止まぬ雨 第二話
天は黒一色のみを映すだけで風も凪ぎ、静寂を保っている。だが……
「…………。」
突如として、空の遥か彼方から来る一滴。それをはじめとして降り注ぐ雨が石の道の随所に落ちて、灯の光をより鮮やかに返す艶やかな表面へと転じさせていく。
――急がなければな。
強かに打ちつける強雨が、ざわめきを巻き起こす。それに等しい程の不安感に駆られるように、彼は黒い外套に包まり雨風をしのぎつつ前に進んでいく。
そして、聖域の境を抜けて、死の匂いが満ちた森の方へと駆け抜けていた。
血塗られた影が、微かに垣間見た清浄な気を掻き消して再び辺りを腐食の地へと変えていく。
雨の祠を目の前にしたレフィル達に立ち塞がる闇の手の者が見せる幻覚か。或いは、この聖地の未来の姿だろうか。
「わたしを……ゾーマの所へ?」
『然様。これは大魔王様御自らが下された命。違えることは許されぬ。』
大魔王の下にレフィルを連れてゆくべくして遣わされた影の使者。さしずめ“魔王の影”とでも言えるだろうか。
「…………。」
鮮血の艶やかさとも獄炎の彩りとも言える真紅を帯びた影の亡霊の手招きに応じるわけでもなく、レフィルはただ黙って影の様子を窺っていた。左手に取った剣の切っ先を突きつけるわけでもなく、右手の大盾すらも構えずに。
その視線は、対峙する魔王の影ではなく、それが現れる闇の扉へと向けられていた。
「行っちゃだめ。」
暫しの睨み合いの後に、不意にムーがレフィルの腕を取りながら短くそう告げていた。
「ゾーマを止めたいのは分かってる。でも、まだだめ。」
「ムー……」
レフィルが見つめる先にあるのは、魔王の影が通ってきた道。それを辿れば、或いはすぐに大魔王の下に行くこともできるかもしれない。しかし、その勝負に望みは限りなく薄い。
弱弱しくすがるような仕草とは対照的に、身に変えても止めて見せんばかりの心から、レフィルは改めて自分が急ぎすぎていることを感じることになった。
『どうした?大魔王様は貴様を呼んでいるのだぞ?』
「それはだめ……。わたしだけじゃ……」
大魔王を止める意思があるからこそ、すぐに踏み込むわけではなくまだ更なる道を進む必要がある。尚も誘い続ける魔王の影に、レフィルは微かに思う所を乗せるように切ない表情を浮かべて首を横に振った。
『貴様達の意思など関係ない。レフィルよ、貴様は大魔王様の生贄となるのだ。再び絶望に心を染めることによってな。』
「!」
だが、悪いことにどうあっても大魔王はレフィルの身を欲しているらしい。忍び寄るような動作でありながらも、こちらの心を押し潰さんばかりの重圧と共に迫る魔王の影。告げられる物々しい言葉も相まって、この上ない恐怖を感じずにはいられない。
「何を言っているの?」
レフィルが思わず一歩後ずさったその時、入れ替わりに誰かが魔王の影の前に立ち塞がった。
「ムー…?」
三日月状の巨大な先端を持つ戦鎚にも似た杖を手に、ムーは大魔王の手の者に明確な敵意を向けている。微かに細められた緑の視線から感じられる激情を前に、レフィルは思わずたじろいでいた。
「レフィルはあなた達のせいでまた大切なものを失った。それなのに、まだ足りないと言うの?」
長い戦いの旅の中で多くの物を失くしながらもようやく手に入れたレフィルが望む未来。大魔王の降臨から始まる闇のもたらす悲劇は、それを嘲笑うかのように奪い去った。
それでも尚立ち上がり、再び己の道を歩み出したレフィルから、最後の希望をも奪い去ろうとしている。それがムーには許せなかった。
『それも貴様らが選んだ道だろう。破滅を承知の上で闇に踏み出した貴様らに、一体何があると言うのだ?』
「最初からあなた達が糸を引いていた。バラモスの事だって、オルテガが火山に落ちた事だって。何も知らないと思っていたの?馬鹿にしないで。」
『………。』
道を違えたことを引き合いに冷やかに反論する魔王の影の言葉も跳ね除けて、ムーは普段とは異にした怒りに任せた饒舌を以って責め立て続けていた。
「だから、私だけじゃない。あなた達だって、絶対に許さない。」
究極の力を以って、レフィルを破滅へ誘う道を作ったのは確かに自分と言う他ない。だが、その全てを最初から目論んでいた大魔王やそれに従う者達を許しおくことなど誰ができようか。
「ム、ムー?」
「……。」
自らをも責め立て続けるムーの言葉を、レフィルはただ呆然と聞いていた。ムー自身が心の内にこれ程までの怒りと嘆きをため込んでいるとは思わなかった。
――どこまで……見通していたというの……?
