壁中に伏す 第四話



 町を囲う城壁に、何十人もの靴音と鎧が擦れ合う音、そして蹄が地を蹴る音が慌ただしく響き渡る。程なくして、その街角からまず、一人の男が飛び出してくる。

 漆黒の外套に身を包み、腰に長剣を帯びた痩身白髪の青年。何かから逃れるようにして走りまわっているものの、表情一つ変えないばかりか息を荒げることもなく、ただ成り行きに身を任せるかの如く先に足を進めている。
 その後ろから追うのは、メルキドを守る聖騎士団の面々だった。重厚な鋼の鎧に身を包み、巨大な槍と大盾を携えた馬上の騎士を筆頭として、小隊級の規模の者達が集い、皆が一丸となって侵入者を追跡している。

「くそ…!!奴は化け物か!!」

 この捕物が始まってから、既にかなりの時間が経過しているはずだった。だが、未だに騎士達はこの男一人を捕らえられずにいた。目の前に立ち塞がろうとする者は彼の振るう銀色の杖から発せられる黒い暴風によって吹き飛ばされ、すぐ後ろにまで追い付こうとした騎馬に対しては爆弾石が投じられ、その足を容赦なく砕く。

「奴は大魔王の手先だ!絶対に逃すな!!」

 確実に固められているはずの包囲網を容易く打ち破り、尚も平然と先へと走り続ける姿を前に、騎士達の間で動揺と苛立ちが募る。その異常な立ち回りは、自分達人間が真似できるものではない――目の前の男が憎むべき魔物であると尚の事納得させる結果となり、皆の怒りを増長させていた。

「正門を閉ざせ!奴はそこに向かっている!」

 だが、如何に力を持っているとはいえ、このメルキドの城壁は力によって簡単に打ち崩せるような代物ではない。そうである以上、男は唯一通り抜けられる入口――町の北に位置する正門へと向かおうとしているのはすぐに分かることだった。それを閉ざされて、後ろからは軍勢が迫り、更には町のどこにもこれ以上の逃げ場はない。
 もはや、逃れる術は完全に奪われているはずだった。

「何だと…!?」

 だが、閉ざされた正門を前に見た光景は、皆の予想とは大きく異なるものだった。
「く…!どこに逃げた!?」
「消えただと!?レムオルの呪文か!?」
 唯一の逃げ場である正門にまで追い込んだ上で、そこで待ち構えていた部隊と共に一斉に捕らえる手筈だった。だが、いつしか追いかけていた男の姿は虚空へと消えて、誰の目にも映らなくなった。
「この…!そんなことで我々を欺けるとでも!?」
 熟練の経験を積んできたからこそ、騎士達にも今の姿の消失の原因、その対処法もおおよそ検討が付いていた。透明化の呪文”レムオル”、及びそれと同等の力を持つ秘草”消え去り草”。姿形までを隠すことができても、存在そのものを無に帰すことは出来ず、それを初めとする欠点を知る者には通用しないはずだった。
「駄目だ!何の反応もない!!」
 だが、幾ら気配を察しても、あの男が何処にあるかを知ることは叶わなかった。
「それとも、今まで遊んでやがったのか!?ふざけやがって!!」
「くそ、何としてでも探し出せ!!」
 そもそもこのメルキドを絶望の淵へと落そうとした魔物は、この堅牢な城壁すらもものともせずに突然現れると聞く。彼もまた、最初から騎士達を躍らせていたに過ぎないのか。その苛立ちによって彼らの抱く怒りを増していく。
「外を探せ!今、開門する!」
 既に逃げたとすれば、最早なりふり構っている場合ではない。草の根分けても探しださんとする中で、最初は誰しもその言葉に疑いを持つことはなかった。
 
「な、何をしている!!門を閉ざせ!!」
「!」

 だが、そこで冷静さを一瞬でも失ったのが最大のミスだった。姿を消すことによって外へ逃げたという強い疑念を与えることで、開門へと至らせる。それが彼の真の狙いだった。指揮官の一言で、皆が我に返って門を開けた騎士の一人へと冷たい視線を向ける。
「貴様!何をしたのか分かっているのか!?」
 まんまと敵の策に乗せられて、開門をしてしまった愚かな門番へと指揮官の罵声が飛ぶ。この上ない失態を犯した彼に対し、その双眸に煮えたぎる程の憤怒を浮かべている。
「何がおかしい!?……まさか!?」
 だが、今にも斬って捨てんとする勢いで迫る上司の姿を目にするなり、門番は不敵な笑みを返していた。


