灯火の花 第二話


 無間の煉獄より這い上がり、至った先にあった古の地下牢の残滓の如き石造りの迷宮。明かりとなるものは何一つとしてなく、今はただ闇の一色に染め上げられている。

「……さて、どうしたものか。」

 闇の奥より微かに魔物の気配がする。試練に打ち勝ったばかりで未だに疲弊したままの状態であるものの、このままここで休むわけにもいかない。
「レミーラ」
 砕かれた石の欠片が足元に散らばり、闇の中での足場の位置も満足に分からない。まずは視界を確保しようと、ホレスは灯明の呪文を唱えた。
「…何?」
 だが、発動の瞬間に違和感を憶えた次には、練り上げられたはずの呪文の力が霧散していくのを感じた。
―呪文が、発動しない?
 呪文全般を含めれば確かに得意な方ではないが、それでも使える数少ない呪文に関しては十分に慣れている自信はあった。それを封じられたとなれば、この場自体に大きな働きかけがあると思うのが難くない。
「仕方ないな。」
 何にせよ、ここで呪文を使う事はできない。ホレスは腰に差した変化の杖を取って念じ、先端に炎の玉を顕現させた。幸い、魔法の道具の類は封印の影響を受けていないのか、灯火が消えることはなかった。
 炎が照らし出したのは、大地に穿たれた巨大な大穴だった。灯し切れない程に深いその闇の底から這い上がり、今自分はここにいる。

「…?」

 そんな感慨を振り払って踵を返したそのとき、視界の片隅から光が飛び込んできた。

「あれは……」

 明かりの一つもない深淵の中に、蒼い何かが炎の光を受けて煌いている。いつしかそれは乾いた音を立てて転がり落ちて、ホレスの足元に在った。
「……盾、か。」
 それは、翼を広げた鳳を模した金の紋章を刻みこまれた、蒼穹よりも深い蒼の金属で拵えられた大きな盾だった。




 焚き木が炎に炙られてパチパチと音を立てて、夜の森を赤く彩っている。

「……。」

 温もりを伝える赤い炎の前にしゃがみ込んで、ホレスは瞑目したまま静かに佇んでいた。
「おい、どうしたんだよホレス。お前もやっぱり流石に疲れたか?」
「まぁ、そんな所だろう。問題ない。」
 海上に浮かんだ抜け道の上で亡者や海の魔物達と戦い続けた果てに、デビッドもホレスも疲弊していた。森の一角で火を焚いて休息を取ることにしたものの、悪魔の住まう地という云われもあってこの小島に徘徊する魔物の群れの力も段違いだった。
 そんな気を抜けない状況の中で、外への意識を閉ざして物思いに耽っているホレスの様子がデビッドには気になっていた。自分も予想以上の敵の力と数を前に危うく傷を負うところまで追い込まれた以上、彼自身も表情には表わさずとも相応の疲労はあるはずである。その中で、果たして何を思い浮かべていたのだろうか。
「にしても、さっきは助かったぜ。お前が注意してなきゃ今頃囲まれてたモンな。」
「……ああ。耳は利くんでね。」
 森の中に入ってからも、ホレス達は魔物の群れに幾度となく襲われた。それでも、囲まれて八方塞がりになるような危機的な状況にならずに済んだのは、ホレスが事前に魔物の位置を感じ取ってその動きを先読みしていたからに他ならない。より有利な位置から奇襲をかけることで相手の混乱を誘うことで、魔物の巣窟を切り抜けることができた。
「その代わり、剣の腕はからっきしだけどよ。そんなんじゃその剣が泣いてるぜ。」
 その一方で、デビッドはホレスの戦い方を見てはっきりとそう告げていた。
「確かに、剣をまともに習ったことはないな…。」
「やっぱりか。どーりで素人くせえと思ったぜ。身のこなしは中々なんだけどよ。」
 ただ魔物を殺めるだけであれば武器一つあれば事足りるために、ホレス自身も基本的な扱い方を除いて剣の心得は進んで修得することはなかった。だが、ここにきてより強力な魔物との戦いに際して、より効率的に戦うために剣術が大きな役目を果たすことを、デビッドの戦いぶりを見て実感していた。
 同様に、デビッドもまたホレスの剣技が概ね我流に近いものであり、その錬度も然程ではないことを見抜いていた。地獄をくぐり抜けて多くの道具を携えているとはいえ、純粋な力や技では戦士を生業とする程の者に適う道理はない。
「第一、そんなリッパな盾を持っておきながら宝の持ち腐れって奴じゃねえか。なんならおれが使ってもいいんだぜ。」
「ああ、こいつか。」
 加えてデビッドは、ホレスの荷物の傍らに光る蒼い光沢を指差しつつ呆れた様子で肩を落としていた。この旅の中で常々黒い外套の上に背負い込まれる形で携えていたそれは、中心部に金の鳥の紋様があしらわれた大きな盾だった。だが、浜辺で出会って以来、彼がこれを構える姿を目にした試しはなかった。
「……材質も何も分からない、か。そんなモンをどこで拾ってきたんだい?」
 一目見ただけでも逸品であると知れるそれを使おうともしない事への疑問もさる事ながら、この盾が一体どこで手に入れてきたのかが気になる。尋ね続けていく内に、この不思議な盾への興味は増すばかりだった。

