常世の世界 第三話


 闇の世界―アレフガルドにある唯一の人の手による王国ラダトーム。大魔王ゾーマがもたらす負陰の闇によって生気を奪われてか、多くの人々が住まう城下町の喧噪も、本来のそれと比すればあまりに静かなものであった。

「ふぅ………。」

 郊外から城門にまで至る大通りの石畳を踏みしめつつ、レフィルは紫の外套の中で安心したように肩を下ろしつつ、小さく溜息をついていた。
「どうして…あんなことを?」
 その直後、町の外へ向けて歩みを進める足取りそのままで、ムーが彼女へとそう尋ねる。
「王様は本気でわたしを斬るつもりだった。それに応えただけ。あなたにも分かるでしょう?」
「……。」
 ラルス一世との謁見の最中、唐突に剣を向けられた際にレフィルが返した行動。それは、敵に対してのそれと何ら変わりはなかった。闇の世界へと旅立つことを示した以上は、殺すつもりで斬りかからねば王の試す思惑の意味がない。レフィルもまた、本気の殺気に対して遅れを取るわけにもいかず、剣を抜かざるを得なかった。
 それでも、その王当人にも見せた普段の気弱で優しい少女との差異の激しさに、ムーは疑問を感じていた。
「うーむ、ラルス国王陛下もそうですが、レフィルさんも思い詰められてるみたいですな。」
 話を傍らで聞いていた老人―ガライが、それから思うところを口に出す。如何に魔の者が今にも蹂躙せんとする殺伐とした世であれ、表向きは威風堂々としている王が抱える葛藤の大きさは誰よりも知っているつもりだった。その王が向けた理不尽な挑戦を避ける手段など幾らでもあったはずなのに、それを真っ向から受けて立ったレフィルも、何か強い負の感情を持っているような気がしてならない。
「……出過ぎた真似をしてしまいました。」
「なに。あれは陛下自らが選んだこと。わしにはあなた様を責める理由などございません。時折、ああした悪ふざけに興ずるところが、あの方の悪い癖ですとも。」
「悪ふざけ…だったの?」
 王に対する不遜な振舞いの言及が続く中で思わず謝るレフィルを遮りつつ、ガライは言葉を続けた。挑発した王自身が満足そうな反応を見せたことからも、大臣ら余人が口を挟む道理などなく、ガライもまた同様だった。
 何より、ああした乱暴な振舞いをしてみせることは、レフィルに限った話ではないらしい。流石にいきなり剣を突きつけるという危うい所業は人を選んではいるようではあるが。
―そうじゃなかったら…やっぱり、悲しいな。
 あの一合を交わさんとする中で、レフィルは王のその行動に生を断ちたいという暗い願望のようなものを感じたような気がしてならなかった。そんな悲しい心情を傍らに持ちつつも、あの時に本気で死を選ぼうとした訳ではないと知って安堵する自分に気がつく。バラモスの討伐の最中でもひたすらに生を求め続け、それが失われんとする時に全部を壊したいと覚えた程に、生きることを強く願い続けたレフィルとしても、王の命を捨てんとするばかりの行動に不安を感じずにはいられなかった。

「しかしまぁ…随分と雰囲気が変わったもので。」

 そうした思案に耽ろうとしたその時、思い立ったようにガライにそう告げられて、レフィルは彼へと顔を向けた。
「馬子にも衣装。」
「それとは……ちょっと違う気もするけどな…。」
 ガライの言葉を受けてのムーの一言に、レフィルはどこか納得のいかない様子でうつむいた。
 今より少し前、出発を前にして、王から賜った餞別の路銀の一部を使ってレフィルは装備を整えていた。これまで使い古してきた薄れた紫の外套の下にあるのは、竜鱗の鎧―ドラゴンメイルだった。かつても纏った同名のそれとは異なり、緑の鱗を帷子のようにつなぎ合わせた作りになっている。右手にも深緑の金属で拵えられた鬼神を模した大盾―オーガシールドが携えられている。かなり大振りで重いにも関わらず、それを苦も無く扱えるまでに、レフィルの力は戻っていた。
 腰に帯びた吹雪の剣と、兜にも似たサークレットを戴いた姿も相まって、この闇の世界を旅する者に相応しい雰囲気を纏っていたが、それがほんの少し前は平穏の内で静かに暮らした少女であったことは余人には分からないだろう。

