偽りの調和 第四話
左手に取った吹雪の剣を覆う巨大な氷塊からはカーネリアが放ったイオナズンを跳ね返した時のような危うい輝きは失われていたが、氷の大剣はレフィル自身のイオラの力で今尚残っている。
「……よくも姉さんを。この代償は高くつくよ。」
その示す先に対峙している、純白の装束に身を包んだ細身の少年――聖騎士ビロドが馬上槍の穂先をレフィルに向けながら、怒気からか低い声でそう告げていた。
肉親を傷つけられた憤りから心中穏やかではない様子を垣間見せながらも、その怒りをも殺気の糧としている。
「……。」
ビロドの殺意を真っ向から受けながらも、レフィルは怯んだ様子もなくただ彼の動きを見定めていた。
深手を負い、死に瀕している彼の姉・カーネリア。ホレスを傷つけんとするのを食い止めるためには、その魔法使いとしての力をそのまま跳ね返すしかなかった。それを成したことと引き換えにカーネリアを傷つけて、弟であるビロドの怒りを買うこととなってしまった。
「やっぱりやろうっていうのかい?その思い上がりはあの罪人君にでも似たのかな。」
そうなったことを微塵も悔いた様子もなくレフィルは戦う意志を見せるかのように吹雪の剣を向けている。だが、カーネリアが残したボミオスによる重圧は未だ残り、体の自由を奪われている。そのような中で尚戦意を失わずに真っすぐ見据えるレフィルの姿に対し、ビロドはかの許されざる者の愚行を重ねていた。
「何があなたをそこまで駆り立てるの?」
「君、バカなの?あれだけ言ってまだ分からないなんて。僕達の世界を滅ぼしただけで十分な理由だろ?」
こちらが一つ抗う度に向けてくる悪意の裏に一体何があるというのか。それを問うたレフィルに対し、ビロドは当然とばかりに先に告げた憎しみの根源を再び告げていた。
「反吐が出るね。あいつが何をしたのかを知ってまだ庇うとか。君も所詮はあいつと一緒なんだね。」
あるべき場所を奪われた嘆きを否定することはできない。だが、あくまでもこちらを貶めんとするビロドに、もはや何の言葉も意味もなさない。
聖騎士とまで呼ばれた少年のそんな有様に言葉を失って、俯くレフィル。
「……向き合ってさえいないくせに。」
だが、微かにその唇から零れ落ちたその一言を聞いた者は誰もいなかった。
ボミオスの重圧によって歪められた場の影に、一筋の闇が走る。冠を思わせる白銀の兜に隠れる双眸の下に半分だけ見せる顔に、これまでにないものが浮かべられている。
それは普段の彼女が決して見せることのない、悪意に満ちた嘲笑だった。
「これは一体……」
押し潰さんと迫る巨人の拳を遮るように、ホレスの目の前で巨大な曲刀が現れている。だが、それを手繰る者の姿はなく、柄より先は実体を持たぬ幽鬼の如く透き通っている。
それは確かな力を以って、ゴーレムを後ろへと押し返していた。
「また駄目か。」
ここに顕現されようとしていた何者かの存在を前に瞠目しているソリアを余所に、ホレスは自らに呆れているように嘆息しつつ、右手にあるものを一瞥した。常軌を逸した精度と威力を見せた、未知の金属で拵えられている巨大な弓が灯を受けて光沢を返している。
程なくして、力を以って土塊の巨人を退けた巨刀が、薄れるようにして徐々に立ち消えていく。
「何故じゃ。何故そうまでして何度も……」
ソリアがその威容を目にしたのはこの一度だけに留まらなかった。今しがた拳に刻まれた一筋の剣閃の跡以外にも、城塞の巨人の各所にその痕跡はしっかりと残されている。
左胸にある突如として飛来した強烈な光によって焼き焦がされた跡、右肩に突き刺さっている金属製の巨大な矢。
幾度も招来を試みても不完全のまま虚空に帰しているものの、ゴーレムに拮抗する程の力があることは疑いようがない。
「言っただろう。こいつの所以を教えてやると。どうやら俺には荷が重すぎたようだがね。」
「ふむ。しかし見よ。お主が垣間見せた力は確かに……」
「それも時間の問題に過ぎない。俺がこのでかぶつをどうにかできると、もう思い上がりはしない。」
相手が呼び起そうとしているものの一端を見て関心を示すソリアとは対照的に、ホレスは素直にこの状況の危うさを感じ取っていた。ゴーレムの猛攻に耐えることができてもそれは所詮一時しのぎに過ぎない。
今切らんとしている奥の手がその程度の役割しか果たせない以上、一人でこの巨人に対処できるという思い上がりなど既になかった。
