預けられし定め 第三話



 マイラの村の最果ての大樹の膝元に建てられている、小さな白い祭壇とその最奥に佇む美しい女性の像。長きに渡って風雨に晒される中で幾分削り取られて苔生しながらも、心が込められている程に作り込まれている。
 それは、この世界で奉られている神を模ったとされる像に他ならなかった。信奉すべき対象としての姿は、決して初めて見たものなどではない。

<ルビス様のお声は、この世界が闇の帳に包まれたその時より届かなくなりました。>

 その物言わぬ石像から、何かを訴えかけるな意思がここを訪れた者に向けられる。葉が微かにざわめくだけで、辺りは静まり返っている。
「そして、お前さんもまた存在を封じられた。そうだろ?」
 心に直接問いかけてくるような、そんな声なき呼び掛けへと、彼は驚いた様子を見せずに即座に言葉を続けていた。
<はい。ここにいるのはあなたに助けを求めるために、そしてあなたの助けとなるために、最後に残した魂の欠片に過ぎません。>
「よく、耐えてきたな。お前も、お前の母さんも。」
 朽ちかけた石像に纏わっている気配は、模られた女神の縁ある者であると既に聞かされていた。厄が降りかかった実体から切り離されて、何者にも見届けられることもなく、彼女は長い時を孤独の内で過ごしてきた。この声を聞き届けることのできる者が現れるその時まで。
 神に仕えし者に相応しい純粋で清廉な娘の健気な思いに心を打たれて、彼もまたその言葉通りの過酷な中にある彼女を偽りない気持ちで労わっていた。
「だが、安心しろ。俺様は元から闇を残らず根絶するために戦う勇者サマだ。必ずゾーマをぶっ潰してお前を救いだしてやるよ。」
 そして、その根源となっている大魔王――ゾーマを排する思いを新たにするように、娘へと真っすぐにそう告げていた。魔の者達と戦いを繰り広げるために自らを鍛え抜くことを怠らず、悪を討つ志を高め続けてきた。
 自分でもいい加減に生きていることを自覚している中でも、魔王を倒す勇者としての力と心に妥協を許したつもりはない。それが彼なりの生き方だった。

<ルビス様はいつも、あなた方についていつも楽しそうに仰ってました。そのお気持ち、今になってようやく分かった気がしますわ。>

 如何なる経緯があろうとも、大魔王に対して正面切って挑もうとする愚行をも恐れぬ本質的な剛胆さ。それと似たものを知っている様子で、娘は彼に語りかけていた。
「へっ、うれしいこと言ってくれるじゃねぇか。俺様は至って好き勝手やってきただけだったが、分かる奴には分かるんだなぁ、オイ。」
 それが真実かは定かでなくとも、精霊神ルビスに近しい者がそう述べていると言えば悪い気はしない。仮にも勇者を志して生きてきた身として、神と称えられし者に目をかけられているとすれば、それは如何なる恩寵にも勝る栄光と言えるものなのかもしれない。
 
<お待ちしていますから……。あなたならきっと……>
「ああ、必ずな。」

 いつしか女神像からの気配も徐々に薄れていく中で消え入ろうとしている。その最後の言葉に不敵な笑みを浮かべながら応えてみせた彼を見て安心したように、彼女は微笑みを浮かべている――そんな雰囲気を残していた。












 星一つ瞬かぬ漆黒の夜空に向かい、暖かに立ち上る白い湯気が視界を覆う中で、微かな水のせせらぎが奏でられる。その流れ着く先にあったのは、暖かな湯を湛えた泉だった。


――ま、ゆっくり休んでいきねぇ。慣れない世界での長旅で大分疲れてるだろうからな。


「…………。」
 マイラにある幾つもの温泉の内の一つを利用したカフウの宿の露天浴場。その内に身を委ねる中で、ホレスはカフウの言葉を思い出していた。
 王者の剣と称された剣の欠片を預けた後にその修繕の作業を行うには、暫しの時間がかかる。その完成を待つ間、心身共に休めることを勧められるままに、彼は一時の休息を取ることを選んでいた。
――これが最初で最後かもな。
 アレフガルドに足を踏み入れてから、思えばレフィルもムーも差し迫る状況下でまとまった安息の時を過ごすことはなかった。そのような中で、伝説の品を蘇らせるというカフウ達の試みを待つこととなり、期せずして落ちつく時を得ることとなった。
 そして、その結果が出たときこそ、目的を成すための機は熟す。正真正銘の最後の旅の始まりとなると見ていいだろう。英気を養うと共に、万全を期した備えを成すことこそが今すべきことだった。

