止まぬ雨 第四話
天が常夜の帳に覆われているにあるにも関わらず、不思議と仄かな明るささえも感じられる古の祠の庭園。
大魔王の手の者によって先程まで辺りに立ち込めていた血泥を思わせる重苦しい闇も、静かに振り続ける雨によって洗い流されるようにして消え去っている。
小さな城を思わせる本殿のバルコニーに灯の光が差す。そこに映る影の主が、祠の奥からゆっくりと歩み寄ってその姿を現していた。
「もう体調はよいのですか?ホレス。」
悠然と時をただ黙して過ごすように祠の庭園の全景を眺める彼の耳に、静かで落ち着いた調子の女声が届く。
「ああ、心配せずともそう簡単には死にはしないさ。」
澱みのない水のように純粋な気遣いの言葉を素直に聞き入れつつも、ホレスは自らの無事を示すようにそう返していた。
「相変わらずね。その力強い生命力、人の域を超えていたとしても可笑しくはありませんよ。」
ほんの少し前まで己の命さえも捧げんとしてその反動で死に瀕する程弱っていたが、それを感じさせぬ様子で悠然と佇んでいる。常人ならば既に命を落としかねない状況にも関わらず生き延びる生命力と、その窮地に自ら足を踏み入れることを厭わぬ程の勇気がなせる技とでも言えるだろうか。
闇の手の者の軍勢との戦いをくぐり抜けて最初にここを訪れた時と変わらぬ蛮勇に対してか、彼女は苦笑を零しつつそう告げていた。
「やれやれ……だが、そう言うあんたこそ何者なんだ?」
呆れつつも可笑しさを露わにしたような仕草に肩を竦めながら、ホレスもまた言葉を返すように守人の女性へとそう尋ねていた。
「あんたの声を聞いたのはここが初めてではなかったな。こんな辺鄙なところから、どうやって俺達に語りかけることができた?」
最初に雨の祠に辿りついて言葉を交わした時から、ホレスはその声を介して過去の僅かな記憶を思い返す事ができた。
「そういえば、憶えていたのでしたね。あの時は驚きました。」
かつて聞いた声だけからでも、話した相手の雰囲気を感じ取れる程の聴力。それによって初めてまみえるはずが、同じ人物であることをすぐに見抜いたホレスに、彼女は驚きを隠すことができなかった。
その最初に出会った時のことを思い返して微笑みながら、彼の正面へと歩み寄る。
「私は彼女の道を見守りし者。勇者の資質をもつ者の行く道を見届ける、それが私の使命でした。」
清廉なる守護天使、それが彼女に対してホレスが抱く第一印象だった。
着飾るためではなく、神に仕えし者であることを示すそのためだけに作られた聖なる衣に身を包み、その緑髪には雲を思わせる紋様の描かれた白銀のティアラが戴かれている。
その丁寧な仕草も相まって、この聖地――雨の祠を見守りし役目を与えられたに相応しい人を超えた神格を醸し出している。
「なるほど。それがあんたの正体か。それで、俺達のことをどこまで知っている?」
そして、与えられた更なる役割の下に、勇者と呼ばれた者達を見守り続けてきたという。運命を見定めるという常軌を逸する任を背負っているならば、自分のことも知る所となったのも頷ける。
「“彼女”がこの世に生を受けてからずっと、です。」
彼女にとって、それは一人の少女の生誕から始まるものだった。
「……レフィルが生まれてから、ずっと?」
「そう、今まさに道を切り開いている“彼”の子となったその時から、あの子の運命は定まることとなったのです。」
魔王討伐による世界の平定を掲げてきたアリアハンの勇者。その理想が潰えて全てを失って尚も、今度はこのアレフガルドで新たな戦いを続ける真の英雄オルテガ。
その忘れ形見であり、ホレスがかつて共に旅した仲間でもある心優しき少女――レフィルこそが、彼女が見守るべき勇者の卵とも言える存在だった。
「まさかあんた達が糸を引いていたわけではないだろうな。本来ならあいつは勇者の道なんか進む奴じゃないはずだったんだ。」
英雄たる者の血と才を継いだからか、勇者としての資質が十分であると見なされることはホレスも認める所だった。だが、そこにレフィルの本意はないこともまた、旅中での葛藤とその爆発によって嫌と言うほど思い知らされることとなった。
「それはあなたもよく知っていることのはずです。私達が干渉できる余地などどこにもないことは。他ならぬアリアハンの民が選び、世界もまた望んだ結果ではないのですか。」
「なるほど、その愚かさは否定できないな。それならあんた達が口を挟むまでもないか。」
レフィルを追い詰めていたのは、唐突に訪れた重責とそれに対する異常なまでの期待だった。アリアハンの平穏を望むがために差し出される犠牲に等しいとも知らずに、人々はただレフィルに“勇者”であることを望み、その逃げ道を封じ続けてきた。神に近しき者が導くまでもなく、レフィルの命運はこうして既に決まっていた。
――……悪魔、ね。
