止まぬ雨 第三話
何もかもが滅びゆく死地に突如として灯った命の輝き。その残滓は、毒沼の内で枯れ果てたはずの草木を僅かに蘇らせて、久しくその姿を見せていなかった光景を束の間ながらも再現していた。
『何故生きている!?』
その白炎の内で燃え尽きたはずの男が、今再び目の前に姿を現し、あまつさえ自分に牙を剥かんとしている。血の色を帯びた亡霊は、思わず彼にそう問わずにはいられなかった。
「簡単なことだ。全てを捧げなければ、まだ生きる余地は十分にある。その代わり、本来の力をそのまま発揮することはないがな。」
ホレスの用いた転生の呪文――メガザル。同じく自己犠牲によって敵を殲滅するメガンテとは好対照とも言える呪文。その代償は己の全て、命そのものであるはずだった。だが、誰かのために自らが犠牲になる愚行を嘲笑うかのように、彼はその場に確かに生きていた。
自らの存在を賭して放つが故に抑えようのなく、確実に死に至らしめるがゆえに禁呪と恐れ蔑まれてきた究極の呪文。かつての忌まわしい記憶と、追いやられた異世界の経験、そして大半の呪文に恵まれずに自ら道を模索し続けてきたホレス自身の才がなせる奇跡の業と言えるだろう。
「さて、待たせたな。約束通り、お前にはツケを払ってもらうとしよう。」
生贄となることを自ら選びながらも己の成すべきことのために帰還し、ホレスはそう言い放つと共に魔王の影へと斬りかかった。影断ちの大刀――シャドーブレイクの刃がどす黒い血の彩りを帯びた影を掠め、確かな手ごたえと共にその一端を斬り飛ばす。
『……だが、そんな体で我を相手に何ができる!!』
両断されるには程遠くも手傷を負わされた怒りをそのまま返すように、魔王の影もまたホレスへと反撃を加える。
地を伝って彼の足元を掻い潜り、音もなく背後へと迫り悪魔の爪を振り下ろす。よろめきこそせずとも、体力を失って明らかに動きが鈍ったホレスに、それをかわす術はない。
「……試してみるか?」
『何!?』
だが、その実体のないはずの影の腕を、ホレスは素手でしっかりと掴んで受け止めていた。
『ち……!』
握りしめられるその感触は、決して死に損なった者の弱弱しいものではなく、今にもこのまま砕かれてしまう程の圧力を帯びた力強いものだった。明らかに瀕死のはずのその体のどこに、これ程の力があるのだろうか。
「もっとも、闇の衣を纏った所で、お前程度の相手に俺を殺せる道理はないがな。」
そして、窮地に追い込まれて尚もはっきりと敵対する意志を崩さぬ視線もまた死んでいない。それを支えているものは、これまでの経験で培ってきた確かな自信と矜持に依る所が大きかった。
『尚も減らず口を叩くか、面白い。』
一つ間違えれば命を失いかねない死線の上に立って尚も揺るぎなく己を信じて抗う姿に何を感じたか、魔王の影は笑いかけるように意味深に静かにそう告げる。
同時に、ホレスが反撃に転じようとしたその瞬間にその腕を振り払って、枯れ果てた樹林にその姿――己自身の影を映す。
『だが、残念だったな、せっかく貴様が救った命も貴様の死と共に水泡と化す!!』
そして、間合いの外からの攻撃にホレスが身構えるよりも先に、魔王の影の手のひらが彼に向けてかざされる。
『ザキ』
レフィル達を襲った死の呪い。絶命をもたらすザキの呪文が唱えられると共に、彼にもまたその力が覆い始めた。命を蝕む黒い闇が、ホレスの体へと吸い込まれていく。
だが、それも構わずホレスは魔王の影が伸びる枯れ木に向けてシャドーブレイクの剣を一閃する。一瞬遅かったのか、木を両断した次の瞬間には既に離れた場へと逃れていた。
「どうした?俺を殺すんじゃなかったのか?」
元より死の呪文が通じないことはいつからか自覚していた。そして、その力を最大限に生かす術をも長旅の中で研鑚し続けて昇華させて、闇の兵達を退けてその軍勢をも切り抜けて見せた。
『ほう、呪文の類が効かぬという噂は確かなようだな。』
当初こそ、然程の強さを感じさせることはなかったが、手の内が明らかになっていくにつれて決して侮れぬ、脅威と言うに値する存在として警戒されることとなっている。