「魔王の爪跡、と呼ばれる洞窟らしい。俺はそこからこの世界に迷い込んできた。」
「魔王の爪跡だって!?」

 ホレスがアレフガルドに至りつき、この盾を見つけた異界からの入り口。後に人伝に聞いた話によれば、”魔王の爪跡”と呼ばれる魔物の巣窟であると分かった。
「ってこたぁ、お前も魔物か何かか…!?…って、そうは見えないわな。」
「当たり前だ。確かに、あそこはゾーマが空けた大穴ではあるらしいが。」
 大魔王自らが穿った大穴と云われるだけに、その奥底から数多くの魔物が現れる様を目にした腕利きの冒険者もいたという。そんな場所から来たというのであれば、その存在自体が奇怪なものに思えてしまうが、どうみても姿形や持ちうる力が人のそれでしかない。
 ホレスは呆れた様子で嘆息しながらも、特に怒りは覚えなかった。かつて自分を悪魔と呼ばわった者達とは違い、あくまで現状を見て自分を評する彼の実直さが、あの村にもうひと握りでもあったとすれば自分の運命はどう変わっていただろうか。
「へぇ…やけにこの辺りに疎いと思ったら、お前も異界のヤツだったんだな。」
 ホレスの語り口や姿形から、デビッドは既に薄々彼がこの世界の人間でないことは感じていた。

「あの無鉄砲なオルテガのおっさんみてえにな。」
「!」

 それが、かつて出会ったもう一人の似たような者の存在を彷彿させて、デビッドの口からその名が零れ落ちた。聞き覚えのあるに留まらず、彼の世界に轟いた名をこのアレフガルドで聞くことになり、ホレスの双眸が疑念に細められる。
「勇者オルテガが…この世界に?」
「勇者…か。やっぱり知ってんだな。一体何もんなんだよ、あの人は。」
 自分とて闇に引きずり込まれて仮初の死を繰り返した果てに来たことを考えれば、驚きは然程ではなかった。それでも、火山に落ちて死んだはずの最初の英雄にして”彼女”の父がどうしてこの世界に至っているのか。


「彼の世界で人間達の希望として生きることを―勇者であることを望んだ男……そして、やがては我らが主となるであろう方の…」


 不意に、どこからか粛然として感情を乗せぬ、紳士然としながらも張りのある声がそう語り始める…。
「…!」
 その瞬間、場の空気がこれまでのそれと大きく変わり始めた。焚き火は突如として吹いたつむじ風によって吹き消され、底冷えするような悪寒が全身を覆う。
「…っ!?…いつの間に!?」
「誰だ!!出てこい!!」
 いつの間にこの場に忍び寄ったのか。微かな音すらも聞き逃さないホレスの耳を以ってしても、この唐突な来訪者の出現を察知する事はできなかった。すかさず彼がレミーラの呪文を紡ぎ辺りを照らし出し、声のした方へと弩弓の矢を放つと共に、デビッドもまたゾンビキラーを抜き放って構えた。
「この私に……刃を向けるとは。いいでしょう、手間が省けて丁度いい。」
 不測の事態に驚きを隠せずにいるにも関わらず、その場に留まらずにすぐに身構えて、更には一矢を向けてみせた二人の冒険者を前にも、その者は悠然とした口調を崩さなかった。
 静寂の中に違わずに静かに歩を進めるその靴音の一つ一つが、ホレスの耳を何度も鋭く突く…。

