第三十一章 壁中に伏す



 水の都――リムルダールの南にある深い樹海を抜けた先に、切り立った崖に挟まれた荒野の道が続いている。風は冷たく、乾いた砂を巻き上げて旅人の身を斬りつける刃の如く痛烈に吹きつける。
 熱気を吸い取り時には留め置く役割を果たす水の潤いのないこの地は、元より厳しい環境にある。日の下にあれば身を焦がす程の焦熱が襲い、今の如き夜にあっては凍てつく冷気が生気を奪う。
 その上に、更に闇に苦しみ続け、飢えた魔物が蔓延るとあっては、もはや何者も立ち入るに危うい魔境と言えるだけの脅威に違いなかった。


 それを知って尚も退かずに突き進まんとする蛮勇の旅人の命を狙い、空高くから舞い降りる幾つもの影。禿鷹の翼と鋭い嘴、赤い蛇の如き鱗と尾を持つ小型の鳥獣――メイジキメラの群れが荒野の中心に立つ黒衣の男に一斉に攻撃を仕掛けた。
 キメラ属の魔物が持つ敏捷性で一瞬で彼の正面と背後を取って道を断ちつつそのまま嘴で鋭くついばみ、別の数匹は離れた位置から魔道士――メイジの名に違わぬ強力な攻撃呪文を撃ち放つ。閃熱の上級呪文・ベギラマが起こす幾条もの炎熱の波が一斉に彼へと牙を剥く。

「ポートラミシア・ヘガ・アイリ・ラング・スフェール・フィルム・ラディア・ベイルデ…」
『『『『!』』』』

 だが、その迫り来る恐怖に全く動じていないかのように、彼は身を翻してメイジキメラ達の突進をかわしつつ呪文の炎をも事もなげに振り払い、魔法の文字が書き詰められた巻物を取り出していた。それを素早く開くと共に、奇妙な響きの言の葉を一つも違えることなく流れるように読み上げる。
 詠唱と共に、巻物に記された文字が強く輝き始めてその一端から燃え上がって瞬く間に灰と化す。その次の瞬間、彼が掲げた右手に淡い光が集まり始めて大きく渦巻く奔流と化し、天を衝く巨大な竜巻がその手のひらの上で暴れ狂っていた。やがて、唱えられる言霊によって徐々にその形を変化させていき、最後は暴風の力を蓄積させた霊光と化して右手全体に纏わりつく。

「バギクロス!!」

 呪文の名を唱えると共に、彼はその拳を勢いよく地面へと叩きつけた。莫大な量の風の力が衝撃を与えられた一点を中心として砕け、四方八方へと飛び散る。次の瞬間、彼自身を風の目とした旋風が上下に舞うキメラ達へと吹きつけた。
 烈風の中で一際鋭く吹く風が巻き起こす真空が幾つもの刃を形作り、触れたもの全てを切り刻む。不幸にも彼の行く道を阻まんとしたキメラは、バギクロスが齎す真空の刃によって両断されて一瞬で絶命していた。
―これで打ち止めか。
 一方で、遠くから呪文による牽制をしていた群れは傷ついて満足に飛ぶこともままならぬ様子だったが、辛うじてその生を留めており未だに戦う姿勢を崩していなかった。敵を殲滅するべく発動した、奥の手とも言える最上級呪文。そもそも魔法使いなどではない彼が、そのような過ぎた代物を扱うこと自体そう何度もできることではなかった。
「だが、その傷で立ち向かって勝てると思ったか、バカが。」
 それでも、ただ一度齎された絶大な威力の攻撃によって大勢は既に決しているのは、誰の目から見ても明らかなことだった。
『ベホイミ』
 よろよろと舞うキメラの一体が、自らに向けて回復の呪文を唱えて傷を癒して、再起を図る。
「無駄だ。」
 それに倣うようにして生き残った者達が同じ様に治癒を施そうとしたその刹那、旅人は不意に振りかざした銀色の杖から、封呪の力が発せられて、キメラの群れの呪文を封じ込めていた。それでも構わずに最後の攻撃をかけてくる者は、そのまま杖そのものに薙ぎ払われて地面へと叩き落された。
「終わったか。」
 今も尚、敵意の眼差しを向ける者があっても、既に動ける者は誰もいない。それを襲撃の終わりとみなしてか、旅人――ホレスは携えた武器を収めて、魔物の群れから踵を返して道の先へと足を進めた。