その所以たる呪文への抵抗力を目の当たりにして、魔王の影は感心とも不服とも取れぬ様子でそうひとりごちる。
「お前は俺を恐れている。違うか?腰抜けが。」
近づけば影断ちの大刀の餌食となり、遠ざかっても呪文は効かずこれ以上打つ手はない。それを根拠としてか、ホレスは魔王の影へとそう告げていた。
『侮るな。』
だが、それは魔王の影も条件は同じことだった。ホレス自身が振るうシャドーブレイクの剣もまた彼の間合いの中でしかその刃が届くことはない。何より…………
ホレスの言葉を後悔させるかの如く、魔王の影は一瞬で彼の眼前へと迫り、反撃する暇も与えずに一心に叩き潰さんとその腕を振り下ろした。
『何だと……!』
「…………。」
だが、反応自体はホレスの方が一歩早かった。左手にいつの間にか取られた蒼い盾が魔王の影の爪を迎え撃つ。
『勇者の盾か…!小癪な!!』
彷徨い続けた闇の果てにホレスが見い出した神の武具の一つ、護甲・勇者の盾。不死鳥の紋章をあしらった優美な作りに反したその堅牢さで、穿つように放たれた闇の手の者の痛恨の一撃を真正面から受け止めて弾き返していた。
『だが、大言を吐いた割には何もできぬようだな?死にぞこないが、もはや残された力もないと見える。』
「………。」
しかし、かつて勇者が手にしたとされる守りに脅威を感じながらも、魔王の影に然程怯んだ様子はなかった。ホレスもまた、その言葉に応じるわけでも次なる手を打つわけでもなく、ただ黙って様子を見ているだけだった。
攻撃を退けこそはしたが、体勢を崩した所でホレスはそれ以上追撃をかけてこない。その一瞬の消極性を、魔王の影は見逃さなかった。
『貴様こそ、恐れているのではないか?己の死を。』
今動きを止めたのは、慎重さから来るものなどではなかった。
これまでの戦いは生命力を失った体に鞭を打って力を引き出してこそなせる技だった。だが、それがいつまでも続く程甘くはなく、限界を避けることは決してできない。
徐々に衰弱して、動きを次第に鈍らせていくホレスを嘲るように、魔王の使いは皮肉を込めてそう告げていた。
――ふん、この程度で倒れるなどとはな。
二人を救うために命を削ったことなど既に知られて当然であったが、それでも敵を倒すだけの力は残している。少なくとも、自分ではそう思っていた。
――甘さが……出たな。
このまま機先を制し続けて何もさせないまま倒してしまえれば一番楽だった。だが、時間をかけ過ぎたがために、既にこちらがもう長く戦えぬことを悟らせてしまった。
どれだけ優位に立とうとも、一瞬の迷いでひっくり返されてしまう状況など幾らでも味わってきた。それが今になって起ころうとはどのような皮肉だろうか。
「その死に損ないを相手にここまで手こずってる間抜けはどこのどいつだ。」
だが、それで微塵も落胆した様子もなく、ホレスは尚も確かな足取りで地面を踏みしめつつ、魔王の影に向けてそう言い放つ。これまでの言葉を返せば、敵もまた自ら死の淵へと足を踏み入れた者に苦戦しているという滑稽な事実は覆らない。
「悪いが俺が生きている限り、お前の思い通りにはさせやしない。」
そして、今も尚魔王の影に立ちはだかっている。その表情には一片の隙もなく、何があろうとレフィル達を守らんとする強い意志を感じることができた。
『最早何もせずとも貴様は死ぬだけだが……その言葉、後悔させてやるのもまた一興よな、くく……。』
「やってみろ。できるものならな。」
もはや虫の息にも近いとはいえ、彼一人がために己の道を阻まれていると言うのもまた、人が抱く一つの希望に他ならない。それを摘み取ってやった後に残るのは……
魔王の影は下卑た笑みを浮かべるように揺らめきつつ、ゆっくりと迫って来る。それに動じずに、ホレスは大刀を構えて応じて機をうかがっている。
「お前如きに、二度もこいつらに触れさせるかよ!!」
先手を打ったのはホレスの方だった。かなりの遠間であるにも関わらず、その距離を一瞬で詰めて大刀で薙ぎ払う。
