生き還りし者 第四話
心身共に極め上げたと言える程の技量を持つ武闘家・凶拳のバナン。人質を取られていたと言えど、ホレスもムーもその力の前になす術がなかった。
そんな状況から一転して、レフィルは鮮やかな反撃に転じてのけた。卑怯でこそあれ、バナンがもつ膂力や技は容易く振りほどけるはずはない。それを覆すだけのものが、一体どこから来ているというのか。
「こ、このクソガキがぁっ!!!」
突然の反撃を以って破壊の愉悦に水を差されていきり立ったのか、バナンは獣の如き怒号を上げた。
――まずい……!
先程までの快楽に浸っている時と異にして、激昂によって引き出された本気の一端。漲る殺気は遊び半分のそれと異にして確実に敵を殺さんとする意思に満ちている。武闘家として極められた男の一撃をまともに受けては、如何なる強さを持つ者であれひとたまりもない。
ホレスの危惧を余所に、バナンの鋭い蹴撃がレフィルへと襲いかかる。
「!!?」
だが、それよりも一瞬速くレフィルがバナンの懐へと潜り込んで左手で襟元を掴んで、そのまま力任せに地面へと叩きつけた。
「んなっ……!!また……」
一度ならぬ二度までも武闘家である自分に遅れを取らせる程の力と、心の乱れからくる僅かな隙を突ける程の技は、見た目通りの小娘の持てるそれではない。
引きずり倒される衝撃をその背に受けて息を詰まらせるのも束の間、静かな怒りを湛えた紫の双眸の突き刺すような視線が見えた。
「ライデイン」
立ち上がる間もなく唱えられた言葉が響き渡ると共に、差し向けられた手のひらから雷鳴が轟くと共に迸る烈風が強かに打ちつけた。牢の床が砕け、バナンに雷撃の如く鍛え抜かれた肉体をも突き抜ける痛烈な衝撃が襲いかかる。
「がぁ……っ!!て、てめ……っ!?」
「ライデイン」
呻きを上げる暇も与えず、再び同じ力を呼び起してバナンに叩きつける。呪文を唱えるその声には一片の迷いもなかった。
「く、クソガキがぁああああああああああっ!!!!」
雷そのものの力を借りぬライデインなど、勇者が用いるとされる呪文とはいえ所詮は出来そこないに過ぎない。そのようなものでいつまでも凶悪な力を持つ強者を抑えつけることができるはずもなかった。正面から雷鳴を打ち破ってそのままレフィルへと再び牙を剥き、怒りに任せて凶拳が振り下ろされる。
「……さい。」
「!!?」
刹那、レフィルが忌々しげに小さく何か告げると共に、金属同士が擦れ合う冷涼な音が奏でられていた。いつしか左手には吹雪の剣が抜き放たれており、その表面には既に何もかもを凍てつかさんばかりの冷気が刃に沿って張り巡らされている。
「うが……っ!!」
抜剣した勢いそのままで斬りつけられると同時にその傷から芯にまで冷気が伝わり痛手を深めていく。思わぬ激痛によって体勢を崩されて、小娘を一撃で粉々に砕かんばかりの渾身の拳を打ちこむことさえも許されなかった。
「がぁああああああっ!!!」
その決定的な隙を逃さずに、レフィルは吹雪の剣を鋭く振り抜いた。斬撃がバナンを深く斬り裂き、断末魔の叫びが牢獄の内に響き渡った。
「ぐが……あ……ああ……」
「…………。」
あらゆる敵を一刀の下に断じてきた剣技を躊躇いなく向けた結果、バナンは既に致命傷を負っていた。不幸にも生き延びてしまった彼に止めを刺さんとしてのことか、レフィルは無言のまま吹雪の剣の切っ先をその喉元へとあてがった。
「もういい!やめろ、レフィル!」
「!」
その瞬間、剣を握る左手を掴みながら聞き慣れた声がレフィルへと強く呼びかけた。唐突に引き止められたことに驚いたように振り返ると、バナンの卑怯な攻撃によって傷ついたホレスの姿があった。