「……来たか。」
ソリアの操る巨人と見えざる何かが力を交わし合い、その合間ににらみ合う中で、ホレスは待ち人の到来の音を耳に聞いていた。
「来た。」
いつしか彼の傍らに、魔女を思わせる風体の小柄な少女が歩み寄り、共に目の前に立ち塞がるゴーレムを見上げていた。
――この子は先程見た竜の正体か。理性を保ちながらドラゴラムを操るとは、大したものよ。
竜化の呪文――ドラゴラムを使って尚も本能に呑まれずにいられるものを裏付けるように、少女の外見にそぐわぬ力を感じられる。ソリアは一目見て、彼女が先程あちらで暴れ回っていた金色の竜の化身であるとすぐに察することができた。
「さっきはあんな下らん大口を叩いておきながらこの結果だ、面目ない。」
己一人でゴーレムに挑む愚を微かに悔いるように自嘲気味に語る中で、先程交わした約束が浮かぶ。
ホレスがゴーレムを食い止めている間にムーが聖騎士団を殲滅する。加えて、ホレスはゴーレムを倒せるつもりでいることを明言していた。
意地でも約束を果たそうとするその他愛ない拘りに、ムーは何故か呆れるよりも何か好ましささえも感じていた。
「負けず嫌い。でも、気にしないで。」
その追い詰められた状況の中でも諦めることなく巨人と対峙し続けてきたことを労うように、ムーはただ短くそう告げる。
「けれど今度は私も一緒。それなら勝てる。多分だけど。」
そして、理力の杖の先を巨人へと向けながら、明確な戦意と共に前に進み出た。やはり城塞の如きゴーレムの重圧を前に少々恐れているのか、僅かに肩を竦ませてはいたが。
「いや、絶対にだ。レフィルのためにもすぐに終わらせてやろう。」
今ムーがここにいるということは、レフィルは一人で戦っていることを意味している。彼女の到着によって勝利を確信する以上に勝たねばならないという思いを新たにしながら、ホレスは右手に取ったあの弓――呼び起さんとしている力の媒体をゴーレムへと差し向けた。
「なるほど、その子が鍵を握っている…ということか。」
「ああ。あれだけ試して駄目だった以上は、こいつのあの力以外に手段はない。」
ホレスがなそうとしていることは、離れて戦っていたムーにも感じ取ることができた。異空間へと道を繋ぐ歪みを呼び起し続ける――それが途絶えることがないということは彼だけの手に負えるものではないことを示している。
「任せて。」
万策尽きんとしている中で心の片隅に置いていた最後の可能性――それがムーの持つ力だった。その思惑を汲んだように、彼女はこうして駆けつけている。
「よろずの道、其が示すは如何なる惨禍か福音か。然れど我は乞う、此処に正しき定めが現る事を。」
短く他愛ない様子で短く告げた後に、ムーは祝詞を読み上げるように言葉を紡ぎ始める。時が経つにつれて、何か得体の知れないものが彼女を取り巻き始める。根こそぎ奪い取られたこの場の全ての力と共に……
「パルプンテ」
流れるような詠唱が全て終わると共に、最後に唱え上げられた力ある言葉が、纏わりつく奔流の中へと木霊した。
「パルプンテ、じゃと!?」
ムーが発動した呪文の名を聞いて、ソリアは思わず目を剥いた。数ある呪文の中でも最強の力を持つ究極の奥義・パルプンテの名はアレフガルドの中でも知られている。その絶大な力故に、使い手自身の破滅さえ引き起こしかねない危険な力であることも。
「力を安定させることを考えろ!後は俺がやる!」
「何!?」
焦りを憶えるソリアを余所に、ホレスはムーの傍に立ち、変化の杖を掲げていた。程なくして、パルプンテによって呼び起された不穏な気配が杖の先へと集っていく。
あのような恐ろしい代物を更に御そうという発想にソリアが驚きを覚えるのも束の間、ホレスの取る杖の先端が銀色の輪へと転じていき、集まる力を受けるにつれてみるみる内に大きくなっていく。
「こ…これは……!」
やがてそれが、ゴーレムに匹敵する程の大きさとなった時、何かがその内側から現れるのが見えた。
二対の足が地面を踏みしめる度に鳴る金属が軋るような音が、こちらを目指していることを明示しているように幾度も響き渡る。その足音の合間に、耳を劈くような音が微かに聞こえてくる。
パルプンテの力を受けて輪の内側が膜を張ったように白く輝く中に、見つめる眼差しの如き赤い光が灯り、それを頂点とした巨大な影が映し出される。
「来い!!」
