壁中に伏す 第三話
城塞の内に守られているメルキドの町の中心部。そこに、清水が湛えられた堀に囲われた古の神殿を思わせる大きな寺院がある。
「噂には聞いてましたが、これはまた綺麗な所ですね。」
水路の間に掛けられた小さな橋から軽く身を乗り出すようにして眺める光景に、ガライは率直な感銘の念を零していた。咲く花は他で見られぬ程に瑞々しく、大地そのものも生気に満ちた匂いを返している。
「闇の帳が、弱くなっている。」
「……それ程までのものなのですか。」
天を仰げばそれらの小さな命を支えている温もりが伝わってくる。
「ああ。何となくそう感じる。」
「確かに、心なしかここだけ他の土地にはない生気に満ち溢れてますね。」
それはあたかも、アレフガルドから失われたはずの光がこの寺院にだけ降り注いでいるようにも感じられた。空を覆う闇の帳も、この上空だけ僅かに明るみを帯びているように見える。
―しかし、妙だな。
これまでアレフガルドを旅していても、一条の陽光はおろか、星の瞬きさえも見えることはなく、平原に生い茂る草木も動物も皆が死に絶えていた。だが、ここには光差す庭園の中で在るべき命の営みが繰り広げられている。
何故、これまでの旅の中でここだけが光差す地となっているのか。そして、如何に聖域とはいえ大陸全てを覆う程の闇をもたらす大魔王の力に抗うことがそう簡単にできるのだろうか。そのようなことを初めとして、ホレスは疑問を募らせていた。
「旅の者か?」
寺院の奥へと足を進めていくと、開け放たれた扉の前を守護する門番に呼び止められる。その出で立ちから、メルキドを守る聖堂騎士の一員であることはすぐに見て取れた。彼ら聖堂騎士は元よりこの寺院を守るべくして結成された力ある組織だった。
「この先は精霊神の眷属にあたるメルキドの守護神のご神体が納められている場だ。古より伝わる守りの力に焼かれたくなければ早々に立ち去るがよい。」
扉の先に続く道には、雷光の如く青白い煌きが帯びている。何も知らずにそこに足を踏み入れんとすれば、たちまちにその身を焦がされることとなるだろう。それはまるで、古に生きる雷の神がもたらした結界のようにも思えた。
「ふん、こんなものなど俺には通用しない。」
悪戯に聖域を乱す愚行を戒めるように門番が忠告したのも聞かず、ホレスは結界へと足を踏み入れた。次の瞬間、床に這いまわっていた雷が飛びかかる蛇の如く一斉にホレス目掛けて牙をむく。
「何だと?」
だが、ホレスの体へと突き刺さったその時、結界の雷は突如として砕け散り、光の残滓と化してそのまま消え失せた。
「馬鹿な…守護神様の証どころか、防護の魔法すら使わずしてそのまま踏み入っただと?」
「ええ…これは私も驚きました。」
背徳の者に裁きを下すべく張り巡らされた古の結界を、あたかも素通りするように突破されたことに誰しも目を疑うしかなかった。ガライも旅の中で、ホレスが呪文を初めとして様々な力を跳ね除けてきたのを目の当たりにしてきたが、まさかそれが神域の守護をも打ち破る程とは予想できなかった。
長い旅をくぐり抜ける中で、人の子に過ぎぬはずの彼が一体何を得たというのか。
「では、私も失礼させていただきますね。トラマナ。」
ホレスは結界の中で傷つくこともなく悠然と待っている。ガライは門番に一言そう告げると、彼の後を追うように足を進めつつトラマナの呪文を唱えていた。大地からの干渉を和らげるその力によって雷光を遮りつつ、ホレスと共に道の奥へと消えて行った。
「一体何だと言うのだ、あいつは……。」
長い間巡礼者達を見届けてきたが、あの先に足を踏み入れてただで済んだ者がいた試しはなかった。ガライと呼ばれた若者のように守りを張り巡らせてようやく通れる結界に守られているはずの聖域。だが、あのホレスという男は何の備えもなく踏みにじるかの如くそこに侵入してのけた。
その不可解な光景を思い返す度に、彼の持つ人並み外れた不思議な力を前に門番は神か悪魔に対して向けるような畏怖の念すら感じていた。
「ご神体…か。」
