第三十四章 生き還りし者



 アレフガルドの中心に向けて静かに吹く風の流れ。その中心は、今の世を支配している闇の深部そのものだった。
 魔の島の天頂にそびえる大魔王ゾーマが住まうとされる居城が、常夜の世界にあって尚も色濃い影を、対岸に住まう人々へと見せつけていた。

「ここがラダトームか。」

 入口に掲げられた国の象徴たる紋章、その下に広がる外壁。闇の手の者や飢えた魔物が彷徨うアレフガルドの中に尚も残る人の園の中で、最も大きいとされる都市――ラダトームの王都。
「この城下町に来るのは初めてじゃったかの?」
「ああ。俺もこの世界に来てから殆ど経たないからな。」
 今やその喧噪もかつての面影すらなかったが、これまでホレスが訪れたどの町にも勝る活気があった。大魔王に抗わんとする者達が一点に集う結果、周辺に現れた脅威を排する者や物流を守る任に就く者達も多く、都市としての機能はこの世界の内においては最も充実していると言えた。
「でも、ここもあの人達のように……」
「そうした陰謀は後を絶たないだろうな。」
 生前は聖騎士として名を馳せていたビロドとその姉たるカーネリアの手によって、メルキドの街は著しくその機能を失った。彼ら異世界の者の影はとうに失せたものの、堅牢な城塞都市と言われた場でさえもゾーマの手の者を防ぐことが出来ぬことを、明確な形で思い知らされることとなった。
 既にアレフガルドの如何なる場所も、大魔王の思惑を遮ることは叶わず、いつ堕したとしてもおかしくはない。それを跳ね返し続けるだけの人々の心の強さを保ち続けているここ、ラダトームでさえも。
「そうだな、先を急ごうか。」
 そうして容易く瓦解するであろう平穏にいつまでも乗じているわけにもいかない。それを言わんとしているのか、ムーが無言で手を引く様子に応えるように、ホレスは自らも含めた一行を促すように一言告げていた。



「レフィルよ、よくぞ無事に戻ったな。」

 未だ光戻らぬラダトーム城の謁見の間に焚かれる松明の炎。その最奥にある玉座で佇む国王が、一行へと労いの言葉を告げる。
「ガライもまだ生きておったのか。相変わらずしぶとい男よな。」
「ふぇふぇふぇ、まだまだ若い者には負けませんとも。」
 来訪者の中に、案内人としてつけた老齢の詩人がいるのを認め、言葉を交わす。年老いた今も旅の立ち回りは衰える所を知らず、在りし日より過酷になった道中に倒れるばかりか疲れの一つさえも見せていない。
「そして、そなたが……」
 大魔王ゾーマに抗するべくして見送った者達が帰ってきた中で、王は初めてまみえる者へと目を向ける。
「ホレス=アンリックと申します。この度はお招きに与かり、恐悦至極に存じます。」
 興味を示した王に答えるように、ホレスは謁見の間の床に跪いて一礼していた。
「かしこまらなくてもよい。なに、おれとて堅苦しいことは好かんでな。」
「……そうか。」
 形式に則った名乗りの中で一片も萎縮した様子を見せていない。その姿が、先に顔を合わせたレフィルの気遅れした様子と好対照をなしているように見える。沈黙の中で威圧感を醸し出しており、敬礼の型を取りながらもただそれだけの意味しか無いようにも思わされる。
 暫しの静寂の中で張り詰めた空気に恐怖よりも好奇の内に耐えかねて、王は苦笑を零しながら気楽に告げていた。
「変わった男を連れてきたものだな。だが、ホレスとやら。そなたもこの世界でよくぞ一人で旅を続けてきたものよ。」
 ガライのような案内人の存在もなく、見知った友人も側にいない。云わばただ一人で元の世界から放逐されてしまった状況にも関わらず、その苦境を生き抜いてきた。バラモス討伐の際に三人の中心になりうるだけの元来の知勇だけに留まらずに更なる成長を遂げた姿は、王を驚嘆させるには十分なものだった。
 レフィル、サイアス、或いはオルテガと会いまみえた時よりも……

