預けられし定め 第九話



 外を隔てる壁も、頭上を覆う天井もなく、見渡す限りの夜の空と階下に見える世界が広がっている。
 光ある彼の世界で何気なく感じていた風や小鳥の囀りは聞こえず、遥か上から見下ろしている今でも、草木がどれ程弱っているかは一目見て明らかに分かる程だった。
 開けた空間であるはずのこの塔の最上階から見える光景も、他の階層とさして変わらぬ凄惨なものに過ぎなかった、

――今いるのは、わたし達だけ……。

 降りしきる雷によって砕かれた石片が散らばり、焼き焦がされた灰が辺りを漂うだけで生ある者の気配は全く感じられない。
 闇の手の者を残らず狩り尽くした嵐は、今は嘘のように消え失せていた。それをもたらした者も既に去り、何者もない静けさが広がっている。彼らとの戦いが繰り広げられた跡と言えば当然の結果ではあったが、残されたものはあまりに味気ないものだった。

「明るい……。」

 荒れ果てた姿を晒す塔そのものの有様を余所に、それを映し出す光の気配は不自然な程に濃かった。
 星一つ瞬かなず、地上の光を照り返す雲の一つもない。そんな夜空の暗さを感じさせぬ光が、この階の最奥から発せられていた。
「この石像からか。」
 最上階の外を隔てる外郭こそなくとも、精霊神を封じる役割を果たす祭壇は四方を石壁に覆われていた。今はその名残だけを残す壁の残骸の間から暖かな光が零れており、その先に源となるものが佇んでいる。
 それが動かざる何者かであることはすぐに視認することができた。

「これが……精霊神、ルビス?」

 精霊神と呼ばれるこのアレフガルドの守護者についての話は既に聞き及んでおり、それを模る慈母の像もまた随所で見かけてきた。そんな噂に違わず、ここ塔の最上階の中心に鎖されていた者もまた、美しい少女だった。
 神が着ると言われる無縫の衣と呼ぶべきものに身を包み、瞑目したまま天を仰ぐ姿は、確かに神に纏わるものの気配を感じさせる。それでも、彼女その人は如何に見方を変えようとも人間としか映らず、その違和感一つにレフィルは疑問を露わにしていた。
「……まだ、呪縛は解けていない。」
「呪縛?ってことは、これは石化の呪い……」
 精霊神を石と化しているものの根源を、ムーは呪いによるものと断定していた。曲がりなりにも魔法の専門家であることを考えれば、概ね妥当な言葉だった。
 石化して尚も微かに神気を帯びているようにも見えるものの、それ以上の動きは何もない。尽く滅ぼされた塔の番人達に、この呪いと直接的な繋がりはなかったのだろう。

「シャナク」

 暫く観察した後に、ムーは解呪の呪文・シャナクを石像へと施していた。手のひらが触れると共に、そこから呪縛を解かんと見えざる力が働いている気配が窺えた。だが、程なくしてシャナクの力が掻き消されるのもまた、レフィル達にも感覚的ながらも明確に知るところとなった。

「シャナクでもだめみたい。」

 解呪を弾いた石像を少しじっと眺め、嘆息と共に首を横に振りながらレフィル達に向き直った。
「前に一度使った形跡がみられる。」
「え?本当?」
 それでも、観察している内に見つけた何かから察したことがあるらしく、ぽつりと告げられた言葉にレフィルは思わず尋ねていた。
「ここを見れば分かる。」
「唇……って、ええっ!!?」
 ……が、それに対してムーがあっさりと石像の一点を指差す先を見て、レフィルは思わず狼狽していた。
 朽ち果てることこそなくとも、風雨にさらされている中でついた穢れが払われて、微かに暖かな温もりを帯びている。
「……ふん、そんなふざけた奴だとは思わなかったな。」
 それが示す事実を解してしまったために、気恥ずかしさを隠せずに赤面してしまったレフィルの側で、ホレスは忌々しげな様子でそう口走っていた。魔物達を容赦なく殲滅するだけの実力を持ちながらも、戯れも忘れない。だが、仮にも精霊神相手にそれをやってのけるという常軌を逸した域にまで踏み込もうとは思わなかった。
 自分のよく知るあの男であっても、そこまで駆り立てられるような熱意はない。咎めるつもりなど毛頭なくとも、それが意味するところを危ぶまずにはいられない。
「でも、それで今もここに……」
 経緯がどうあれ、先にこの場を訪れたであろう“あの男”も、この呪いを解くことは叶わなかったらしい。解呪の呪文が効かないと明確に知れた今、別の手段を講じなければならぬことは明らかだった。