円環の内側に佇む者に対してホレスが命じるように呼びかけると共に、白い光の膜が引き裂かれるようにして爆ぜる。眩い光が収まると共に、影として垣間見たもの全てが大地の上に現出していた。
先に聞こえた足音の源であった、人のそれとは似付かぬ四つの節足。それに支えられるようにして、戦士のそれを思わせる胴体が組み上げられている。鎧を纏った騎士とは言い難く、金属の骨格がむき出しになったそれは、血肉のないことを強く印象付けている。そして、一切の感情もない赤い光を帯びた一つの目が、ゴーレムより僅かに下の位置で相手を見定めている。
「素晴らしい…素晴らしいぞ!よもやわしが生きている間にこれ程の技術の結晶と出会えようとは!」
未知の金属で拵えられた機械の兵器――戦人形と呼ぶに相応しいものを目の当たりにして、ソリアは強い感銘を隠せずにいた。ゴーレムと同じく巨大でありながらも、無駄を一切省いたような完成された技術が細部にまで施されているのが見て取れる。
「お主が言っていたのはこれのことだったのだな。」
「そう、元々その弓はこいつのものだ。」
ホレスが先に見せた見慣れぬ弓と同じ形をしたものが、戦人形の左手にあたる部位に取りつけられている。それを元に本来の持つべき者を、変化の杖を主体とした力で呼び寄せたのだろう。
「だからこいつを見せられるのもこれが最後だ。この破壊兵器・キラーマシンをな。」
異世界から呼び寄せる程の大逸れたことをした代償か、媒体として用いられた弓は既にあるべき場に還り、ホレスの手元からは失われている。故に二度と同じ芸当を成すことはできない。
「これはゴーレムの力とあんたの敬意に対しての礼だ。もっとも、俺自身が積み上げてきたものでないのは残念だがな。」
そんな一度きりの切り札を使ってしまって尚、ホレスにそれを惜しむ様子はなかった。本来は純粋にゴーレムの巨躯と力に対抗する術を出したという思惑でしかなかったが、敵対して尚もソリアが見せた研究者としての熱意とこちらが抱いたゴーレムへの関心が、その決断を後押ししたように思える。
「構わんよ。では、見せてもらおうか。そのキラーマシンの力を。」
あまりにも完成されたその技術が、ホレスのものであるかどうかなど、ソリアにはどうでもよいことだった。
遥かな未来から現出された破壊兵器・キラーマシン。今の自分の研究の成果、メルキドの守護巨人・ゴーレムがそれに対してどこまで通じるかに強い興味を抱かされるだけだった。
時を置かずして、ゴーレムの巨拳とキラーマシンの刃が交錯して重々しい音を奏でて、破壊され尽くした樹林の内に響き渡らせていた。
虚を突いて今一度繰り出されるビロドの槍の刺突をレフィルの氷の大剣が受け止めて、砕けた破片に込められたイオラの力が敵を押し返すように爆ぜる。それを交わしながら元の間合いへと返って、再び同じ状況を作り出す。
「……くっ!」
「その程度かい?」
未だカーネリアが仕掛けてきたボミオスの呪縛は解けず、レフィルはその重圧を今も尚身に受けていた。押し潰されてしまう程ではなくも、動きを鈍らせるには十分な力によって縛られ、中々攻め手に転じることができない。
逆にビロドの方は、鎧が重荷であったと言わんばかりに、その速さは先の比にもならぬ程に増している。花弁の如く柔らかな意匠の白い衣に身を包んだ少年騎士。その手に取った白銀の槍と共に軽やかに戦う姿は、脅かす敵を鋭く刺す蜂とも、そよ風と共に舞う蝶とも取れる程に華麗なものだった。
優位に立った勢いのままに、ビロドの槍がこれまでにも増した強さでレフィルの振るう剣に纏うの氷塊を穿つ。
「!!」
その瞬間、氷の弱所が砕かれたのか表面全体に巨大な亀裂が走り、程なくして儚く崩れ落ちる。そしてビロドが避けるように身を引くと共に、氷の力を凝集していたイオラの呪文が暴発した。
「そんな大層な剣があっても、扱い方を知らなきゃただの背伸びでしかないよ。」
砕けた氷の内より生じる爆発がレフィルを四方から打ち据えていくのを嘲るように眺めながら、ビロドは皮肉のつもりなのかわざと親しみを込めた様子でそう告げていた。
「第一、あの子をあのまま行かせて良かったのかい?さっきの技だって、所詮一時しのぎでしかないんだろ?」
「……。」
