蹲っていたことが嘘のように堂々と立ちあがり、双手の剣の切っ先をクラーゴン達に向ける。
『貴様……何を……』
 もはや守りに徹するしかないはずの彼女が唐突にむき出しにし始めた戦意に、彼らは戸惑いを隠せずにおのずとその様子を見守っていた。
 防御を解いた少女が見せたのは、ひとたびまともに打ち据えられるだけで容易く海に叩き落とせるような脆さなどではなかった。いかなる傷を負おうとも彼女の立つ領域に踏み入れんとするものを全て斬り捨てて、滅ぼし尽くす。いつしかその身に纏う紫の霊光と共に、辺り全ての雰囲気を押し潰さんばかりの重圧が広がっている。
「な、何だあれは……!?」
 先程とは全く異にして守り全てを犠牲にして紛れもない隙を見せているはずが、それを突いた所で何も意味をなさない。まさに急にレフィルの存在そのものが大きくなったかのような不気味な感覚だった。


「やむをえないか。」


 皆がそのような異質な光景に囚われている中で、ホレスは嘆息すると共に、氷河に向けて飛び出していた。
「ホレス!?」
 一触即発の状況の中で、唐突に船より身を投げ出した彼の姿を見て、深い紫の霊光の中でレフィルは驚愕に目を見開いていた。次々と氷床を渡って、いつしか彼は自分の傍らにまで至って、クラーゴンの群れの中心に降り立っていた。
『気を違えたか。自ら餌食となりにこようとは。』
 何を血迷ったのか、死地に赴いた愚かなる者の姿を認め、レフィルに向けられていた視線の矛先が一斉に彼へと変わっていた。
『愚か者め、そのまま海の藻屑となるがいい!』
 傍で人ならざる殺気を振りまいている少女とは全く異なり、何の異質さも感じさせぬ人間でしかない。無為に飛び込んできた愚か者に向けて、一斉に触手が打ち下ろされた。

『!?』

 だが、幾度も繰り出されるそれらの攻撃は全て、青い煌めきを持つ大盾により跳ね返されていた。
 常人であれば一度受ければ容易く死に至るのは元より、絡め取られて海に引きずり込まれてしまうはずだった。それをホレスは、受け止めたばかりか、不安定な氷床から一歩も動くことすらなく、静かに佇んでいる。

「素なる子に至る簒奪の災禍、其が貪りし物に有形も無形もなし。」

 人と巨大な怪物との間で到底起こり得ぬ光景に呆気に取られる者達を尻目に、ホレスは拳を握りしめながら言の葉を紡ぎ始めた。
「眩き滅光と暗き深淵の狭間に在りし混沌に総てを喪いし者を誘わん。」
 多くの者達に取り忌むべき力であれ、それを戒める心など最初からない。それが憎きも愛しも関係なく全てを葬り去ってきた過去を持ち得ようが、今の自分の心に訴えるものは何もない。
 あらゆる手を尽くして生き延びる中で、全ての情を打ち捨ててきた道程を物語るかのように、ホレスは今もまた表情を完全に消していた。

 詠唱を経るにつれて彼の体の内側から湧き上がるものが、灯明すらかき消さんばかりの眩い白光が、掲げた右手へと集っていく。

「ザラキーマ」

 膨れ上がり続けてやがては光球と化したそれを、ホレスは呪文の名と共に氷海に向けて直接叩きこんだ。
 打ち下ろされる拳が、彼の立つ氷河を穿ち、生じた亀裂を伝って四方八方へと光が散っていく。闇を映し出していただけの海が、瞬く間に白い輝きに覆われていた。
『ぐ、おぉ…っ!!!』
 海を伝って拡散する呪文をかわす術はなく、クラーゴンの群れは滅びの時を迎えていた。ホレス達の間近にまで迫らんとしていた者達が真っ先に光に呑みこまれて、断末魔を上げる間もなくこの世から存在を跡形もなくかき消されていく。
『体が……朽ちて……』
 唐突に仲間が白い光によって掻き消されたのを目の当たりにするのも束の間、他のクラーゴン達もまた自らの体が徐々に消え失せていくのを感じていた。光を浴びた部位から塵と化していき、その消失が重なって確実に蝕んでいく様は、死の呪い以外の何事でもない。
「まとめて消し飛べ、邪魔だ。」
 呪文による滅びを免れえなくなった海の怪物の群れを前に、ホレスはただ短くそう告げながら、静かに眺めるだけだった。
『貴様は一体、何を……!!』
 一瞥こそくれながらも、最早彼の興味は彼らにはない。
 憤怒も憎悪もなく、ただ下された裁きの如く大いなる力。その全貌を知る由もなく、クラーゴンの群れはザラキーマの光の前に消え逝くだけだった。

「これでここらの邪魔者は全部消えた。先を急ぐぞ。」

 海に投じられた滅びの光の余波を受けて鏖殺され尽くしたのか、これ以上魔物が現れる気配もない。そしていつしか船首の先を照らす光により、高い山を擁する小島が見え始めていた。
「あ、ああ……。」
 船一つ沈めかねない程の魔物達でさえなすすべもなく消し去られる程の力を目の当たりにして、さしもの勇士達も茫然とする他なかった。
 生死に関わる程の脅威を、ただ一つの呪文によって退けたのが熟練でこそあれ、しがない冒険者でしかない男である現実を未だに信じられない。まして、神器の力一つによってクラーゴンの群れの攻撃を全て弾き返そうなど、ただの人間にできる芸当ではない。
 泰然と先を眺めるホレスに対して、皆が畏怖とも怯えともつかない表情を張りつかせながら戦慄の内にあった。