第三十二章 止まぬ雨
ほんのわずか前まで枯れ果てていたはずの砂漠の交易都市に、再び潤いが与えられる。
命脈とも言える水源が掘り当てられ、寂れていた町に旅人――とりわけ魔物との戦いを生業とする傭兵達が食い扶持を求めて現れ始めている。
彼らに守られることで、未だ息づく物流が再び大きくなり始める。小さな奇跡がもたらした恵みによって、この闇の世界で途絶えようとしていたものが息を吹き返そうとしていた。
だが、それを望ましく思わぬ者もまた、少なからず存在していた。
「これは、由々しき事態ですね。」
「ああ。」
活気が戻り始めた町の通りの一角に位置する小さな酒屋の一角の席に、二人の騎士が座している。同じ軍に籍を置いているのか似たような趣向の具足に身を包んでいるが、それぞれが携える剣に違いが見えた。
蒼い外套の下に紫の羽織を纏った穏やかとも取れる表情を取る黒髪の騎士は、燃え上がる程に赤い大剣を携えており、対して苔色の外套に己の鎧を包んだもう一人は兜を取らぬまま、傍らに置いた一対の大刀を弄んでいた。
名のある名門の兵士なのだろうと、彼らは周りの客達に訝しまれることもなく、ただ静かに杯を交わしつつ談笑しているようにも見えた。
その表情と話の内容こそ本質であったのだが、それに気付く程の近間には誰もいなかった。
「彼女が地を割いて見出した場には、確かに神気に満ち溢れていた。」
「同時に、流れ込む闇もまた……。」
ドムドーラの町に今流れている大きな噂、それはやはりこの町を蘇らせようとした少女の話だった。彼女は磨き抜かれた鋼鉄の剣をもって地を穿ち、地脈を塞ぐ岩盤の要石となっていた硬い鉱石を見い出したと言う。
水が呼ばれたその場に赴いた折にこの二人が目にした時には既になかったが、溢れ出る水に交じって微かに光を帯びたものを見ることができた。
「よもやあの方が、オリハルコンを見い出してしまうとは。」
一粒の砂にも近しいほんの僅かな欠片ですら、知る者ならばその力を見抜くことができる。
あの場で見た僅かな痕跡から、神授の金属・オリハルコンがあの場に存在していたことを、そしてそれが既に彼女の手の内にあることを知った。
「だがバロン殿、それが大魔王様に通じぬことなどあなたならご存知だろう?」
「ええ。ですが、万に一つ”かの武器”が作られてしまったら他の追従を許さぬ名剣となることでしょう。そうなれば、多くの犠牲は免れ得ない。」
確かに厄介なものが掘り当てられてしまったことは間違いないが、大勢を動かすことは決してない。そう主張する相手の言葉に頷きつつも、騎士バロンはすぐに首を左右に振っていた。
オリハルコンを鍛え抜いた末に完成する究極の剣。主たる大魔王に通じるか否かはともかく、彼ら闇の使徒にとって十分な脅威となる可能性を秘めていること。それがオリハルコンの恐るべきところである。
「何を今更。あなたとて、こうなることを望んでいる節があるのではないか?」
「それはどうでしょう。ですがあの方も、その上で我らの失態を見逃したのでしょうね。」
自分たちの与り知らぬ所で厄介な物を掘り当てられてしまったにも関わらず、バロンの表情からは僅かな不安も感じられない。
「失敗――護甲の件か。なるほど、これで二つが再び人の手に渡ったと。」
「神の武具が失われたとあれば、未だ我らに刃向かう者達に絶望を与えることができる。それが当初の目的でした。ですが、異界より迷い込んだ者達の活躍が特にめざましく、一向に意志を手放そうとしない。」
既に一つ、護甲・勇者の盾は人の側に立つ青年の手に渡っている。友であった男の圧倒的な力に阻まれたとはいえ手ぶらで帰ったバロンを、ゾーマは何一つとして咎めることはなかった。最初から護甲を奪えるか否かはさして重要なことではないのか、それともあえて人の手に委ねることとしたのか。
護甲を携えている旅人の噂もまた、既にリムルダールの地に広まりつつある。
「一番堅牢な城塞とされるメルキドは既に堕ちたも同じ。それでもまだ抗う牙は絶えぬのはそのためとお考えか。」
「そうですね。特に“彼”の存在が大きいでしょう。」
大魔王によって早々に希望を捨て、既に闇の手に落ちた町や人々も数多くいる。それでも、残り全てをこの手に掴めぬことに、何度苛立ちを覚えさせられたことか。
「神の寵愛を受けし者か。」
その原因となる者は、闇を司る大魔王に対するさしずめ光の神、もしくはそれに準じる者、見い出されし者達の存在だった。