「今こそ、試してみるべきではないですか?あの子達から託された、思い出の品を。」

 暫しの間レフィルが思い悩んだ様子を露わにするのを眺めた後、ガライはそう告げていた。
「妖精の笛……。」
 マイラを故郷とするリムルダールの傭兵とその恋人がずっと大切にしまっていた秘蔵の品。精霊神ルビスに纏わる地で得たと言うそれは、目覚めと眠りを司り呪いを打ち払うとされている笛に酷似、或いはそのものであると見ることができた。
 そんなものが彼らから託されているのは、単なる偶然などではないと思わされる。
「でもホレス、どうしてそれをわたしに……?」
 笛を手に取ると共に、レフィルは思い立ったようにホレスへとそう尋ねていた。
 妖精の笛もまた、ホレス自身が求めてやまぬ力ある宝物の一つである。そう言った品であれば、自らの手元に置いてじっくりと研究を重ねるのが彼のやり方のはずだった。それを何故に自分に預けたのか、
「それが一番安全、だからな。」
「安……全……??」
 だが、返ってきた意外な言葉を前に、レフィルは首を傾げた。確かにあくまでこれは借り物である以上、手荒な真似はできないだろう。それでも、笛そのものを忌避するようにしていたのは、何の“安全”のためなのだろう。
 今も微かだが、笛そのものから目を逸らそうとしている様子さえ窺うことができた。
「私じゃだめなの?」
 レフィルの問いかけを傍から聞いていて、ムーもまた気になることをホレスに向けてそう言葉を投げかける。
 妖精の笛の云われからは“安全”と強いて言わねばならぬような危険な要素など思い浮かばない。それを何故恐れる必要があり、そしてそれを持つべき者もまた限られているとでも言うのか。
「いや、俺以外ならば誰だろうと問題はない。お前が吹けるならそれでもいいんだ。」
「だったら構わない。」
 返された言葉は、ムーの予想とは丁度逆のことを意味していた。妖精の笛を操る適性がレフィル達にあるのではなく、ホレスにその資格がない――少なくとも安全は保障できない。敢えてムーではなく、レフィルに託す理由というものも最初から特にありはしなかった。
「まぁ、そんなことはどうでもいいだろう。さっさとやろうじゃないか。」
 理由を告げるなりあっさりと引き下がったムーを見やると共に、ホレスは石像に注意を引きつつレフィルへとそう告げていた。
「え、ええ……。」
 半ば急かさんばかりの勢いで背を押すホレスの言葉に若干の違和感を憶えながら、レフィルは妖精の笛を口元に運んでいた。

――これが、精霊神の縁ある品であるならば、目覚めを司る力を宿しているのであれば、この人を縛る呪いを……

 双眸を石像に合わせて、静かに笛へと息を吹き込む。笛そのものを吹いた経験も然程ではない中で、不慣れ故の拙いながらも心を込めた韻が響き渡る。妖精の笛と称される、アレフガルドに住まう恋人達の宝物より奏でられる音色が、闇が去りし辺りの空間へと溶け込んで、光と混じり合っていく。

