灯火の花 第五話
視界の全てを覆う黒一色。湛えられた水面に落ちる雫の音だけが、暗闇に張り詰められた静寂の内に鳴り響く。
水音を奏でることより清水の気配を感じられるにも関わらず、辺りの空気は砂漠の如く乾きに満ち、光届かぬ闇の中での凍てつく程の冷めきったものと化していた。
『 帰って、来たのね。 』
まさに無を体現したような無明の闇の中に戻ってきた者へ向けて、その最奥から少女の声が響き渡る。小鳥の囀りのように高く幼い女声に反して、語調に帯びた冷たさから来る艶が感じられる。
『 それで、どうだったの? 』
相反するものを宿した涼風のような声で”彼女”がそう尋ねると共に、静謐を保っていた闇の中に次々と赤い炎が灯り始める。
「はい、護甲の奪取は我が力及ばずして叶いませんでした。」
その灯の中心に照らし出された影が、少女の問い掛けに対してそう答えていた。膝を屈し、頭を垂れた男性の背中からは、任に失敗したことの重責を感じて、如何なる罰をも厭わぬ覚悟が見えた。
予想以上の力をつけて再び姿を現した旧友とも呼べる存在に打ち砕かれんとした瞬間、バラモスブロス―闇の騎士バロンは再びこの闇の内へと還ってきた。
『 見れば分かることだったわね。 』
「ええ。今はホレスという若者が勇者の盾を手にしております。後ろには彼奴の存在もあるので、迂闊に手出しはできません。 」
求めていた神気をバロンより感じなかった事から察せずに、”少女”は今更ながら気づいた自分に呆れた様子で嘆息した。咎めるわけでもなくまた静かに闇の中に佇む主へと、バロンが事の結末を短く伝える。
『 ホレス…ね、いいわ。どうせあなたなんかに殺される人じゃないし。 』
神器を集める己の意志を邪魔した者の名に聞き覚えがあるのか、彼女は全てを知ったような口調で、遠慮のない言葉をバロンへと浴びせていた。
「彼を取り巻くものを見抜かねば、”五頭”殿すらも危ういやも知れませんね。」
その辛辣な物言いを否定する事も気を悪くした様子もなく、彼はすぐにそう返した。
神器の力で獄炎を遮り己の資質で呪文すらも受け付けぬ程の凄まじい守りの力で、闇を纏った自分の力すら受け止めて更には一矢報いてさえ見せた。一思いに踏み潰せるはずの人の子の分際で神に近しき者へと抗う様を前に畏怖を感じずにはいられない。
『 そうね、せいぜい隙を見せないように言っておこうかしら。それより… 』
見下ろす先にいるバロンが述べた事に頷くように同意した後、少女は言葉を切った。響き渡る前にその声が闇の中に消え入ると共に、炎がまた一つ、二つと闇の最奥に向けて灯り始める。そして、全ての燭台の上に炎が燃え上がったその時、黒一色だったはずのこの場がその全容を現した。
夜空の闇を思わせる蒼い敷石が床一面に広がっている。明かりとなっている炎を掲げる燭台は黒い髑髏を模しており、清水を湛えた泉の上に静かに佇んでいる。泉を横切るように連なる一筋の道は、バロンの後ろにある大きな石積みの祭壇と、天井を衝く程にそびえる巨大な玉座を繋いでいる。そして、そこに佇む”彼女”の姿も明るみに出た。
闇の漆黒と相反するような白糸で紡がれた純白のローブ。その繊細で柔らかな衣を通じて、体の輪郭が幾分明確に映し出される。長く取られた裾から、衣の白に溶け込む程の淡い色彩の細足がうっすらと見える。その姿は、一見すれば清廉にして妖艶な長身の少女のものに見えた。
だが、光を映さぬ漆黒の双眸のように、その顔に浮かべられた表情に暖かさは微塵も感じられない。人形のような無機質な面持ちの中に浮かべられる微笑は凍りついてしまう程の冷たさを帯びた様は、命を啜る幽鬼の類にも通じるものがあった。
大魔王が座するに相応しいその玉座の上から、”彼女”は静かにこの光景を見下ろしていた。
「また、仲間が増えたのね。」
バロンの後ろに控える影、それはこの城に仕える事となった新たな従者達のものだった。折れた剣を手にした戦士、薄汚れたローブに身を包んだ魔法使い、血塗られた聖衣に身を包んだ破戒僧。或いは牙を砕かれた魔獣、胸元を大きく穿たれた青銅の像。
類を成し得ない程の統一性のない面々ではあったが、それぞれの双眸に浮かぶものは皆同じであった。
