灯火の花 第四話



 灰燼と帰した樹林に灯る白い光が、突如としてひしめき始めた闇に覆い隠されていく。遥かからの光によって照らされていた小島の樹海が、徐々に夜の闇へと消えていく。


『まさか、ここまでやるとはな…。』

 脆弱な希望を容易く飲み込む絶望の闇。それほどまでの重圧を放つ宿敵を見下ろして、白銀の騎士はその予想外の強さからくる疑念に双眸を細めていた。
「…う、うげぇ…!?マ、マジかよ…!!」
 側に控える隠密もまた、同じものを見て圧倒されて、驚きを隠せずにいた。
「あんなヤツと、本気でガチでやり合う気かよ、おっさん!?いくらあんたでもこいつはヤベぇんじゃねえか!?」
 逸れ者の自分達を何のトラブルもなく統べるだけの威厳を支える純粋な強さを有することは身を以って味わっている。それでも、目の前で起こった闇の災禍へと巻き込まれれば、まず無事では済まないだろう。
『ふ、私を誰だと思っている?』
 うろたえながらの部下の進言を一笑に伏しながら、騎士は兜の奥に凄絶なまでの笑みを浮かべた。
「だぁからそれがトロルっぽいっつってんだぁ!ちったあ自重したらどうよ、おっさん!!」
 先に青年を焼き焦がしたと思った時でさえ、あの敵は十分魔物の最上位に位置するだけの力を見せていた。だが、それも麓に過ぎぬ程に、膨れ上がる闇が存在を高めている。そのような者を相手にしては、魔王に準ずる者ですら敵う道理はないことを、隠密は既に見抜いていた。
『ほぅ?お前と言えどもそれだけの大口を叩こうとはな。』
 喚き騒ぐ隠密に、騎士が視線を向ける。失言さえ零してしまう程になりふり構わぬ程に捲くし立てる事が気に掛かりながらも、その思うところを汲んで咎めることはなかった。
『なればこそ、尚更引くわけにはいかんな。安心して見ているがよい、シエンよ。』
 自分の事を慮っているからこそ、逆に遠慮のない物言いができたのだろう。しかし、力ある者としておめおめと退くことも、容易くやられてしまうつもりも毛頭ない。白銀の騎士は自らを案じる部下―シエンの肩に手を乗せながらそう告げていた。
「どうなっても知らねえからな!!……ったく、いつからおれはこんなキャラになっちまったんだよ。」
『それだけお前が、あやつの力を見抜く目を持っているという事だ。』
 どうあっても引かない主を止める事は叶わず、思わず自棄になりながらも、隠密という職にあっていつになく熱くなっている自分に気がついて首を傾げるシエンへと、騎士は答えを返していた。彼に常々課せられている対象の監視によって磨かれてきた慧眼が、得体の知れない闇の本質を見抜いたからこそ、魔王に匹敵する主に敗北の予感を感じる事ができたのかもしれない。
 部下本人は自覚していないものの、彼が見抜いた事が戦い鍵に連なる。その才を見抜いて自らの力となす騎士は、まさに民を統べる王の者として相応しい姿だった。

「つーか…ここまでヤツを本気にさせるって、あいつも何モンなんだよ。」

 主ですらまともに立ち向かえば危険は免れない程の力。それを呼び起こしたのは、相対する青年に他ならない。長き旅を重ねて数多くの道具を携えているとて所詮は人の域を出ず、ともすれば一撃で葬り去られてもおかしくない。そんな中でも、己や道具の特質と的確な機転によって確実に生き延びて、更には反撃にまで転じて見せた。
 そんな力を一体どうして手に入れられたのか、そしてその程度の力でどうして諦めずに戦い続ける事ができたのか、シエンは疑問が尽きなかった。



 灯火の光が、目の前から伸びてくる闇に尽く呑み込まれていく。伴って、漆黒に視界が覆われていく。
―しかし…なんて事だ。
 変化の杖より呼び起こした武器――破壊の鉄球を取って身構えながら、ホレスは先程聞かされた真実を思い返していた。
―だからこそ、バラモスは自分自身の道を進んでいたって事か……。
 あの時相対した折に見た彼の者の姿は、決して何者かの意思に操られた者のそれではなかった。地上の崩壊による新たな秩序を収める王として君臨するに違いない。もしそれを成したとして、大魔王ゾーマが訪れたとすればどうなっていた事だろう。