「……ったく、酷いことになったな……。」

 その最中で遭った災厄を前にして、彼はただただ疲れ果てたように嘆息していた。


 それはほんの少し前のことだった。
 肩まで湯に浸かって静かに佇む中で、不意に近くで何かが水の中に潜り込む音が聞こえた。

――おい待て、何故こっちに……

 それだけで、彼は何が起こったかをおおよそ察することができた。広々と取られた石の浴槽をものともせずに、魚の如く縦横無尽に駆け巡っている者の気配を感じながら、半ば苛立った様子で心中で毒づく。
「……なっ!?」
 その瞬間、気配の主の動きが急に早まると共に背後に回るのを感じると同時に、突如として水面下から現れた小さな手に掴まれる。予想を超えた速さを前に身構えも意味をなさず、凄まじい力で温泉の内へと引きずり込まれた。
――な、な、何の冗談だ!!?
 振りほどくことも叶わず、人ならざる程の物凄い勢いで泳ぐ“彼女”に引きずられるまま、これ以上なす術がない。
 急流の如く温泉の水が煽り立てる中でもはや彼は冷静でいられず、次から次へと沸き上がるような疑問の内で抗う暇さえなかった。

「え、えええええええええっ!!?」

 幾度も温泉の底にぶつかり続けた末にようやく止まったと思ったその時、もう一人の少女の絶叫が水を介してホレスの耳に届いていた。


 水しぶきが上がると共に、いつの間にかいなくなっていた友人が現れる。その傍らで浮かぶ影を見て、レフィルはこの上なく混乱していた。
――ど、どうしてここに!?
 白銀の髪が水母のように水面に揺らめき、自分達の持って生まれた性とは違う痩躯の体も力なく水の流れのままに静かに浮かんでいる。心の準備もままならぬままに羞恥からまともに目視もできない中でも、連れ込まれた男が彼であることはすぐに分かった。
「連れてきた。」
「そういう問題じゃ……!?」
 一体何を思ってホレスをここにつれてきたのか。胸を張りながら誇らしげに告げるムーに思わず問いただそうとしたその時、横でゆらりと身を起こす音が聞こえた。
「…………。」
「ホレス……?」
 水を吸いつくした前髪と滴る水によって目元を窺わせず、何一つ物言わぬままゆっくりと振り返る。その視線が向けられる先は、レフィルの方に自慢げな様子を見せるムーの小さな背中だった。
『ムー……』
 そして、竜や魔獣の唸りにも似た、普段にも増した低い声で彼女へと呼びかけていた。
「……?!?」
 それに気づいて振り返る。……が、視線を交わした瞬間、ムーは驚愕に目を見開くと共に思わず肩を竦めていた。
「ら、羅刹……?」
 これまで見たこともないような怒気を孕んだ視線を向けられて、先程までの天真爛漫な高揚感が引き潮の如く失せていく。彼女がなしたことを厳しく咎めんと言う思惑と悪戯心の欠片もない底知れぬ激怒を見て、蛇に睨まれた蛙の如く震えて動けなかった。

――凄く、怒ってる……!?

