預けられし定め 第五話



 マイラ北西に位置するかつての聖地を擁する半島。その上空から幾筋もの雷が降り注ぎ、地を穿つ音と雷鳴を轟かせる。半島の最上部にそびえる精霊神を封じたとされる塔が、一瞬だけその影を見せた。
 招来された雷撃に狙い澄まされたように幾度も打ち貫かれて、夜よりも更に深い闇を纏う巨大な気配が、薄れるようにして消え失せていく。

「あーあーあー、せっかく興が乗ってきたってのに、あっさりと逃げやがって。」

 今しがた放った一撃を境に先程まで闘っていた相手が何も言わぬままに引き上げたのを感じて、サイアスは実に興醒めした様子でそう言葉を零していた。
 携える黄金の大剣が下ろされると共にそれに帯びていた雷光が弾け飛ぶように消え失せていく。剣を収める中でいつしか吹き荒れていた嵐は止み、天を覆っていた雷雲もまた静かに消えていた。
「まぁいいか。残りは雑魚ばかりだからよ。軽く掃除しといてやるか。どうせゾーマの野郎と殺り合うまでやることもねぇしな。」
 キングヒドラが立ち去って尚も敵意を残す闇の手の者もいたが、もはやその力は高が知れていた。理さえも覆す程の相手を退ける程の脅威を前に、極限まで飢えた魔物達もまたその多くが恐怖に耐えられずに再び闇の中へと逃げ去ろうとしていた。
「ハッ、逃がすかよ。」
 が、サイアスがそれを鼻で笑うように言い放つと共に、彼らの眼前に落ちた雷が地を穿ち、思わず立ち竦んだ次の瞬間には、彼ら自身が貫かれていた。四方八方へと散って行ったにも関わらずその多くが一瞬で葬り去られ、辛うじて生き延びて這いずり回る者もやがて、再び引き抜かれた黄金の大剣によってその命を断ち切られることとなった。

「てめえらが齎した闇の代価は高ぇぜ。覚悟しとくんだな。」

 強者と戦う愉悦を憶えながらも、如何なる弱者であれ大魔王の手先に対してかける情けもない。そして、それが己を守るためだとて人々の脅威となる存在であれば容赦なく斬り捨てる。
 そのような残酷ながらも直向きに正義を掲げる若き英雄は、将を失って恐慌に陥った敵を嘲笑うように見下していた。




 遥か遠くから眺めたならば、黒い濃霧とも見紛う程に群がる蠢く者共。だが、彼らの中心を一筋の小さな稲妻が衝いたその瞬間から全てが変わり始めた。
 いつしか魔物の中心に、蒼い鎧を纏った一人の戦士が降り立っている。背負った黄金の剣を振りかざすと共に、上空に立ち込める雷雲が呼び起される。幾条もの雷がその周りに降り注ぐのに身構える間もなく、魔物達はなすすべもなく次々と焼き尽くされて、瞬く間に消し炭と化していった。