「石像に罅が……」

 石像より仄かに見える光が、レフィルの笛の音に合わせて波打つように明滅している中で、それを醸し出している表面が静かに崩れ落ちていくのが見える。
「……広がっているな。この塔全てに。」
「ホレス?」
 レフィルの奏でる笛の音と、それがもたらす力によって石像が砕ける音と共に、ホレスは塔全体に広がる残響を聞いていた。染み渡るように塔の各部にまで届く様を示すように、階下も仄かな光を帯びているように見えた。
「ともかく、呪縛が解かれたようだな。」
「これは……本当に……」
 大魔王ゾーマによる石化の内に封じ込められていた神性とも言える雰囲気が、徐々にこの場に現れていく。やがて、表面を覆っていた灰色の呪いは砂の如く静かに崩れ落ちて、床に達するより先に光に溶けるようにして、或いは内より現れた白い衣に弾かれて消え失せていく。

 石化の残滓たる砂が零れ落ちていく中で、彩りを取り戻した長い亜麻色の髪が柔らかな布のように背中に垂れ落ちていく。純白を基調とした衣もまた、呪いによって凝り固められた中から解き放たれて、静かな風を受けて微かに揺らめきを始める。
 そして、長きに渡り祈りを捧げる姿のまま胸の前に合わせられていた両手が静かに解かれて、力なく下ろされる。

「う、ううん……。」

 そのまま前に身体が傾ごうとした時、閉じられ続けていた目が微かに動いていた。同時に、倒れそうになった身体を支える細い脚がおぼつかないながらも、床を確かに踏みしめる。
 だが、そんな今にも崩れ落ちそうな頼りなげな少女の姿と裏腹に、場を覆う光と一体となったように、その存在の重みは増し続けていた。闇の手の者がその力を解き放った時に感じた時と逆の眩さがありながら、それとよく似た流れが辺りの空間を支配していく。
――……こ、この人は……一体……!?
 解き放たれたばかりでありながら、溢れ出す雰囲気は既に人の持てるそれではないとレフィルは心身の底から理解していた。感じる存在の重みだけで言うのであれば、あの時目にしたゾーマにさえも匹敵し、先に戦を交えた闇の手の者達など比較にならなかった。
 そんな凄まじい神気を与えるものが、このか細い人の体の内に納めているとでもいうのか。この身を押し潰されんばかりの勢いに押されて、レフィルの心の内に激しい不安感が募り始めていた。

「お目覚めになられましたか、クリス。」

 警戒を露わにした視線を向けるレフィルを横目に、ガライはその圧倒的な光の内に佇む少女へ向けてゆったりと歩み寄っていた。
「ガライさん?」
 闇の手の者達が厳重に守り抜く程の希望に対して、旧年来の友人の気安さで側に立つ老詩人の姿に、レフィルは怪訝な表情を見せていた。少なくとも、神に対する礼節ではないことを、咎めるわけでなくても違和感を覚える。
 石と化していた少女の目が開かれて、その双眸がゆっくりとガライの姿へと合わせられる。

「ガライ、私はようやく出てこれたのね……。」

 そして、目覚めたばかりではっきりしない表情のまま、クリスと呼ばれた少女はそう口に出していた。
「随分と、やつれたわね……ガライ。何年経ったのかしら?」
「二十年ぐらいですかね。よもや最後に出会ったあの時の姿で出会えるとはあの時は思えませんでしたとも。」
 互いに良く知った関係であるのか、このような状況にありながら、二人の間で交わされる会話には何の気負いもなかった。二十年の年月が経ちながらも、クリスはかつての知人の面影を老人から読み取り、ガライもまたかつて出会った少女の顔を憶えていた。
「まさか私の代でこんなことになろうとは、ね。」
「ふむ……。」
 最初から闇の帳による封印が成されるなどとは思ってはいなかった。それでも、このような事態に巻き込まれて尚、取り乱すことも解き放たれた喜びに駆り立てられることもない。
「でも、お陰でようやく私達の一族の本懐が達せられる。」
 自分達が生まれるより先に、血族によって受け継がれてきた宿命。その担い手となることで失ったものへの虚しさを憶えるのも束の間、クリスは実に嬉しそうに微笑んでいた。
 精霊神に仕える本分を尽くした果てに、この上ない形で贈られた至福の悦びを享受している。その顔は恋焦がれる乙女の者とも形容できそうな表情が浮かべられている。

