第三十章 地の命脈
結露した水が一滴一滴垂れ落ちて、岩肌に砕かれて水音を奏でる。幾度も落ち続けるうちに、岩は水によって削られて小さなくぼみを形作っている。
湿って滑りやすい上に微細な起伏の激しい岩場はただでさえ足場が悪い。更には辺りは闇に包まれて先も見えない。
その中で、突如として起こった獣の咆哮が、岩壁の間に響き渡る。
直後、それと対照的な穏やかな音色―この場に似付かぬ竪琴の音が流れるように奏でられ始めた。
最初は水のような流れる音色にかき消されるように獣の唸りは小さく、苦しげに消え入ろうとしていた。
だが、引き攣るような息を呑む音と共に、不意に再度怒号が鳴り響いた。
直後、金属が一瞬すり合う音が鳴ったと共に、獣の断末魔の悲鳴が轟いた。
「どうして……?」
暗闇を照らす円状の光で辺りを灯す松明が、木の焼ける乾いた音を響かせている。それを携えた誰かが、俯きながらそう問い掛ける。
「どうして…こんなに必死になって……」
吹雪の剣を手にした左手を力なく落としながら見やる先に、巨大な獣の亡骸が横たわっている。竜と双璧をなすとまで言われた百獣の王――獅子を思わせる怪物ライオンヘッド。かつても魔王バラモスの配下との戦いの折に目にした事はあった。
だが、今しがた襲い来たそれは、獲物も見当たらぬこの世界の中で酷く痩せこけており、それでもかつて戦った同種の魔物よりも遥かに上回る強さを見せていた。その爪を受けて僅かに負った手傷すら気に留めることすらなく、レフィルはただ呆然と獅子の末路を看取っていた。
「この魔物にも、譲れぬものがあった。ただそれだけのことでしょうて。」
「………。」
闇によって恵みを奪われて、残された限りある糧を以って生き抜かねばならない。雛や子を持つ者であれば、尚の事その中で抱く渇望は大きくなる。今の獅子のように力ある者に向けて牙を剥く事さえも厭わない者すらいる。
「なに、あまり気にやまぬ事です。それはあなたとて同じこと。戦いを避ける術なくば、勝たねば次はありません。」
それは、生ある者としては紛れもない大切な本能だろう。その意志を一層強く見せる魔物を自らの手で断つことになったのが、今のレフィルの心を揺さぶる原因だった
だが、その大切なものは常々相容れるものなどではなく、大人しく身を捧げる者が現れることなどない。レフィルもまた、自らが成すべきことに向かって前に進んでいる以上、ここで生死をかけた戦いになってしまったのは必然的だった。
「さっきはどうしてだめだったの?」
そんなレフィルを横目に、ムーは翠玉の双眸を向けつつガライへと尋ねた。見上げるその表情は特に何も映さずも、小首を傾げる姿からは疑問を抱えているのは明らかだった。
ガライの家から旅立ってから早十日。それまでの間に幾度も頼ることとなった魔除けの秘術が、先程は用をなさなかった。
「ええ、思いの外上手くいかぬものですな。わしも随分と老いたとみえる。」
その問いかけに、ガライは自嘲気味に苦笑を浮かべつつそう返した。言葉通りに自分の老いゆく姿に嘆息し、術を御する姿を失った自分を嘲っている――他人目からはそう映っているはずだった。
「……そんなことは、ないです。」
……が、その直後、消えゆくような声でそう告げられていた。
「ほぅ?」
その声を発したのは、竜鱗の鎧を纏った黒髪紫眼の少女だった。ガライはその言を否定することなく、笑みを自嘲から妙な愉悦へと歪ませつつ答えを促すようにレフィルと目を合わせた。
「だって、その曲……完璧だったのでしょう?そう言ってるように聞こえるわ。」
「ふむ……」
先に魔物を認めたと共に奏で始めた一曲、それこそがガライの言う魔除けの秘術の正体に他ならなかった。今回も魔物を静められると思っていた夜先に突如として起こった失敗には驚きを感じえない。だが、一番驚いているのは自分であると見抜かれて、ガライは返す言葉を失っていた。
老いによる術技の劣化によるものよりも、別の何かが働いて力を封じ込めた。その正体を掴めずに覚える疑念こそが、ガライの驚きの元だった。