「おっかねえ奴が出やがったもんだぜ。」

 巨獣の断末魔さえも轟く雷鳴が尽く掻き消していく。その凄絶な光景を高みから見下ろしながら、男はそう口に出していた。
 筋骨隆々と言える程の体躯はなくとも、漆黒の道着の隙間から覗かせるその体は、武術家として鍛え抜かれたことが一目見て窺える。やり場に困ったように黒い短髪の頭を掻いている手からは、微かに血の匂いが漂っていた。
「大蛇のダンナでさえもあのザマかよ……。なぁ、バロンさんよ。」
 突如として下で起こった襲撃の成り行きを見守り始めてからそう時間も経たぬ内に、彼ら魔物を束ねる将が闖入者と一戦交えることとなった。大魔王より直に力を与えられた魔王――キングヒドラ。だが、その力を以ってしても、勇者を名乗るあの者を退けることはできずに終わった。
「これが聖なる者の末裔が持てる光の力ですか。もはや末恐ろしいという段階ではありませんね。」
 不利と見てか、キングヒドラがこの場を離脱すると共に天に遍く雷雲が消えるのも束の間、持て余した光の力の矛先は、生き延びていた魔物や闇の手の者達へと向かった。
 この塔に要らぬ闖入者を排するために呼び寄せられた彼らも、勇者を名乗るあの男一人の手にかかり、その殆どが屍と化していた。人の本来持ち得る分を遥かに逸したあの力を、バロンは素直に脅威と認めていた。
「んな事言ってる場合かよ。このままじゃあ奴は更にヤバいモンを手に入れてしまうかもしれねぇぜ。」
「ええ、この塔には忌むべきモノが封じられていますからね。とはいえ、我々にそれを阻む力がないのは百も承知でしょう。」
 多くの手下達を呼び寄せてまで人間達より遠ざけたかったものが、ここに数多くある。だが、それを守ろうにも今は相手がこれまでと比べてあまりに強大過ぎた。並みの使い手では今しがた葬り去られた者達と同じ運命を辿ることとなるだろう。
 そして、キングヒドラが退けられた今、彼の者が自分達が戦って無事に済む相手ではないと、バロン達もまた強く思い知らされた。その現状を鑑みて、悪戯に手を出す愚を冒すこともなく、今の今まで静観を決め込んでいた。
「もっとも、それを手にしたところで大局が覆るとも思えませんがね。」
 だが、眼下に繰り広げられる一方的な殺戮を目にしても、彼らの目にその力の差に対する諦観はなかった。闇の手の者に立ち向かうために勇者たるものが理を逸する程の力をつけてくるであろうことは既に予想がついていた。
「あなたもゾーマ様の力の一端を得たのであれば分かるでしょう、凶拳のバナン。」
 そしてそれを間近に目にして、それが大魔王ゾーマには遠く及ばぬものと確信することができた。それを確かめるかの如く、バロンは彼に――ゾーマの加護を受けた新たな同志に向けてそう語りかけていた。
「だな。あのいけすかねえ面をグチャグチャにしてやりてぇぜ。大蛇のダンナの手を煩わせるまでもなく、な。」
「それは頼もしい限りです。彼奴の思い上がりを正せるのは、或いはあなたなのかもしれませんね。」
 いつからか凶拳の肩書を背負うこととなった拳術の達人――バナン。この闇の世界の混乱に乗じて秩序を更に乱そうと殺戮を繰り返してきたがために、囚われの身となった男だった。今は偽善を掲げて勇者などと名乗る輩に向けて、彼は喜びにも似た衝動的な怒りの念を露わにしている。
 目指すべきものは異なれど、本質的には力を以って弱き者を捩じ伏せることを悦びとしている。あの勇者の戦いを見ていてバロンは彼と似たものを感じていた。結局は同じ結論に至る勇者と暴徒が会いまみえた時、果たしてどのような光景が見られるだろうか。
 