「あなたは……精霊神ルビス?それとも……」

 夢現に身を置くように愉悦の余韻に浸るクリスを前に、レフィルは真っ先に浮かんだ疑問をぶつけていた。
「……少し違うわ。私はクリス、精霊神ルビス様に仕えし巫女。」
 レフィルの声が届くと共に、クリスは嘆息すると共に暫く押し黙り、淡々と答えを返していた。
「巫女?」
「私を封じ込めることによって、そこに宿る精霊神の魂もまた封じられる。それがこの封印なの。ルビス様が降臨されたのも、大魔王の思惑通りということね。」
 大魔王の到来による未曾有の危機を感じてアレフガルドに介入せんと、巫女たるクリスの身体に入り込んだが故に、この封印が成り立っている。この塔の頂きにルビスが封じられていると言う噂は、当たらずとも遠からずと言ったところか。
 封じられた者が代行者たる巫女であっても、神そのものと然したる違いはない様子だった。ただ、ルビスと呼ばれて一度言葉を止めたのは、クリスのルビスへの敬意故の恐れ多さ故のものだった。

「そう。そして、あなた達が私を救い出してくれたおかげで、ようやく解放される。本当にありがとう。」

 偽りない感謝の意をレフィル達へと告げると共に、クリスは背を向けてその場に跪き、天を仰いだ。
「!」
 その時、彼女の身体を白光を帯びた炎が包み込み始めた。

《彼女――クリスは言うなれば、この私の魂を分かち合った分身とも言える存在。》

 白い炎から伝わる温もりは、この世界をかつて照らしていたであろう陽光のように暖かなものに感じられる。辺りが心地良い雰囲気に包まれようとする中で、炎に覆われたクリスの身体に微かな変化が起こっていた。
 亜麻色の髪の赤みが、炎の如き彩りを帯び、その背には纏う光と同じ柔らかな白い翼が現れている。
 クリスが発する声に重ねられるように、別の何者かが語り始めるのを感じられる。

「それが、あなたの正体なの……?クリス、いや……」
《そのとおり。》

 クリスを覆う雰囲気が変わると共に、その言葉の意志の元となる者が別の存在に成り変ったということをレフィルはすぐに察することができた。クリスの身体を拠り所にしているに過ぎないとはいえ、辺りを照らす光の源たる神気はその内から溢れるばかりに発せられている。
《私はルビス、精霊神ルビス。我が子供達、我が伴侶の友としてのあなた方に対し、心から感謝します。》
 いつしかクリスの声が薄れ、レフィル達に伝えんという声なき感謝の言葉が脳裏に直接響き渡る。クリスが内に宿していた古の神の姿形が彼女を寄り代として、その真紅と純白に彩られた姿を現していた。
 アレフガルドを見守りし精霊神――ルビスは慈愛に満ちた表情でレフィル達へと微笑みかけていた。
「すごい……力。」
 自ら神と名乗るだけあり、一目見るだけでおおよそ巫女の身体に収まらぬその存在の大きさを感じ取ることができた。かつて相対した巨獣と化したバラモスでさえも、歯牙にかけぬままに浄化してしまうような華奢な雰囲気に似合わぬ程の清廉で荘厳な雰囲気を纏っている。
「…………。」
「レフィル……。」
 それこそ、レフィルがバラモスを葬り去る寸前まで追い詰めたあの力と近いものを感じることができた。大魔王と精霊神、互いに相反する要素を交えているだけで、どちらも並みの存在に身を許すことなどない人ならざるものであることには変わりはない。
「……だが、これだけでは何も起こらないようだな。」
《大魔王ゾーマがこのアレフガルドの殆どを掌握している今、私の力だけでは彼の者が敷いた理を覆すことは叶いません。》
 存在する力の差があれど、人々を救わんと降臨した精霊神ならば大魔王の力による闇の帳を取り払うことも不可能ではないはずだった。だが、闇の世界と化してからの時間はあまりに長過ぎたのか、この世界を鎖す闇は彼女だけの手に負えるものではなくなっていた。
「……それで、勇者をここに招いた、と言うことか。」
《然様です。ここに至ることができるのは、相応の力と志を持つ者だけでしょう。その者達こそ、勇者に他ならない。》
 先の侵入者がここを訪れたのも、精霊神ルビスの導きによるものだった。大魔王ゾーマに封じられ、徐々に強まる闇の勢力を前にできることと言えば、それに立ち向かう者達に道を開くなけなしの術を与えることしかなかった。
《そして、奇しくも彼らは神に近しき者たる資質を色濃く継いでいた。あなた方が神の武具と呼ぶ品々を操れる程に。》
 多くの者達はルビスの封じられた塔の真偽を確かめるより先に、守り手たる魔物達の手に掛かるかその脅威を恐れて退いて行った。だが、ただ一人、この塔を破壊し尽くす程に暴れ回り、闇の手の者を一掃した男が先に、ルビスの下を訪れていた。呪いを解く術を与えられずとも、彼もまた勇者と呼ぶに相応しい実力を有しているのは明確だった。
――やはり光の鎧は奴が持ち去ったか。
 ルビスの言を拾えば、神の武具を操れるのは自分達だけではないらしい。勇者の盾はともかく、新しく作られたと言っても過言ではない王者の剣さえも共鳴したのは、やはりこの場に光の鎧があったことを示しているように思えた。すなわち、遅れてきた自分達以外で唯一この場に辿りついた“彼”が手に入れた、とも。