「レフィル?」
肯定を表すかのようにガライが沈黙を返す中、ムーはレフィルの言葉を前に不思議そうに目を瞬かせていた。人の心を慮ることができても、そんな深いところまでくみ取れるはずはない。一体何を感じてそのような事を言ってのけたのか、それが分からなかった。
「ふぇふぇふぇ、あなたは中々筋が良い人だ。あの子を思い出しますな。」
「ガライさん……。」
慰める意思を存分に感じて気持ちのいいまでにさわやかに笑ってみせるガライに、もう既に後ろめたさはなかった。遠い日に見た面影を残す異界の少女。旅の休みの最中、彼女の生き写しとも言える可愛い孫娘の話を話の種に躊躇うことなく持ち出す様に、惜しげもない愛情が感じられる。
「ともあれ、このような事があっては過信は禁物ですな。面目ない。」
一体何が起こったのかは分からないが、魔物封じの音色が効かないことが今一度あった以上、この先もいつまた起こるか分からない。笑みを消したガライの真剣な表情は、先にある危険への警鐘にも似て強く訴えかけるものがあった。
レフィル達は今はただ、頷きを返すだけだった。
旅路の最中にある獣の住処で一夜を過ごし、夜明けなき朝に至る。既にこの世界に来てから幾分時が流れた今、レフィルもムーもこの世界にようやく慣れ始めたのか、翌日も問題なく出発することができた。
途中、飢えた魔物の群れに襲われることがあったが、先日のような思わぬ事態に至ることなく、長い行程を深い傷を負う事もなく進むことができた。
「ここを超えれば、ドムドーラの町ですよ。」
山を超えた先にある平原を渡り、三人が至った先にあったのは夜の砂漠だった。
「……暑い?どうして?」
だが、その様はかつてイシスの砂漠を渡った時とは大きく異なっていた。温もりを留める術を持たぬが故に、凍てつくような寒さにあったのはよく覚えている。ならば、この砂漠は一体何なのか。
「ふむ、夜の砂漠をよくご存じのようですね。」
ガライもまた、本来あるべき砂漠の姿を知っているのか、レフィルの言に同意するように頷きを返す。闇に閉ざされる前よりこのアレフガルドを旅して来た彼だからこそ、よく知ったことなのかもしれない。
「”あの時”は逆に寒かった。」
あの時、身を守るために鉄の鎧を纏ったレフィルにとって昼の砂漠の呵責は耐え難いものだった。そのために、夜の道を歩むためにムーは昼夜の呪文――ラナルータを夜明けと共に唱え続けた。
煉獄の如き暑さと乾きをもたらす昼の砂漠はもとより、熱の欠片すらない夜の砂漠の極寒も決して侮ることはできない。それ故に、その時のことはよく覚えているつもりだった。
「でも、これは一体……?」
正面から烈風と共に乾いた熱砂が吹きつけてくる。それを受けている内に、日が差さずに温もりを失った世界にあってからずっと忘れていた感覚に懐かしささえ覚える。
「これこそが、大地の力の一端です。」
この不思議な現象を前にただ顔を見合わせるレフィルとムーに、ガライはその源泉についてそう称していた。
「光失われて精霊神も奪われた今、我らに残されたものは、闇に侵食されつつある大地の力そのものなのですよ。」
「そうだったんだ……。」
光差さずして既に長くになるにも関わらず未だ世界が凍りつかずにあるのは、大地の加護によるものだった。その溢れるばかりの力は、熱を容易く失いやすい砂漠の地には容易く伝わる。封じられた精霊神がこの世界に干渉できるはずもなく、残された道は大地そのものの命を削るより他はない。
「さて、どうやらまた出番が来たようですな。」
そうして話している内に、吹き荒れる風音に混じって、乾いた羽音が上空の方から聞こえ始めた。いつかも見た、蛇の胴体に禿鷹の頭と翼を有した小柄な魔物、キメラの大群だった。個々の力は然程でなくとも、数十羽にも及ぶ数で群がっている以上、十分な脅威には違いなかった。
「これはまた、随分と賑やかなことですな。」