神域を堅牢に守り抜く雷の結界によって照らし出された道を進む中、ホレスは先の門番が言っていたこの地の云われについて思い返していた。
「このアレフガルドを作ったとされる精霊神の軌跡を辿った伝記には、幾人かの眷属の存在が記されてましたね。」
「眷属か。」
語り継がれる神話の時代、神と呼ばれる存在は精霊神ただ一柱だけではなかった。今あるこの大地も、神々の成せる数々の物語を経て創世されたものとある。
「もっとも、これも所詮はもてはやされているだけの聖書に過ぎませんから、あまりあてにはしていないのですがね。」
「ああ。」
神話を語り継ぐ最中、神というものを己のものとするべく宗教の形とした者が現れて聖書としてその話を綴ることになる。やがて、そうした者達が幾人も現れるようになった時、互いの正統性を主張し合う中で、古の教えは都合よく歪められることもあった。そのようなものから過去を知ろうとするのであれば、語られていること全てを鵜呑みにして盲信する愚をまず知るべきだろう。
「さて、どうやら最奥に辿りついたみたいです。」
古の神の力による守り―雷が張り巡らされた回廊を経て、目の前に大きな祭壇が見える。
「これが例のご神体とやらか。」
「そのようですね。それに、こちらは……」
その石段を一つ一つ昇りつめた先に最初に見えたのは、古びた石の棺だった。固く閉ざされた石の棺に、崇められている神の名が古の文字で記されている。それを一目見た後に、ガライは近くに佇む巨大な石碑へと目を向けていた。苔生していながらも、こちらにもかつて刻まれた文字がうっすらと綴られているのが見える。
「あなた方も、守護神様の下にお参りに?」
歩み寄る足音に対してホレスが振り返ると共に、穏やかに語りかける女の声が二人の耳へとそう届く。いつしか藍色を基調とした修道服に身を包んだ貞淑な雰囲気を纏う女性の神官がすぐ後ろに佇みつつ、穏やかな微笑みを返していた。
「ああ、俺はこの世界についてあまりに疎い。ここに来れば手がかりの一つも得られるかと思ってな。」
「どうやら行く道にお困りのようですね。」
メルキドの守護神を奉る聖殿の中心。もちろん、守護神に参拝しに来たと言えば嘘になる。それでも、守護の雷を乗り越えてでも、この聖域に足を踏み入れたい理由があったそのことは、彼女にもすぐに知るところとなった。
選ばれし者だけが通ることを許される道の先に何者かがいるとすれば、それは高みから多くを知る者とおのずと知れることになる。この最奥を守る自身に用があるとすぐに察して、神官はその眼差しをホレスへと向けた。
「最近では、この町に訪れる人達は途方に暮れて落ちのびて来た方ばかり。未来を憂うが故に生きる気力を失う姿を目にするたびに心が痛んだものです。」
「そうだな…俺も正直驚いている。これだけの城塞都市がここまで追い込まれているとは…。一体奴らはどこから出てくると言うんだ。」
何があろうと強く生きる意思を見せるホレスの眼差しから、それとは対照的に日に日に地の底へと落ちていくようなアレフガルドの者達、とりわけメルキドの住人の憔悴ぶりが思い返される。魔物の力が日に日に増していく中で成す術もなく逃げるまでは良かったが、堅牢な町の中でなまじ安心していたからこそ、それを乗り越えてくる魔物の存在を知った後はその逃れられぬ脅威に怯えざるを得ない。
「ここにおいでになった方は、最近ではオルテガ様ぐらいですね。あの方も、あなたと同じように行くべき道を求めていらしたのですよ。」
この聖域の守護を恐れずに神の御許へと足を踏み入れることができる者は、長い間目にすることはなかった。あの男もまた、ホレスと同じく道を求めてここに辿りついた。今でも空に普く闇を切り裂かんとする勇姿を目にすることができたことに感銘を受けたものだった。
「オルテガはやはりここに……。だが、一体何を知ったと言うんだ?」
デビッドの話からも、オルテガがこの町を訪れることは分かっていた。堅牢な城塞と名高いこの町の影を見たとき、そしてその絶望とは程遠いこの美しい寺院の庭園を見たとき、彼は何を思ったのか。そして、この最奥の間で何を見い出すこととなったのか。
