第三十三章 偽りの調和
腐臭と湿気の漂う陰鬱とした沼地の広がる深い森。かつては聖地の加護の下で生気溢れる樹林であったはずの木々は今は無惨に毒沼の中に沈んでいる。長い時を経て朽ち果てたその様は、伝承にある穢れ――瘴気に犯されたような凄惨な有様だった。
糧を失って身も省みずに襲い来る魔物や、死地へと引きずり込まんとする亡霊などとの戦いも、雨の祠へと赴いた時と変わらず一瞬たりとも気を抜けない危ういものだった。だが……
「……少し、黙っていてもらおうか。」
そう言い放ちながら、くすんだ白銀の髪の青年が杖を掲げる。雨雲を模した先端は、あの時レフィル達を死の淵に追い込んだ者達と同じ類に属する魔物――魔王の影に対して向けられていた。
唱えられようとしていた死の呪文、ザラキの言の葉を降りしきる雨が掻き消していく。その隙を突いてレフィルの吹雪の剣から発せられる凍気の矢が、浄化の呪文――ニフラムの力を纏ってその影達を貫いていた。
「……よ、良かった……。」
「いや、こいつらの方は所詮下っ端だ。お前達が恐れる相手でもないさ。」
現れた魔王の影の一団を瞬時に一掃できたことに対して、レフィルとムーは安堵の意を隠せなかった。闇の大魔王の加護が働いていたとはいえ、成す術もなく命の炎を吹き消される程の窮地に立たされれる時の恐怖は忘れられない。
そうして恐れていた相手との戦いを何の危うげもなく即座に終わらせられたのは、ホレスの助けによるものだった。自ら死に瀕した状態である中で大魔王の刺客を容易く打ち破れる程の純粋な戦力の向上もさることながら、敵の動きを封じ込めたりなどの的確な補助によって、命の危険はより少なくなった。
戦いにおいて剣技や攻撃呪文を主とした力と力のぶつかり合いを主とするレフィルとムーの苦手とする所を補い、こうした戦闘以外における部分の旅の細かい配慮も含めて安定性を著しく上げていた。
「しかし、大したものだよ。この杖も。」
「これが、雨の力なのね。」
雨の祠に住まい、レフィルの守護精霊として生きてきた女性――ミストから託された杖がホレスの手の内に収まっている。清らかなる雨の力の一端だけで、先程の強力な魔族の呪文を封じ込めることができた。
「後は太陽の石だけど……。」
それ程の力ある道具に留まらず、雨雲の杖には更なる役割があるはずだった。レフィルがラダトームのラルス一世より借り受けた太陽の石を取り出しつつそう切り出す。
「でも、これだけじゃ何もおこらない。」
「そのようだな。」
疑問に満ちたような曇りの残るレフィルの物言いに頷くように、ムーがその結論を言い、ホレスもその現状を認めた。
「爺さん、あんたは何か知っているか?」
「ふむ…雨と太陽が合わさる時虹の橋ができる、で良かったはずじゃがな。」
傍らで静かに耳を傾けていたガライへと話を促すも、彼もまた太陽と雨という条件が揃った今になって大きな変化が起こらぬことに首を傾げている様子だった。取り出した古文書の一端と太陽と雨の秘宝を交互に眺めつつ、ただそう返すだけだった。
「そいつは……創世記か。」
「うむ、念のため持って来たんじゃよ。」
レフィル達を新たな旅に誘う雨と太陽、そしてそれらからなる虹の橋を初めとして様々な伝承が綴られた古の書物。
「なるほど、だがその話には様々な語り手がいる。大体似たようなものだがな。」
一目見てすぐに分かる程に深く馴染みがあるのか、ホレスは更に語り始めた。
「”天より降りしきる雨に太陽の光交わりし時、聖地に虹の礎現れん。其を携えしは、神の寵愛を賜りし人の子なり。”俺が聞いたものの一つに、こんなものがある。」