「ベホマラー」
彼を前にして目を見開いて茫然と立ちつくす側で、ムーが治癒の呪文を唱える。
「私達は、平気だから。」
「…………。」
凶拳と謳われた一撃をまともに受けて負ったホレスとムー自身の深手が目に見えて癒えていくと共に、レフィルの傷もまたふさがっていく。一つ間違えば命にも関わる程の傷を消すことで無事を語らんとするムーの声は微かに震えていた。
――わたしはまた……。
友を傷つけられた時に生じた抑えきれない激情に身を委ねるままに、死に追いやらんとした上に更に刃を向けんとする。我を忘れたままなさんとしたことを思い返す内に、自らも怒りに囚われてしまったことを自覚していた。悲しみを汲んだからこそ刃を止めるに足る存在だったあの異世界の者の時とは違い、そうして相手を慮ることも出来ぬままに感情だけが暴走していた。その虚しさを僅かに覚えると共に、今はただ友の憂いを前に微かな悲しみを覚えるばかりだった。
「最初っから……こうしていりゃあ…良かったんだ……。」
誰もそれ以上何も語れずにいる沈黙の中で、死に瀕した者の掠れた声が足元より聞こえてくる。
「……何だと?」
思わず視線を下に向けると、未だ生を留めているバナンの姿があった。レフィルに斬られ、今際の時に置かれて尚も怨恨と共に一体何を語らんとしているのか。
「てめえら雑魚を……皆殺しにするためにゃ、やっぱり……あんたの力を頼るのが……一番手っ取り早い…って、事だよ…な……。」
仰向けに倒れたままその手を天に向かって伸ばしながら、ここにいない何者かに向けて悔恨の念と共に呼びかけている。
「こ、これは……!?」
遺言の如く言葉を続けるバナンの体から、黒い霧のようなものが立ち上り始める。牢獄を覆い尽くす暗闇よりも更に濃く、重くのしかかるような気配。それと似たものに三人共憶えがあった。
「大魔王……ゾーマ…。は…ははは…っ!!ぎぐあああああああああっ!!!」
全てを語り終えて満足したのか、最期の哄笑を上げると共に、闇は更に暗く重いものと化していく。そして不意に爆ぜるように膨れ上がった闇が天上目掛けて噴き上がると共に、バナンはこの世のものとは思えぬおぞましい絶叫だけを残してその身全てを闇に帰した。
「闇の衣……ゾーマが……。」
亡骸も残さずに消えたバナンが最期に纏っていたのは、まさしく闇の衣そのものだった。この世界に仇なしてただ破壊し尽くすことを望みとしていたその呼びかけに応じたとあれば、ゾーマは既に彼に目をかけていたのだろうか。
そうしてゾーマに願うことによって己の望みを叶えることを知るのはバナンだけではない。他にもこの世界の破滅を願う者達が、はたしてどれ程いるというのだろうか。
「あら、あなた方は確か。」
ふと、回廊の奥から見える灯の方から、若い娘が歩み寄る音と声が聞こえてきた。
「ミレーヌさん?」
現れたのは、レフィル達もよく知る王の側に仕える侍女の一人だった。微かにパンの香りが漂っている籠からは、ここにいる囚人や衛兵達に食糧などを届ける役割を担っていることを窺わせる。
客人や王の世話をする程の彼女が、一体何故このような危険な場所に遣わされているのか。
迷宮の如く複雑に入り組んだ牢獄の最深部。ここに囚われているのは、人の手に負えぬ者達の中でも群を抜いた力を持つ危険な力を有する囚人達だった。そのような者達を閉ざすべくしてあらゆる技巧を凝らすも、今はバナンの手によって巨獣の爪跡の如く無惨な姿を晒している。