ムーが語ったゾーマの存在が引き金になって起こった悲劇。オルテガを火山へと落として闇の世界へ引きずり込んだのも、バラモスに世界を滅ぼさせようとしたのも、全ては大魔王の策謀だった。そして、そのバラモスと戦ったレフィルをも力を以って闇へと引きずり込んだ。
或いはレフィルがこの旅路に足を踏み入れるまでの全てを、ゾーマは最初から予見していたとしても可笑しくはない。
心の底からの憤りを力と代えるかのように、ムーは魔王の影へと襲いかかる。
小柄な少女のものとしか見えないその細腕からは想像もつかぬ程の力強さを纏った一撃が突き抜ける。
『許さぬ、か。ならばどうする?』
「!」
だが、理力の杖が血の如く紅い影を打ち砕くことはなかった。空間を紅く彩るかのような体をすり抜けて、その奥の枯れ木へと力が受け流されて、それを無惨に粉砕する。
「効いてない。……だから幽霊は嫌い。」
嘲笑う影に、痛手を負った様子はない。全ての思いを込めた最大の一撃であっても、実体を持たぬ影の魔物には脅威ではない。そのようなことなど分かり切っていながらも、抑えきれない怒りを伝えんとした力が容易くいなされた現実に、ムーは苛立たしさを露わにそう呟いていた。
『好きなだけ抗うがいい。それも無為と教えてやろう。最後に残った絶望が、大魔王様の糧となるのだからな。』
「……。」
逆に交錯した際に反撃を受けてしまったのか、微かに息を荒げている。大魔王に捧げる目的のみにあらず、自らもまたその激昂を尚も楽しんでいる様子で、魔王の影は悠然と赤髪の魔法使いの姿を見下ろしていた。
「だったら…!ニフラム!!」
通じぬと知りながらもムーが打ち放った渾身の一撃。それは他ならぬ自分のために、自分の代わりに怒りを背負ってくれたからに他ならない。そう分かっている以上、レフィルもまた黙っているわけにはいかなかった。
唱えられたニフラムの呪文による歪める存在を浄化する光がレフィルの手のひらから発せられ、触れた先の欠片から焼き尽くし、魔王の影を包み込む。
「え!?」
だが、不意に魔王の影の足元より深く暗い霊光――否、闇が立ち上り、ニフラムの光を呑み込んで掻き消した。
『あいにくと、我は大魔王様の加護を直に賜っている。そのような児戯など通じぬ。』
「……何ですって?」
闇の中から覗かせる影の体もまた光に焼かれたはずが、みるみる内に癒えていくのが見える。それだけに留まらず、この場全ての暗闇が全て魔王の影と一体になった様な錯覚さえも生み出している。
魔王の影が語る力の源は、大魔王自らがもたらしたもの。それが与える重圧だろうか。
――まさか……。
だが、その感覚には覚えがあった。
「これは、レフィルと同じ……?」
あの時、心の闇に目を向けてその全てを力となして魔王を、そして闇の使徒へとぶつけた時に感じたもの。そして、その何もかもを呑み込む程の力と引き換えに最後には自分を見失い、闇に溶け込んでしまう強い恐怖。
『然様、これがゾーマ様の力、闇の衣の一端だ。』
それもまた、大魔王ゾーマの纏う大いなる力が呼び起した圧倒的な重圧だった。
「闇の……衣…………」
魔王と呼ばれた存在すらも容易く葬り去ることのできる程の力が、今一度自らが向き合う形で現出している。かつて自分がその力を纏った時、バラモスは何を思ったのだろう。
凪いだ中で揺らめく炎のように静かに佇む今でも、周りの全ての精気を根こそぎ奪って底冷えさせるような戦慄を感じさせる。
『無駄なことだ。今の貴様らに、これ以上の抵抗などできはしない。』
ムーが更なる呪文を以って攻撃しても、レフィルの吹雪の剣による斬撃を与えても、闇の衣に守られた魔王の影にはもはや届くことはない。まして、逃れようとしても……
『今一度、絶望を味わうがいい。』
いずれにせよ、かつて敗れた力を前に打つ手はない。もはやどうすることもできない二人の前に、影は音もなく迫る。静かに、それでも確実に踏みにじるように。
『ザラキ』
そして、囁きかけるようにそう唱えていた。
「ザ…ザラ…キ……!?」
死を司る呪いを呼び起すザキの系列に連なる呪文・ザラキ。悪魔の手のひらからどす黒い闇が迸り、一気にレフィル達に絡みつくようにして包み込む。
「…………!」
それに締めつけられたように息を詰まらせながら、ムーが驚愕に目を見開いているそばで、レフィルもまた死の呪いをかわせずその身を貫かれている。