―まだ、遠いか。


 リムルダールの町を出発してから既に何日経ったことだろうか。先に進むにつれて強力な魔物が行く手を阻み、道も次第に険しくなっていくも、メルキドまでの全行程の半分も過ぎていない。旅人としての経験のみならず、戦士としての純然たる力をも求められるこの旅路。だが、それを前にしてもホレスは特に感慨もないように慣れた足取りで歩み続けるだけだった。
―また魔物か…面倒だな。
 その最中、ホレスは前方に再び魔物の気配を察知して、物影に隠れて息を潜めた。だが、幸いにもこちらに気づいている様子はない。これまでに出遭う事となった魔物の数も数知れず、時には様子を見て今の様にやり過ごそうとしたこともあった。
 魔物と見れば正面切って力で押し潰すのではなく、時には脅威と見なして上手くかわす。悪戯に戦おうとすれば、一つ間違えば逆に手痛い反撃を受けてしまうこともある。それが、地獄の底で改めて学んだ一つの旅の指針だった。

「!」

 魔物が過ぎ去るのを待っている中で、不意にホレスは異質な気配を魔物の群れの中に感じ取った。

―そこに誰かいるのか!?

 獲物を求めて彷徨う獣の群れの中に、ただひとつだけそれとは異なる雰囲気を纏った誰かが静かに歩んでいる足音が聞こえてくる。それは間違いなく、人の子のそれであった。

「そんなに慌てずとも大丈夫ですよ。」

 血に飢えた魔物達の中央に人の気配がある状況に驚きを隠せずにいるホレスへと、何者かが宥めるような穏やかな口調でそうささやきかけていた。
「どういうことだ……魔物が逃げていく?いや…」
 疑問に応えるがためかの如く、いつしか傍らに現れたその者に驚くことは全くなかった。ただ今は、牙を剥く事もなくただ常夜の道を歩む魔物の群れの様子を見て、誰かに投げかけるように一人ごちるだけだった。
「あんたを認識できていないのか…?」
「そうです。これも我が一族に伝わる魔物除けの秘術の一つでして。」
「あんた、吟遊詩人か……」
 端正ながらも気取った様子もない顔立ちの、緑衣に身を包んだ痩身の旅人。透通ったようで、明瞭に聞こえるその声は歌に通じている者の持つものと見える。その声から、ホレスはその者の負う生業をすぐに悟ることとなった。その繊細で美しい語り口から弱々しい印象を与える職ではあるが、長旅に身を置く彼ら吟遊詩人が、それに耐えうる程の強さと知恵、経験を持ち合わせていないはずがない。
「君は、この世界の方ではありませんね?」
「分かるのか。」
「ええ。日の光の中で生きてきたように見受けられましてね。」
 一方で、詩人の方もまた、ホレスがこのアレフガルドの者ではないことをすぐに見抜いていた。思えば元の世界から来たカフウはもちろんのこと、この世界で出会ったデビッドも自分を異界の者と察するのにそう時間は掛からなかった。長きにわたって闇に隔てられたアレフガルドの住人にとって、自分のような存在はやはり珍しく映るのだろう。
「その盾は護甲・勇者の盾…のようですね。君も勇者の流れを汲む者なのですか?」
「分かるのか。確かにこいつは勇者の盾とか呼ばれていたし、大した力も持ってたさ。」
 左手に携えている不思議な煌きを返す蒼い盾を目にしての詩人の問い掛けに、ホレスは特に疑念を露にすることもなくすぐに言葉を返していた。余程詳しくその神話の盾のことについて見た記憶があるのか、即座にその名を出したことに感心の念さえも覚える。
「それでも本物であるかは疑わしいがな。第一、残念ながら俺自身は勇者の縁者である憶えはない。」
「なるほど。風の噂より、またゾーマに挑まんとする勇者達が再び旅立ったと聞き及びましたが、それは君ではなかったのですね。」
 だが、そもそも神話に深い関心を示さぬホレスにとって、これが伝説の品であるかなど関係なく、勇者と呼ばれる存在そのものも興味がなかった。
―旅立った…か。
 一方で、詩人が口走った言葉の一端に、ホレスは何とも言えぬものを感じていた。それが或いは自分が求める者なのか。それとも、別の意味で会わなければならぬ者なのか。今は知る由もない。