「わたし達も、大魔王ゾーマの思惑を――全てを滅ぼそうという意志を阻止するためにこの世界に参りました。それもまた、“勇者の役目”なのでしょうか。」

 神々しいまでの雰囲気を前に重みを感じながらも、不思議とレフィルの心は落ちついていた。そのまま澱みない言葉で、精霊神ルビスに向けてそう語りかけていた。
《はい。それがあなたが進むべき道か否か、今でも迷っているのでしょう?》
 レフィルとムーでも、ホレスでも、ましてガライでもなく、先駆者を呼び掛けたとあれば、ルビスの期待は少なからずそちらに向いていることだろう。ならば、呪いを解く術を得たと言え招かれざる自分達がここを訪れたことに、果たしてどのような意味があるだろう。
 レフィルがそのような小さな葛藤に揺れ動いていることを、精霊神は容易く見抜いていた。

《あの時、あなた達は取り返しのつかない過ちを犯した。そうでしょう?》
「!」

 そしてその元となるものが、今もレフィルの内で大きな傷跡となって残っていることも……。
「何故それを知っているっ!?」
 初めて会いまみえたはずの者に最も忌まわしき事実を告げられたことに、ホレスは激昂せんばかりに声を荒げてルビスへと詰め寄っていた。何者も寄せ付けない光も、いきり立つ彼の前には何の役もなさず、彼は掴みかからんばかりの勢いですぐそばにまで詰め寄っていた。
 今の衝動的な行動を引き起こしたものを表すかのように、ホレスの顔にはこれまでにない焦燥感が浮かんでいた。
《レフィルもまた、選ばれし者だったのです。だからこそ、その辿りし道はすぐに我らの知るところとなる。例え封じられたとしても、それは変わりません。》
 苛立ちを露わにするホレスに全く構わぬ様子で、ルビスは言葉を続けていた。
「…………選ばれし者、だと?」
 一体何者により選ばれたかは知る由もない。だが、その肩書が示す一番重要な所はそこではない。
 既にレフィル自身、竜の女王を初めとする上位の存在や、一部の力ある者達に存在を予見され、庇護や干渉を受けてきた。だが、この精霊神はそれと同じように、否、更に深い意味を知り、レフィルの運命を決定づける要素を持っているように思わされた。
「わたしは……」
 封印から解き放たれたばかりと言うのに、即座にレフィルの置かれた状況を解し、心の奥底に閉ざしていた心の傷に先んじて触れる。そんなこれまでにない事態に、レフィル自身も困惑する他なかった。
《私にあなた方を責める資格はありません。ですが、自分自身を歪めてまで戦い続けることが危険なことであると学んだはずです。》
 生き残るための剣を得るために父の訃報の時より全てを捨てて打ち込んできたつもりだった。だが、そのために己の望みさえも失うこととなることへの恐れは払拭することができずにいた。
「…………。」
《次に己を見失えば、今度こそゾーマに呑み込まれてしまうことでしょう。光を失った貴方に、何ができるというのですか?》
 幾ら力を得ようとも、呵責と激闘による軋轢に押し潰されて、自らの分を上回る領域を望んだその時に、レフィルはゾーマの闇に一度囚われることとなった。魔王すら容易く屠る程の絶大な境地であれば、闇の力さえ躊躇わずに望む程に追い詰められて、今もその影を引いている。