この騒ぎに乗じて逃れんとした囚人と衛兵が争った痕跡も数多く残り、今も尚鬨の声が木霊していた。
「ボス!こっちに誰か近づいてきますぜ!!」
そのような中で未だに静けさを保っている牢獄の一区画を守るように立つ薄汚れた服を纏った男が、回廊の奥から来る灯を認めて、呼びかけていた。
牢獄の最奥に囚われているボスと呼ばれた大柄な男はその内から出ようともせずに静かに佇んでいた。
「……あー、お前ら。んな無茶しやがってただで済むと思ってんのかよ……」
報せを受けて、その男はまず呆れ返るように嘆息していた。
斥候を担う男同様に、衛兵のものとは異なるみずぼらしい服を纏った者達が外の様子を窺うように佇んでいる。辺りには壊された鉄格子の欠片が散らばり、独房の中の殆どには誰もいない。彼らは例外なく、この区画に幽閉されていた囚人達だった。
逃げずにいるのは殊勝な心がけとは言えたが、どの道騒ぎに乗じて獄中を脱したことは変わらない。後で待つ運命は自ずと好ましくないものになるのは目に見えている。
「心配にゃ及びやせんぜ!親分はおれ達が必ずお守りしやすんで、大船に乗った気でいてくだせぇ!!」
「なーに、どっちにしたってあっしらは二度とおてんと様を拝める身分じゃねぇんだ。死んだ気で行けるってもんで。」
だが彼らはそのようなものに捉われた様子もなく、口々に激励の言葉を告げていた。凶拳のバナンを初めとする救いようのない悪党の溜まり場にあっては、もはや未来も何もあったものではない。
そのような中でも心から尽くせる者に仕える卑しき者達の悦びを目覚めさせる程に、彼らは男のことを認めていた。
「……ったく、バカ野郎どもが。で、その様子だと……」
地獄の底の如く絶望的な場に落とされて尚も、こうした人情に触れることがあるとどうして予想できようか。心に懐かしいものを憶えながらも、男は斥候役の囚人に言葉を促していた。
「へい、あの娘のようで。」
予想がついていると言わんばかりの様子の男の勘に感じ入ったように、囚人は明瞭な頷きを返しながら答えた。
「やっぱりミレーヌ嬢ちゃんか!無事だったか!?」
暗闇の中で佇む囚人達が道を空けた先に見えたのは、給仕の姿をした見慣れた少女だった。危険を顧みずにここの囚人達の世話を引き受けてきたことで、既に彼らの間でも広く知られていた。
「良かったぜ!どこの誰の手引きか知らねえが、他の奴らが大暴れしてるって聞いてたから心配したぜ!」
特に囚人達から奉られるこの男――伝説の剣の贋作をなしたとされる刀匠と交わす言葉は多く、よき話相手となっていた。悪しき者達と同列に並べられる屈辱を経て尚も失われることのない真っすぐな気質があってこそ、彼女に心を開かせることができたのかもしれない。
外で起こった不幸に巻き込まれて無事に帰ってきた少女を労う彼の言葉と眼差しは一片の偽りもなかった。
「――ダタ様……。」
無事の再会を喜ぶ男を前にして、少女は表情を浮かべぬ顔を微かに綻ばせたが、すぐにどこか切なそうに顔を背けた。
「……嬢ちゃん?」
危機から逃れて互いに何事もなく済んだことに対する安堵の他に、寂しさのようなものを感じ取った。
「お、親分!!奥の方から何か……うげっ!!」
「なっ、これは……ぐはっ!」
その元となるものが分からずに怪訝そうに首を傾げていると、区画の入り口の方で剣戟と悲鳴が聞こえ始めた。
「てめぇら、何あっさりやられて……って、ちょい待て!!?こんなのアリかっ……ぎゃ!!」