「力に溺れる者は力によって滅ぼされるが道理。」

 やがて来るであろう戦いの時に向けた意気込みを見せるバナンの後ろから、それを諌めるように少女の声が聞こえてきた。呪文による灯明――レミ―ラの光の奥から、紫の長髪を靡かせる小柄な少女が現れる。
 闇の衣そのものを体現したかのような漆黒の外套の下には、同じく闇に身を隠すかのように黒いワンピースを纏っている。手袋や靴もまた黒い意匠で統一されている中で、それらの衣から覗かせる柔肌は穢れの一つも知らぬように白い。血の気が引いたとは程遠くも、彼女の表情に浮かぶ絶望はここにいる他の二人とは比にならぬ程に暗いものだった。
「ああ、嫌という程染みついてるぜ。」
 冷たささえ感じる抑揚で告げられた彼女の言葉に、バナンはいきり立つわけでもなくすかさずそう返していた。
「所詮今の俺は大魔王サマの人形に過ぎねえワケだからなァ。あの“小娘”と違ってな。」
 バナンが如何に傲慢であろうとしても、大魔王ゾーマの力があってこそ今この場にいられることを忘れられるはずもなかった。その力を恐れられてバラモスに葬られたとされるバロンを初め、少なからず腕に覚えのある者達を手元に置いている。その器もさることながら、自分たちに与えられている圧倒的な力を主たる者が持っていないはずもない。
「あの娘は特別でしょう?あの力があれば、彼女ならば魔王相手でも簡単に葬り去れるぐらいだから。」
「けっ、大魔王サマとあろう方が、一体あんななよっちいガキの何処を気に入ったんだかなぁ。」
 そして、そのゾーマが本当に目を掛けている者の存在もいつからか知ることとなった。魔王の眷属と呼ぶに相応しい者とするために与えられる“闇の衣”。だが、“彼女”に宿されたその魔王を屠れるまでの力は文字通り次元が違うものとだった。
「あなたにしては利口ね。」
「言ってろ。それはてめぇも同じことだろうが、サファラ。結局俺らは、大魔王サマの威を借ってるだけだか、いつもほざいてるだろうが。」
 なまじ高みに引き上げられてしまったからこそ、上には上がいると知らしめられることとなった。力無き者に嫌気が差して彼らに牙を剥く程に力を終始信奉してきた彼も、大魔王を前には取るに足らぬ存在でしかない。そして、これまで自分と同じように誘われた者達についてもそれは変わらない。その現状を受け入れたか諦観したのかバナンは終始冷静でいた。
「そうね。いくら相手があの男でも、やっぱりあれ程のものであれば簡単には覆らないかしら。」
 挑発するように皮肉を返されて、サファラと呼ばれた少女もまたその意味を改めて思い浮かべていた。瞬時に闇の手の者達を葬り去った彼が、果たしてその力を以って大魔王を滅ぼすことができるだろうか。或いは……
「いずれにせよ、今の我らには見守る他ありません。彼があの方の下に辿りつく資格があるか否かを。」
 今も尚魔物の群れを残らず根絶せんとする彼と戦った所で余計な痛手を負うだけでしかない。彼の力の程を見る気はあってもその目的を阻む気は毛頭ない。

「そして、“彼女”を我らの……」

 不意に、断末魔の叫びと雷鳴が響き渡る中で、バロンは一言そう零していた。その視線は、闇の手の者を殺戮し続ける勇者の来た道の遥か遠くへと向けられている。
 既にここを襲い来た光の手の者は外にはなく、闇に覆われたこの塔の内へと進入している。その剣戟がこの場に届くより先に、三人の闇の使徒達は溶けるようにしてこの場から姿を消していた。





 魔の者の手に落ちたはずの塔への道はあまりに静かで、滅びの匂いの立ち込める凄惨なものだった。
 遥か高くにまで続くとさえ錯覚させる聖地への参道――大理石の階段。その道の所々より上がる黒い煙からは焼け焦げた匂いが漂っている。

「既に先客がいたようだな。」

 敵の根城であったはずが既に殲滅され尽くしている。その事実の元となったのは、同じく闇の手の者と対立する第三者の存在であると、ホレスはすぐに察していた。
「かなり派手に暴れたみたい。」
「ああ。さっきの暴風や雷もそいつの仕業だな……。」
 今は既に止んでいるが、この光景の入口に差しかかった時から雷雨を伴った嵐が吹き荒れていた。それは闇に覆われてから何もかもが止まろうとしているアレフガルドにおいて異常な光景だった。
「雷……。」
 アレフガルドが闇に閉ざされてから長い間、誰も踏み入らせることもなかったはずの地が、何者の気配も感じさせず静まり返っている。この場に残っているのは焼き尽くされた魔物の死骸と灰燼だけだった。
 先程の嵐を呼び起し、雷を呼び寄せて群がる魔物達を焼き払い、それを生き延びて牙を剥こうとした者も刃の餌食となったのか引きちぎられたかのように両断されている。そのようなことができる存在がいるとすれば……
「近くにいるのか?」
 そして、道の遥か上にまで同じような光景が続いていることが意味するものの一つを、ホレスはすぐに解していた。
 この魔物達が屠られてから然程の時間は経っていない。或いはその者も塔に向かっているのだろうか。