『愚か者め!』
「!」
だが、魔王の影は残された僅かな力を懸けた彼の渾身の一撃をあっさりとかわした。
『勝負を焦ったな!!』
守らんとするがために一刻も早く敵を倒さんという急く思惑は最初から読まれていた。
魔王の影は隙だらけのホレスへの反撃に転ずることもなく、彼の背後にいる二人へと魔手を伸ばした。死の淵から呼び戻されたばかりで未だ意識を失ったままの少女達へと、ザラキによる死の呪いが再び襲いかかる。
「……そうくると思っていたぞ。」
『!』
だが、それは彼女達に触れようとした瞬間、それは何かに弾き返されて四散した。
『呪符!!?貴様……!』
「そうだ。そこにお前の力は届かない。」
ザラキの呪文を跳ね除けたそれは、目まぐるしく飛び回る幾つもの紙の護符だった。その軽さと脆さに似合わぬ痛烈な衝撃を与えて、続いて手を伸ばさんとしていた魔王の影をも退けている。内にある者への厄も敵も跳ね返す守護の力が込められた聖域――トヘロスの護符の力だった。
「無駄だと知らしめるにはこいつらを狙った方が早いとでも思ったか?お見通しなんだよ、バカが。」
『貴様、何を言っている……!』
死を恐れぬ者を屠ったところで、絶望を与えることなど難しい。ならば勝負を甘んじて受けずにその志を支える大切な存在を最初から奪ってしまえばいい。そのような魔王の影の思惑も、ホレスの前には通じなかった。
「だから言っただろう?お前は俺が怖いんだ。“魔王”の影が聞いて呆れるな。」
守るべき者の命を餌にする程に手段を選ばずも、最後には全部を守り抜いて見せたホレスが抱く覚悟。如何なる言葉を吠えた所で、それは既に一介の僕に過ぎぬ者などの手に負えるものなどでは到底ありえなかった。
傲慢にそう言い放ちつつ、投じられた黒金の短剣が魔王の影の足元へと突き刺さる。
『何処を狙ってい……!!?』
牽制にすらならない挙動に隙を見て、魔王の影が再び躍りかからんとしたその時、不意に何かに強く引かれるようにして止まった。
『な……こ、これは……!?』
「おい、闇の衣を纏いながらもその程度か?」
『影縫いの術だと……!!?貴様……!!』
先程投げつけられた短剣の切っ先が、地面と魔王の影の体とをしっかりと縫い付けて放さない。それが影を縛ることによって、その本来の持ち主との因果の逆を遡ることによる秘術・影縫いの呪縛だった。
「もはや何もできないと言うならそれでもいい。これで終わりにしてやるだけのことだ。」
同じく闇の衣を纏いながらも、魔将バロンはこの小細工を容易く破って見せた。だが、こんな玩具でいいようにあしらわれる様に心底呆れた――否、失望すらも感じた様子で、ホレスはただ黙って魔王の影を見上げる。
「お前自身の身を以って味わってみろよ、絶望をな。」
唐突に舞い降りた理不尽なまでの状況を前に憎悪だけが募るばかりで、戦意は既に失われている。絶望を与えんとして二人の命を狙った事が逆にホレスの怒りを買って、打つ手全てを封じ込められる結果となった。
『馬鹿なああ……っ!!!』
皮肉にも、絶望を返される結果となったことに対してか憤慨の断末魔を残して、影断ちの大刀に切り刻まれた魔王の影は跡形もなくこの空間から消滅させられていた。
大魔王が差し向けてきた刺客は死に、張り巡らされていた死の幻想もまた消え失せていく。
代わりに、古の時よりあり続けた聖地がその姿を再び現す。石畳が続く道に空から小雨が降り注ぎ、水音を奏でている。
「ほう、これが……」
死地から一転して現れた場に、ガライは思わずため息を零していた。レフィル達が眠っている傍らに、清水が湛えられた花壇が続いている。
単純な神聖さを誇示するようなメルキドの神殿とは違い、ただひたすらに清く住みよい雰囲気が漂っている。
これがレフィルとムー、そしてホレスの目指すべき雨に纏わる聖地――雨の祠に他ならなかった。
「しかし、無茶をしたものじゃな……。」
ひとしきり見回した後に、ガライは後ろで静かに佇む青年へと向き直りつつそう告げていた。
「…ふん、これは流石にまずいか。」