「今更このようなものが用を成すと思ったら、大間違いです。」

 湧き上がる闇の中心に立つバロンが、その足元で自らを縛りつけている黒金の短剣を一瞥する。レミーラの光が弱められた今、明確に映っていた影は闇へと立ち消えて、影縫いの術の呪縛に綻びが生じる。
「ち…!」
 先程までは完全に自分が優位に立つだけの役目を果たしていたが、今のバロンにはそのような小細工はまるで通じず、縛を破って再びこちらへと向き直る。

「メラゾーマ」

 ホレスが舌打ちして身構えるより先に、バロンは指先をホレスへと突き出しながら、力ある言葉を紡いだ。
 流星の如く巨大な火球が今一度ホレス目掛けて落ち、再び火柱を巻き起こす。

「やはり、呪文は通じませんか。」

 暫くして、吹き荒れる炎の嵐の中から現れる影を見て改めてその事実を実感する。得意な呪文であるが故に反射的に用いていたが、先程の二つの最強の力すら耐え凌いだ相手に、今更通じる技ではないことを失念していた。
「それでも、身を守らねば不十分な程度…と。全くの無駄ではないようですね。」
 確かに、ホレスは骨すら焼き焦がす灼熱の中にあって、先程と同じように何一つ影響を受けていない様子だった。だが、炎から脱出する折に、守りの姿勢を崩さずにいたのをバロンは見逃さなかった。
 如何に呪文に対する抗力があるとは言え、完全に防ぐ事ができるような真似を人の身でできるはずもない。もちろん、身を固めた程度でほぼ完璧に威力を抑え込める以上十分驚嘆すべきことではあった。が、一度守勢に回らなければならない以上、隙を突かれてしまえばそれだけの話に過ぎなかった。
「この…!!」
「そして、今更同じ手が通じると思ったら大間違いです。」
「!」
 次の瞬間にホレスが投じた破壊の鉄球は、バロンの手によって空を掴むかのように容易く受け止められていた。
「くそ…!!」
 先とは違い呪縛が解けたとはいえ、途轍もない程の重量と速度で向かってくる凄まじい力を事も無げにあしらっている様に、圧倒的な力の差を感じる。ただでさえ正面から立ち向かっても勝ち目のない魔族だったが、あの闇の力を纏ったとなればもはや人の手に負えるはずはない。
「互いに決め手に欠ける状況とは言え、先程まではあなたの方に分があったでしょうね。ですが、その程度の力で”今”の私と戦えるお思いでしたか?」
 お返しとばかりに巨大な鉄球を投げ返しつつ、それをかわすホレスの姿を見るなり、先程取り落していた炎の大剣を回収する。その切っ先を再びホレスへと向けつつ、バロンは絶望的な現状を知らしめるようにそう告げていた。
 この闇を纏うまで、自分と互角以上に渡り合って見せた強さには確かに敬意を払わずにはいられない。だが、絶対的な勝利の力を与えられた今、何者であれ抗う事はできるはずもない。
「俺とした事が、甘さが出たらしいな…。」
「何…?」
 だが、ホレスはその力の差を前にしても、まだ諦観した様子を微塵も見せぬままに身構えていた。

「出てこい、シャドーブレイク!」

 その様子に一瞬バロンが怪訝に目を細めた瞬間、ホレスは破壊の鉄球を手放したままの右手を掲げてそう叫んだ。
「!」
 同時に、危険を省みずに飛び込んでくるホレスに本能的な危険を感じて、バロンは思わず身を固めた。
 呼び声と共に顕現される青白い刀身が炎を纏った大剣と交錯する。
「我が闇が…切り裂かれている、だと?」
 交えられた一閃が金切り声を上げた直後、刃が通った奇跡に触れた闇が斬り裂かれ、虚空へと消える。同時に、鋭い痛みと共にバロンの頬に一筋の赤い線が刻みこまれる。
「一応、通じるみたいだな…。気休めかもしれないが。」
 迎撃を受け止めた勢いのままに後ろに下がりつつ、ホレスはそう一人ごちた。だが、一矢を報いたとはいえ切り札を用いての奇襲も功を奏さず、その表情は落胆が微かに滲んでいる。
「ほぅ…これはまた見慣れない品だ。その刀は一体どこで?」
「いつかあんたらのような闇との戦いが来ることは分かっていた。こんな見てくれでも伝説の名を冠する品らしくてな、少しでも足しになると思って取っておいたんだ。」
 纏った力の一端を掻き消して一撃を与えた刃に興味を抱くバロンへと、ホレスは不思議な程律義に答えていた。斧のように分厚く真っ直ぐな刃と粗く拵えられた波打つ背の蒼の刀身を持つ異形の剛剣―シャドーブレイク。無間の旅路―不可思議の迷宮の中で生まれた歪みの中で見い出して、今まで携えてきた訳を物語るかのようだった。