「気をつけろ!何か来るぞ!!」

 不意に、これまで感じなかった気配が迫ってくるのを察して、ホレスは皆に注意を呼び掛けた。
「まだ生き残りが……」
 深く傷つきながらも、あの凄絶なまでの情景を引き起こした雷の嵐の中を生き抜いて、今も尚牙を剥かんとしている。
「ラゴンヌ……!」
 ムーは突如として現れたその敵に見覚えがあった。魔王バラモスが自分を――正確には賢者メドラの力を狙って来襲してきた際に伴ってきた配下。ライオンヘッドを初めとする有翼の獅子達の中でも最上位に位置する灰色の魔獣、ラゴンヌ。
 ドラゴラムで竜と化したムーと互角の立ち回りを繰り広げて見せたあの怪物と同種の敵が、眼前に立ちはだかっている。バラモスの下にいたそれとは比較にならず、かつ既に瀕死の状態であるにも関わらず、その殺気は辺りの魔物の比ではなかった。

「メラゾーマ」

 ラゴンヌが飛びかからんとしたその瞬間に、ムーの呪文がぽつりと唱えられた。彼女の頭上に現れた巨大な火球がラゴンヌへと飛来してそれを呑み込む火柱と化す。
「!」
 だが次の瞬間、咆哮と共にメラゾーマの火柱が真っ二つに裂けて、その間から有翼の獅子がまっすぐにこちらをねめつけているのが見えた。
「……弾かれた?」
 一思いに葬ってやろうと放った呪文が防がれたことに、ムーは微かに目を細めていた。
 万全の状態ならばまだしも、雷に打たれて手負いの身である今、最上級の呪文であるメラゾーマを防ぐ力など残されてはいないはずだった。
『貴様らに封印を解かせるわけにはいかぬ……。』
「封印……やはりあるのか。」
 既に限界を超えているはずのラゴンヌをここまで駆り立てているものの正体を聞いて、ホレスはようやくその存在に僅かにでも納得していた。
「精霊神ルビス様は……この先に?」
 旅の中で確証の一つも得られず、絵空事でしかないと思っていた“神”の存在。それが如何なるものなのかは未だ知る由もないが、そう呼ばれる者があの塔の頂にいることだけは分かった。
 やはりゾーマの僕達が建てたあの塔の中には何かがある。嫌な予感が過ぎる中でも、足を止めてはならない。

『その忌まわしき品諸共、打ち砕いてくれる……!』

 そう思い至ったその時、ラゴンヌはレフィルを噛み砕かんと大きな顎門を開きながら飛びかかった。
「レフィル!」
 ラゴンヌがレフィルへと矛先を定めたとすぐに察して、ホレスは彼女へと呼びかけた。
 言われるまでもなく、レフィルは既に左手に取ったオーガシールドを前面に掲げながら身構えていた。そのままラゴンヌの牙が盾を喰らい砕こうと突き立てられて、甲高い音を撒き散らす。

『!?』

 だが、その巨体ごとぶつかったにも関わらず、ラゴンヌはレフィルの左手の盾一つだけで受け止められていた。
「…………結局、こうなっちゃうんだ。」
 無表情に呟きながら左腰に携えた剣へと手をかける少女の姿が、ラゴンヌの瞳に映る。微かな悲しみが言葉に乗せられていることを満足に感じる暇もなく、そのまま押し返されていく。
 そして、こちらが体勢を立て直すより先に、彼女は剣を引き抜きながら、一気に間合いを詰めて、物言わぬままに振り下ろす。
『これが、“王者の剣”か……。』
 そのまま油断なく構え直しつつ差し向けられる切っ先を、ラゴンヌは静かに見つめていた。両刃の長剣としての形を突き詰めた美しい刀身と裏腹に、鋼鉄製の鍔を持つ武骨な柄。そのような不釣り合いな作りでありながらも、今の彼女を最もよく合わせられた匠の技が込められている。
『だが、この程度でゾーマ様を……』
 程なくして、ラゴンヌの体がレフィルが斬り下ろした剣の軌跡に沿って縦に二つに裂かれた。
 徐々に崩れ落ち始める己の体を省みることもなく、レフィルを哀れむように一言を遺すと、有翼の獅子はそのまま絶命し、闇の塵と化して消えていった。
「あなたは何を知っているの……?」
 消え逝くラゴンヌが向けた悲しげな双眸から、レフィルは目を離すことができなかった。その答えを知る術はなく、見事なまでの剣の力に惚れ込むこともできずにいつしか誰もいなくなった虚空を仰ぐ他なかった。
「レフィル、大丈夫か?」
「……ええ、問題ないわ。」
 虚しさの中で佇む中で呼びかけられて、レフィルはホレスへ向き直りながら王者の剣を左腰の鞘へと収めた。
「しかし……恐ろしい剣だな。」
「そうね……」
 手負いとは言え、あれ程巨大な魔物を一撃の下に仕留められるだけの力を与えたのは、今レフィルが操った新たな王者の剣の力に他ならなかった。
「……これでも最高の出来じゃない?」
 だが、それではかつてのそれに比して何かが足りない。ラゴンヌは最期にそう訴えかけているように思わされた。
「一体何なんだ?この剣は…」
 練達した二人の鍛冶師によって最高の形に仕立てられ、使い手の技量もそれを扱うに足りている。レフィル自身の剣技も幾分磨く余地こそあれ、それ以上に剣自身の力が不完全であるとしても奇妙な話だった。
 だが、対になるようにして右腰に佩かれている吹雪の剣の方が、彼女の力を最大限に引き出していると言っても過言ではない。純粋な剣の性能以外に、他を逸するだけのものが果たして蘇った王者の剣にあるかと言えば、疑問に思わざるを得なかった。