 それが表立った時、次は破滅が待ち受けている。薄々感じていたことではあったが、精霊神たる者に告げられたとあれば、それだけ差し迫った事態であると解するに難くは無かった。
「光を失った?そんなこと誰が――?」
 容赦のない物言いの中に、聞き捨てならない言葉を捉え、ホレスは更に問いたださんとした。が、後ろから緑鱗の手甲が行く手を遮るように彼の前へと伸べられていた。
「レフィ――!?」
「……そうだとしても、今度こそ、わたしは守らなければならない――失いたくないものがあるから……。それが今の私の最後の光かもしれないから、引き下がるわけにはいかない。」
 正面に進み出ながら、竜麟の鎧を纏った少女は精霊神をまっすぐに見据えつつそう答えていた。
 自らの手で守ることが叶わずとも、あのまま自国に閉じこもっていた所でやがて再びゾーマが襲い来ることは見えている。自分を付け狙っていると知れた以上は、これ以上アリアハンへ留まるよりも、ゾーマの下に向かう道を探し、その思惑を止めることこそが、希望への最後の道筋だった。

《それがあなたの覚悟ですか。いいでしょう。》

 にこりともせずとも、後に退けぬ道に自ら足を踏み入れんとする気概を解したのか、ルビスは一度の頷きを返していた。
「これは……」
 その瞬間、ルビスの寄り代たるクリスの胸元から、黄金色の輝きを帯びた小さく円い物が現れて、レフィルの手のひらの中に収まった。
「勇者の盾の紋章……。ラーミア……?」
 それは穢れの一つもない金色のメダル状の護符だった。中心に炎の如き煌めきを有する紅い宝玉が埋め込まれ、不死鳥を模した紋章が刻み込まれている。
「聖なる守りです。」
 神の武具と呼ばれる所以が如何なるものか知れずとも、真の神からの授かり物に刻み込まれた印が伝説の礎と化したことを窺わせるように思わされる。精霊神からの賜り物を感慨深そうに眺めた後に、ガライはそれの囁かれている名を告げていた。

《今の私があなた達にできるせめてものお礼です。それが如何なる結末を生むか、見届けさせていただきましょう。》

 道を進むことを決めたレフィル達に向けて、恩を受けた中でのせめてもの道標。その意味する所は、ルビス当人でさえも見通せない様子だった。
「……結末か。」
 長きに渡る大魔王ゾーマの台頭により、その力は想像を絶する領域にまで広がっている。悲憤と絶望に落ちた迷い子達を拾い上げては、強力な代行者たる闇の手の者として引き込み続けてきた。そして障害となるバラモスすらも利用して、レフィルをも絶望の淵に落として、その影響下に置かんとしている。

 ここまで辿ってきた道を振り返るだけでは、この先に訪れる未来を僅かでも窺い知ることはできない。
 ありとあらゆる全てのものが預かってきた要素より何を思うか。それだけが断ずるところとなる。
 敷かれた道、傾く道。そんな決断を狭める流れが失われたことは幾度もあったが、そのいずれも及ばぬものが、三人の双肩にのしかかろうとしていた。

