止まぬ雨 第五話
大魔王の魔手より己の大切なものを守らんとする思いから歩み始めた旅路。その最中で手を差し伸べてくれて道を指し示してくれる導き手達は、最初に感じた深い絶望とは裏腹に数多くいた。
反面、実際に共に旅して道を切り開いてくれる仲間は、互いに再会した二人しかいなかった。たった二人で戦い続ける中で、その場にいなかった彼の存在の重さを知ることとなった。
皆の先に立って魔物の気配を探って不利な戦いを避けるだけの機転を持ち、いざ危機に瀕した時は危険を省みずに救ってくれる。そうして心の支えとなっていた彼が今、目の前にいる。
「本当にホレスなの?」
だが、二人には彼に対して何か違和感を感じずにはいられなかった。その疑念を露わに、ムーは彼にそう尋ねていた。
「……良く見るとちょっと違う。」
確かに目の前に佇む男は、かつて共に過ごした仲間のものと一目見てすぐに察することができた。しかし、同時に自分達が良く知る彼とは微かに異なるものも感じられる。
「少し背伸びた?」
「……さあな。だが……」
以前の面影を色濃く残しながらも、やはりかつてとは比べ物にならない程の威圧感が感じられる。声は重みを増し、体は変わらず細身ながらもより逞しさを増している。
「何年?」
「え?ムー?」
その違和感の正体から何かの確信を得たのか、ムーが唐突に短く尋ねる。
「この世界に戻るまでに五年は過ぎたかもしれない。長い道のりだったよ。」
「ご、五年……?」
二人の会話のやりとりの間で、レフィルはうろたえずにはいられなかった。かなりの苦難が待ち受けてこそはいたが、それでも再会までの月日は半年には満たない。
「時間のずれ。あるとすれば、たぶん。」
「そんなことが本当に……?」
だが、それ程の年月の流れがなければ、ここまで変わってしまうとは思えない。或いは仮に五年、否、永劫の時が流れようとも説明がつかない程にホレスは成長の蓄積を得ている。
「俺も何も分かっちゃいない。だから悪いがこれ以上大したことは言えないな。」
「………。」
その道を歩んできたホレス自身でさえも説明できない不可解な現象。自分達が歩んできたものよりも遥かに密度の濃い時間を過ごす中で、一体何を見てきたのだろうか。
「ところで、メガザルって?」
話が暫く途切れた所で、レフィルはホレスにそう問いかける。
ザラキの呪文によって機を失っている間に使ったはずが、その名を口にしている。おそらくはガライから聞いたのだろうか。
「だって、あの呪文は……命まで捧げなきゃいけないのでしょう?またあなたを危険な目に遭わせて……」
そして、そのガライの言葉と今のホレスの様子を見て、その本質も既に悟ったらしい。転生の呪文――メガザルの本来の姿、仲間を助ける代わりに自らを犠牲にする。死を免れたとはいえ、今一見悠然と佇んでいるかのようなホレス自身があの反動で衰弱していることはレフィルにもすぐに感じられた。
「それが最善の道だったからだ。そもそもあんな魔族などにやられる俺じゃない。」
「だからって……」
常人であればそのまま絶命してしまう所を様々な工夫と折れぬ意志で耐え凌ぎ、更には自分達を呆気なく倒してみせた魔の者を葬り去ってみせた。結果を最初から確信しているかのように話すホレスへと、レフィルは更に食い下がらずにはいられなかった。
「心配するな。俺も所詮人間に過ぎない。身の程は弁えているつもりだ。死ぬのはごめんだからな。」
「……。」
ホレス自身も、死を決め込むつもりであのような決断をしたわけではないことは、レフィルもよく分かっていた。死地で生を支えられるだけの力と知恵が彼にあることも。それでも、いつ道を違えて死の底へと引きずり込まれてしまうことか。
――やっぱり、ホレスなんだ……
そのような心配をしている内に、かつても同じように幾度もの窮地から命を救われたことが脳裏に浮かぶ。前に進むためには相変わらず躊躇いなく自らを危険にさらし続けて、時に深く傷つきながらも道を切り開いている。
雰囲気すらも変わってしまう中でも、その本質までは変わらないことを垣間見れて、レフィルは僅かに安堵している自分に気が付いた。
「……第一、お前達もたったあれだけの備えでこんなところまで来たんだ。無茶はお互い様だろう。」
「ホレス……」