「これはかつて、この世界を繋いでいた伝説の橋の残滓です。ですが、今ではもはや物言わぬ標と化してます。」
「伝説の橋?」
首を傾げるホレスに答えるように、神官はそびえ立つ石碑を指し示す。それが古の文字が刻まれただけの単なる土塊などではなく、かつては多くの者達が行き交う道の欠片であったらしい。
「雨と太陽が合わさりし時、挟間に虹の橋が架けられる。その伝承ならばあなたもご存じのはずです。」
「確かに聞いたことはあるが…これがその虹の橋だと?実在していたのか…??」
「はい、そう伝えられています。かつてはルビス様の下で創世されたばかりの頃、隔てられた大地を渡す橋が数多く存在していたそうです。これもまた、その大いなる遺産の一つなのです。」
雨と太陽が交わることで姿を現す虹によって形作られる橋。それはアレフガルドに住まう者には広く知れ渡った伝説の一つだった。この世界に来たばかりのホレスも詳しく知ることはなかったが、少なからず各所で耳にすることはあった。
その語り継がれてきた伝説の残滓が、その力を全て失いながらも今ここにある。
「数十年前には、その橋の存在を語られる方の噂を聞いたものでした。オルテガ様も、すぐにこちらに着目されましてね。今もその手掛かりを求めて雨の祠へと向かわれているところでしょう。」
「何?」
「虹の橋が再び蘇ることとなれば、ゾーマの巣食う魔の島に渡ることも可能となる。今はこうして失われた遺産ですが、雨と太陽を見い出せれば或いは…。オルテガ様はそう仰られてました。」
「魔の島……まさか、そこにも虹の橋が?」
そして、オルテガはその伝説の正体を知ることでようやく答えを見い出すことができた。闇の中心への道は荒れ狂う海に囲われており、しかも船を出すことすら出来ぬ程の激流に包まれている。だが、その岬にもまた希望となる架け橋の礎が残されていた。それを己の目で確かめ、オルテガは虹の道を求めて更なる旅路へと踏み出すことになった。
「しかし、只者じゃないな…。」
ホレスの右手の中指に嵌められている指輪の宝石が、温もりを帯びた温かな桃色の光を微かに湛えている。オルテガが遺して行ったただ一つの置き土産”命の指輪”。時と共に所有者に生気を吹き込むその力がなくとも、オルテガは更に道を切り開いている。
比類なき武勇と幾多の経験が、記憶を失って尚も男を導いているとでも言うべきか。今はただ、他の者よりも一歩も二歩も先を進むオルテガに畏怖の念を感じる他なかった。
二人の旅人が去り、辺りは再び静まり返って聖地に穏やかな空気が流れていく。守りの雷光によって微かに照らされている中で、祭壇の上に安置されている神の聖櫃と古の橋の残滓を前に、神官の女性はただ静かに佇んでいた。
「アルタナよ。」
不意に、その静寂を崩すように金属の板が擦れ合うような音と共に歩み寄る誰かが、彼女へと冷厳に呼びかけていた。顔面を全て覆う白銀の兜に、美麗な金による花の刺繍が施された純白の外套。身を包む衣の下はどこか華奢で、兜を通じて聞こえる声もまた強者達を統べる者としては些かか細くも感じられる。その頼りなげな印象と裏腹に、皆を平伏させる程の重圧的な雰囲気を醸し出している。
「これはカネル様、あなたも守護神様の下に?」
騎士の長たる者が纏う威厳に怖じた様子もなく、神官アルタナはその者――聖堂騎士団長カネルを温かく迎え入れるように優しい微笑みを返していた。が、己でその言葉を発しておきながら、この騎士の真意が他にあることには既に気づいていた。
「いや、先にこちらに異国の者が訪れたとの知らせがあったからな。それはまことか?」
あたかも促されたかのように、カネルは言葉を続けて要件を告げ、白銀の兜の下の双眸をアルタナへと向けた。
「ええ。名は確か、ホレス殿と言いましたね。」
それに答えながら、彼女は内心で疑念を禁じ得なかった。ただの旅人一人のために、団長自ら赴く程の重大な事態など、想像する術もない。