「もっとも、こんなところで使う事になるとは思わなかったけどな。」

 果てしない冒険の中に囚われながらも、この剣を手に入れていずれ来るべき時に備えとした。だが、それを語るホレスの表情は僅かに憂いを帯びている。
 闇の手の者に対抗すべくして手に入れた力が向けるべき敵に通じると分かってしまった以上、再びあの時と同じ場に立ち会う事になれば、掛け替えのない友人をこの手に掛けなければならなくなるだろう。
「なるほど、だから態々他の名剣と共に持っていたと。ですが確かに、今の私達を相手にするにはこれ以上の品はないでしょう。」
 ホレスの口ぶりから既に己と同質の力に会いまみえている事を知ってホレスがシャドーブレイクの剣を携えている訳を漠然と理解できる。
「あなたにそれを使いこなす技量がないことが、誠に残念ですがね!!」
 しかし使い手が未熟であれば、剛剣も真価を発揮するに至らない。強き者を好む兄の気風を体現するかのように、バロンはその弱さを悔やむように言い放ちながら、大剣を力任せに振るった。
「…!!」
 速さこそ然程でないものの、自分を上回る隙のない技と、もはや比べるべくもない圧倒的な力を以ってしての連撃に、なすすべもなく後ろへと追い詰められていく。

「う…ぐぅ…!!」

 着実に繰り出される一撃、二撃、と繰り返された次の瞬間、不意に大上段に掲げられた大剣から燃え上がる炎が大きくその顎を開けた獣の如く迫り、その牙をホレスへと突き立てんとした。
 咄嗟に左手に取られていた蒼い盾を構えてそれを防がんとする。牙を受け止めて蒼い盾がけたたましいまでの雄叫びを上げるも、盾の外より迫るものまで凌ぎ切ることはできず、穿たれた傷痕から焼け焦げた匂いがする。
「脆いものですね。所詮あなたは単なる収集家に過ぎない。まして、その剣程度の力では、我らが大魔王様を倒す鍵とは成り得ません。」
 神の力を宿した盾が無ければ、ホレスの体は粉々に噛み砕かれて灰燼に帰していただろう。だが、耐え凌ぐことで攻めの機会を与える盾があっても、右手に取った影断ちの大刀を操る術がなければどうしようもない。そして、如何に闇を切り裂く程の力があったとて、大魔王に対抗する程のものではない。たとえそれが伝説に序せられていたとて、かつて大魔王に砕かれたとされる王剣・王者の剣の足元にも及ばぬ程の脆弱な剣に過ぎなかった。
「残念ですが、もうあなたに勝ち目はありません。」
「ふん、良い様に言いやがって…。だが、それもいつまで……っ!!?」
 一度優位に立った時に言ってのけた言葉を皮肉のように繰り返すバロンの意図に愚弄されたように感じながらも、ホレスは再び武器を構える。しかし、その次の瞬間にはその表情は凍りついていた。