「そう。彼の手にかかり、二度と蘇ることのできなくなった者達も数知れません。」
光の名の下に剣を取り、闇の手の者達を粛清し続ける者。彼を前にしては、絶望を求めて闇に下っただけの小物の力など赤子も同じだった。
「既に何処とも知れぬ場に失われた神の武具の威光をも霞ませる程の希望があると言うのであれば、今一度表舞台に立たせてやるも一興でしょう。戦を交えた上で今度は完膚なきまで打ち砕き、二度と立ち上がれぬようにしてやってこそ、本当の闇の世界が訪れるのです。」
人間達が希望としていた三種ある神の武具とその栄光以上に闇の手の者を追いこんでいる若者。護甲を失い、オリハルコンもまた持ち去られた今、三つの武具が揃う可能性――そしてこれまでにない希望が生まれる可能性も否定できない。
それを叩き潰した時こそ、抗う者が消え去る瞬間となる。危機感と共にバロンが微かに想定していたのはそのような筋書きであった。
「大魔王様の手を以ってしても、あの剣を砕くことに幾許かの年月を要したはずだったか。それと異界の者の力が合わされば、確かに危険かもしれないな。」
「確かにそうなれば最早我らの手に負えぬものとなるでしょうね。ですが過去の産物に過ぎぬオリハルコンの光如きに、あの方が焼かれてしまうことはありません。」
かつてこのアレフガルドに神器として祀られていた名剣の力は背負った肩書に恥じぬものだった。だが、敗れて死した主を離れて大魔王の手に落ちて、三年の年月を経て圧し折られるという最期を遂げていた。
長きに渡って大魔王の力に抗い続けたことがせめてもの、されど空しい矜持を思わせる。伝説の剣でさえも、結局は大魔王の底知れぬ闇の力に屈するしかない。
「あなたもきっと、再びその力を目の当たりにすることでしょう。それまで、あなたの役割を頼みましたよ。剣に己を捧げし者――ソードイド。」
オリハルコンは彼女の手により持ち去られた。天とやらの導きがあれば、再び剣の形を成して大魔王に報いんとするだろう。それが定められた筋書きのように語りながら、バロンは部下の――ソードイドの乾いた杯へと血の様に紅いワインを注いだ。
「承知。我が剣にかけて招かれざる者に死を。」
大魔王の闇の力は元より、勇者の持つ光を前にしても微力にすらならないだろう。
それでも大魔王に仕えし者の一人として、与えられた配役を果たしつつ、来るべき日を待ち続ける。寸劇に僅かでも水を差す輩を排し続けながら。
大魔王に仕えし将の命の下に、剣士は杯を掲げる。頂にまで注がれて零れ落ちた紅き雫がその手を濡らしていた。
日の差さぬはずなのに鬱蒼と生い茂る樹林の葉。その多くが枯れ葉となって湿った地面に落ちて、その一部へと帰して行く。
そう遠くない日に一雨が降ったのか、足元は酷くぬかるんでおり、来た道には深い足跡が長々と続いている。
「これは…」
切り開かれた道の最中に、レフィルは黒ずんだ木の枝が積まれているのを見つけた。
「誰かが、通ったの?」
火の中にくべられて、薪として使われていたらしい。既に温もりの一つも残していなかったが、汚泥の中に埋もれることもないことから幾分新しいものであることはすぐに分かった。
「わたし達以外にも、雨の祠に向かった人が?」
「なるほど、既に我らの他にも伝説に目を向けられた方がいらっしゃるようだ。」
ムーが首を傾げながら独り語散る言葉に頷きつつ、レフィルは道の先を眺めていた。深い森が続く所々に見える様々な痕跡――誰かが通った足跡が微かに見えるような気がした。
レフィル達が雨の祠へと向かわんとする時には、或いは既にその地に指標を見い出した者がいたのかもしれない。
「……どうやら、その方はより険しい道を通ってここまでたどり着いたらしいですな。」
「道は一つしかなかったはずじゃ……?」
「余程の手練れなのでしょうな。己の道を切り開ける程に。」
ここに至るまでに、最近人が通ったことを示すものは見当たらなかった。レフィル達が歩んできた道に続く足跡とは別に、一筋の道が険しい山の方から連なっている。
――……道を切り開く、か。
自分がガライに導かれてようやくこのアレフガルドを旅している中で、ここを通った何者かは魔物も暗闇も恐れずに、己の進むべき道をつき進んでいる。その様を思うと、かつて共に道を開いた“彼”の姿が浮かぶようだった。