 今にも頭を抱えんという様子で驚き留まっているムーに詰め寄らんばかりのホレスの雰囲気を見て、レフィルは愕然とした。先程のムーの無茶振りに対して堪忍袋の緒が切れたのは分かったが、このような怒り方をする彼を見るのは初めてだった。少なくとも友に降りかかる理不尽を真っ向から否定せんとするが故のものではなかった。

「ま、待って!ホレス!」

 ムー自身のかつてと変わらぬ性質の悪い程の危うい本質――恥じらいも遠慮もない有様。それが遂に自分自身の身に降りかかったことに対する訳の分からぬ激情に任せるままに仕置きの拳骨を振り上げるホレスへ、レフィルは反射的に組みついていた。
「レ、レフィルッ!?」
 その呼びかけで我を失う程の怒りから立ち返るも、背後から羽交い締めにされる際に触れ合う感触にホレスは一瞬己を疑った。力こそ強くもか細く長い指に掴まれ、柔肌が抱きすくめるように背に触れる。これには流石のホレスも思わずたじろがずにはいられなかった。
――左腕か……それに……
 だが、すかさず混乱を振り切ると共にホレスが感じたのは、また別の一面だった。触れあう左腕から感じる微かな違和感を憶えた時にはムーに対する他愛もない怒りは既に飲み込まれ、ただ悲しみだけが彼の瞳に残っていた。

「って、わきゃああああああああっ!!!」
「!!?」
「!」

 次の瞬間、ホレスを押し留めんという勢いが余って、レフィルは足を滑らせた。そのまま支えを失って前へ体が傾ぎ、ホレスとムーを巻き込んで一気に倒れこんでしまった。

「う……うーん…………。」

 思わぬ所で体勢を崩し、そのまま折り重なって温泉の中に沈み込んだ状態から立ち戻るのには暫しの時間がかかった。浮かび上がったレフィルは、浴槽の淵に這い上がって突っ伏しながら目を回していた。背の白い肌がゆで上がったようにほんのり赤く色づいている。そんな艶やかさとは対照的な何とも間抜けな有様だった。

「…………。」
「痛い……。」

 湯の底から泡を立てながらムーが顔だけを覗かせつつ弱弱しい調子で呟いていた。倒れた拍子に強く打ってしまったのか、痛々しげに頭を押さえている。
「お前ら、俺を殺す気か……。」
 彼女達が浮かび上がるのを見届けた後に、そこから目を反らすように背を向けながら、ホレスは疲れ切った様子で嘆息した。ムーによってこの場に引きずり込まれて、思わず止めにかかったレフィルによって三人まとめて溺れかける。悪戯心と予想外の出来事でこのように翻弄されてしまうことなど、この二人と袂を分かった後の旅路からは考えられぬことだった。
「あなたはこの程度じゃ死なない。」
「そういう問題じゃないだろうが、ったく……。」
 仮にも女の身でありながら一糸纏わぬ状態のまま安易に組みついてここまで連れ込んできたムーに、流石のホレスも諌めずにはいられなかった。今も尚隙を見ては彼にじゃれつこうとしている様には、恥じらいの一つも感じられない。
「ホ、ホレス……その……ご、ごめんなさい……」
 ここまでの騒ぎに対してか嫌悪感を露わにする彼に、レフィルはいたたまれなくなって思わず声をかけずにはいられなかった。自分もまた、慌てて止めに入ってしまったがために余計にことを大きくしてしまったのは否めない。
「…………。」
「ホレス?」
 その言葉を聞き届けたと共に、ホレスは急に押し黙った。先程思わず彼を抑えようとした際にも、振りかざしていた拳の力が抜けて怒りが失せていくのが感じられた。その時と同じように、ムーに対して向けていた苛立ちを収めて、振り返らずともこちらに気を向けていると分かった。
「そうだな……お前も、少し気をつけろよ。」
「え、ええ……。」
 暫く考え込んでいたのか、一息つくと共に、ホレスはレフィルへとようやく言葉を返していた。
 ムーのように常に快活で己の思うままに動かずとも、追い詰められると見境ない行動に出てしまう傾向があることは否めない。今の騒ぎも確かにその一端だった。
――……違う、よね?
 だが、その言葉にどこか申し訳なさそうな様子があるのをレフィルは直感していた。そのままの意思を告げていたとすれば、彼は何かに負い目を憶えていると考えられる。
「大丈夫、せっかくの混浴だからもったいないし問題ない。」
「だからと言って、無茶しやがって。お前、女って自覚はあるのか……?」
「だったらあなたは男の自覚はあるの?据え膳食わぬは男の恥、違う?」
「言葉の意味を分かっていないな……。そもそもお前はな……」
 それを余所に、己の意思の赴くままに振る舞うあまり、自らの危うさにさえ気付かない有様でムーが再び口を挟んでくる。その恐ろしいまでに抜けた有様に、ホレスは呆れ果てた様子で肩を竦めつつ小言を言わずにはいられなかった。