「して、何か成果は得られたようだが……。」

 再会を満足に喜ぶより先に、王は本題に向けて話を進めんとしていた。帰還の報せを受けたこと自体が、今の彼にとっては大きな収益であった。闇の世界に旅立って帰って来れるだけの冒険者の存在そのものが、今のラダトームにとって貴重なことに変わりはない。
 そして、ただ生還を伝えに来たことに留まらないことが四人の表情、とりわけガライの浮かべる好々爺然とした満面の笑みより窺い知ることができた。
「その杖は、もしや……。」
 一番最初に目についたのは、ホレスが携えている杖だった。流れる水とも空を舞う雲とも雲とも取れる、潤いを与える恵みそのものを模っているようにも見える様に、神秘的な雰囲気が醸し出されている。
「はい、これが雨雲の杖です。」
「そうか、これが虹の橋の伝説か。」
 雨の祠を司る精霊としての使命を負った女性――ミストより賜った神器・雨雲の杖。ラダトームに伝わる太陽の石と対の位置をなす、虹の橋の伝承の鍵となる品である。
「だが、太陽と雨が揃ったと言うのに、何も起こらぬとはな。」
 それらが今この場にあることに王は一時感銘を受けていたが、同時にその時点で留まっていることもすぐに察していた。
「まだ条件が足りない。おそらくはそういうことだろう。」
「条件か。それが何か、そなたは存じておるのか?」
「虹の橋の伝説は一つだけじゃない。」
 無論、道具が揃った所で、この場ですぐ伝説を体現できる程事がそう容易く進むはずもないのは王も予感していた。

”天より降りしきる雨に太陽の光交わりし時、聖地に虹の礎現れん。其を携えしは、神の寵愛を賜りし人の子なり。”。

 それでもその場で目の当たりにできぬことを僅かに惜しむ彼へと満たすべき条件を示唆すると共に、ホレスは古の伝承の一節を口ずさんでいた。
「ほう、“聖地”に“虹の礎”か。」
 神器を携えても、それがあるべき場というものがある。ホレスが告げた言葉の一端を拾い上げながら、王はかつての始祖が犯した過ちを思い返していた。
 太陽の石を亡国より持ち出して国宝とした時より、虹の橋はやがて失われることとなる定めにあった。それがラダトームを飾り立て続け、あらざるべき場にある限りは。
「聖地と呼ばれる場所には幾つか心当たりがある。これから向かうつもりだ。」
「それが今のそなたらが出した結論、と言うことだな。」
 神器が聖地に戻った時、古より伝わる虹の橋を呼び戻す鍵となる。そう信じれば、次の目標はおのずと決まる。
 太陽の石と雨雲の杖をレフィル達が見い出した一方で、ホレスもまた伝説に纏わる地を幾つも旅してきた。後はそれを再び巡るだけで、答えが見つかると易く考えても間違いではないだろう。
「ならばかの聖地にすぐに赴き、虹の礎を創りだすが良い。それで我らの長年の悲願が成就される。」
 あの激流によって隔てられた魔の島も、かつては虹の架け橋によって繋がれていた。だが、それは今は失われて、荒れ狂う海を超える術もない。
 天を闇の帳で覆い尽くす程の強大な力を大魔王が有することが分かっていようとも、そもそも向かうことすらできなかった。だが、再び虹の橋が現出した時、次々とこの世界に集い始めた強大な力を持つ者達が必ずやゾーマを討ち果たすことだろう。
 そして、この世界に再び光が戻る。それが光を奪われたアレフガルドの民の総意の下の望みだった。

「……ラルス王、一つだけ質問がある。」

 一行の指針を聞き届けてそれをラルスが承諾し、次なる地へと後押しせんとしたその時、ホレスは再び話を切り出していた。
「この剣に、見憶えがあるか。」
 いつしかその手には、折れ果てた剣が取られている。変化の力によって仮初の姿を与えられた時でさえ、闇の衣を纏った偽りの聖騎士を聖槍ごと両断してのけた程の力を宿したかつての名剣だった。
「見事な剣だ…否、だったと言うべきか。少なくともおれに奉納されたこの剣よりは余程上物だっただろうな。」
 ホレスから剣を受け取って食い入るようにその刃を眺め、やがて自分の腰に佩いている業物と見比べる。王たる身を守るべくして作られた最上の剣と比しても勝るとも劣らぬ見事な品であったことを、ラルスにも容易く感じることができた。