悠然と立っているその姿に反して、顔色からは生気が殆ど感じられない。
「何故命を捨てるような真似をした?」
「だからさっきも言っただろう。俺は最初から命を捨ててなどいない。」
二人を救うために唱えた転生の呪文・メガザルに代償として己の全ての生命力を求められる事など最初から分かっていた。それしか手段がないとはいえ、まだ自分で死ぬ気もない。どちらの道も諦めないが故に、それぞれを通る最低限度の条件を満たすことに徹する。
その結果、レフィル達から死の呪いを振り払い、ホレス自身も生還して魔王の影を葬り去るに至った。
とはいえ、想像以上に体に襲いかかる疲労感を見る限り、自分が如何に危険なことをしたかを読み切れずにいたことを否定できない。その浅はかさを自嘲するように、ただ肩を竦めていた。
「それより、知っちまったんだな。」
不意に、ホレスはガライへとそう切り出していた。
「何を……?」
「最初から全部聞いていた。あんたも、こいつらの秘密を知ったんだろう?」
唐突な物言いに首を傾げるガライだったが、ホレスが続ける言葉からその意味を感じることができた。
「うむ。つくづく予想はついておったが……まさかこれ程のものとは。」
おそらくは彼自身もまた、彼女達と同じ闇の衣に纏わる苦悩に囚われていたのだろう。
かつての過ちが引き金となって、今襲来した刺客を始めとする闇の手の者につけ狙われることとなっている。そして、レフィルがあるべき場もまた大魔王に脅かされ始めている。
「安心せい。わしはあくまでも傍観者じゃよ。そうするしかできぬ無力な爺じゃ。」
レフィル達、そしてホレスが大魔王ゾーマに深い関わりを持つと知って尚、ガライは彼らを疑うことも責めることもなかった。
吟遊詩人としての旅の巧みさも彼らを阻み得ず、それが叶ったとしても無粋な真似でしかない。大魔王との遭遇より定められた運命に逆らうかのように戦い続けるレフィル達の道を阻むこともなくただ見守るだけで、自ら道を切り開くこともない傍観者。他のアレフガルドの民のように勇者が光を取り戻してくれるその日まで待ち続けることしかできないことなど、ガライには先刻承知のことだった。
「そうか……だが、こいつらが世話になったな……。」
自嘲気味に笑ってみせるガライだったが、二人と共にここまで歩むことで目指すべき地へと導いてくれたことには変わりはない。
敵ではなく頼れる導き手と知って安堵したのか、ホレスは凝り固まったような表情を崩して微笑を浮かべた。
「!」
直後、ホレスの全身から力がたちまち抜けたのか、そのまま地面へと膝を屈していた。
「お、おい、しっかりするんじゃ!」
虚栄だとしても先程までしっかりと己の足で立っていたが、それも叶わぬ程に体は確実に極限状態に達している。流石のガライも、思わずそう声を荒げて駆け寄らずにはいられなかった。
「……心配しなくても、簡単には死にやしない。こいつがあるからな……。」
その心配を余所に、ホレスはガライへとそう応えつつ右手を彼の前に差し出していた。
――これは……命の指輪か。
――流石に勇者の遺物だけのことはあったな。
ホレスの指にある白銀のリングとそれにはめ込まれた温かな光沢の桃色の宝石。それは元々勇者オルテガが所有していた品――命の指輪だった。
「いやいや、よくぞ生を留めたものじゃな……。」
傷ついた者へと生命力を与え続ける加護が施された代物の力があってこそ、死に瀕したはずの彼が命を留めることができたのだろう。
「いや、それ以上に苦しまねばならぬことにもなろうに。」
だが、メガザルの呪文の制御や魔王の影との戦いの中で心身に凄まじい負荷を伴っているはずだった。一手でも誤れば命のないこの状況を生き抜くことさえできず、万に一つ生き長らえたとしても体に強いた無理の代償を避けることも到底できない話だった。
それでも、体を損ねた様子もなく、ただ力を使い果たしただけで済んだ意味では、ホレスは幸運だったのかもしれない。
二人の仲間たる少女達は、聖域の中で横たわり静かに寝息を立てていた。