「でも、こうしてる時には、ゆっくり話ができるね。」

 そうして嘆息する彼の背に、レフィルは静かにそう呼びかける。
「レフィル?」
 そちらに気を向けると同時に、彼女の手が優しくホレスの肩へと優しく添えられていた。その柔らかな感触を与えている指先は、生きるために剣を取ってきたとは思えぬ程にか細いものだった。
「レフィル、お前……」
 微かに強められる手の力に誘われるままに振り返ると、湯に身を湛えた彼女の姿がホレスの目に映った。
 僅か二年の間とはいえ、冒険者としての場数を踏む中で、レフィルは確実に成長していた。背丈も幾分伸びて、四肢も戦いの中で洗練されて引き締められている。その一方で、湯の中で仄かに紅く色づく白い肌は、彼女自身が持ち得る豊かな体と相まって、実に艶やかなものだった。
「…………。」
 しかし、それよりも彼を強く引き付けていたのは、その体の一端に刻まれた痛々しいまでの傷だった。最初に見た時に負ったものであろう左腕の火傷の跡の上に、稲妻のような傷が腕全体にうっすらと走っている。他の戦いの傷と共に消えゆかんとする中でも、そこに確かに刻まれているのは一目見てわかった。
 バラモスとの戦いで放った最後の力――ギガデイン。だが、怒りに呑まれた中で我を失いつつある中で仲間をも傷つけてしまった時、意志を失ったその矛先は最後には彼女自身に返ってきた。
 死の恐怖に打ちのめされてきたレフィルがバラモスと戦ったところで、破滅的な結果になることは薄々感じていた。そして、なまじ資格を得たがために、今も尚更なる過酷な旅路に身を置くこととなってしまった。
 そのような可能性を知りながらも何故無理にでも止めてやらなかったのか。

 ホレスの顔に後悔の念が色濃く映っているのを、二人は初めて目にしていた。
 その表情を見て、レフィルは彼が何を悔やんでいるのかを、思いの外明確に察することができた。


「わたしだって、あなたに迷惑をかけてばかりだよ。」
「!」


 そして、悔悟の念を否定するように首をゆっくりと左右に振りながら、レフィルは優しく彼に告げた。
「だから、これはきっとお互い様。ううん、わたしが謝らなきゃだめなくらいよ。」
 進むべき道を正しく見い出せず、破滅に導くこととなってしまったことをホレスが自らの責として背負っていると感じて、レフィル自身もまた同じことを思っていた。
 そっと触れた側には、レフィルのものよりも更に深く、決して消えることのない傷跡があった。レフィルを守るために脅威に真正面から立ち向かったために、彼もまた何度となく命の危機に巻き込まれてきた。そうさせたのは自分の力不足故のことと。
 そんな思いをホレスへと吐露しながらも、今は表情に途方もない程の悲しみはなく、ただ穏やかな眼差しを彼に向けていた。
「それに、わたしなら大丈夫。何があってもきっと……」
 これまで幾度となく助けられてきたからこそ、レフィル自身もまた数多くの死線をくぐり抜けることができた。その中で、辛い現実を受け止める覚悟もできた。
「……強くなったな。」
 それを誓うかのような彼女の言葉を聞いて決意の程を感じると共に、改めてその成長を認めていた。望まぬ勇者の使命に翻弄されてきた過去の彼女ではなく、今は自らの意思を以って大魔王ゾーマに立ち向かおうとしている。
 だが、その影で再び負担を抱え続けることとなり、それを耐え凌ぐことが遂にできなくなったら……。その一抹の不安だけが、ホレスの言葉を澱ませていた。
「ええ、だから……」
 認める言葉の中で浮かべられたホレスの微かな憂いの表情から、その意思はレフィルにも自ずと知れた。大魔王ゾーマの下に辿りつくというだけでも、数々の魔物や闇の手の者との戦いを切り抜けなければならない。如何なる決意を固めようとも、その過程でさえも一人だけでは乗り越えられないことなど、最初から承知のことだった。