そして、いつからか自分もまた自ら進んで無謀な旅路に乗り出していることも……。かつて絶望的な状況下でも歩みを止めぬことを教えてくれた彼から無意識に学んだことなのかもしれない。
「だが、その無茶を重ねてでも、俺達はゾーマを倒さねばならない。」
大魔王ゾーマに挑むということ。それはかつて自分の道に大きく立ちはだかった魔王バラモスとの戦いをも超える死線を越えなければならないこととなる。
「母さんやじいちゃん、それに……皆のためにも……。」
「世界が滅んでしまう前に……」
かつては父の跡を継がされる形でその道を強いられることとなり、ただ生きたいがために耐え続けるだけの話だった。だが、今度は他の誰でもない自分達にしかこの役割を果たすことができず、それが成し遂げられた先にあるものを三人は心から望んでいる。
新たな世界を創らんとしていたバラモスをも手中で操り、彼の思いすらも踏みにじる――世界を確実な滅びへと導こうとしている大魔王ゾーマを、看過することなどできない。例え、かつてよりも更に厳しい道となろうとも……。
「良い仲間に巡り合えましたね、レフィル。」
あの時よりも更に強い志と絆を以って、再び魔の者の待つ険しき道へ共に行かんとしている若者達の勇ましさに感服した様子で、守護者の女性は微笑みを浮かべていた。
「ミスト、あなたも……」
精霊神に仕える雨の祠の守護者――ミスト。彼女は夢の中より呼びかけてくる精霊としてレフィルの夢の中に時折姿を現して、度々言葉を交わしてきた。それを通じて、抱えてきた迷いや先の見えぬ不安などの整理の一助となるなど、小さな所で献じながらレフィルを見守ってきた。
そして、レフィルが闇の底に引きずり込まれようとした時に真っ先に手を差し伸べてくれたのも彼女だった。夢現の狭間や死線をさまようなどの誰とも知る術もない漠然とした無意識下であればこそ、レフィルは確かにその存在を感じ取ることができた。
更には常にその身を慮ってくれた家族や仲間達、そしてここにいる二人の友もいる。そう思うと、これまでの旅は自分の想像を超える程の大きなものに守られていると改めて知らしめられた気分になる。
「…………でも、わたしは、あなたを裏切って……」
そんな友や仲間達に対して感謝を抱く一方で、レフィルの表情に暗い影が差し始める。
「あの時、どうしていれば……。」
全てを成就せんと突き進んできた最後に、レフィルは絶望の中で道を踏み誤った。引き止めようとする叫びを聞き入れぬままに、訪れた闇へと手を伸ばして自ら堕落を選び、そして嘆きのままに死の淵へと落ちた。
「いいえ。そうなることもまた、運命だったのかもしれません。」
その時のことを悔悟している彼女を慰めるように、ミストは優しく語りかけていた。
「全てを失くしたあなたに、他の道はなかったのですから。」
「全てを、失くした…………?」
道を踏み誤ったことを責めることなく、ミストはあの災いを引き起こしたものについて、まずそう評していた。
バラモスとの戦いの折りに、レフィルはもう戻れぬ道へと足を踏み入れた。そして、共に闘ってきた仲間は次々と倒れ、最後は自分一人だけが立ちはだかる魔王の前に残されてしまった。
追い詰められたレフィルに残された道は…………
「アリアハンの民達が望むままに、あなたはあなた自身の意を無にして、旅立つことを選びました。」
それ以前にも、レフィルは既に勇者として運命を捻じ曲げられる中で、行き場を失い続けてきた。オルテガが火山に消えたあの日に勇者としての道を強いられたのが、最初にして一番大きな分かれ道だった。
「自分の持つ大切なものを与えてでも愛しい者達を救いたい。それがあなたの持つ生来の優しさであると同時に、あなた自身を蝕む歪みの根源でもある。何もかもを与えてしまって、最後には何も残らない。あなた自身の道を、いつからか歩むことができなかったのではないですか?」
強く偉大な英雄を父に持ったことによって生じる先入観や期待は、レフィルを幼き日より苛み続けてきた。その苦しみから逃れたり向きあったりする中で、我の強さばかりが目立つ彼女も成長を重ね、魔物にさえも慈愛を以って接する優しさを得ることができた。
だが、それがかえってあの日にあの選択をさせる結果となったのは皮肉なものだった。人々の心の痛みを恐れるあまり、レフィルはその意に反して勇者としての道を自ら選ばざるを得なかった。