《或いは再び会うこともあるでしょう。その時は……》

 秘宝を授けた時より、クリスを覆うルビスの神気は少しずつ弱まりつつあった。最早時間がないと知ってのことか、ルビスは別れの意を込めた餞の言葉を告げていた。
「再び、会う……って……?」
 その意を訝しがり、レフィルが思わず問い返した時には既にルビスの声は聞こえなくなっていた。光の残り香だけがクリスの周りを覆い、ルビスの姿も少しずつ薄れていくのが見える。
 真紅に彩られた髪は徐々に亜麻色へと戻り、翼の如き光背も夜に溶けるように消え去っていく。

「行ってしまわれましたか……。」

 クリスが元の姿へと戻ると共にルビスの気配が完全に消え去るのを感じて、ガライは名残惜しそうに天を仰いでいた。
「……ええ。あの方にはまだやるべきことがあるから。」
 それに答えるクリスもまた、仕えるべき精霊神の去り行く様を見送るように、一筋の光差す黒い空を眺めていた。ルビスを身に降ろした後であるからか、微かに疲労を見せている。
「聞きたいことはまだ山とあったんだがな。」
「うん……。」
「精霊神ルビス。一体何を考えている……?」
 仮にも神というこれまでにない超越者と言う視点から自分達に与えた言葉と道。信じる、信じぬ、そのいずれにせよ、その思惑を満足に知れぬままで終わったことに、ホレスは煮え切らぬ気持ちを抱いていた。
 レフィルもまた、全てを見透かしながらも咎を科すこともなく静観するルビスの態度に引っ掛かるものを感じていた。勇者と呼ばれし者がもう一人この場を訪れた中で、自分達に何を望もうというのか。

「!?」

 不意に、抱く憂いの内に沈もうとするレフィルの意識を揺さぶり起こすような激しい振動が一行を襲った。
「な、なに!?今の揺れ!?」
「……塔の礎が壊れたらしいな。」
 突然の揺れに慌てふためくレフィルとムーを支えながら、ホレスは具体的に何が起こったのかを中心部より聞こえる音から察していた。それは塔を支える要となる骨組が軋み、罅を走らせながら一つ一つが砕け散っていく様だった。
「ルビス様の到来によって、塔を構成していた呪いが失われたの。」
「呪いって、この笛……塔ごとあなた達を?」
 妖精の笛より奏でられた旋律は、主を失った悪しき者達の根城の隅々にまで届き、精霊神を封じるために備えられていた機構全てを解いていた。それが中核を成すのであれば、この塔が存在していられる道理は無い。
「ここは崩れる。早く脱出しよう。」
 神器もなく、精霊神を解き放った今、崩れ逝く塔に長居をする理由など最早ない。
「ルーラ」
 揺れに揉まれる中で一つに集まった所で、ムーがルーラの呪文を唱える。
 次の瞬間には、崩れ落ちる塔の床の上には既に何者の気配も消え失せていた。崩れ落ちる塔を看取る蠢く者達もまたその様を目にして、恐怖とも歓喜ともつかぬ叫びを上げながら解き放たれたようにこの場から遠ざかって行った。

――これで、三つ。全部揃った……。

 太陽と雨雲、そして精霊の寵愛。虹の架け橋へと連なる道を開く鍵が全て手の内にある。そして、最後の神の武具の所在もおおよそ知れる所となった。それぞれの秘宝が醸し出す雰囲気は、決して紛い物では出せぬものだった。
 だが、これが在るべき場所に還る先に何が降りかかるかが分からない。大魔王、精霊神、そして“勇者”と人々。全ての道が絡み合う中で、如何なる岐路が待ち受けているだろうか。

 定められし流れを行く先は、未だ照らし出されてはいない…………。

(第三十五章 預けられし定め 完)

《第七部 苦渋の果てに 完》