如所詮は勇者の名が生んだ結果でしかない。そう感じられるのはホレス自身もまた望まぬ名の下に己の過去を定められてきたからかもしれない。テドンの者達に悪魔と蔑まれ、道の全てを閉ざされんとされたことは、世界の者達に讃えられて更なる働きを期待し続けられる勇者とはまさに好対照とも言える役柄だろう。
「ですが、彼女には別に深く望むものがあった。それを取り戻したかったからこそ、敢えて彼女は懸命に生きるために辛い過去を受け入れてきたのです。」
「…………。」
勇者としての運命を拒むことは最初から許されていなかった。それでも、レフィルは自身が望む静かで穏やかな時を取り戻すがために、押し潰されずに来れたのだろう。その決意が呼び込む結果が、どのような方向に行くかも知らずに……
「来たか。」
言葉を交わす中で、ホレスは階下から近づいてくる三つの足音を聞き、そう呟いていた。
一つは祠の中を駆けずり回ってその随所を興味深く眺めるような軽くも早い歩調、老人の微笑ましげな笑い声と共に聞こえる足音は孫の姿を見守るようなゆったりとした歩みだった。
そして、こちらへと近づいてくるもう一つ……
「…………。」
いつしか現れた白い衣に身を包んだ黒い髪の少女が、その紫の双眸でこちらを見つめている。
「やっとお会いできましたね。この雨の祠でずっとお待ちしていましたよ、レフィル。」
何かを告げるわけでもなく、ただ静かに佇んでいる少女――レフィルへと歩み寄り、祠の守護者は温かな微笑みと共にそう語りかけていた。
「………知ってる。」
初対面とは思えないその呼びかけに対して驚く様子もなく、レフィルは自然にそう応えていた。その表情もまた、数年来の友人と出会った時のそれを思わせるものだった。
「あなただったのね、ミスト……」
幼き日に英雄の子としての模範を強いられた時、そして新たな勇者としての旅立ちを迎えた時、そして闇からの誘いを受けた時、そのように勇者としての運命がちらつき始めた頃から、度々自分の前に姿を現していた夢の中の精霊――ミスト。
その彼女とのアレフガルドの聖地においての再会に、歓びとも後ろめたさともつかないものを、レフィルは心の底で感じていた。
「やはり、あんたは……。」
旅の最後で導いてくれたように、ミストがレフィルに対して単なる監視者以上に、一人の理解者であろうとする風体が見て取れる。それが逆に、先程彼女自身が告げたその役割を背負っていることをホレスに確信させていた。
「ホレス……?」
「……。」
それから程なくして、レフィルはホレスの存在に気がついた。
「ホレスなの……?どうして……ここに?」
確かに彼女は、目の前の男をかつての仲間――ホレスであると認めることができた。だが、それでもあまりに変わってしまったものを見るように、語りかけ辛そうな様子を露わにしている。
「やっと会えた。」
「!!」
言葉が進まぬ時間が暫く流れ続ける中、不意にレフィルの背後からひょっこりと誰かが覗きこんでいるのが見えた。
「ム、ムー!?び、びっくりした……。」
暫くの間は雨の祠を物色している様子だったが、いつの間に後ろにいたのだろうか。目の前にいるホレスに夢中になって気付かずにいたレフィルが驚くのを横目に、ムーもまたホレスと守護者の前に躍り出ていた。
「久しぶりだな、二人とも。」
ほんの僅か前には、呪いによって死に瀕していたはずが、今は既に歩ける程に快復している。その様子を見て胸を撫で下ろしつつも己の力を信じていたからか、ホレスの顔に元より憂いはなかった。
それよりも、本当の意味で再会できたそのことに対しての思いが微かに滲み出ている。
――再会をずっと待ち望んでいたのですね。
文字通りの冥府の彼方から、長く苦しい旅を経て、彼は再び二人の仲間と会いまみえることができた。平穏の中で突如として巨悪が襲い来る絶望を乗り越えて、彼女達は頼れる冒険者に至ることができた。
この時もまた、険しい旅路に行く彼らを支える一つの大きな喜びだった。
――私もまた、ここにあなた達三人が集う日を心待ちにしておりました。
そして、三人を見守ってきたミストもまた、己の使命に縁ある者達と直に出会えたことに、純粋に喜んでいた。苦境に追い込まれる度に成長を重ねていき、時には大きな過ちさえも犯しながらも前に進み続ける。
闇の衣が大魔王ゾーマの力の一端に過ぎぬと言うのであれば、この姿もまた人の可能性の一部でしかない。そのようなものであれ、ミストは三人を見守り続けてきたことを、今日ほど嬉しく思った日はなかった。
「ふぇふぇふぇ、これは良い詩になりそうじゃわい。」
奥より見守り続けるだけで、ただその場の雰囲気に身を委ねていた吟遊詩人の老人もまた、再会を果たした三人の若者へと感銘を受けていた。
――さて、これはどちらに転ぶことかの。
聖地である雨の祠。闇の世界の最初の目的地として目指していたその地に、最初の友と影で力となってくれた理解者が共に待ち続けていた。それが差す意味は偶然か、それとも定められた運命によって用意された道なのか。
そのようなことを知る由などなく、今はただ喜ばしき時が流れ続けていた。