ドムドーラを発って、夜の砂漠と平原を抜けた先にある分かれ道。雨の祠を目指して橋を隔てた先にある森へと入ってから既に三日が、出発してから半月程経とうとしていた。
時折降りしきる冷たい雨に濡れて纏う外套は重く湿り、歩む大地は汚泥と化している。深いぬかるみや腐食した末に毒沼と化した場に掛けられた橋、そう古くない先人が残していったそうした通り道がなければ面倒なことになっていたかもしれない。
それで尚も、通る道の険しさは変わらなかった。
「しかし、何度見ても豪く物騒なもので……。」
眼前の目も背けたくなるような光景を前に、ガライが苦笑いを浮かべつつ二人へとそう語りかけていた。
「地獄への手招き?」
正面一帯に広がる猛毒の沼の表面に生えた血の如く赤い汚泥を纏った何本もの腕が幾度も手招きをして、踏み入れた者を引きずり込もうとしている。
迂闊に足を取られれば、他の無数の腕にもその身をからめ取られてそのまま毒沼へと沈められ、辺りで枯れ果てている木々や骸と同じ運命をたどることとなるだろう。或いはこのような沼地にあってこそ、彼らマドハンドの恐ろしさが最大限に発揮されるのかもしれない。
「でも、こっちの方が怖い、たぶん。」
だが、ムーの関心はそのおどろおどろしい地獄への入り口には向けられていなかった。
「…………。」
マドハンドの群れと向き合うレフィルの吹雪の剣に纏わりつく氷の結晶。それが幾重にも刀身を包み込んでいる。
それは最大限に引き出された吹雪の剣の極寒を爆発の呪文・イオラの圧縮力で収束することによって生成されるレフィルの切り札の一つ、樹氷の大剣だった。
鱗のように張り付いている氷の結晶の一つ一つに、際限なく湧きあがる魔剣の力が凝縮されている。
重々しくも鋭く振り抜かれると共に刀身から剥がれ落ちたそれらは、狙いを違う事無くマドハンドの一体一体を貫くと同時に粉々に打ち砕く。
そして、その冷気の残滓が沼を瞬く間に氷の海と変えていく。
ただ一振りの下に、レフィルの目に映るマドハンドの群れは氷の内でその動きもろとも完全に凍結させられていた。
「ほう……またこの力を。」
立ち塞がる敵全てを一瞬にして葬り去ったレフィルの力に魅入るように、ガライはそう言葉を零していた。
この湿地を渡る際にレフィルが初めて見せた奥義。長い間積んできたであろう修練もさることながら、天性の勘が与えるものもまた大きいとも思わせる。
今しがたのマドハンドとの遭遇のような状況に対して幾度か頼った今となっても、その一撃に込められた力は様々な意味で度し難いものだった。
「ふぅ……。」
疲れ切ったように嘆息すると共に下ろされる吹雪の剣を覆う氷が徐々に剥離して雪のように穏やかに散っていく。元の姿へと戻った剣を腰の鞘へと収めつつ、レフィルは疲れ切ったように嘆息した。
「大丈夫?」
疲弊を露わにうつむくレフィルを気遣うように、ムーが顔を覗きこんでくる。
「今みたいにあなただけの力で戦えばいい。でも、無茶はしないで。」
「大丈夫よ……、もう振りまわされたりなんかしないから……。」
表情は相変わらず読み取れないが明確に気遣う様子が窺える中で、更に訴えかけるもの。
失われたはずのレフィルの力を蘇らせ、更なる力をも与えた大魔王ゾーマの闇。それに再び身を委ねないか、ムーは恐れている。
――でも、わたしは……
彼女を悲しませるような事をしたいとは思わない。それでも、その思いが果たしてどこまで通じるかは分からない。
レフィル自身の不安は心の奥底で増長し続けていた。
「少し顔色がよろしくないですな……。」
「あなたのせいじゃない。それに、あなたでもどうしようもない。」
長旅の中での負荷が重なりレフィルの体力も限界に達そうとしていることは元より、彼女自身が己の内に苦悩を抱えている事自体はガライとムーにも分かっていた。
――レフィルが目指すものはなに?
ガライも魔除けの力を持つとは言え所詮は一介の吟遊詩人でしかない。一方のムーも、魔法使いとして絶大な力を持とうとも出来ることには限りがあった。ただそれだけでは悩めるレフィルの道を切り開くことはできず、まして守り切ることなどできない。
ラダトーム王から受けた任を通して、レフィルがどこに向かおうとしているのかが変わり始めている。今分かるのは、以前のただ切り抜けるだけの旅路にはなかった何かの存在があるということだけだった。
――叶えてあげられるのは、だれ?