「気づくのが遅かったな。」


 その仕草で指揮官がようやく狙いを知ったその瞬間、門番の姿が歪み始める。
「な…!?」
「バカな…モシャス!?いや、あの杖が…!?」
 微かに吹く風に揺られるようにして鉄の鎧を纏った番兵の姿が薄れていき、白髪の旅人の姿へと転じていく。右手に取られた白銀の杖の先端にあしらわれた海の如く深い蒼色の宝玉が微かに光を発している。それが、変身の力をもたらしたのだろう。
 欺かれたことに皆が呆然としているその刹那の間に、青年は正門の下へと足を進めていた。
「逃がすな!追えっ!!」
 敵に血路を開かれてしまったままいつまでも呆気に取られているはずもなく、騎士達は各々の武器を手に、正門前に立つ旅人に一斉に殺到する。

「……っ!」

 が、刃が青年へと届こうとしたその瞬間、不意に彼の背後に灼熱の炎が敵の行く手を遮る巨壁の如く燃え上がった。

「だから遅いと言っただろうが、バカが。」

 炎の向こうで、青年は眼前に迫らんとする軍勢に最初から恐れを見せていないかのように、正面からそう告げていた。右手に取られた巻物に光輝く文字が浮かび上がると共に、一瞬にして燃え上がる。
「さて、どうしたものか。」
 いつしかメルキドの聖騎士団から追われる身となり、既にそこにある事を許されなくなった。ならば、その道を自ら焼き払い、追手の行く手を阻む他ない。最上級の呪文の一つ――閃熱のベギラゴンを封じた巻物が失われゆくのを横目に、彼――ホレスは炎上し続ける正門を後にした。 




 時は数刻程前に遡る。聖地を守る神官アルタナとの話の中で、雨に纏わる地・雨の祠へと次の指針を定めた矢先の事だった。

「……これは、一体何の騒ぎだ?」

 宿へと戻る途中、見回りを続ける騎士が突如としてこちらに刃を突きつけてきた。事情を飲み込めぬまま、大人しく捕まるわけにもいかず、ホレスは抗うことを選んだ。距離を取りつつ投げつけた斑蜘蛛糸によって相手を絡め取り、必死に抜けだそうとするところに、変化の杖による殴打を叩き込んで意識を奪う。
 今しがた倒した騎士を拘束し、路地裏へと身を隠しながら、ホレスは辺りの物音へと耳を澄ました。
「まさか…」
 町の随所にある扉という扉は全て閉ざされ、窓も尽く鎧戸に覆い隠されている。出入口を閉ざすことで、厄介事を除けるようにも見える。
 そして襲い来る騎士達。これが意味するものを鑑みれば導き出せる結論は一つだった。


「おい、何の用だ。」


 路地裏の暗い影の中で何も見えぬ中で、ホレスは微かな物音を聞きつけて、怖れる様子一つなくそこにいる者へとそう言い放ちつつ歩み寄った。

「げ…!気づいてたのかよ、おっさん。」

 完全に身を潜めていたところに、当然の如く気配を察知されては驚かずにはいられない。程なくして、声の主が心底の驚愕を隠せぬ様子で物影から出てきた。
「闘技場でお会いした騎士さんですね。」
「よう、詩人さん。お尋ね者についてくことになるなんてついてないじゃないか。」
 現れた少年の姿には見覚えがあった。メルキドの皆の心の拠り所である練兵場で出会った新鋭の騎士。小隊を持つ程までの実力を持つ彼が、今はただ一人でホレス達の前に姿を現している。少年はあの時出会った時と同じく、人懐っこさを前面に出しつつ歩み寄る。
「まぁ、なりゆきですから。それにしても、彼をおっさん呼ばわりすることはないと思うのですがねぇ。」
「いや、何かおっさんな気がするんだよな…。」
 最初に見かけたときも、彼はホレスを”おっさん”と称していた。痩躯ながらも引き締まった筋肉から力強さを、淀みない佇まいが若々しさを醸し出している。だが、頬と鼻先に大きな傷痕を残すその精悍な顔つきから、年齢不相応の貫禄が滲み出ている。
 その他に類を見ない重々しい雰囲気こそが、或いは彼を”魔物”と呼ばわることとなる原因なのだろうか。