「己を自ら捨て去るその虚しさが、あなたの心の闇を増長させた。そうして皆に光をもたらすはずの勇者であるあなたが、もっとも闇に近しい位置に来ることとなったのです。」
血を継いでいるとはいえ、残された僅か三、四年程度の年月で父のような英雄となることはできるはずもない。その旅立ちがほんの一時しのぎでしかないことなど、最初から分かっていた。その運命の決着が訪れる瞬間を幾ら思い描いても、最後に訪れるのは明確な破滅しかない。
時が経つにつれて近づく最期の時に怯える中で、その絶望は心の奥深くへと根強く刻まれていた。
「あのまま己を捨ててはならなかったのです。己を捨てた者はその場の流れに同化して、光にも闇にも容易に転じる。あなたがバラモスと刃を交え続けたとき呼び込まれた力。そこにゾーマが付け入る隙ができてしまった。」
決着の時、友の存在が強く示唆していた希望も容易く掻き消されて、恐れていた未来がついに訪れてしまった。旅の中で得た力を以って最後まで道を切り開こうとする中で、あの嘆きが再び蘇る。
「……。」
「ムー……。」
そして、友が最後の力を振り絞って開いた扉の先から、ゾーマの闇の力を呼び起す寄り代となり、その後もたらされた悲劇は、扉を開いた友自身をも傷つけることとなってしまった。
これが誤った道を、自らを捨ててまで戦い続けてきた者の末路を象徴する結果だった。
「でも、あなたは仲間を束ねてバラモスに打ち勝った時、一度はその闇を払拭したはずです。その時に感じたものを思い出して。」
「感じたもの……?」
だが、それでも魔王バラモスを倒すことができたのは、その絶望を乗り越えるために得た答えがあったからだった。全ての道を閉ざされた時になって、闇に呑まれて尚もまだ残っていた希望と呼ぶべきもの。
それを再び見い出した時、今のレフィルを覆う暗い闇は晴れるのだろうか。
「あなたが心の底から笑える時を心待ちにしてますよ。」
取り返しのつかぬ程に大きな過ちを犯しながらも、友の助けを得て滅びの運命をも跳ね除ける。それは精霊神の命の下に監視者としての任にあたってから見届けてきたレフィルの成長の中で、最後にして最大のものだったのかもしれない。
いつからか守護者であろうとした夢の精霊は、今はただ慈母のような温かな微笑みを浮かべながらレフィルへとゆっくりと歩み寄っていた。
「ミスト……。」
吸い寄せられるようにその穏やかな眼差しを見ていると、これまでの旅路をずっと見守りながらも強く信じているように感じられる。果たして自分は、期待を抱かせる程の成長を遂げることができたのだろうか。
――でも、わたしは……
確かにあのとき、レフィルは闇の力に呑み込まれぬがための一つの結論に達することはできた。心の内に光を満たしていれば、闇でも己を見失わずにいられる。だが、更なる絶望を与えるべく降臨した大魔王に、その道理が通じるだろうか。
「そのためならば、私もまた何度でもあなたの助けとなりましょう。あなたの仲間たちと同じように……。」
不安に表情を曇らせるレフィルの意を感じつつ、ミストは言葉を続ける。
レフィルにとって夢の中の存在でしかなかった自分にできることなど、限られたことでしかない。だが、その誠意は偽りなどではない。
「恐れずに前に進みなさい。あなたは決して一人ではない。」
だからこそ、旅路の中で常に共にいる仲間達の思いもまた、レフィルを裏切ることはない。そうある限り、道の険しさが見せる仮初の恐怖を払い、闇の奥にあるものを目指して進んでいける。
「これは……」
囁きかけるように歩み寄るミストの手から、レフィルへと何かが託される。
「この地に伝わる聖杖、雨雲の杖です。」
「雨雲の杖……。」
流れる水とも空に揺蕩う雲とも取れる白い装飾が施された杖。それこそが、探し求めていた“雨”の象徴――雨雲の杖に他ならなかった。
これで、古に語られる太陽と雨の両方が、レフィル達の手中に収められることとなった。
いつ止むとも知れぬ雨のように、レフィルの憂いは容易くは消えないのかもしれない。
だが、そのような中でも、かつて共に旅した頼もしき冒険者との再会を果たし、ここに三人の友が集った。勇者としての生き方を捨てた今も変わらず残る絆の下で、不安も幾ばくか和らぐような気分だった。
降りしきる驟雨の先に、未だ答えが見えずとも…………
(第三十二章 止まぬ雨 完)