「はい。この者達が抱きし闇も、きっとあの方の力になる事でしょう。」
人として、生命として、あらゆる存在が持つ大切なものが彼らの中から欠落している。ここに至るその時より既に失ってしまったのか、或いは望まれるままに抜き取られたのか。
「ねえバロン、信頼していた人に裏切られるのって、どういう気分だと思う?」
何一つ淀みない口上と共に優雅に一礼したバロンへと、少女は唐突にそう尋ねた。
「これはまた、面白い質問ですね。」
話の流れを急に変えたことにさしたる抵抗を感じた様子もなく、バロンはその精悍な顔を愉悦に綻ばせて頷いていた。
「ですが、兄を裏切った側に立つ私に聞いてどうすると?」
「そうね…。わたしもあなたも最期の時は似たようなものだった。けれど、あなたはバラモスと歩む道を自ら違えたのだったわね。」
裏切り――それは今語らう二人がこの闇の深部に身を委ねるきっかけとなった。だが、それぞれが歩んだ道は対照的だった。兄の思惑を裏切ったがために粛清されたバロンに対し、少女は大切な者に裏切られたが故にここに堕ちる事になってしまった。それを最初から分かっていて、何故か問わずにいられなかった己を嘲るように、少女は薄い笑みを浮かべていた。或いは裏切る側の者が抱く心を知りたかったのかもしれないが、それを聞いて自分はどうするつもりであっただろうか。
「ええ。等しく愛されて育った末に選ばれずに闇に堕ちたあなたとは対極と言えるでしょう。」
交わされる言葉の一言一句と裏腹に、それを乗せる声には親愛の情さえも感じられる。
「それでも行きつく先を共にするのも不思議な縁ですね、ディズ。」
こうして語らう事に感じる運命の皮肉を見据えるように、バロンは闇の中に佇む白い少女―ディズへと穏やかな口調でそう告げていた。
温もり一つない中でも凍りつかずに静謐を湛える泉が、灯の炎を映して微かに揺らめいていた。
日輪のみならず星々に至るまで、天の光を際限なく貪るが如く変わらぬ漆黒を湛える夜空の下。焚かれた篝火の炎が、背後に流れる掘の水面に映る。
炎がもたらす微かな視界から、眼前の北から南東にまで連なる山脈の影を垣間見られる。
「……………。」
囲いの水の内にある微かな喧騒を遠くに聞きながら、ホレスはただ静かに佇んでいた。礎となっている石垣の上に腰かけて、火の光を頼りに書物に黙々と目を通している。
「あー……もうっ!!」
不意に、近くで草を思い切り踏みしめる音とともに、うんざりした様子で荒げられた甲高い女の声が耳を衝いた。
「デビッドったら、いつまで待たせる気なのよ!」
振り返ると、若い女が目を険しく細め、口を固く噤みながら苛立ちを露にしている姿が見えた。
「……確かに、遅いな。もう一時間近くになるぞ…。」
その怒りに全く怖じた様子もなく、ホレスは懐中時計を改めていた。ここに来てから、確かに随分と時間が経っているように思える。
「全く、あの鳥頭ったら!!また約束を忘れたのね!!」
「そういう奴には見えなかったけどな。」
彼女の待ち人――ホレスをこの町に導いた戦士デビッドは、未だに現れる気配がない。旅を共にしてきたからこそ、彼が約束を簡単に違える事のない一途で実直な性格である事は分かっていた。
「ええ。でも、時々やらかすのよ。嫌になっちゃう!」
それを肯定しながらも、彼女は変わらずデビッドに対して怒りを募らせていた。過去にも同じ様に待たされた状況があった事も相まって、余計に苛立ちが強まるばかりであった。
「”町はずれで会う約束”…だったな。」
「ホレスさん?」
そんな様子を見兼ねたのか、ホレスは本を閉じると石垣から立ち上がった。そして、首を傾げる彼女を尻目に一言意味深に呟きながら、篝火の明かりを背にして歩み出した。
星一つ瞬かぬ闇夜の下、堀の傍に焚かれた火が、眼前―南西に広がる樹林と南に見える山々を微かに灯している。
「遅ぇ…。」
その明かりの傍で、腰に聖銀の剣を帯びた精悍な青年が退屈そうに歩き回っていた。
「メラニィの奴…いつもギャンギャン言ってるくせに、今日はてめぇが忘れてるじゃねえか。」