「これからもお願い、私からも。」

 ならばこそ、信頼できる仲間と共に居たい。この先に待ちうける苦難を乗り越えるための友は、彼らを置いて他になかった。
「もう、ムーったら……」
 自分が言わんとしたことを勝手に代弁したムーを、レフィルは少々恨めしげに見据えていた。それでも、互いに同じことを思っていたと意味するのもまた感じて、可笑しそうに口元を緩めていた。
「ああ、俺もお前達に助けられてきたんだ。それくらい容易いことだ。」
 レフィルだけでなくホレス、そしてムーも、あの旅の中で互いに助け合ってきた。そう考えると、或いは同じ穴のムジナと例えられるのかもしれない。

「ありがとう、二人とも。わたしも最後まで頑張るから。」

 結局のところはこれまでと変わらぬ友人であり続けて欲しいという願い。
 そんな他愛のないものであれ、応えてくれた二人の友にレフィルは心の底から感謝していた。




「仲良きことは睦まじきことよのぉ。」

 少し離れた場でこの掛け合いを見届た最後に目にした決意と絆を肴に、ガライは湯で程良く温められた酒を杯へと注ぎながら誰にともなくそう一人ごちていた。
「ウムゥッ!まっこと良きものを見せてもらったのォッ!!本能の呵責に打ち勝とうたァ、流石はワシが見込んだ漢よォッ!!ウワーハッハッハッハーッ!!!」
 それに応えるかのように温泉に大きな波が立つ。直後、その中心に佇む巨大な影から野太い声が愉快そうに哄笑を上げていた。彼もまた三人の旅路の傍に度々現れて純粋な力をその身に感じ、時には影ながら見守り続けてもきた者だった。
 奇しくもこの世界で彼らの行く末を見届ける道を歩む者と出会って満足そうに、バクサンは巨大な杯を片手であおり、その中身をひと思いに全て飲み干していた。












 波濤が幾度も断崖を打つ度に、鳴り響く音と共に水飛沫が上がる。
 闇に包まれてから静けさに満ちていたはずの外海に嵐が起こり、天にあまねく雷雲からは幾度も稲光が瞬いている。

「やーれやれ、手こずらせやがって。」

 かつての聖域に続く参道を遠くに眺めながら、その男は気だるそうに嘆息していた。
 その傍らには、有翼の獅子や蛇体の禿鷹が骸の山となって転がっており、辺りに漂う黒煙から焼け焦げた臭いが立ちこめている。逸早く襲い来たがために、真っ先に天雷の餌食となり、またそれをくぐり抜けたところで彼の右手に取られた黄金の大剣によって斬り捨てられ、或いはその力によって消し炭と化す結末を迎えるだけだった。
「思ったよりやるじゃねえか。流石は敵の総本山ってか?」
 今も尚稲光を放ち続けている雷雲とそれに伴う暴風は、彼の手によって招来されたものだった。息の一つも荒げぬものの、闇の訪れと共に沈黙していたはずの気候をも変えてしまう程の力を用いらせる程の勢力であることを彼は素直に認めていた。
 マイラの北西にある精霊神ルビスを奉る聖地があった地に建つ塔。そこには向かう者の行く手を阻む数多くの闇の手の者達がひしめいていた。だが、彼らも所詮はここに訪れた強大な侵入者の前では何もできぬままに蹂躙され尽くしていた。

「…で、そこ。幕引きに間に合えば良いってもんじゃねえぜ。」

 立ちはだかる者達を殲滅した果てに、不意にこれまでにない殺気が向けられるのを察していた。
 それに全く動じた様子もなく、その方向を一瞥しながら彼は不敵に笑いかけていた。