「その忌まわしい護甲―『勇者の盾』、このバロンが貰い受けましょう。」

 そして、レミーラの白光の下に、蒼い外套の下に深い紫の騎士の衣を纏った漆黒の髪の男がその姿を現していた。その左手には、燃え盛る炎を帯びた大剣が携えられている。
「ゆ、勇者の盾ぇっ!?」
 手にした炎を思わせる真紅の双眸が向けられている先は、ホレスの傍らにある鳥の紋章が描かれた蒼い盾だった。
「……やはり、こいつはただの盾なんかじゃなかったのか。」
「ただの盾もなにも、そいつぁ神の武具だ!どうしてそれをお前が持ってんだ!?」
 手にした時から何か不思議な力を感じる事はできたが、それがまさかアレフガルドの伝説に伝わる武具の一つとは思わなかった。それでも、敵を前にして油断なくもあたかも事もなげに拾い上げつつ眺めるホレスの姿はそんな神話に気圧された姿とは程遠いものだった。
 逆に、伝説の品をまさか彼のような流れ者が偶然に手にしている事実に驚くあまり、デビッドは信じられないと言わんばかりに”勇者の盾”に向かって目を剥いていた。

「無駄話はそれまでです。」

 伝説の一つがここにあるという事に様々な感嘆を覚えるのも束の間、何者かに仕える謎の騎士―バロンは冷たくそう言い放つと共に、空いた左手をホレス達へとゆっくりとかざす。


「イオナズン!!」


 そして静かに動くその口から、獣の咆哮を思わせる程に遠くにまで響く声で力の名が告げられた。
「…!!」
「最上級呪文!?」
 爆発の呪文の中で随一の威力を誇る最上級呪文イオナズン。その名を聞いて絶句する二人を見据えるバロンの手のひらから眩い光がデビッドに向かって一閃する。
「危ない!!」
「っ!!」
 反応し切れずに立ちつくすデビッドをすかさず突き飛ばし、ホレスは代わりにその光に射られた。辺りに普く気が一瞬で集い、一気に解放されることで生み出される爆発がホレスを中心として巻き起こり、全てを薙ぎ倒す。

「な…ホレス!?」

 自分の代わりに爆炎の渦中にまともに巻き込まれ暴風の内に消えたホレスを、デビッドはただ愕然とした様子で見守る他なかった。
「余所見をしている暇はありませんよ。」
「…何!?」
 だがそれも束の間、彼の目の前を灼熱の一閃が横切るのを、咄嗟にゾンビキラーで受け止める。
「くそ…!てめぇ、何もんだ!!」
 丁寧な立ち振舞いに反して、一撃一撃はまるで魔獣の爪牙のように重い。それでも戦士としての力と技で負けじと対抗しつつ、デビッドはバロンへと肉薄した。最上級呪文を使った次の瞬間にこれほどまでの一撃を放つだけの力量に、戦慄さえ起こる。

「気をつけろ!そいつは人間じゃない!」

 直後、イオナズンによって巻き上げられた砂煙の中から、ホレスが警鐘を鳴らすような切迫した口調でそう叫ぶ声が聞こえた。あの爆発に巻き込まれたはずが、運がよかったのかその声に傷を負ったような弱々しさは感じられない。
「人間じゃない、か!だったら遠慮なく斬り捨てて…!?」
 ホレスが無事だったことと、相手が姿通りの存在ではないことを追い風に、デビッドは全力でバロンへと斬り込んだ。先程まで追い込まれていたのが嘘のように、ゾンビキラーは炎の剣を押し返していき、一転して攻勢へと転ずる。だが…

「何だ…と!?」

 遂に相手に一撃を与える好機が出来たと思った刹那、灼熱の剣がその体を刺し貫いた。いつの間にか両腕にも一筋ずつの裂傷が生じ、白銀の聖剣は乾いた音を立ててその手から離れ、口の中はむせ返る血の匂いで満たされていく。
「いつまでせめぎ合っていられるとお思いでしたか?なまじ剣を扱えるばかりに驕りが出ましたね。」
 先程まで体感していた戦局は、こちらが微かに勝っているはずだった。だが、止めの一撃を放とうとした瞬間、バロンの力が急に膨れ上がるような錯覚を憶えた。先程まで見せていたのはあくまでその片鱗でしかなく、戯れでなくとも侮られていたことには変わりない。