以前不覚にも約束を違えてしまった事を根に持たれて以来、自分でも幾分注意を払っているつもりだった。その甲斐あって、近日の待ち合わせには余裕をもって間に合わせることが多くなった。今日も一足先に約束の場に足を運び、後は彼の女を待つばかりである。だが、肝心の彼女はいつまで経ってもここに来る気配はない。
「デビッド。」
ふと、聞き慣れた声が背後から聞こえてくる。
「お、ホレスじゃねえか。待ってたぜ。」
そこには、自分と共に浜辺の抜け道を抜けた白髪の青年―ホレスが表情を浮かべずに立っていた。
「そういや、メラニィはどうした?」
恋人とついでに、彼もまたこの町はずれへと呼び出していた。その案内を頼むつもりで彼女と共に居させたつもりだったが、姿が見当たらない。
「彼女が待ってる、こっちだ。」
「はい?何だって?」
尋ねられて、ホレスは付いてくるように促しながら踵を返して歩き出した。唐突な誘いに素っ頓狂な声を上げつつも、待ち続ける退屈に塗れていたデビッドには訳の分からぬままに付いていく他道はなかった。
「だーからーっ、町はずれって言ったらいっつもあたしが待ってたここしかないでしょう!?」
「うるせぇ!俺が言ったのは初めての待ち合わせをしたあそこの事だよ!!俺の話をちゃんと聞いてたのか!?」
「どうしてそうなるワケ!?あたしはずっとあんたを待ってたのよ!普通に考えたらここに決まってるでしょ!!」
「だー…!!お前って奴は、思いこみで動いてんじゃねえ!!」
黒一色の夜空を衝かんばかりの勢いで、男女が互いに激しく言い合う大声がこだまする。
「………。」
互いに自分の思いを譲り合わない二人を、ホレスは黙したまま見守っていた。段々と強くなっていく罵声を前に、なまじ聴力に長けているが故に耳が痛くなり、僅かに顔をしかめている。
そのささやかな苦痛は、ほんの暫しの間続く事になった。
「本当…久しぶりね。」
「そうだな…。」
一頻り言い合ってようやく落ち着いたのか、二人の恋人は先程の様子が嘘のような穏やかな様子で、再会を喜びあっていた。思い出の品を取りに向かってから四か月余りの事に過ぎなかったが、魔物ひしめく中での旅路の危険は誰もが知っている。生きて帰ってこれただけでも、奇跡と言わずとも十分運命に感謝すべきことだった。
「なぁメラニィ、また痩せちまったな…。」
「ううん、あんたのせいじゃないわ。」
デビッドが労わるように頬をさする手に己のそれを添えながら、彼女――メラニィは安心させるように微笑みつつ首を横に振った。
「でも、やっぱり…このままじゃダメなんだわ。」
「………。」
男の手に触れられた頬はいささか痩せこけており、顔色も決して良いともいえない。
「”闇の帳”、だったな。」
「そうだ。お偉いさんはそう言ってる。」
彼女が仰ぐ空から注いでいたはずの日の光は既に長きに渡って封じられて、命を育むことを妨げられている。
「ゾーマの張った闇の力の結界、か。」
「あたし達が太陽を見たのは、ホントに小さかった時だったわね。あの眩しさもよく覚えていない。」
「……だな。けど、今はドンドン悪くなってく一方だ。ゾーマめ…」
既に闇に閉ざされてから長い時が経っているとはいえ、その中で待つ内に近い将来には全てが滅んでしまうだろう。それが大魔王ゾーマがアレフガルドの生物達に与えた呵責―その力によって作られた常世の結界・闇の帳だった。
「それで、マイラにまで行ってきたのでしょう?アレはあった?」
「ああ、ちゃーんと持って来たぜ。」
危険な旅路を越えて帰ってきた恋人にメラニィが尋ねると、彼は荷物袋から一つの古びた細長い小箱を取り出して、自慢げに見せた。
「これは、あのときの…。」
おもむろに開けられた中身に、ホレスは見憶えがあった。それは、闇の騎士―バロンとの死闘の最中、死を覚悟したデビッドが託さんとした神秘的な横笛だった。
「綺麗でしょう?あたし達がここに越す前にあそこに埋めてきた宝物よ。」
例えデビッドが有数の戦士であったとしても態々死地に出向いてまで取りに戻った品だけの事はあって、その美しさは比類できるものではなかった。或いはこの不思議な雰囲気が、共に秘蔵した宝物と云う形でこの二人を結ぶ縁となったのだろうか。