アレフガルドに広く伝わる伝説、“雨と太陽が交わるとき、虹の橋ができる”。だが、その云われは時が経つにつれて様々な語り部を介して姿を変え続けていた。時折曲解されて原点より歪められたり、話の断片のみが先走るなど、本来の話と異なっていても然程不思議なことではない。今ホレスが告げた伝説の一片もまた、そのような話の一つだった。
「虹の礎?」
「うーん……」
だが、この世界に初めて来たレフィルやムーには、その全てを知るにはあまりに時間が無さ過ぎた。ガライの家でその古文書を紐解いた知識も然程深いものではなく、普遍的に知られている伝説を知ることもままならない。
雨と太陽から容易く連想できるその先にあるはずの単語を含んだ言葉でさえも、彼女達には聞きなれないものだった。
「……虹の礎か。ホレスよ、お主は既にそこまで……」
「いや、分かってやってるわけじゃない。だが、南東の地に聖なる祠があるのは実際に確認した。」
「ほう……」
この世界に辿りついて程ないのは彼もまた同じはずだった。それでも、同じ伝説を追い求めても辿りついた理解の段階がレフィル達よりも進んでいる謙遜する本人の態度とは裏腹に、右も左も分からない異界の者であるにも関わらず、既にこの世界に住まう者達とも遜色のない程の知識を得ていることは驚嘆に値する。更には魔物蔓延る今の道中を切り抜けてその伝承を実際に調べる程の実力も持ち合わせていることにガライは驚きを隠せなかった。。
知勇両方に長けている裏で、彼ほどの若い冒険者に一体どれだけ濃密な経験が与えられているのだろうか。
「本当なの?」
「ああ、間違いない。リムルダールの南に小島にある山奥に確かにあった。」
「だったら、そこに行ってみる…?」
ホレスが存在を示唆した聖なる祠と呼ばれる地。それが伝承でいう雨と太陽の神器が在るべき場所であるならば、向かうべきはそこになるだろう。
「でも、その前にラダトームに行かなきゃ……。」
だが、今は雨と太陽の交わるとされる地に行くよりも、やらねばならないことがあった。
「メルキドの騎士どもに追われた俺と同じように、あいつもまた策謀によってラダトームの牢にぶち込まれた。カフウが言っていたことが本当ならな。」
「…………。」
「カフウさん…武器職人の…。」
雨の祠の内で過ごす中で、ホレスは二人にマイラの村で見聞きしたことを伝えていた。かつて戦いの中で散ったと思われていたあの男がこの世界に生きていたこと、その彼が鍛冶師の下について新たな仕事を始めたこと。そして、その果てに妬み深きものの陥穽に落とされて投獄されてしまったこと。
「…………。」
その話を始めると共に、ムーは帽子を目深に被って俯いた。僅かに除かせる口元は固く閉ざされて、その小さな手のひらもまた硬く握りしめられている。
「……ったく、こいつも下らないことに巻き込まれたものだ。」
いつしかホレスは懐から何か細長いものを収めた小包を取り出していた。おもむろに開かれるその中から現れたのは、刃先を潰された剣の切っ先だった。
「これが、偽物なの?どうしてこんな酷いこと……」
幾度も打ち据えて徹底的に破壊しようとした跡が、圧し折られた刀身に刻みつけられている。それでも、傷の隙間からは精巧かつ頑強な鈍く黒い鋼の光沢が覗かせている。如何にして砕かんとするという試みの数が、かつてこの剣が宿していた強さを表しているように見える。
一人の使い手を死に導いたとは言え、それが伝説の武具としての名を汚したと見なしてこのような愚かな仕打ちに及んだ者達の意図に対して、レフィルはそう零さずにはいられなかった。
その時、不意に聞こえた地響きが思考を覆い始めた疑念を吹き飛ばした。
「これは……」