「それで、お前も俺を捕らえに来たと?」

 自分が追われていることすら忘れたのか、それとも取るに足らない存在としか見ていないのか、ホレスは武器も己の身も構えぬままに、目の前に突然飛び込んできた少年へとまずそう尋ねていた。だが、その翠玉の視線は真っ直ぐに彼の瞳孔を捉えており、返答次第では容赦しない厳格さをも帯びているのがすぐに見て取れる。
「馬鹿言え。そんな命令に誰が従うか。おれは従うフリをしてトンズラこいてきただけだよ。」
 采配を下す神の如き重圧に対して臆した様子もなく、少年ははっきりとそう答えていた。今の騎士団のやり方に対する疑問を持っていたからこそ、この命令の非道さをすぐに見抜けたのだろう。反旗を翻すこともできず、ただ彷徨うだけの自分に向けるように、自嘲的な笑みを浮かべていた。
「確かに、あからさまにやる気のない奴もいるな…。」
「ああ。おれと同じさ。けどな、悪いことにカネル様に陶酔してる野郎は多くてよ、正面から行っても逃げ切れねえぜ。」
 騎士達の様子を眺めると、はっきりと二つに大別することができた。ここにいる少年のように、カネルの命令に納得できないと思いつつもやむなく命令に従っている者達の足取りが、酷く重く感じられる。一方で、草の根分けても探さんとしている者は、カネルに対して多大な忠誠を誓った者が殆どだった。騎士団長直々に見い出されただけのことはあり、その動きから感じられる実力もまた、ただの騎士のそれとは次元が違うものだった。
 。
「オマケに戒厳令が敷かれてな。これでこの町は、カネル様の意のままに動くことになるぜ。どこもかしこも敵だらけってこったな。」

 内部で僅かに反発こそ起こっているものの、結局は大勢に変化はなく、更には発令された戒厳令によって監視の目が町の随所に張り巡らされることになった。そのために、このメルキドの町の何処にあっても騎士の目から逃れることは難しくなっていた。
「……全く、藪から棒とはこの事ですか。」
 その標的は、悪魔の手先と目される流浪の旅人・ホレス。そのただ一人のためだけに、ここまでの厳しい監視の目を設ける状況事態が、異常と言えるものだと言わんばかりに、ガライが呆れたように嘆息する。

「いや、そうとも限らない。よほど俺が都合の悪い存在なんだろうよ。第一、選ばれし者でもなんでもない俺が、こんなモノを持ってれば誰もが疑うところだしな。」

 だが、全く心当たりがないと言えば嘘になる。そう言わんとするように告げながら、ホレスは背負った蒼い盾を手に取った。最後の勇者ともども大魔王に敗れ、闇の供物となったはずの伝説の護甲。それが本物であったとしても、一介の旅人が持つ事を許される品ではない。まして、偽物であればそれもまた、人の心を惑わす愚かな者と断ずることができる。

「そういや言ってたな…。カネル様からの直々のお達しでな。禁じられし一線を踏み越えし魔の手先・ホレスを捕まえろってね。」

 何を求めてホレスを死に至らしめんとするかは明言できるところではないが、そんな馬鹿げた理由など、幾らでも思い当たる。今はただ、騎士団全体に対し、団長直々の命が下されたことだけが重要だった。
「ふん、あながち間違いじゃあないけどな。一体いつ噂しやがったんだか。」
 少年の語るカネルの言葉を受けて気に入らなくも認めるかのようにホレスが一人ごちる。
「何せ、俺は地獄から蘇ってきた男だからな。その地獄の出口にでも、奴らの手先が蔓延ってやがったのか。」
「地獄の出口だぁ…?何言ってんだよ、おっさんよ…」
 想像を絶する程の道程、幾度も変わり続ける無間の迷宮はまさに不可思議と言うべきものだった。その中で味わってきた数々の死線を潜り抜け、時には力尽きて奈落の底に叩き落とされる悠久の道。文字通り地獄と言うべき道の果てにあるのが、魔の根源と恐れられる”魔王の爪跡”という巨大な穴だった。
 確かにそのようなところから出てきたとあれば、誰しも魔物と疑わずにはいられないだろう。だが、今のアレフガルドに、その”魔王の爪跡”に留まり監視し続けることのできる人の子が、果たしてどれ程いることだろうか。

 それらの疑念が導く意味を、ホレスはこの時既に解していた。

「ホレス、どちらへ?まさか……」

 何かを考えるような仕草を暫し見せた後に、ホレスは不意に路地裏から立ち上がり、その入口に向けて歩み出す。だが、その先には、彼の命を狙う見回りの兵士達が巡回している。
「望み通り、打って出てやろうじゃないか。どうせそれ以外に道はないだろう?」
 思わず呼び止めてくるガライへと、ホレスはそう答えていた。その言葉と表情からは、如何なる敵が立ち塞がろうとその障害を尽く排し、道を切り開く自信に溢れている。