「……どうしました?まあいいでしょう、大人しく………っ!」

 一体何を見たのか突然動きを止めたホレスを見て一瞬首を傾げるも、バロンは隙だらけの彼へと容赦なく大剣を振り下ろした。だが、その刹那……

「てめぇ…さっきはよくもやってくれたな……!」

 背中を刺す鋭い痛みと共に、憤怒に満ちた男の声がバロンの耳に入った。
「……あなたは、まだ動けたのですか?」
 振り向くと、そこには先程一蹴してのけたはずの戦士の姿があった。爆発の呪文によって打ち砕かれた鎧の下に、痛々しい傷痕が見える。
「デビッド!」
 立ち上がるなり魔王の手の者に向けて再び刃を向けた、短い間の旅の道連れ―デビッド。彼こそが、ホレスを驚愕させた張本人だった。
「お前も一人でこんなバケモノとタメ張ってんじゃねぇや…。俺だってなぁ、聞きかじりだけどベホマ使えんだ。水くせえ事すんなって。」
 自ら治癒の呪文を用いて癒して事無きを得たのか、全身に負っていた傷からはもはや血は流れていない。再起するまでの間ずっとホレスの戦いを見ていたのか、デビッドは呆れたようにそう告げていた。
「バ、バカが!あんた、何をやっているんだ!?」
 激しい戦いに巻き込まれて尚も運良く生を留めたまではよい。だが、敵わない相手と分かっていて己の情に任せて再び無謀な攻撃を仕掛けてのけた愚行を罵らずにはいられなかった。
「阿呆が。それはお前もおんなじだろうが。お前がいくら強くたって、こんなんにゃ敵わねえ。どのみちどうしようもねぇって事なら、お前にゃ代わりにやってもらいてえことがあんだよ…。」
「何……?」
 だが、デビッドもまたホレスがただ一人で戦う愚に対してそっくりそのまま返すように告げていた。
 そして、呆気に取られるホレスへ向けて何かを放って見せた。
「こいつは……」
 咄嗟に受け取った細長いそれは、宝飾の類がなされずとも不思議な魅力を纏った横笛だった。
「それをリムルダールのメラニィって女に届けてやってくれ。それで貸し借りゼロって事でいいよなァッ!!」
 渡された横笛に見入る間もなく、デビッドが剣を刺す力を強めつつ呼びかける声を聞いた。思い人のために魔物ひしめく闇の世界の中で態々マイラの地まで足を運び取ってきた大切な品を、どうして見ず知らずだった自分などに託す気になったのか。
 それを問う暇もまたなく、白銀の刃がバロンへと吸い込まれていく。

「身の程を、弁えなさい。」
「……!」

 だが、逆光の閃きにも似た刺突は、デビッドの手には虚空を穿つような虚しい手応えを返すのみだった。ゾンビキラーの切っ先は、バロンに纏わる闇によって絡められ、渾身の力で放った一撃の威力は完璧に殺されている。
 冷たく言い放つバロンの一声と共に、炎の大剣が横薙ぎに払われる。咄嗟に剣を引いて受け止めるも、先程の人離れしたそれにも増した膂力を前に、熟練の戦士であるデビッドでさえも成す術もなく弾き飛ばされた。

「メラゾーマ」

 地面を転がるデビッドに向けて、闇を纏った手のひらがかざされると同時に、呪文が唱えられる。手のひらの上の一点から生じた火球が急激に膨れ上がり、倒れた戦士に向けて落とされる。
「デビッド!!」
 衝突と共に巻き上げられる火柱。最上級の呪文の業火に巻かれては、呪文を封じる事のできる自分ならいざ知れず、全くの無防備に等しいデビッドがそれをまともに受けてはひとたまりもない。
「愚かな真似をしてくれましたね。」
 力を解放する直前まで互角に切り結び、最後には気配を消しつつ背後から不意打ちを掛けてみせた。仮にも大魔王の力を得ている自分に対して臆せずに戦って見せた以上は力ある戦士であると認めざるを得ない。
 それでも、魔王の配下と一介の戦士という埋めがたき存在の差を省みずに戦いを挑んではただ惨たらしく殺される結末が待つだけである。まさに、蟷螂の斧と呼ぶに違いないものだった。

『確かに、愚かだな。己が愛する者が居ながら、見ず知らずの他人がため体を張るなどとは。』

 渦巻く業火に巻かれてその灼熱に焦がされる中で、不意に何者かが地鳴りのような低く威厳ある声で呼びかける。
「な…っ!?」
 それが聞こえた瞬間、烈風が一瞬吹きつけて、デビッドの視界を覆う炎が突如として内側から四方八方に散っていく。
『だが、力なくして上位の者に刃を向ける気概、それは我らにはないものだろうよ。』
 デビッドの背後に現れた何者かを中心として大竜巻が起こっている。メラゾーマすら吹き散らす程の威力を秘めた暴風を巻き起こすだけ力にそぐわぬ神々しさすら感じる声が、賞賛の言葉を紡ぐ。
「やれやれ…いつもながら良いところで邪魔をする方ですね。」
 逆風によって跳ね返された炎を避ける素振りすら見せずに、真っ直ぐに見返しつつ、バロンは額に手を置きながら、呆れた様子でそう言い放った。表情こそ変えていないが、面倒なものに出くわした者の迷惑がる素振りが垣間見られる。
「……あ、あんたは…!?」
 一方、ホレスは突然現れたその者の姿に見憶えがあった。先に獄炎を吹き消した風の力もこの身で味わっている。