「”妖精の笛”……。」
隠してまで守り続けさせる程のものを前に、正味の美しさとは違う何かを感じられる。その違和感を前に、ホレスは思わず一つの単語を口にしていた。
「ああ、あるぜ。何でも、目覚めと眠りを司るって言う精霊神の力を具現したって話だったな。」
唐突にその言葉を紡いだホレスに一瞬訝しんだ様子を見せながらも、その存在は聞き及んでいたらしく相槌を打つように返答した。
「あんた…よくそんなことまで知ってるわねぇ。戦士らしくないわ。」
「あたぼうよ。おれから力を抜いたら、ただの一般人でしかねぇ。だったらせめて蘊蓄の一つや二つはもっとくもんだ。」
「ワケわかんないわよ…。」
その神器―”妖精の笛”が持つ幾分深い部分も事もなげに語る様から、幾分造詣が深い事を窺い知ることができる。それも、戦士という学から長く離れざるを得ない環境の中でもそこまでの域にあるのは確かに少々不思議に思うところだった。そんな凄腕の武人らしからぬ知識を持つデビッドに、メラニィはただただ呆れた様子だった。
思えばベホマの呪文も習得していたのも、その学あっての事だったのかもしれない。
「で、こいつがその妖精の笛とやらと言いたいのか?」
何も知らずにいた中でかき集めた神器の一つ―妖精の笛の情報。単に幾分の美術品としての美しさだけではなく、その伝説と釣り合う程の不思議な雰囲気を纏った横笛をその名で呼んだホレスに、デビッドはそう尋ねていた。
「……さあ、俺にはわからないな。だが、それも不思議な品だ。大事にするといい。」
「…の割には、物欲しそうな顔してんなぁ。流石はいっぱしのトレジャーハンターてか?」
「まあな。」
一見しただけで神器か否かを見抜ける程、容易い問題ではない。逆に言えば、その可能性さえも示唆できる程の品であると言う事は良品と云っても差支えはない。そんなものを欲する気概は、悠久の時を思わせる煉獄の中に居ても変わらずあるらしい。デビッドのからかうような言葉に、ホレスは変わらぬ自分を改めて実感して苦笑を浮かべていた。
「残念だが、こいつを渡すわけにはいかねぇな。それがその、妖精の笛と言うなら尚更な。」
「そうね。デビッドを助けてくれたお礼はしたいけど、これは渡せないわ。ごめんなさいね。」
「けど、お前はおれの命の恩人だ。何かあったら力を貸してやるぜ。」
二人の目から見ても、ホレスがかつて隠した宝物に興味を抱いていたことは明らかだった。だが、それが彼が望むものであったとて、それを叶えてやる事はできない。それでも、命を助けてくれた事に対する感謝は強く心に刻んでいるのか、咎めるような視線などは全く無かった。
「にしても、お前がまさかオルテガのおっさんと同じ世界から来たなんてな…。」
それよりも、見知らぬ世界に放り出された中でもただ一人で旅を続けてきただけの実力に、感心さえも覚える。力の質こそ違えど、その勇猛果敢な姿勢はかつて同じ様にここに迷い込んできた勇士を連想させていた。
「もしかして、お前もゾーマを倒そうとか考えてるのか?」
そして、先の旅で魔の者に出遭った時のホレスの振舞いより、その目的も自ずと知ることになった。
「……避けて通れない道だ。あいつのためにもな。」
「やめとけ。おれ達、この前のバロンとか言う奴にも敵わなかったじゃねえか。まして、ゾーマに挑んだ連中は一人として生きて帰っちゃいねぇ。」
いかなる経緯か知らないが、彼が大魔王ゾーマに触れる事となり、戦おうとしているのは間違いなく分った。実力にそぐわぬ程の強力な武器や闇そのものを切り裂く特殊な大刀などを携えるなどの、大魔王との戦いに正面切って挑む準備をしている事からもそれを窺い知ることができる。
だが、あのまま戦い続けていたら、敗れていたのはホレスの方だった。よしんば勝てたとしても、大魔王の下に集う強者は彼だけではない。彼らを前に、同じ志を持つ者達も尽く敗れてきたのだ。
「オルテガのおっさんも例外じゃねえかもしれねぇ。あんときのバケモノも物ともしねぇぐらいの強さは持ってるはずだってのによ。」