イオラの爆炎を受けたのはレフィル自身のみならず、それを纏わされていた吹雪の剣もまた同じである。にも関わらず、刀身は砕けるどころか傷一つついた様子もない。それだけの名剣を持っていながらも、カーネリアに返した一撃を最後にビロドへと何も報いることもできずにいる。
先程の戦いでは、姉の跳ね返したから勝てたに過ぎない。今も氷に込められたイオラの力だけではビロドの白い衣に埃一つ浴びせることもできない。姉のカーネリアと同じく滅んだ世界に存在していた魔法使いの里の血を引いているからか、並みの呪文を跳ね除ける程度の術は持ち合わせているらしい。
「馬鹿だね、君も。余計な意地なんか張らないで素直に助けを求めたらいいのに。君みたいに何でもかんでも拒絶してるのがどれだけ愚かなことか分かる?」
呪文も通じず、まともな動きも封じられている。先程までの拮抗も崩れ去ろうとしているように、最初からこの勝負も時間の問題でしかない。それを慮ってそばで守らんとする仲間を行かせてまで自ら窮地に足を踏み入れる愚かさを、ビロドは嗤わずにはいられなかった。
「拒絶しているのはあなた達の方じゃない。ホレスの言葉だってまともに聞こうともしていないんでしょう?」
それに対し、レフィルは澱みなく言葉をそのまま返していた。傷つきながらもそれを悔いた様子も全くなく、温もり一つ感じられない冷たい視線をビロドへと向けていた。
故郷を滅ぼされたことの怒りをぶつけるばかりで、ホレスの真意を汲もうともしない。罪人の言葉を信じるに値しないという頑なな対応は、時に単なる独り善がりにも繋がる。そのような下らないことにホレスを巻き込むことなど、レフィルには許せなかった。相手が如何なる地獄のような苦しみを味わっていたかも忘れてしまう程に。
互いに認め合う余地など毛頭なく、最初から語って何かを得ようとすること自体が無意味なことでしかない。
「言いたいことはそれだけかい?」
全てを否定するようなその言葉に、ビロドの顔から笑みが消える。そして冷たい表情でそう言い放つと共に、再び槍を振り上げてレフィルへと躍りかかった。
自らの呪文を受けて尚立っているものの、先程と比べて明らかに隙が見える。二撃、三撃と交わされる吹雪の剣と聖銀の槍の刃の応酬の中で、ビロドは明らかな手応えを感じていた。受けた痛手によるものか、レフィルの動きは段々と精彩を欠いていく。
「終わりだ!!」
そして、痛烈な一撃と共に大きく体勢を崩した所に、ビロドはレフィルの喉元目掛けて槍と共に突進する。
「!」
繰り出された槍の穂先が貫かんとするその直前、レフィルはオーガシールドをかざしていた。激突と共に甲高い音を立てながら、ビロドの槍を受け止める。
しかし、堅牢な盾でも突進の勢いを逸らし切ることはできずにそのまま弾き飛ばされて、彼女の手元を離れて乾いた音を立てながら地面に転がった。
「しつこいね。だけど、これで君を守るものは何もなくなった。」
圧倒的な劣勢に置かれながらも、レフィルは諦めずに抗っている。だが、満身創痍の上に盾も失っている今、もはや勝負は見えている。
まして、こちらに一矢報いることすらも……
「……え?」
そう思った矢先に、不意に槍が半ばから折れて地面に落ちた。
「何が起こったのさ、今……っ!!?」
怪訝に感じながらビロドがそれを拾い上げんとした時、胴を過るような鋭い痛みが走った。
思わず体を改めると、白い衣の右の脇腹からへそにあたる位置の間までが斬り裂かれ、その傷跡が凍りついている。それは間違いなく、敵が携えている吹雪の剣によるものだった。
「バイキルトだと……!?」
良くても拮抗に留まっていたはずの状態を一気に覆す力を与えたものが、膂力を引き上げるバイキルトの呪文に類するものであるとはすぐに予測がついた。だが、それを裏付けているものが何も分からない。
「まさか、ボミオスを打ち破る程の力が……!?」
動くことさえままならぬはずが槍諸共この身を一刀両断にしかねない程の一撃を与えたことを満足に解せぬ中で、ビロドはレフィルの影に立ち昇る不穏な気配を感じ取った。
「そうか、君も同じなんだ。」
それを見て合点がいったのか、ビロドは驚愕に満ちた表情を一転させて、口元に歪なまでの笑みを浮かべていた。
「同じ、ですって?」
「自分の体をよく見てみなよ。」
「!!」
無自覚なままに力を使った、否、使わされた傀儡のような滑稽な有様を嘲るビロドの言葉から、レフィルもまた自分自身が置かれている状態を知ることとなった。
――闇の衣!?