仮にも最深部に幽閉されるだけの力を有する者達が間抜けな声を上げながらこちらに吹き飛ばされてくる。そんな奇怪とも理不尽ともつかない光景を見咎めて、刀匠の側を守っていた男が様子を見に行った直後、何かに酷く驚愕したように喚き立てて、程なくして先人達と同じ運命を辿った。
「この音……まさか!?」
有無を言わせぬままに囚人達を叩き伏せては前に進み、または何も知らずに立ち尽くしている者達をまとめて吹き飛ばす。そのような物騒な中で殺意の欠片もない奇妙な光景が、刀匠の前で繰り広げられている。
「ハ!?」
不意に、何か甲高い咆哮が牢獄の回廊全体に響き渡った。
「ど、どどど、どらごん!!?」
「んな馬鹿なぁあああっ!!」
「ありえねぇえええええっ!!!」
一度聞いただけで、それが人ならざる者の上げる雄叫びということはすぐに察することができた。だが、その主がまさか牢獄に本来入れるはずのない巨大な竜であると誰が予想できようか。
そうして大きく期待を裏切られたことによる単純な恐怖などではない驚愕により慌てふためく面々とは対照的に、竜は牙を剥くことさえなくただじっと緑の双眸をこちらに向けるだけだった。
欠伸をかくように唐突に開かれた口から、烈風の如き竜のブレスが吐き出される。それに巻き込まれて囚人達が凍りつきながら吹き飛ばされて、氷塊に閉じ込められてさながら雪玉の如く辺りに呆気なく転がっていく。
――氷の彫刻。
「こ、これは……?」
吹き荒れる吹雪に敢え無く凍らされ、滑稽に蹴散らされていく様に、懐かしいものが頭を過る。己の道をひた走るあまり振り撒かれる災厄に何度振り回されたことか。
――………どうか馬鹿な真似はなさらないで下さい。あなたはまだ、生きていなければならないお方なのですよ。」
――ああ、分かってるよ。けどな、第一、”あいつ”がいねえ今、俺はどのみちこの世界じゃ一人だ。やれやれ……正直言って俺も色々と絶望しちまってるのかね。
九死に一生を得たとはいえ異世界の中に迷い込んだばかりか、大切な者さえも絶望的な状況に置いてきてしまった。助けに入ることも見届けることさえも出来ぬ永遠とも言える別離を経て、せめて自分を救ってくれた者達の力にならんとするも、それもまたここに投獄される結果となってしまった。
――間違いねえ……!!
如何なるあがきを以ってしても何も先が見えぬ状況を前に激しく落胆し、一度は全てを棄ててしまおうとさえ思っていた。思えば失えばそこまで駆り立てる程の大切な者だった。“彼女”が一体どのようにしてこの世界を訪れたのか分からない。だが、そのようなことなど既にどうでもよかった。
「ミレーヌ嬢ちゃん!これは……!」
「はい、カンダタ様。」
地獄のようなこの世界で道を探し続けて、今は給仕の少女の案内を受けてもう既にここまで来ている。牢獄の中でただ待ち続けることしかできなかったのも無駄ではなかった。
荒れ狂う吹雪が止むと共に、牢獄の奥から竜の気配が消えて、別の小さな誰かが降り立つ音が聞こえてくる。凍らされた囚人達の間に流れるざわめきも気に留めずに、小さな足音を引き連れながらこちらへと近づいてくる。
「やっと見つけた……!」
そしてようやくこちらの姿を認めると共に、“彼女”は刀匠のいる独房へと駆け寄り、その手で鉄格子を揺すっていた。小さな体躯に似合わぬ力で、鉄格子が軋りを上げている。
「ムー!!!」
見慣れぬ竜の意匠をあしらった深緑のローブに身を包んでいても、見間違えようはずもない。
ただ一人アレフガルドに迷い込んだ孤独の果てに、ついにかつての家族との再会を果たすことができた。
刀匠――カンダタの、長きに渡る重苦に押し殺されてきた歓喜の声が、“彼女”の名を叫ばせていた。