 それから暫く歩く中で、魔物の襲撃などに遭うこともなく、レフィル達は塔の入り口にまで差しかかっていた。
 尽く焼き払われた魔物や闇の手の者の群れの亡骸が原形を留めぬまま横たわり、灰が吹き上げられる風によって霧のように漂う。そのような道を抜けた先に、巨大な爪痕や灼熱の炎が地を焼き固めた跡が真新しく見える。
 それだけで、入口を守っていた魔物と、あの嵐を引き起こした闖入者との激しい戦いを垣間見ることができた。

「ようやく着きましたな。」

 その激戦の跡の奥に、闇に溶けるかのような石造りの塔がそびえ立っていた。かつての神殿は廃墟と化して、礎の如く塔の麓に礎の如く踏み躙られている。
 頂きに精霊神が封じられているがために、人々の間では既に“ルビスの塔”と呼ばれている場だった。魔物によって建てられた塔と知りながらも、そのような名が広まっているのは皮肉とも言えるだろうか。
「だが、思ったより早く辿りつけたか。」
 防人としていたはずの大魔王の手の者達は、先行者の手によって葬り去られたのか、先のラゴンヌを最後に未だその姿を現さない。魔物の巣窟であったとは思えない、不気味な静寂が辺りを包みこんでいた。
「うむ、思わぬ助けであったな。」
 先程まみえたような強力な力を持つ者達にはガライの銀の竪琴も通じない。聖地を封じるために集められた敵の数とて、尋常ではないはずだった。それを陽動するわけでも、目をごまかして潜入するでもなく、真正面から殲滅して見せたのは一体何者だろうか。
 いずれにせよ、それがなければこれ程早く塔に辿りつくことはできなかっただろう。

 要塞の如く入り組んだ構成を少しずつ紐解きながら塔の中を進んでいくと、巨大な吹き抜けのある階層へと突き当たった。
 吹き抜けによって隔てられた場同士を東西南北に繋ぎとめるように、十字状の渡り廊下が見える。北側――正面に渡った先に見えるのは、砕け散った木片と鉄の枠の残骸だけだった。闇の手の者が神殿から掠め取ったものか、或いはその計画のために安置していたのか。いずれにせよ、今あの場にあったはずの宝物は全て奪い去られた後だと窺い知れた。

「……ねえ、あれって何?」

 道の一端を指差して、ムーはホレスにそう尋ねていた。
「妙なタイルだな。」
「何だか危なっかしい。」
「魔法の産物、か?」
 渡り廊下の床には、白と黒の三角形を繋ぎ合わせたひし形の紋様が刻まれた大きなタイルが敷き詰められていた。見た限りでは侵入者を拒む直接的な罠の類は見受けられず、また、床自体も何の変哲もない仕掛けで、通行者を害するような結界の類でもないと察することができた。
 それでも、その紋様から感じる違和感は払拭できず、その先に足を踏み入れることには迷いを憶えるばかりだった。