ボミオスの重力に逆らうかの如く立ち上る紫の霊光の影を成すように、常世の大地よりも暗い闇がレフィルの周りを覆っている。それを認めると同時に、先程まで感じていた激情の源も知ることとなった。
「そう、僕も君と同じ大魔王に魂を捧げた人間ってことさ。」
心の闇に己を委ねた者に大魔王ゾーマがもたらすもの。それがアレフガルドにあまねく闇と同化するかの如く、何者も届かぬ程の存在へと昇華させる力――闇の衣である。
「わ、わたしは……」
だが、その代償として大切なものを失うことにもなる。憤怒や憎悪に任せるままに敵を打ち倒さんとした中で、レフィル自身の心もまた深く傷ついていた。盲目的に互いを否定し合うだけでは自らもまた暗い激情に駆られてしまう。その先には、際限のない憎しみ合いとその中で人の心を失う結末しかない。
闇の力に中てられただけに留まらず、心の奥底で抱いていた怒りをただ振りかざした果てに同じ過ちを繰り返さんとしている自分に、レフィルは失意の念を憶えていた。同時に、彼女の周りに纏わる闇の衣は徐々に薄れるようにして消え失せていく。
「ああ、それも否定しちゃうんだ。だから馬鹿だって言ったよね。」
戦意さえも失ったように力なく項垂れる彼女に、ビロドは更に侮蔑の眼差しを向けていた。これまで突き動かしてきたものを否定してまで、自ら力を拒まんとしている様には滑稽ささえも感じる。
そうして嘲笑するビロドの姿には聖騎士の長としての高潔さなど見る影もなく、そこにあるのはその仮面を剥がした、人の心の痛みを知らぬままに増長した子供の悪意だけだった。
「まして、そんな火事場の馬鹿力だけで、今の僕を相手にしようなんてどれだけ愚かなことなんだろう。」
正直ボミオスに覆われた中からあのような反撃を仕掛けてこようとは予想外ではあった。だが、今となってはそれも些細なことでしかない。所詮そこまでしか抗えない者に、これからの力を受け止めることなどできない。
「ベホマ」
「!」
ビロドが唱えた最上級の治癒の呪文がレフィルに斬り裂かれて凍てついた傷を、氷ごと跡形も残さずに消し去っていく。同時に、彼の体の内から深い霧を思わせる漆黒の闇が立ち込め始める。
「君自身で味わってみればいいよ。人の心の闇がもたらす虚しい力をさ。」
いつしか悪戯好きの妖精を思わせる人の心を逆撫でするような雰囲気が、人を破滅へ導くことを至上の喜びとする小悪魔のものへと転じている。闇の衣を纏った異世界の聖騎士は、その端正な顔立ちに狂喜を浮かべつつそう言い放っていた。
真っ二つに砕かれた槍が彼の下へと集い、時を遡るかのように元の姿へと戻っていく。不意を突かれて尚も揺らいでいないビロドの歪んだ愉悦に支えられているかのように……
――こんなの、何かが間違っている……!
再び襲い来るビロドの槍を受け止めきれずに、吹雪の剣が叩き落とされる。急に込み上げてくるやりきれない思いに捉われて、力を増した敵に満足に備えることもできない。
「やめて!!」
心の闇に身を委ねて戦い続けた先にあるものを、凶刃を向けるビロドを介して今再び垣間見て、途方もない嘆きが蘇ろうとしている。その心のままに思わず叫ぶレフィルの声も空しく、同時に白銀の槍が鎧ごと彼女の心臓を貫かんと突き出される。
木霊するレフィルの叫びの余韻が消えた後には、もはや何も聞こえなかった。