「レフィルさん!ムーさん!」
ザラキの力を振り払うことすらできずに、二人はなすすべもなく地に伏した。
「うう……ん……」
「………。」
まだ辛うじて生きているものの、死の呪いはレフィル達の命を確実に蝕んでいる。
『無駄だ、こやつらはじきに命を失い、闇の衣の内に還る。貴様が手を尽くしたところでどうにもなるまい。』
「く……何ということを……」
ガライが必死に手を尽くそうとするのを遮るように、魔王の影は冷徹に現実を告げていた。一度発動した死兆の呪から救い出すことなど、そう容易いことではない。それは旅の中で降りかかる厄から身を守る術を数多く知るガライもまた例外ではなかった。
『詩人よ。かの愚王が投じた希望はここに潰えた。貴様は絶望を謳うより他に道はない。』
死に逝く二人の少女の姿を見下ろし、それを見守るガライを嘲笑う魔王の影。闇の世界の中で沈みゆく皆の心を奮わせるべく詩を謳う者も、希望となるものがなければ唄を作ることなどできない。この湿地の底に沈んでいくように……。
「闇の衣…ですか。そのためにこの子達を……」
『先も言っただろう。これは、こやつらが選んだ道。我はその終着に導いただけのことだ。』
ラルス一世が希望を託した可能性の一つ。だが、それは同時に大魔王が求める世界の絶望への生贄としての役割も背負っていた。交わされた言葉の中で知った危険な要素――大魔王の力たる闇の衣をレフィルが一度纏ったこと。そんな縁に巻き込まれる程の勇者たる宿命をレフィルはずっと抱えてきたのか。そして、それがこのような形で終焉を迎えてしまうのか。
一度始まってしまった運命を止めることもできず、最悪の形で幕を下ろす。これを悲劇として謳わぬことなどできようはずもない。
「結局は貴様らの道を強いているだけだ。そんなお為ごかしなんか何の慰めにもなりはしないだろうが、バカが。」
その終わりを唾棄するように、辛辣な言葉が枯れ果てた湿地の奥から突如として告げられていた。
『何者だ!?』
深い霧の如き闇の中に、湿った土を踏みしめる足音が徐々に大きくなるのが聞こえてくる。
そして、灯の光が闇の隙間から差しこんでくるのが感じられる。腐りゆく大地に生える枯れ果てた草木を掻き分けてやってくるその影は、一人の精悍な若者の形をしていた。
「そんな下らないことはどうでもいいだろう。」
『!』
同時に掲げる灯が空間の随所で収束し、光の矢となって魔王の影目掛けて飛来してその身に射かけられる。
『貴様……』
無数の矢は影の急所にあたる場の尽くを射抜いていたが、賜った闇のオーラが全てを瞬く間に治癒していく。だが、下らないと言わんばかりの言動と愚弄するような今の奇襲に対し、魔王の影は苛立ちを露わにしていた。
纏う闇の衣もまた、その怒りに呼応するように深みを増し、重圧は更に強まっていく。並みの戦士であればそれだけで戦意を喪失していただろう。
「貴様らもよく知っていることだろうからな。」
だが、彼はそれに萎縮した様子など微塵も無く、眼前にその姿を現していた。
くすんだ銀を思わせる微かな光沢を帯びた白髪、油断なく相手を見据える深緑の双眸。鍛え抜かれた細身の体に纏う黒の外套と鎧を思わせる頑丈な拵えの橙の旅装。
左手にとった白銀の杖を突きつけつつ、青年は微笑の一つも浮かべずに魔王の影と対峙していた。
『……そうか、貴様がホレスか。我らに盾突く愚か者が。』
恐れも知らぬ言い振りから、魔王の影はようやくその正体に気付くこととなった。
闇の手の者を――魔将と呼ばれた者にさえも刃を向け、メルキドの聖騎士の粛清すらも掻い潜った冒険者――ホレス。
その蛮勇は、既に彼ら大魔王に仕える者の耳にも届いていた。
『だが、残念だったな。もはやこやつらが息を吹き返すことなどない。』
仲間の危機に駆けつけたことを嘲笑うかのように、魔王の影は青年――ホレスへとそう告げる。指し示す先には、ザラキの力によって程なく息絶えようとしている二人の少女の姿がある。
彼女達は既に身じろぎの一つもせず、生気を感じることもなかった。
「それで挑発しているつもりか?」
『……何だと?』
その哀れな姿を見せつけられても、ホレスは全く動じずにそう返していた。悲憤に表情を歪めることもその身を震わせることもなく、ただ二人の下に歩み寄るだけだった。