今も、魔王に挑まんとする者達の中で注目されている者は少なからずいる。その中でも最も強いとされているのは、異国の勇者―オルテガであった。だが、バロンと真っ向から切り結んだデビッドをしてそう云わしめる程の力を容易く凌駕する程の腕前を以ってして尚、不安は晴れる事はない。
「どうしてもって言うなら、まずは神器を集めるんだ。最も、全部集めた勇者様でも成す術もなくやられちまったらしいけどな…。」
「でも、オルテガさんが手にすればゾーマと戦えるかしら…。」
叶わぬ願いの如く、ゾーマのもたらす絶望の道を進まんとするホレスに、デビッドはせめてもの助けと言わんばかりに告げる。伝説に名を連ねる神の武具は、闇の中で人々の心に確かなものとして映っている。その力を借りれば、戦いはかなり楽になるのは間違いない。
それに英雄の力が加わったとすれば、いま人が持ちうる最後にして至高の希望となるだろう。
「俺達と行き違いに旅に出たらしいな。確か、メルキドという都市に向かったとか。」
「城塞都市メルキドの事か。お前、そこに行くつもりか?」
オルテガ自身、ここに立ち寄ってからそう長くは経っていないらしい。このリムルダールに着いてから聞いた話の中で、ホレスは既に彼が向かった先を漠然とながら把握していた。
リムルダールのはるか南西――南の密林と更に西にある岩壁の荒野を超えた先にある盆地。そこに、堅牢な城壁に囲われた都市があるという。魔物の脅威を尽く跳ね除けてきた城塞都市―メルキドである。
「なら、こいつを受け取ってくれ。」
オルテガを追う意志を肯定するように頷いたホレスへと、デビッドは何かを手渡してきた。小さく冷たい何かが手のひらに乗せられる。
「……命の指輪か。そう言えば、聞いたことがあったな…。」
血色の良い一肌を思わせる温もりを帯びる桃色の石がはめ込まれた、緩やかな曲線の銀の指輪。一目見て、ホレスはすぐにその品の正体を知った。
傷ついた体を少しずつ癒していくことで、勇者オルテガの不屈の闘志を支え続けてきた魔法具―命の指輪だった。
「ああ、あの人が持ってたモンだよ。オルテガさんに会って、こいつを渡せばきっとお前の力になってくれると思う。あの人は、おれに借りを感じているらしくてな。そのお返しと言えばいいだろう。」
先に旅を共にした時にも聞いたとおり、デビッドはオルテガとは以前に縁があることは知っていた。それが、まさか彼が携えていたものを預かっているとは思わなかった。
「礼ならいらねぇぜ。悔しいが今回はお前に助けられたんだ。これぐらいじゃお前に対する借りは返せねえからな。」
「デビッド…、すまないな。」
運のいい事に共に旅する中で得たデビッド達の恩義により、そのオルテガ縁の品を得る事ができた。これそのものだけでも、今のホレスの旅には大きな助けとなるだろう。そして、その先には……
―……ふん、俺も変わらない、か。
そこまで考えたところで、ホレスは俯いて誰にも気付かれぬ内に自嘲的な笑みを浮かべた。
結局のところ、最初の旅は”彼女”を”利用”するだけで終わってしまった。今もまた、”勇者”の力をあてにしようと行動している事に、言いようのない矛盾を感じる。
―だが、今は…前に進むだけか。
そんな考えは免罪符にすらならないのかもしれない。それでも、この世界に残る数少ない都市を巡って情報や力を集めることで、少しでもゾーマとの戦いに備えなければならないのは変わらなかった。
―それにしても……こんな世界でもまだ消えちゃいなかったんだな。
闇の中であらゆるものが弱っていく。草原に吹くはずの風もなく、渡ってきた海は淀み、草木は目に見えて衰弱し続けている―何もかもが滅びに向かう世界。
その中でも、人としての営みは消える事なく続いている。愛し合う者達がいる。語らう者達がいる。
町中で交わされるやりとりは、闇の中の陰鬱さとは相対するものだった。それが例え、逃れるべき嘆きが支えるものであったとしても、人々の生きる気力が未だに残っている事実を指し示している。
歪みより数多の世界を渡った末に見た最悪の結末とは程遠い姿に安堵しながら、ホレスは闇の中に広がる一つの楽園に咲く花々に光を――灯火を見い出していた。
(第二十九章 灯火の花 完)