獲物の気配を感じ取って彼方から飛んできて、灯を見るなり狂喜の如きけたたましい鳴き声を上げつつ一斉に襲いかからんとしている。だが、既にすぐそこまで来ている怪鳥の群れを見ても、ガライは怖じた様子一つ見せずにいた。
「この子達も……苦しんでるの?」
レフィルもまた、津波のように迫る怪鳥の群れに恐れを見せることなく、ただその各々の姿を見やっていた。
地上に現れたキメラの群れに比べて羽は荒れ果てて体は痩せこけて、生気は感じられない。だが、そんな体だからこそ、獲物を喰らう本能が強まっていく様を見て、痛ましさを感じえない。
迷いない動作で剣を構えながらも、その表情にはこの上ない程の憂いが浮かんでいた。
「ま、今一度わしにお任せあれ。」
レフィルとムーが前で守るように身構えるのを見て微笑むと共に、ガライは銀の竪琴を取り出しつつその手に抱えた。
老人の皺だらけの手が、竪琴の弦に触れたその瞬間、清水の内に滴り落ちる水音のような澄んだ音色が騒乱の中に響き渡った。流麗な音色でありながらも、喧騒の中にも通る程の強さを持ったその音は、全てを引きつけてやまない神韻を連想させた。
その不思議な雰囲気に己の意思を掻き消されたように、キメラ達は思わずその動きを止めた。
「行きなされ。ここにお主らの求めし糧はない。」
竪琴を奏でながら、ガライはキメラの群れに向けてそう言い放っていた。その声を受けて彼らは思わず後じさったが、だがそれでも躊躇うようにその場に留まっていた。
「お主らに、幸あらんことを。」
だが、最後にガライがそう告げると共に、キメラの群れの内の一体が漆黒の夜空目指して飛び去って行った。それを追うようにして仲間達も次々と舞い上がり、幾つもの羽を残して皆この場から去って行った。
「キメラの群れが……」
敵として対峙していた鳥獣達が残らず去っていく姿を、レフィルは呆けたように見上げていた。あたかも造物主であるかのようにキメラ達を諭し、闇へと返していった姿は何度見ても衝撃的なものだった。
「大成功。」
一方で、ムーは表情一つ変えずに去り行くキメラの群れを見守りつつ、ただぽつりとそう呟いていた。
「ええ、今回も無事成功したようですな」
まるで成功を喜ぶようなムーの言葉に対し、ガライはすぐにそう返していた。先の日にも起きた魔除けの秘術の失敗が危ぶまれる中で肩を撫でおろした様子ながら、落ち着いた雰囲気は終始変わらない。
「とはいえ、これも矛先を我らから逸らすだけで、魔物の意思を縛りつけているに過ぎません。心を通わせるには程遠いでしょう。」
すぐにガライは遠くを見やるように二人から目を逸らしながら意味深に言葉を続ける。
「ガライさん?」
が、程なくして向き直ったガライの表情は好奇に満ち、その視線はレフィルへと向けられていた。その行動が意図するところが分からずに、レフィルは首を傾げていた。
力に訴えることなく魔物を操ることはできても、その心の本質まで触れることができないことを憂いていたと思えば、今度はその影を感じさせぬ程の人当たりの良い笑みを浮かべて見せている。その期待を向ける何かが自分にあるというのか。
―やっぱり…不思議な人だな……。
飄飄とした面持ちを崩すことのない裏で、一体どのような人生を送ってきたのであろう。吟遊詩人として生きてきた老人の纏う雰囲気に、レフィルは自然と引かれる気がしてならなかった。
夜の砂漠らしからぬ吹きつける熱風が巻き上げる砂の奥に見える延々と続く砂丘。夜にして未だ熱気を残す無味乾燥な長き道も、ガライの奏でる竪琴の音とそれの秘める不思議な力によって、幾分その苦難も和らいでいる気がした。
闇の世界の旅路の中で安堵や楽観のような明るい想いの中で、久々に時を短く感じる中で、砂中の道の果てに辿りつくのもあっという間に思えた。
「さぁ、ここがドムドーラの町です。」
幾つもの砂の丘が途絶えた先に、苔生した石垣に囲われた町並みが遠くに見え始める。
砂漠の中に位置する交易都市――ドムドーラに、レフィル達はついに辿りついた。