遠くの方で大地を踏み砕きながら、何かがこちらに近づいてくる音が聞こえてくる。暗闇しかない道の奥より伝わる衝撃が三人の足元にまで伝わってくる。
「来るぞ。」
「!」
次の瞬間、遠くにあったはずの地響きが急に強まり、土煙を上げた。
不意に目の前に打ち下ろされたように落ちたその質量に巻き込まれれば、なすすべもなく押し潰されてしまっただろう。その恐怖より、レフィルは胸の奥に冷たいものが走るのを感じていた。
「これは!?」
「ルーラの応用だ。向こうも俺達に気付いたらしいな。」
溜まらず叫ぶように問うと、ホレスはすかさずこの現象についての答えを返していた。目に映らぬ外にあったはずの巨大なものが瞬時に目の前に現れたのは、それ自身の速さで動いたわけではなく、別の力の働きによるものだった。
魔法の力によってそれを転位させることによって相手の意表を突く。それは敵が既にこちらの居場所を察知していることを意味していた。
「ふむ、ただの魔物ではないようですねえ。」
灯の明かりが届かぬ程の高さにまでそびえ立つ二本の柱。それもまた、その敵の動きを支える両脚の一端に過ぎない。そんな巨大な敵を前にしても、詩人の老人は微塵も恐れた様子もなくただただ魅入るようにして見上げている。
「でかぶつ。」
そうして感銘を受けているかのようなガライの横でムーはその威容に対してただ一言でそう評していた。如何に巨大であろうと、所詮は敵でしかない。小さくか細い体躯に不相応な鈍器を思わせる重量ある杖を構えながら、彼女は遥か上を睨み据えていた。
「この巨人は……」
一見すれば巨石を一つ一つ積み重ねて組み上げられた城壁を思わせる趣だった。重圧はそのままに、それが巨人の形を成している。レフィル達の目の前に立ち塞がった魔物は、まさに動く城塞とでも言うべき存在だった。
今はただ静かにこちらを見下ろすかのように佇んでいるが、一度動き出せば一体どれほどの破壊をもたらすことになるだろうか。
「よう、こんな所までわざわざ御苦労なことだな。」
予期せぬ存在の到来と共に訪れたしばしの静寂の時。だが、ホレスはその城塞に全く気圧されていないように歩みよりつつ、一言そう呼びかけていた。
「……え?」
「誰かいる……?」
城塞の巨人に対して語りかけるような彼に最初はレフィルもムーも首を傾げるも、その言葉が向ける先が別にあることにすぐに気がついた。
「ほう、お主がホレスじゃな。世に仇なす魔物……か。」
三人が巨人の足元へと目を向けると共に、老人のしわがれた声が投げかけられる。そして、闇に閉ざされた視界の奥からローブに身を包み書物を携えている老人が闇から歩み出てくる。
「聖騎士達を退けたとは人間業ではないな。だが、お主のどこにそのような力がある?」
勇者の盾の“紛い物”を携えた白髪で痩躯の男。その特徴から、老人はすぐに目の前に立つ青年がメルキドを騒乱に陥れた存在と認識していた。それでも、膂力も魔力も然程感じられぬ彼が、如何にして聖騎士団に看過できぬ程の被害をもたらしたのか疑問が尽きなかった。
「あんな力に奢り高ぶったバカ共の隙を突くことなど容易いことだ。」
しかしホレス当人は、聖騎士を騙る者達の傲慢を唾棄していた。力に溺れる者が辿る末路は更なる力や己の知らぬ弱所によって敗れ去ることに尽きる。ゾーマの手先になり下がることで他の追従を許さぬ存在になったはずが、突破を許して程に容易く打ち破られたのもその油断故のことだった。
絶対的な力に太刀打ちできる程の破壊の鉄球や、無形の敵に効果を発揮して更なる強化をも施された影断ちの大刀。それらを初めとする一つ一つの道具が強大な力を持った魔の者に対抗するべくして用意されている。それでもただ真正面から立ち向かっているだけでは勝ち目がない中で運命を分かったのは、敵の慢心に加えてホレスの判断力の高さにあった。