「まずは俺が行ってみよう。異常がなさそうならば付いてきてくれ。」

 不安が残る中で、ホレスは皆にそう告げつつ、床の一つに足を踏み入れていた。
「こけおどし?」
「………特に何ともないみたいね。」
 一歩ずつ慎重に踏み出し続けた末に、果たして彼は紋様の床を隔てた渡り廊下の中心の分岐点に辿りついていた。その間に特に罠が起動した様子もなく、ムーはただ首を傾げ、レフィルは安堵の溜息を零していた。
「じゃあ、わたし達も……」
 急く心に任せてホレスに続かんと、レフィルもすぐに紋様の床へと足を進めた。かなり細い道ではあったが、そのまま前に足を踏みだし続けていけば然程問題ではないはずだった。だが……

「……!待て!」
「え?…って、わっ…!?」

 ホレスが何かに気付いたように突如として訴えかけるのを耳にすると共に、レフィルは足元を見て驚きの声を上げた。
――う、嘘!?勝手に曲がってる!?
 目の前には床の淵と、その先に続く吹き抜けがあった。気付いたのも既に遅く、勢い余って足を踏み外して、体が急に前に傾いでいく……

「レフィル!」
「きゃっ!!」

 そのまま落下してしまうと思った直前、反射的に駆けつけたホレスに体ごとぶつかり、最初の位置へと突き飛ばされた。引き戻す暇もない形振り構わぬ手段に対応できず、レフィルはバランスを崩して床へと倒れ込んだ。
「い……いたたた…………ま、また頭打っちゃった……。」
 ゆっくりと起き上がりながらレフィルは鈍い痛みに表情を歪めていた。白銀のサークレットに守られて大きな怪我はなかったものの、毎回転ぶ度に打ち所が悪いことを軽く嘆いているようにも見えた。
「……悪かった。大丈夫か?」
「え、ええ……助かったわ、ありがとう……」
 咄嗟のこととはいえ、もう少し丁寧に助ける手段は幾つもあったかもしれない。それを取らなかったことを謝りながら、ホレスはレフィルへと手を差し伸べて助け起こした。
 苦笑いと共に感謝を告げながら立ち上がるレフィルの竜麟の鎧が擦れ合い、重苦しい響きを奏でる。このような重い鎧を着こなし、大きな剣と盾を用いて魔の者と戦うには、あの時目にした彼女の体はあまりに華奢だと思い起こされた。
「でも、これはどうなってるの……?向きが、変わったみたいだけれど……」
 次の紋様の床に足を踏み入れた次の瞬間、右側にあったはずの下層への穴へと踏み外していた。侵入者を跳ね除ける力はなくとも、行く先を狂わすことで破滅へと追い落とす、そんな思惑の込められた罠……
「そうだな……こうしてみると分かるかもしれない。」
 大方何が起こったかは察した様子だったが、まだ満足に分からない様子で首を傾げるレフィルを一瞥してそう告げながら、ホレスはフック付きのロープを取り出して投げ放った。弛んでいたロープが、投げられたフックによって正面に引かれていく。
「あ、あれ……?」
 その先端が紋様の境目に達したその時、レフィルは目を見張りながら思わず間の抜けた声を上げていた。
「変な所からロープが出てきた。」
「どうやらこの床に刻まれた魔法陣が空間を升目単位で歪めているらしいな。」
「升目って、この模様一つ一つのことよね?じゃあ、一つ進む毎に気をつけなきゃだめってこと?」
 フックが勢いを失うと共に、それに引かれたロープもまた床に落ちていく。だが、道を隔てた向こう岸に向けて投げ放たれたはずの先端のフックは、そこには存在していなかった。ロープは一つめの紋様の奥で途切れ、代わりにその右にフックのついたロープが垂れ下がっていた。
 ロープの軌道が右側に逸れたことから、こうしてようやく何が起こったのかを視認することができた。
「でも、ホレスはどうして大丈夫だったの?」
「今の俺にはこの類の魔法による仕掛けは通じないからな。迂闊だったか。」
「あなたの周りが魔法による干渉を拒んでいる、多分だけど。」
「……あいにく俺にもまだよく分かっていないが、そう考えてもよさそうだな。」
 先に渡ったホレスに対してはこの罠が何ら役目を果たさなかったことに、レフィルもムーも疑問を抱いていた。刻まれた紋様の他に、何も仕掛けもない魔法の罠を掻き消したのは、その大元を受け付けぬものがあったからだろう。
 雨の祠で再会してから、強敵との戦いの中で呪文による攻撃を跳ね除ける力を目にしてきたが、これも或いはその一端なのだろうか。
「とにかくこいつは、進む先を右90度に歪めるものらしい。……奥にあるもう一種類も、似たようなものだろう。」
「だったら右か左に進んでいればとりあえず落ちることはない。」
 ロープの曲がった向きから見て、それがどのような仕掛けであるかはっきりした。ホレスの言葉に頷きながら、ムーは紋様の床に足を踏み入れつつ、澱みの一つも感じさせない様子で続けていた。
 丁度直角に曲がると言うのであれば、縦と横が入れ替わる――つまりは進む先である縦に向かうためには横方向に動いてみることで感覚を掴んでいけばいい。