「魔人王トロルキング族の長にして、我が兄バラモスの唯一無二の親友。強欲の白騎士―クトル。」


 灰燼と帰した樹林の上を、重量ある金属の脚絆を身に付けた巨大な足が踏みしめていく。怒れる風神を模した円形の大盾と、あらぶる雷神の力を体現した無骨な巨剣。対となるそれらの武具を携えた、山の様な巨躯の白銀鎧の騎士。
 サマンオサで秘宝・変化の杖を取り合う事になったトロル族の英傑―白騎士クトルがこの場に姿を現した。
「ト、トロルキングぅううっ!!?」
 背後で悠然と佇む大男の正体が、十指に入る程の強大な力を持つ種族の魔物であると知った突端、流石のデビッドも思い切り腰を抜かしていた。確かに人並み外れた体格であるとは思っていたが、まさかトロルキングであるとは予想外だった。
『バロンよ、お主ならば私の事などよく知っていよう。』
「……そうでしたね。勇気ある者に敬意を表し、宝物を得るに手段を選ばぬあなたの事だ。その勇者の盾とて垂涎の品には違いないでしょうね。」
 突如としてこの場に介入してきたクトルの力は、今も尚重圧を発しているバロンにも比肩する程のものだった。拮抗する力を持つその二人のやり取りには、何者も割って入る余地などない。
『その通り。残念ながら、取らせはせぬよ。この若者達が見せし蛮勇に敬意を表して、何よりお主自身ももはや限界であろう。ここでわしと戦うべきではないと見えるが?』
 にらみ合いの中で、クトルはバロンへとそう言葉を投げかける。闇を纏った彼の力も、時が経つにつれて剥離していくのを、クトルは既に気づいていた。
「そこまで見抜いてましたか……。確かに、このまま戦っても分が悪いか。流石は我が兄の盟友です。」
『ふん。もっとも、あやつとは我らを愚弄する真似をした時より、彼奴とは袂を分かったがな。』
 優位である事を示しつつ退く事を勧告するクトルから感じる力は、他のトロルキングの比ではない。上位種の中の更に頂点に位置するだけの存在へと昇華したからこそ、彼の魔王バラモスと親交を持つに至ることができたのだろう。

「…相変わらず、無茶な方だ。そのような無謀な真似をできるのは愚か者だけですよ。」

 元は親しい友であるとはいえ、仮にも魔王と呼ばれたバラモスに対して非礼を働けば、命の一つや二つでは済まされない。そうと知りながらも、躊躇の一つもなく己が赴くままに離反した事は、バロンからすれば理解に苦しむことでしかなかった。
『……言いたい事は、それだけか?』
 明らかに嘲るような物言いを受けて怒りを感じたのか、クトルの語気がより低く重くなる。
「…言葉が過ぎましたね。」
『ふん、やはり気に食わぬな。一度一切合財を滅してくれようか。』
 まさに巨神の如き威圧を受けて尚も、悪びれた様子も見せずに冷やかな視線を返すバロンを見て、クトルは嫌悪感を露にしつつも、声を荒げることすらない冷静さを保ったまま、腰に帯びた大剣を掲げ、盾を構えた。

「武具の共鳴……く…っ、まさかもう見い出していようとは…。」

 それぞれが天と地を指し示すように構えられているクトルの武具が共鳴し、凄まじいまでの力が辺りに撒き散らされ始める。風神の盾から吹き荒れる風が雷雲を呼び、その雷光が雷神の剣を伝って天を目指して駆け昇る一筋の光となる。



『消え去れぃっ!!』



 クトルが雷神の剣を裂帛の気合と共に振り下ろした瞬間、天に集められた雷が斬撃に呼応するようにバロンへと殺到した。集束された天雷の力が一度に解放され、光の柱の如く闇の使徒に向かって落ち、凄絶なまでの雷鳴を轟かせる。

『……逃がしたか。』

 巨大な鉄鎚の如き雷撃が通り過ぎた後に見えたのは、雷が大地を貫いた跡―円形に穿たれた巨大な窪みだけだった。刹那の轟音の後に訪れた静寂の中でそう一人ごちた後、クトルは他愛もなさそうな様子で鼻を鳴らしていた。
 どうやらバロンは、この恐ろしいまでの力を受ける直前に何処かへと消えたらしい。