「ところで、あんたもメルキドへ?」

 魔物の気配が遠くに去るのを見て再び立ち上がると共に、ホレスは詩人へとそう尋ねていた。
「ああ、あなたもですか。よろしければご一緒しましょうか。」
「いいのか?」
「もちろんです。私も一人では心細かった所ですから。」
 見知らぬ世界、それも闇に覆われた中をただ一人で進むことに、流石のホレスも何かもっと明確な指針となるものを求めずにはいられなかった。その心中を察したのか、詩人は特に気分を害した様子もなく逆に同行を申し出ていた。
 地図のみを頼りに、己の力だけでこのような場所まで問題なく辿りつけるホレスの腕前も、詩人の見込んだところだった。
「私は、そうですね。ガライとでも呼んでください。」
「ホレスだ。よろしく。」
 互いに名乗りを上げた後、何者もない静けさの中で外套を翻して再び道の中へと戻る。彼らが向かう先には、果ての見えぬ乾いた道が、巨大な谷の間にずっと続いていた。



 日の光を失ったまま長きに渡る時が過ぎ去っていく。大魔王の手によってこの世界から太陽が失われたことにより、光による恵みが失われたばかりか、奪われる前より予想もしない小さなことまでもがままならなくなっていた。日の出入りによって明白にされていた時も正確に測る術はなく、暦を見定める術も失われる。常夜の中で、アレフガルドの大陸を支える理そのものの変化を、人々は次第に享受せざるを得なくなってきた。
 太陽なき今、己の向かう位置を知ること一つとっても頼りとする大きな指針がない中で、違和感を感じざるをえない。方位磁針すらも効かなくなったとすれば、道を見失うことは間違いなく、悪ければそのまま暗中で死を待つだけとなるだろう。

 明けることのない道中、そしてこれまで往来を共にしてきたアレフガルドの旅人達は、ホレスの知る世界のそれらとは大きく異なるものだった。

「もう間もなく、メルキドです。」
「ああ、助かったよ。」

 砂漠の町―ドムドーラを経て、更に長い道のりを行く果てに、ホレス達は道の終わりを明確に予感できた。砂漠を越え、峠を横切り、渓流を渡り、最後は平原を歩む中で、小さな山に囲われた中心にそびえ立つ絶壁が遠くからでも視認できた。その周辺では篝火が焚かれ、明るさの中で積み上げられた石の一つ一つがうっすらと見える。