「たぶんだけど。」
「こ、怖いよそれ……」

 そのように言い放った後に首を傾げながらぽつりとつぶやいた言葉に、レフィルは思わず不安を露わにしていた。
 そんな彼女を尻目に、ムーはおもむろに先程レフィルが落ちそうになった右方向へと向き、一思いに飛び込む。
「わっ……!?」
 次の瞬間、穴に飛び込んだ勢いのまま、ムーはレフィルの傍らに一足で踏みこんでいた。
「ほら、この通り。」
「う、うん……」
 落ちぬと分かっているとはいえ、一思いに穴へと身を投じてみせる恐れ知らずな様を前に、レフィルは何を言えば良いか分からなかった。無表情ながらも何処か勝ち誇ったように胸を張った後に、ムーは再び紋様の通路に足を進めていた。左に右に、時にはそのまま前へ行きつつ、あたかも遊んでいるかのように、通路の上を歩き回っていた。


「……!!ムー!上だ!」
「!!?」


 だが、不意にホレスが有無を言わさぬ剣幕で注意を促すと共に、ムーは上方から迫る巨大な火球を目にしていた。
――メラゾーマ!?
 塔に巣食う大魔王の手下達は既に殲滅され尽くしたはずだった。それが今になって急襲を仕掛けてくることなど予想もできず、反撃する間もなかった。
 程なくしてメラゾーマの火球が紋様の床へと落ちて砕け、巨大な火柱を上げる。


「ほう、短時間でこの床を自在に渡り歩こうとは。流石と言っておきましょう。」
「!?」


 不意に、レフィルの背後から冷静な抑揚で己の驚嘆を語る男の声が聞こえてきた。その視線は、今しがた巻き起こされた火柱でもレフィル達にでもなく、吹き抜けの中心にある通路の繋ぎ目へと向けられていた。
「誰?」
 そこには先程狙い撃たれたムーの姿があった。初めて目にした魔法の床の性質を理性と本能の両方で解して、普段と違わぬ身のこなしで交わしてのけたことが、敵の目を惹く所だったのだろう。
 男の言葉に何の感慨も憶えていないのか、ムーはただ僅かに目を細めつつ、突然襲いかかって来た敵へ尋ねる言葉と共に冷たい眼差しを向けていた。
「よりによってこんな時に……いや、こんな時だからこそか!」
 この機を狙ってずっと息を潜めていたのか、呪文が唱えられるその時までホレスもその気配を感じることができなかった。紋様の床という進行を妨げる罠に差しかかった所で狙うことは、狡猾であってもそれだけ合理的とも言える。
 その可能性に対する警戒に重きを置かなかった迂闊さと、現れた敵の厄介さに対する苛立ちを禁じ得ず、思わず声を荒げずにはいられなかった。

「私はゾーマ様に仕えし将が一人――バラモスブロス。名をバロンと申します。」

 いつしか闇の中から蒼い外套を纏い、炎を模ったような形をした真紅の長剣を携えた黒髪の騎士が歩み出て、レフィル達の前に姿を現していた。

「バラモス…!?」

 丁寧な仕草で名乗り出る様とは裏腹に伝わってくるものに、レフィルは憶えがあった。それは世界を滅びへと誘わんとした魔王バラモスが持つ、全てを押し潰すかのような威圧感に他ならなかった。