「…な、何なんだよ…この状況は…!?」

 人を遙かに超えた魔の者達が互いに邂逅してから今に至るまでの間、この場に滾っていた圧倒的な重圧の中でデビッドは一歩も動けずにいた。その間に目にしてきた状況もまるで理解できずに、ただうろたえるばかりだった。
『そう身構えるでない。うぬらに手を出すつもりなど毛頭ない。』
 先程まで相手にしていた魔族を追い払えるような相手がまた敵に回るのであれば、苦境は先と変わらない。そう思って未だ身構えるデビッドを宥めるように、クトルは剣を収めつつそう告げていた。
『しかし、まさか斯様な場でお主と再会できようとはな。ホレスよ。』
「……クトル、だったか。」
 そして、後ろでこれまでの成り行きを静観していたもう一人の人間―秘宝を求める最中にサマンオサの王城で出くわした勇気ある冒険者の名を、微かに喜ばしげに呼んでいた。ホレスもまた、彼の地で遭う事になった思わぬ災厄にして、今の窮地を打ち砕いた人ならざる強欲の騎士の名を覚えていた。互いに宝を求める者同士としての認識が強かったのかもしれない。
『ふむ、噂に違わぬ見事な盾よ。これが”勇者の盾”か。』
 ふと、クトルがホレスの左手にある蒼い盾―護甲・勇者の盾を見下ろす。
「取りはしないのか。」
『なに、ほんの気まぐれよ。まして、掠め取る真似など我が信条に反するでな。』
 このアレフガルドで云われを聞いたのか、クトルもまたこの品を一目見たいと求めて止まないのはすぐに分かった。だが、サマンオサで変化の杖を取り合った際に見せた貪欲さは今は鳴りを潜めており、ただただ純粋に盾の持つ尋常ならざる不思議な力に魅入っているようでもあった。
「……あんたの盾はどうなんだよ。」
『ふむ…確かにあやつの物だとすれば、返してやった方がよいのだろうか。』
 一方で、未だにその左手に風神の盾を携えている様を見て、ホレスは呆れたように嘆息していた。元はと言えば、その盾の本来の持ち主は真紅の鎧の戦士のマリウスだった。だが、何かの手違いでクトルの手に渡って以来、ずっとそのままである様は奇妙なものだった。本人には掠め取ったという自覚などなく、ただ落ちていたものを拾っただけという認識でしかない事もまた、滑稽さに拍車をかけていた。
『そなたもまだこの闇の世界になれておらぬと見えるが、ここまで順調に辿りつこうとはな。変化の杖を預けた甲斐があったと言うものだ。』
 如何にしてこのアレフガルドに迷い込んだかは知らないが、見ず知らずの世界で迷う事なく前に進む知恵、更には魔王の配下であるバロンとも渡り合う程の力と勇気、そして数多くの秘宝を有するホレスに、クトルは素直に感心していた。

『次にまみえし時はもっと強くなっているであろうな、楽しみにしておるぞ。』

 多くの品を失いつつも、また新しい宝物と戦術、機転を以って以前にも増した強さを見せるホレス。そんな彼に心底の期待を表するようにそう告げながら、クトルは踵を$返してゆっくりとその場を去って行った。
「…おいおい、さっきのクトルってのも十分バケモンだったぜ…。そんな奴とお友達だなんて、お前…何者なんだよ。」
「……俺が知りたいぐらいだ。」
 かつての故郷を中心として、人の悪意を散々に目にしてきただけに、そうした人々も牙を剥く魔物も大差ないという考えがホレスの中に定着していた。或いはそんな魔物を悪戯に恐れぬ姿勢もまた、クトルの目を引く事になったのかもしれない。
 友人と言う関係であったつもりはないが、叡智あるトロルキングの長に認められる理由を、ホレスは自分でも測りかねていた。

「だが、これでようやく先に進める…。随分長い事待たせちまったな…メラニィ。」

 二つの大きな力が去った後には、半分程が灰燼と帰した荒れた樹海だけが残っていた。その先に連なる漆黒の海の中に、再び白い浜が浮かび始める。
 その先にある故郷を見据えているのか、デビッドは待ちわびたような疲れ切った面持ちに、微かな喜びの表情を湛えていた。
「………。」
 右手に預けられた横笛が、レミーラの光を照り返している。それを眺めつつ、ホレスは思い人の名を呼ぶデビッドの声を黙したまま聞き届けていた。

 闇に包まれて太陽を奪われてより、アレフガルドに住まう者達は様々な大切なものを失い、捨てていかなければならなかった。それでも、闇に呑み込まれる事もなく未だ残り続ける想い―愛する者を案ずる心は、今もまた垣間見る事ができた。