「しかし、驚きました。君に纏わる気、一体何なのです?」

 その光景に見入るわけでもなくただ立ち尽くす中で、不意にガライがそう尋ねていた。
「まさか、ここまで追いかけて来やがるなんてな……」
 それを受けて、ホレスはどこか苦々しい表情を浮かべながら後ろを振り返りつつ一人ごちる。
「闇の手の者と見受けられましたね。追われているのですか?」
 そこには、先程斬り捨てた魔物の群れの骸が物言わずに横たわっていた。飢えているだけの通常の魔物達と異なり、より明確な殺意を以って付け狙ってくる彼らを前に逃げる術はなく、やむなく戦う事となった。
 悪魔を体現したような出で立ちをした毒々しい鮮やかな紫色の魔物―サタンパピー。いずれも一刀の下に斬り捨てられて、無惨な姿を晒している。
「おそらく、こいつを狙っているんだろうよ。」
 悪魔達を残らず殲滅した張本人―ホレスは左手に取った勇者の盾を眺めながら、ガライへとそう答えていた。バロンと名乗った大魔王に仕える騎士もまた、この盾を狙って襲いかかってきた。それならば、その配下の魔物がこれを求めても何の不思議もない。
「勇者の盾を…ですか。ですが、はたして本当にそうでしょうか?」
 だが、ガライは即座にその言葉に対して疑問を投げかけていた。
「業と言うものは、向き合わぬ限りずっと付き纏うものです。先の者達も、まさにその業の下に動いているのでしょう。」
「何が言いたい?」
「君の負う業は、別にあるのでしょう。」
 その目は、ホレスが右手に持った大業物へと向けられている。それをはじめとする数々の強力な武器を必要とするまでに、ホレスは過酷な戦いの日々に身を置いていた。もちろん、彼が神器を携えているからこそ、闇の手の者が目をつけていることは間違いない。だが、ガライはそれとは別の何かを既に見抜いていた。

「確かに、あんたの言うとおりなのかもしれない。が、どのみち所詮俺には関わりのない事に過ぎない。立ち塞がるなら、まかり通るだけの事だ。」

 ガライの言を否定することはできない。”彼女”と共にあった時、共に背負う事になった業。そのために、無限の迷宮に迷い込むこととなり、やがてはこの闇の世界に辿りついた。しかし、ホレス当人にとって、そうしたものの存在が道の妨げになることがあっても、心を苛むものとはなり得なかった。
 如何なる危機に陥ったとて、決して己を失うことはない。そうでなければ、輪廻の如きあの道から生還することもなかったのだから。


「さて……どうやら、また一騒動ありそうですね。」


 先程から、遠くの方から大きな足音と喉を低く鳴らすような重々しい唸り声が聞こえている。いつしか二人は、それの元となる存在のすぐそばにまで至っていた。

「あれは…ドラゴン?」

 遠目から見れば、それは一見小山とも見紛う程の巨大さと色合いを持っていた。苔色の鱗に全身を覆い、鰐の如き大顎と鋭く伸びた角がその体格も相まって、正真正銘の怪物としての気迫を醸し出している。ドラゴン――かつては存在し得ない伝説の魔獣として語られ、今もまた獅子と双璧をなす程の強い力を持つと恐れられる魔物であると知られていた。
「身をあそこまで削る程に飢えている…もはや後には引けぬ気概で彼らへと挑んでいるようですね。」
「こいつもか……。」
 これまで戦ってきた魔物達の例に漏れず、このドラゴンもまた飢えに苦しんでいる様子が見て取れた。弱り切り、既に削られつくされた体を以って尚も、メルキドを守る騎士達へと挑まんとしている。しかし、それでもその突き進む巨躯を以って敵を押し潰し、爪牙を以って斬り裂き、果てには炎によって全てを焼き尽くす様は、まさしく最強と名高い魔物の姿に相違なかった。
このドラゴンの襲撃に呼応するように、多くの魔物達がメルキドの城壁の前へと集い、既に彼らと騎士達の戦いは凄まじい開幕を迎えていた。
「だめだ、避けられない。」
「そのようですね。」
 極限まで追い詰められた中で研ぎ澄まされた感覚故か、ドラゴンはホレス達の存在に程なくして気が付いた。その殺気は真っ直ぐにこちらに向けられている。