「それよりもあんたも俺の命を狙って来たらしいな?」
「然様。」
だが、メルキドの騎士団はそれだけで諦めてはくれなかった。城塞の如き巨人と製作者たるこの老人を刺客として送り込み、今また自分の命を奪おうとしている。
「魔導によって土塊に新たな力を与える。このソリアの生涯を賭けた研究の指標、その答えがこのゴーレムだ。」
動く石像を初めとする魔物を人の英知を以って作り出す試みを、老いる今に至るまで続けてきたのだろう。老人――ソリアの表情には僅かな恐れもなく、ただ倒すべき敵であるホレスを見据えている。
その意思に従うかのように、静寂を保っていた城塞の巨人――ゴーレムが巨腕を振り上げる。
「その力を存分味わうがいい。」
「!」
次の瞬間、その拳がホレス目掛けて打ち下ろされた。
絶対的なまでの力を帯びた一撃が大地諸共敵を粉砕している。目の前で巻き起こされた凄まじい光景は神が下す裁きの如く重く轟いて暴風さえも巻き起こしている。
「全く、大層なものを持ってきてくれたようだな。」
「ホレス!」
だが、ホレスは寸での所で巨人の攻撃から身をかわしていた。如何に巨大で怪力であれ、その質量を御するのは並大抵のことではない。鈍重に攻撃を仕掛けてくるゴーレムの動きを読んで落ち着いて攻撃範囲から離れれば、身を守る程度ならばできる。
それでも、ソリア老人がこれまで培ってきた力の大きさは今の一合で更に思い知らされることとなった。大地に命を吹き込んでこれ程までの強さを持つ巨大な兵を創る術を得たことに畏怖の念すら感じさせられる。
「そんな力を俺なんかに振りまわしている場合か。」
「……。」
しかし、その思いとは逆に、ホレスは詰るようにして一言ソリアへとそのように告げていた。人の子一人の力ではとても敵わない程の偉大な力、ともすれば魔王にさえも匹敵する程の強大なもの足りえて、魔の手の者をも圧倒することとなるだろう。だが、その矛先はただ一人の人間でしかないホレスに対して向けられている。
人の世が闇の中に堕ちている中での愚かな選択をただ蔑まずにはいられない。
――え?
ゴーレムが加えた一撃の後ににらみ合う二人を遠くから見守る中で、レフィルはホレスが吐き捨てた言葉を聞いた途端に、ソリアの表情が一瞬深い嘆きに覆われているのを垣間見ていた。
これまでのやり取りの中で、騎士団より命を受けてホレスを葬り去らんとする意思。その他に、ゴーレムと呼ばれた土塊の巨人の創造に対する誇りを感じることができる。だが、そのような大切なものを、今の下らない戦いへと持ち出さざるを得なかったとあれば、どれだけの葛藤を内に宿すこととなるだろうか。
「その上、後続まで控えてやがるとは……」
今の戦いの音を聞きつけてきたのか、先程から鎧の金擦りの音が遠くからホレスの耳に届いていた。ゴーレムの圧倒的な力を前に迂闊に飛び込めない中で時間をかけ過ぎたのか、既にそれはすぐ近くにまで迫っている。
「終わりだ。諦めて我が手に掛かるがよい。」
いつしかソリアの傍らに、穢れの一つもない純白の甲冑を身に纏った騎士が手勢を引き連れて現れてそう告げていた。仮面の奥から覗かせる翆玉の如き双眸が射抜くように冷たくホレスを見据えている。
「貴様が親玉、メルキド聖騎士団長カネルか。」
眼前にそびえる城塞の巨人の威圧感すらも霞ませる程に強烈な殺気を浴びせられて、ホレスは新たに現れた敵の正体をすぐに悟った。
人々を守ると誓ったメルキドの聖騎士団の長でありながら、ゾーマと内通して着実に町と人々を偽りの理の下に破滅に追いやらんとしている背徳の騎士・カネルだった。