「そうか。やはりあれがホレスだというのか。」
その答えを聞いて、カネルは確信したようにそう呟いていた。団長自らが赴かねばならぬ程の大事にあるかのように、その語気はかなり落とされている。
「あら、彼に何か?」
ホレス――オルテガの後を追い求める旅の最中にこの聖域へと訪れた勇猛な冒険者のことは、強く心に刻みつけられていた。これから先、彼もまた大切な役割を果たすことになるかもしれない。
「何かではない!あの者は闇より出でし物の怪の類!このアレフガルドに厄をもたらす存在となるのだぞ!」
だが、カネルは突然いきり立ったように声を荒げつつ、彼の出自を一思いに吐き棄てていた。
「……その話は、どちらで?何故そのようなことを?」
カネルが告げたことは、アルタナがホレスに対して感じたものを全て否定していた。それを素直に信じられるはずもなく、アルタナは表情を曇らせながら即座にそう返す。先程まで自然に語らった折には、特に怪しい様子を垣間見ることはなかった。その彼が、一体何をしたと言うのだろうか。
「我が信頼おける者に探りを入れさせていたが、何でも魔王の爪跡より現れたと言うのだ。許されざる闇の者に相違ないだろう。」
「魔王の爪跡ですって?」
ホレスの人格を否定することを許さない毅然とした面持ちを崩さぬアルタナを見て呆れたように嘆息した後に、カネルは決定的な事実を告げていた。
「だから言ったであろう。彼奴は魔の手先。それもこの守護神様の御許へと踏み入れる程の者をこのまま野放しにしておけばどうなることか。必ず捕らえ、すぐにでも始末せねばなるまい。」
魔王の爪跡――かつてゾーマが現れたとされるアレフガルドの大穴。そこから、数多の魔物が現れたとされている。そんな場から現れたとあっては、確かに誰しもホレスを魔物と疑おうとも仕方のないことだった。
憔悴しきったメルキドの町だからこそ、その事態を齎した魔物に対する憤怒や憎悪は計り知ることはできない。
「カネル様、彼は決して魔の者などではありませんよ。そんな酷いことをなさっては、皆の不安をあおるだけです。」
だがアルタナには、どうしても先程出会った青年が魔物などと思うことはできず、騎士団が悪戯に疑念を募らせるあまり、槍玉に上げる対象を欲しているだけに見えた。確かに、魔物を憎む者の多いこの城塞都市で、魔物が人に扮している例は珍しくはなく、それと戦う騎士達の活躍は皆を勇気づけてきたが、無実の者を処断してまで秩序を保つのは傲慢でしかない。
「己の確証のみであやつを庇い立てしようなどと考えぬようにな。」
しかし、逆に処断に向けてのアルタナの疑問もまた、彼女一人が抱いている私情に過ぎず、騎士団を止めるに足るものではない。人々が何を信じ、何に従うかは火を見るよりも明らかなことだった。
「オルテガの後を追うというのも、その命を狙うことの他に理由があるかな。」
アルタナが見た、オルテガの跡を追い求めるホレスの姿。それもまた、アレフガルドの希望であるオルテガを排さんが故の行動でしかないと見なされれば、これ以上の弁明はできない。
「カネル殿、ひとつだけよろしいですか?」
カネルが去り行こうとするのを、アルタナは不意にそう呼び止める。
「あなた方は、何に従って生きているというのですか?」
これ以上何を言っても命令を覆すことはないだろう。かつての騎士団は弱きを助け邪悪を砕く高潔な精神を持つ騎士の模倣的な存在と言えるものだった。だからこそ、彼らをこのような暴挙に駆らせているものが何であるか、それを気にせずにはいられない。
「”天意”だ。」
その問いに対してカネルは何の躊躇いももなく、ただ一言そう答えていた。
「………。」
踵を返して聖域より立ち去る聖騎士の長を見届ける間、アルタナは何も言葉を発することはなかった。理不尽極まりない虐げの業を行うことも、彼らが仰ぐ天の意思であるという。
だが、カネルの告げた”天”が望むものは一体何であるというのか。
世界が闇に包まれてより、信念の問われるところもまた変わりつつあることだけが確かなことだった。