「それが囚われた刀匠の手によって作られた最高傑作だ。」
「……!」

 散々に痛みつけられて毀れた刃の中で残された鋼の鈍い光沢に魅入らんとする中で、ホレスが告げた言葉に王は目を微かに細めた。
「囚われた刀匠……」
「ほう、これがあの…」
 ここにある打ち捨てられた刃を鍛え上げた刀匠の存在は、王もよく知っていた。紛い物の聖剣を作ってしまったがためにラダトームへ幽閉された忌むべき者。だが、それを聞いて彼は気を悪くしたばかりか、薄い笑みさえも浮かべてホレスの言葉の重みを反芻していた。
「何故貴様がそのようなものを持っている!?」
「控えろ、大臣。どの道今は単なる屑鉄に過ぎん。騒ぎたてる程のものではない。」
「はっ……」
 罪人の剣と聞いて当然というべき反応か、それともその影に後ろめたいことでもあるのか、不意に大臣がいきり立つ。それを諌めつつも、王は己自身が零した名剣の無常な様に自嘲するように嘆息していた。
「確かにこれは二つとない名剣だったことだろう。それを分からぬはずもない。それでも、所詮は人が作りしものに過ぎん。古より謳われた神器たる”王者の剣”の名を冠するには力不足だな。」
 かの刀匠の手を離れた後に、なまじ優れた剣としての力ゆえに、いつからか良からぬ者が“王者の剣”の銘を騙るようになった。そして一人の使い手を魔物との戦いに誘って、死なせてしまったことから悲劇が始まった。伝説の名を冠するからには、それに惹かれた見る目無き使い手に渡ることも、人を死に追いやることもあり得ない。体面を保つ唯一の方法は使い手の下を離れて尚も折れずにある名剣と、それを作り上げた者を排するより他はない。
「どうして神器でなければダメだったの?」
「偽りの希望が何度現れたところで大魔王を倒すことなど叶わない。そんなものを振りかざす輩は後を耐えないのだよ。」
 あくまでも本物に執着する姿勢へと疑問を感じたムーの問いかけに、ラルスは即座に――そして遺憾の意を露わに答えを返していた。
「では、これ以外にも王者の剣を騙った剣が現れたと?」
「そうだ。私欲を貪らんと愚かな事をする輩がな。」
 そうして更に拙い出来の剣が同じようにして希望を騙らんとし続けたことが、刀匠にとっての最大の不幸だった。世界が闇に覆われて尚も、或いはだからこそ私欲を貪らんとする輩は思いの外多かった。そのようなことが続く程に、皆が聖剣の復活を望んでいる思いに付け込む悪辣な者達を許しおく訳にはいかない。
「この剣がそんな生半可な気持ちで作られたと思っているのか?」
 だが、この剣を作った刀匠を良く知るホレスには、彼がそのような邪な思いで剣を打つなどとは考えられぬことだった。闇の世界にある中で本質までも変わってしまったのであればともかく、残された剣の欠片に込められた力は在りし日の彼の剛毅な意思を体現しているようにも思わされる。
「陛下、お時間ですぞ。」
「……ふん、まあいいだろう。」
 ホレスの問いかけに対して王が暫し沈黙を保ち続ける途中で、大臣が口を挟む。謁見の終わりを告げるだけの言葉とは裏腹に、その表情はどこか影があるように察することができた。
「ホレスよ、一つだけ申しておこう。彼奴は己の剣が聖剣を騙られることを止めることができなかった。それが事実だ。」
 玉座を立ち、謁見の間を去ろうとする途中、王はホレスの側で一時立ち止りつつ感情を乗せぬ声でそう告げていた。
「はぐらかすな。他に何が……」
「一つだけ、と言ったはずだ。」
「ち……」
 確かにそれもまた真実の一端だった。だが、そのような建前だけで捕えてしまってはそれだけの虚構も生じることになる。そこまでして躍起になって刀匠を幽閉したことに或いは別の意味があると踏んで更に尋ねんとするが、良いように言葉を遮られてそれ以上の問答は叶わなかった。

「では、好きに過ごしていくがよい。また会おうぞ、若者達よ。」

 詮索せんとするホレスに対して決して気を悪くした様子もなく、ラルスは三人の前から去って行った。
 この折られた名剣の話になり、禁忌とも言える一面に触れてより、王の表情に先程まで無かった険しさが感じられた。だが、それでも側にある大臣の苛立ちとは対照的に、王は終始冷静に振る舞うばかりか、新たに見せられたものに感銘さえも受けているように見える。
 新たな力を切り開く可能性を持つ者を縛り付けるという矛盾の中で何を思うのか。