「ま、待てよ!いくらあんたでも正面からじゃあ…」

 少年の静止も聞かず、ホレスはただ一人敵地へと足を踏み入れる。次の瞬間、騎士達の怒声と足音、そして剣戟が幾度も響き渡り、騒乱の幕開けを知らしめた。
「おいおい…マジかよ。」
 あの無謀に対する途方もない呆ればかりか、騎士団に対してただ一人で戦を仕掛けるような荒唐無稽な出来事が今現実となったことに実感が湧かない。己の道を行くために、自ら激しい戦いの渦に身を投じる事にも迷いを見せぬ狂わしいばかりの蛮勇と、それにより引き起こした一つの結果を前に、少年はそれ以上何も言葉にできなかった。

「彼の事なら心配いらないでしょう。それよりも、君はどうして危険を冒してまで彼の下に来たのですか?」

 ホレスは既にこの程度の苦境など幾らでもくぐり抜けている。その経験が語る実力を旅路の中で間近に見てきたガライにとっては、特に驚くことでもなかった。今はそのことよりも、ホレスに対して騎士団の動向を伝えようとした少年の方が心配だった。
「まぁ、アレだ。おれが忠誠を誓ってるのは、カネル様なんかじゃない。メルキドの守護神様に対してだからな。それに、バカみたいな命令に従うよりかは断然マシだからさ。」
「それを聞いて安心しましたよ。」
 仮にも小隊長の位を得る程に信頼を置かれているにも関わらず、見ず知らずだった異国の旅人に過ぎぬ彼が罰の矢面に立つなり、その身の拠り所を裏切る真似をしてのけている。それが発覚してしまえば、彼もきっとただでは済まないだろう。だが、それに代えても譲れないものがある。明らかに歪んだ正義を否定し、その意に立ち向かうことができる者が、まだメルキドの中にいる。かつての気高いメルキドの聖騎士の姿を少年から見ることができたことに、ガライは満足そうに頷く。
「第一、おっさんがあんな真似してるってのに、おれも負けてられねえだろ。流石に真っ向から挑むとは度肝を抜かれたけどなぁ。」
「……前言を撤回させていただいても、よろしいですかね。」
 直後、少年が口走った言葉に、肩をすくめる事とはなったが。
 そう少年に語らせるのも、ホレスの蛮勇によって彼の心の内に呼び起こされる勇気の賜物である。そんなものはこのアレフガルドに長らく見ることはなかった。だからこそ、希望となりえる。
 それが異世界を渡り歩いてきた旅人がもたらしたものだった。



 門の下に燃え盛る灼熱の炎の揺らめきが、その外にある城壁を照らしている。鮮やかな紅蓮の灯火を背にホレスはただ歩みを続けて、深き森へと足を踏み入れていく。
 不意に、気配を消すべく息を潜めて自らの動きを止めている様子が風のざわめきを通してホレスの耳へと伝わる。

「ゾーマの手の者だな?」

 風が止むと共に、誰もが音一つ立てていないはずの静寂の森、そこに無数に立つ樹木の幹を通して、ホレスが静かに発したはずの一言が辺り一帯へと響き渡る。

「やはり知っていたか。」

 声が生い茂る葉の中に吸い込まれるように消え入ると共に、闇に潜む一人が物影から現れる。その一歩毎に、金属の脚絆が擦れ合って、重い金属音を立てる。純白の鎧を纏った騎士――だが、それは先に目にした輝かしいまでのそれとは異なり、土に塗れ、装甲もまた所々が欠損した、薄汚れた風体だった。それもまた、騎士の一つの姿に相違ない……が、メルキドの栄光ある騎士団とは、その姿を大きく異にしていた。
「ならば、尚更貴様を生かしてはおけん!」
 騎士が大きくそう告げると共に、森に潜んでいた騎士達が次々とその姿を露にしはじめる。木々が次々と斬り倒され、その後ろから踏みにじる鋼鉄と蹄の音が聞こえてくる。町中で自分を追い掛けてきた騎士の数も相当なものではあったが、今目の前に立ち塞がる騎士の数はその比ではない。

「だったら、お前らにかける容赦は必要ないな。」

 逃げ場を失い、更には行く手を騎士団に阻まれている。だが、ホレスの目には一片の恐れもない。
 変化の杖を手に取り、ゆっくりと天に掲げる。次の瞬間、杖の先端が巨大な銀色の輪が現れ、その内に湛えた歪みから金色の鎖に繋がれた巨大な鉄球が現出する。

 大勢の暴力を前にしても、その表情は決して負けを覚悟した者のそれではなかった。