「下がっていろ。ここは俺がやる。」

 もう戦いを避けることができぬことを悟り、ホレスは竜の双眸を正面から見据えつつ、ガライへとそう告げていた。その言葉を受けてガライが自分とドラゴンが睨みあう一線から引いたのを見届けると、彼は腰の袋から赤い色の種を取り出して噛み砕き、そのまま次いで違う種を齧った。
「素早さの種に力の種ですか…。」
 それらの種を飲み込むと同時に、ホレス目掛けてドラゴンが喰らいついてくる。だが、彼はその顎門が閉ざされると同時に地を蹴って空高く飛び上がり、即座に竜の背後へと回った。常人にはあり得ぬ跳躍力と敏捷性、そしてその動きを支えるだけの力から、ガライはホレスが使った道具の正体をすぐに察する事となった。
 飲んだ者の力を増す効能のある力の種に、様々な早さを与える素早さの種。早期決戦を狙っている今の状況には理にかなった判断だった。

「まずは、大人しくしてもらおうか。」

 闇夜の中に微かに色づく灯に対する竜の巨体が作る影を狙って、ホレスはいつしか手に取っていた短剣を投じた。竜の影にその切っ先が突き刺さった次の瞬間、振り返らんとした竜の動きが短剣に縫い止められたかのように留められた。引きずり込まれた異界の中で見い出した切り札の一つ、相手の影を縫い止めることを引き金として発動される呪縛――影縫いの法だった。

「!」

 呪縛によって止められている隙に業物で止めを刺そうとした瞬間、竜はおぞましいまでの咆哮を上げつつ地面をのたうち回った。その圧倒的な力に耐えきることが出来ず、影縫いの針の役目を果たしていた短剣が勢いよく弾け飛び、あらぬ方向へと飛ぶ。直後、施された影縫いの法が破られ、動きを取り戻したドラゴンは激昂してホレスへと襲いかかった。
 紅蓮の炎が吐き出され、一瞬にしてホレスを業火の中へと飲み込む。
「ホレス!」
 すぐに優位な状況に立つ事が出来たと思いきや、仮にも伝説の魔獣の名を冠する魔物に小細工は通じずに逆に炎によって焼き焦がされんとしているホレスを見て、ガライは思わず叫んでいた。

「……手に負えんな。」

 だが、ドラゴンが吐き出す炎が途絶えたその時、蒼い盾を掲げる彼の姿が燃え盛る中から現れた。神の武具と謳われた伝説の護甲・勇者の盾。その力によって灼熱の炎を遮り、大きな傷を負うことはなかった。
 それでも、力を抑え込むことによる呪縛の類が通じず、初手から手痛い反撃を受けたことに、ホレスは肩をすくめずにはいられなかった。
「仕方ない。」
 動きを封じ込めた上で、業物で確実に止めを刺す戦い方が通じない以上、戦法を変えざるを得ない。ホレスは手にした剣を収めつつ、変化の杖を引き抜いてそのまま振り下ろした。その先端から生じる歪みの中から、金色の鎖に繋がれた巨大な鉄球が顕現して、ドラゴン目掛けて飛んでいく。
『!』
 不意に現れた巨大な武器を、ドラゴンは成す術もなく受けることとなりその衝撃に一瞬怯んだ。出鼻をくじかれてたじろぐその瞬間を逃さず、ホレスはすぐさま武器を――破壊の鉄球を引き戻しつつ再度大きく振るって一撃を叩き込む。最初に飲んだ二つの種が与えた力によって、回を重ねるごとにその鈍重な武器の性質から信じられぬ程に一撃一撃の速さが増し続け、ドラゴンを完全に畳み込んでいく。
「今だ。」
 猛攻を前についに地面に崩れんとするドラゴンを見てにこりともせず、ホレスは鉄球を頭上から打ち下ろした。傷つく程に力を増していく手負いの獣であれば、その度にそれを上回る力で捻じ伏せてやればいい。その末に、完全に抑え込まれた今が、最後の攻撃の好機だった。
 とどめの一撃を打ち込まれて、ドラゴンはもはやこれ以上動く気配も見せずに夜の平原にぐったりと横たわった。
「殺しはしないのですか。」
「ああ、必要ない。もう追撃する気力もないだろう。別にこっちから仕掛けた戦いじゃあない。」
 倒したとは言え、ドラゴンはまだ生を留めている。だが、ホレスはその命を奪うことまではしなかった。相手が命失ったとしても当然の結果、運よく生き長らえるのであればそれもよし。既に動けぬのであれば、道を切り開いたことには変わりはない。