それを知ることも、理解してやることもできない自分に、本当の意味で彼女を守れるだろうか。そして、それをできる者がいるのだろうか。
「ふむ……。ともあれご安心下さい。後少しだったはずですから。」
長旅によって疲れ切ったレフィルを励ますように、ガライはそう告げていた。
「ありがとう。……それにしても、こんなに毒沼に覆われてるところにあるなんて。綺麗な場所だったはずでしょう?」
「ゾーマのせい?」
「まぁ、それもあるでしょうね。ともかく、この地の生物達が死に絶えていく速度は尋常ではありません。その亡骸が魔気に蝕まれることで毒を生み、こうして広がっているのですよ。」
聖域と謳われる程に美しい地、それがガライの語る雨の祠だった。そこに辿りつくまでの道も、天地の恵みを得て、生気あふれているはずだった。だが……
「本当に、この先に雨の祠があるのですか?」
「ええ。こんな所にあっても、随分と綺麗なものでしたよ。まるで別世界、とでも言えば分り易いでしょうか。」
闇に包まれてから辺りに働く力によって、ここにある全て――木々は枯れ、大地は腐り、何もかもが死に絶えようとしている。この道にはもう、かつての楽園の姿は残されていなかった。
「この香りは……」
しばらく歩みを進めていると、滅びの気配が立ち込める場に突如として甘い匂いが漂い始めた。
「花?」
「それに、この水…………」
死の沼地が与える印象が徐々に薄れていく。枯れ果てた草木は瑞々しい花々に、澱んだ汚泥は澄んだ水へと、目に映る物が変わっていく。あたかも聖地を隔てる一線を境に、たゆとう水の如く世界が転じていくかのように。
「ようやくたどり着きましたな、雨の祠に。」
乗り越えてきた死地の果て。湿潤ながらも静謐で清々しい気を纏った雨に纏わる祠への道の終わりは、既にもうそこまで来ていた。
流れる水の音は、さながら全ての雑音を受け流すかのように一つの静寂の形を司る。
「…………。」
それを眠りへと誘う枕となして、まどろみの内にあったはずの男は、ただ無言のままに目覚めの時を迎えていた。
――来たか……。
張り詰められた琴の弦のような息も詰まる程の秩序。それが僅かでも唐突に崩されたことが一つの予兆と感じられる。
導かれるかのように、彼は身を起こして歩み始めていた。
不意に、レフィル達の目の前が再び荒廃した大地へと立ち返る。
「……え?」
それは、雨の祠への最後の一歩を踏み出さんとしたその時のことだった。
「……幻覚、ですか。やれやれ……この年になって焼きが回ったと言えましょうかな。」
既に目の前にあったはずの祠が突如として虚空へと消え、辺りに漂う清廉な雰囲気が再び腐臭を纏い始める。
近い年にも幾度かこの地を訪れた自分ですら今に至るまで騙される程の幻影に、ガライは驚きこそせずとも感覚のずれを思わずにはいられなかった。
「一体誰ですかねえ。このような悪戯を仕組んだのは。」
肩をすくめて苦笑すら浮かべる様から、或いは自身の記憶の相違から違和感を感じなかったことに呆れを通り越して可笑しさすら覚えているのかもしれない。そのふざけた言動のまま、ガライはこの歪みを引き起こした者の存在があることを明確に告げていた。
『やはりここまで来たか、レフィルよ。』
「!!?」
直後、魂の底から貫かれる程の冷たさと重さを纏った呼びかけの声が、レフィルの耳に届いていた。
「レフィル、下!」
「……!!!
傷口から流れ落ちた鮮血のような紅い影が、レフィルの足元に現れている。
「あ……紅い影!!?」
レフィルが思わず怯えて後じさると共に、その血の如き影は彼女の下を離れて急に空間にめくれ上がる。
「悪霊……」
「これは、“魔王の影”……ですか。」
木々の根元に映ることも、完全な夜の闇に溶け込むこともなく虚空に映る“影”。それは彼女の形などではなく、“悪魔”の姿を取っていた。
『大魔王様がお呼びだ。すぐに来るがいい。』
この闇をもたらした大魔王の命によって、聖域の目の前で息をひそめて待ち伏せしていた闇の使徒の一人――魔王の影。
身も凍る程の殺気と、虚空にあるその出で立ちに反した圧倒的な重圧感。それは逃れようのない脅威を、奇しくもレフィル自身が向き合う必要のあるものの“一つ”、深い心の闇を体現したような姿だった。