「がぁああああああああっ!!」

 剣を引くと共に、バロンは左手に力を込めてデビッドの鳩尾へと拳を打ち込んだ。イオラの力を込めた拳撃による衝撃を受けて、彼は爆発と共に樹林の一つへと叩きつけられた。
「デビッド!!」
 一瞬にして両腕を切り刻まれてあまつさえ腹部を刺されて深い傷を負った果てに、木にぶつかった衝撃で意識を失ったのか、背を幹に預けたまま動く気配がない。
「ほう、先の呪文をかわしたのですか。この程度とはいえ、私の十八番だったのですが。」
 深手を負ったデビッドへと駆け寄ろうとするも、返す刃ですぐさまバロンが立ち塞がる。表情こそ変えておらずとも、先の最上級の呪文に巻き込まれて尚、ホレスに傷を負った様子がないことは素直に疑問に感じているらしい。
「抗うというのであればそれもいいでしょう。ですが、あなたでは私には敵いません。」
「ち…!」
 だが、その程度のことで所詮は人の子に過ぎないホレスとの力の差が埋まるわけではない。それを改めて知らしめんとばかりに威圧的に言い放ちつつ、炎の剣で一閃する。
―出し惜しみしている場合じゃないな…。
 一撃一撃に込められた重みと裏腹に、油断していたとは言え剣の達人であるデビッドですら見切れない程の連撃。本能のままに戦う魔物達とは違い、一人で正面から戦っても隙は決して見い出すことができない以上、こんな業物を持っていても何の役にも立たない。
「仕方がない…」
 繰り出された剣に応じる真似はせず素早く後ろに下がって、ホレスは左手に銀色の杖を手に取った。



「やーっぱりなぁ。だから言わんこっちゃねえ。」

 眼下に広がる樹林の一角に灯る白光の下で繰り広げられている戦いを遠くに眺めつつ、男は予想に違わぬ展開を目にして気だるそうに言い放っていた。
『……ふむ、あやつもまた剣を極めし者。やはり分が悪いか。』
 愚か者を見るような部下の言葉を受けて、騎士もまた戦局を見据えて一言を零す。力量の差を見誤って前に出過ぎた末に斬り刻まれた戦士の傷は浅くはなく、もはや戦える状態ではない。残ったもう一人―かつて自分と刃を交えた青年はこの戦いの火蓋を切ったあの最上級呪文を辛くも切り抜けたが、今は成す術もなく追い込まれている。
「悔しいが、バロンの野郎に太刀打ちできる奴なんざこの世に十人といねえだろうぜ。まして、あいつらなんかじゃあ問題外にも程があんだろ。それがあの命知らずのホレスでも、大魔王の配下を相手にするにゃあ全然足りねえ。やっぱおっかねぇ奴だぜ…。」
 実力者と知られている者でさえ、大魔王の下で動いているあの強者を相手にしてはまるで手も足も出ない。言葉通りの指折りの者になって初めて対等の戦いができる―逆に言えばそれに当てはまらない者達は相手にすらならないという事である。まして、人間という脆弱な存在など問題外としか言いようがない。
―お主の力、その程度ではあるまい。
 今も尚、青年は剣を交えるのはおろか、一矢報いることすら出来ずに逃げ回っている。だが、しばらく会わない内に付けてきた力の全てを発揮しているとも思えない。敢えて攻勢に転じずにひたすらに高速で移動して呪文や斬撃をかわしつつ、機を窺っているようにも見受けられる。
「あの杖は……よーやくおでましってか。」
『変化の杖…か。ふむ、以前とは些か違うな。』
 天から落ちる太陽の如き炎の巨球をかわし、その後に突進してきたバロンの剣を紙一重で避けつつ交錯しつつ、青年は腰の剣帯に差した銀色の杖を手に取った。
 それはかつて、彼の手によって振るわれて自分に手傷を負わせる程の力を見せた、大いなる魔法の力を宿した秘宝に他ならなかったが、更なる力を得て雰囲気が以前と変わったようにも感じられる。

 銀の杖にあしらわれた蒼い宝玉の内に、小さな光が灯る……。