「黙って見ていろ。心配せずともその後でゆっくりと落し前をつけてやる。覚悟しておけ。」
ただ一言、仲間を傷つけたことに対する怒りを込めるかのように言い放つと、ホレスは変化の杖を天にかざして念じた。先端が幾つもの輪の形へと変じてその内の一つが彼の目の前で止まる。輪の内に水のそれと似た紋が波打つと同時に、その中心から何かが飛び出してくる。
「その巻物は……」
いつしかホレスの手の内に、ルーン文字がびっしりと記された巻物が収まっているのをガライは目にしていた。
『馬鹿め!敵から背を向けてどうするというのだ!』
「フェシト・ゾルフ・ゾフェア・テラグ・トリア・メド・ミナム……」
『!?』
背後から迫る魔王の影にも目もくれず、ホレスは巻物を開いて唱え上げ始めていた。巻物に封じられた呪文の力が現出し始める。ホレスの全身から白いオーラが立ち上り、炎のように燃え上がって魔王の影の魔手を阻む。
「まさか…これは……!」
白い炎は、ホレス自身を焼き尽くさんばかりに激しく燃え盛っていた。それは灼熱の内に身を投じてその糧とする――自ら生贄とならんとしているように見えた。
身に纏った黒い衣と対をなすかのような白炎の中で、ホレスは正確に呪詛を唱え続けていた。その視線が巻物の文面ではなく、守るべき二人へと向けられているにも関わらず……
「メガザル」
身を焦がしてでも救いたい。その思いを示す力ある言葉が、明確に告げられた。
『な、何っ!?』
同時に、ホレスを焼く白い炎が天を衝かんばかりに燃え上がり、立ち上る奔流より零れ落ちた火の粉が、闇に包まれたレフィルとムーへと降り注いでいく。
やがて炎はより激しく輝きを増して、自らを支えることができなくなってその形を崩していく。四散した炎は残らず魔王の影が発した死の呪い目掛けて殺到し、その奥に囚われたレフィルとムーの体へと吸い込まれていった。
『何だこの呪文は……!!そんなものをどこで……!!』
それは、この世界では決して聞くことのないはずの未知の呪文だった。少なくとも、大魔王ゾーマと永い時を共にする中でそのような呪文を聞き及んだことなどなかった。
『生命力を……分け与えたというのか……!?』
炎に包まれた二人の少女を死に引きずり込もうとしていた呪いは砕け散り、死相さえ浮かんでいた顔色はみるみる間に血色を取り戻していく。
転生の呪文・メガザル。知られざる呪文のもたらすものが何かは知る由もなかったが、それが己の命と引き換えに友の危機を救う自己犠牲の秘技だということだけは分かった。
『だが、愚かな。まさか、自ら命を投げ捨てようとはな。』
それ故に、代償として自らを失うこともすぐに解することとなった。案の定、消え去った白炎の中にホレスの姿はない。
「更にはこやつらも未だ目覚めずか。くくく、ホレスよ。貴様の死は無為に終わったな。」
そして、メガザルの呪文を施されたレフィル達の回復は、不完全に終わっていた。確かにザラキの力を跳ね除けるには至ったが、一度死に引きずり込まれそうになった意識を引き戻すことはできなかった。
男が命を賭した行為も空しく、彼女達はこのまま抗うこともできず、再び死を与えられる。魔王の影はそれを茶番と笑わずにはいられなかった。
「捨てちゃいない。」
だが、その哄笑を遮るように背後から冷たく言い放つ声がした。
『!?』
気がつくと、分厚くも鋭い青紫の大刀の刃が喉元に突きつけられていた。それは実体の無いはずの影の魔物である自分に対して、何故か本能的な恐怖を与える怪しい雰囲気を纏っている。
『……馬鹿な!?貴様、何故生きて……!!』
大刀を操っていたのは、先程の白炎の灰燼と帰したはずのホレスであった。激しく体力を奪われている様子だったが、その顔に浮かぶ表情から感じさせるものは、死相とは程遠い生気溢れる様だった。
「だから言っただろう?落とし前はつけてもらうとな。」
ホレスには最初から命を捨て去る気など毛頭なかった。そうでなければ、この魔王の影に相応の報復をすることも、まして二人の少女を救うことなどできるはずもない。
命の大半を削りながらも、臆することなく詰め寄らんとしている。
メルキドで立ち塞がった多数の死者達を蹴散らして強行突破を成してみせた剛胆な冒険者は、闇の衣を纏った使徒に対して不敵に笑いかけていた。