『皆殺しときたか。ふん、天賦の才と言うには度が過ぎるぞ、天神め。』

 そして、地響きを轟かせながら、怒りを露わにしたような声をサイアスに浴びせる巨大な怪物が姿を現した。
 地鳴りのように低い幾つもの唸り声が重なり会うように響き渡る。
「ほぉ、ヒドラの親分ね。さしずめキングヒドラ、と言ったところか。」
 紫紺の鱗に覆われた五つの竜頭。闇の世界となったアレフガルドの中でも特に強力なヒドラの眷属を束ねるだけの実力が目の前の魔物にあることはサイアスにも自ずと知れた。
 それが、他を凌駕する力故に大魔王ゾーマのより側に仕えることとなったヒドラ属の王・キングヒドラだった。
「馬鹿言え、てめぇらが弱ぇだけだろうが。所詮は背負ってるモンが違ぇんだよ。」
 だが、サイアスは既に、この魔物の種族を束ねる王さえも己の敵でないことを確信していた。
『ふん、生まれ持った力だけを振るうだけの貴様の背負いし物など高が知れるな。』
「ハッ、だったらてめえら魔物どもとて同じじゃねえか。」
『然り。なればこそ、大魔王ゾーマ様の理が正しき証明を目にすることができたというものよ。』
「証明だぁ?……けっ、そんなつまんねえ御託なんざ並べてっから、てめぇらは負け犬になってんだよ。そのまま大人しくぶった切られてえか?ああ??」
『ふん、結局はその程度か。なまじ力を宿したが故の蒙昧とは哀れなものよ。』
 その絶対的な自信のままに傲慢に言い放たれても、五頭の竜はそれに憤りを見せることも否定することもなく、即座にそう返していた。精霊神を封じたとされる塔に続く道を阻むために集められた魔物達は決して弱くはない。それを容易く蹴散らせる程の強さに太刀打ちできる者は闇の手の者達でも五指に満たないだろう。
 だが、同時にこの男の戦い方の本質とその影にある見るに堪えぬものを感じ取り、その言葉には強い嫌悪感が込められていた。
『大魔王様の手を煩わせるまでもない。あのお方より授かりし“力”で、貴様の過ちを知らしめてやるとしよう。』
 交わされた言葉の中で見定めたものに失望したように侮蔑の眼差しを男に向けつつそう言い放つと共に、キングヒドラの巨体に重々しい気配が纏わり始める。
「ほぉ、こいつが……“闇の衣”、ねぇ。」
 時折稲光が一瞬の間眩く照らす中でも、光を拒むかのような暗い闇が巨竜の周囲に立ち込める様がはっきりと視認できる。

「ハッ、上等上等。大魔王の前座にゃ丁度いい具合に出来あがってきやがったじゃねえか。」

 大魔王ゾーマが纏うと言われる闇の衣。絶望の果てに従いし者にその一端が与えられるという噂は、既に彼の耳にも届いていた。
 覆い尽くさんばかりの闇の深みが増していくと共に、キングヒドラ自身の存在が大きく膨れ上がっていくかのような重圧が現れ始める。それに伴い、先程までとは比較にならぬ程の力が宿っているのを感じ取り、男は愉悦に口元を歪めていた。
「けどよ、そんな事で俺様に勝てると思ったら大間違いだぜ!!」
 魔王に匹敵する者が更なる高みへと至ったことは確かに驚嘆に値することだった。しかし、そんな脅威を目にして尚も、彼は臆することなく真正面から対峙していた。

「この勇者サイアス様になぁ!!」

 そして、闇に覆われた五つの竜の頭が見下ろす中で黄金の大剣を意気揚々と振り上げつつ、男は――サイアスは己の持てる矜持と絶対の自信を乗せて、歓喜にも似た叫びを上げた。
 それに呼応するかのように雷が大剣――稲妻の剣に落ちると同時に跳躍し、闇を纏ったキングヒドラに向けて一気に襲いかかった。


 稲光が幾度も閃く中、漆黒の奔流と金色の雷が互いに喰らい合うかの如く絡み合い、天を衝いた。