「それよりも、親玉を叩き斬った方が手間が省ける。」

 一つの危機は切り抜けた。今はただ、次なる障害を排する事に全力を注ぎ込むだけの事だった。破壊の鉄球を収めると同時に、青白い刀身の大刀がホレスの手に収まり、何も映さぬ虚空を一閃する。
 あらざるはずの手応えが、青白い刃を通して伝わってきた。

『貴様…!!』

 次の瞬間、血のように赤黒い影がそこに現れた。ホレスの振るった大刀の軌跡に沿って白い光による傷が刻まれており、既に両断されていた。斬り裂かれた影に浮かぶ目が、憎悪と憤怒を込めた目で、こちらを睨み据えるも、もはやどうする事も出来ずにいた。
「油断したな?姿を消したところで、気づく奴がいないとでも思ったのか?」
 影の如く見えざる者に対して真価を発揮する、聖剣の名を冠するシャドーブレイクの剣。それが本来持つ影断ちの力に幾度となく馴染んできたホレスにとって、姿を消して迫る手合いの気配を察する事など、容易いものだった。既に致命傷を負って尚、怨恨の籠った視線を向けてくる血色の影に向けて冷たくそう言い放つ。
「確かに、これが闇の手の者達を率いる長のようですね。」
 ホレスが影を斬り捨てた事で、騎士団と戦っている魔物達の間で変化が起こり始めていた。先程まで何かに駆られるようにして騎士達に襲いかかっていたある魔物達の動きが急に止まり、またある魔物達は急に踵を返して去り行かんとしている。その様子を見て、ガライはホレスの言葉通り、その影こそが今の襲撃の元凶となる存在である事を容易く察する事ができた。
「では、私もお手伝いしましょう。」
 そうと知れれば、この戦いを終わらせるべくして自分もなすべきことをなすだけのことだった。シャドーブレイクを構えるホレスと影の間へと立ち、腰に帯びた笛を手に取って静かに奏で始める。
『こ…これは…!?』
 笛に吹きこまれた吐息の風鳴りのような高い音色に反して、重々しい雰囲気の曲が流れ始める。

『馬鹿な…や、やメ……ギャアアアッ!!』

 それを聞いた影の声が、急に耳障りな程に掠れ始める。存在そのものの安定が失われゆくように、本体も強く波立つと共に徐々に薄れ始めていく。最後に上げた断末魔の悲鳴のみを残して、赤い影は跡形もなく消え失せた。
「レクイエム…か。」
「ええ。それが如何に魔の者に通用する聖剣だとしても、それだけで完全に滅却するのは至難の業と思われまして。」
 妄執に狂える亡者達を鎮めるための鎮魂歌―レクイエム。ホレスの持つシャドーブレイクの力と合わせることで、魔物の扇動者を完全に滅する事ができた。戦いに関わることの少ない吟遊詩人の常としての魔物を上手くかわす方法だけではなく、打ち払う術も持ち合わせていた事に、ホレスは素直に驚きを表していた。

「さぁ、行きましょう。」

 長を失ったことで、既に騎士と魔物との戦いは終わりを告げていた。皆が上げる勝鬨の後ろに、巨大な城壁がそびえ立つ。
 アレフガルドの中でも最も堅牢な城塞と言われるメルキドの町に、二人はついに辿りつくこととなった。