「ともあれ、まずは我が家までご案内致しましょう。その間、お手並み拝見と参りましょうか。」

 王の依頼を受けて、アレフガルドの水先案内人となったガライが最初に示した目的地は、彼自身の家だった。身一つで旅してきた彼も、今回の役割を果たすための支度があるのだろう。
「望むところ。」
 その行程の長さを知らせるようなガライの言葉に、ムーはその視線を見返しながらそう返した。裾の長い竜のローブに身を包んだ貞淑さと対照的に、理力の杖を肩に担いだ姿がどこか荒々しくも見える。相変わらず、魔法使いの典型には当てはまらない奇妙な雰囲気だった。
「………。」
 一方で、レフィルは押し黙ったまま頷きを返した後は、ただ城下町の外を見やるだけだった。
 勇者としての意思よりも、ただ元の幸せへと戻りたいがための出発。だが、周囲から受ける視線はかつてのアリアハンでのそれと些か似たものを感じられる。この旅路がもたらすものが何であるのか結局今も分からずにいる自分に、レフィルは情けなさすら覚えていた。



 星一つ普くことのない空の下に広がる大地は、不気味な程に静まり返っている。闇の中心に近しいあの始まりの王国から遠く離れるにつれて、風も次第に弱まり、森のざわめきすらも聞こえない。

「こいつは想像以上にすげぇな、オイ。」

 一足先にラダトームを出発し、北東を目指したサイアスが見た光景は、その静けさと裏腹に、凄絶な有様だった。神を祀る祠への参道が、彼の一歩先から崩れ落ちて、黒い海の底に沈んでいる。波音一つ立たぬ程に静かながらも底知れぬ闇を思わせる程に淀む外海、その一部と帰した讃えられし神への道。既に希望の象徴にすがる術すらも断たれていた。
―…で、アレがそうなのか。
 無惨に引き裂かれて一つ一つが小さな小島となった半島の果てに、高くそびえる大きな塔が見える。闇の海に取り残された孤島に立つその様は、本来神聖なはずのそれをより禍々しいものに見せる気がしてならない。
「なぁるほどな。どーりでおめぇらがワラワラと出てくるってワケだな。」
 ふと、塔の周りを飛び交っていた幾つかの影がこちらへと向かってくるのが見える。それは、塔に巣食う大魔王の手先として生きる悪魔達に他ならない。
 神を崇め奉った聖地もかつての面影など既になく、今は既に悪魔の居城と変わり果てた姿を晒している。
「レンの奴の言葉を借りりゃこうか?”異教徒に生きる資格なんてなぁい!!”、とかなぁっ!!」
 空から襲い来る黒い影を真っ向から睨み据えつつ、サイアスは引き抜いた黄金の大剣を天に掲げ、悪魔達へと明確な挑戦の言葉を投げかけた。切っ先から金色の風が迸ると共に、悪魔達の間で幾閃もの雷光が煌き、その一つ一つが大爆発を起こす。
 闇の静寂を破った光の怒号に穿たれた悪魔達が、次々と闇の海へと水柱を立てながら堕ちていく。その一つ一つが、勇者によって奏でられる希望の胎動の音のようにも聞こえた。





 岩山の間に鬱蒼とした森が続いている。ここもまた、弱々しい風が微かに木々の葉を揺らすだけの静けさに満ちている。かつて切り開かれたはずの道には、この光差さぬ闇と痩せこけた大地の中でも生ける雑草が生い茂り、街道であったころの面影も今にも薄れようとしている。

「魔物だ…!」

 そんな道を進んで数日が経った時のこと、レフィルは近くに魔物の気配を感じて吹雪の剣を引き抜き、右手のオーガシールドを構えた。
「ガライさん、下がって…っ!って、いない!?」
 同時に、ガライにも警鐘を発するも、先程までそばにいたはずの老人の姿はどこにもなかった。
「既にどこかに隠れたみたい、たぶん。」
「い、いつの間に…」
 同じく魔物の出現を察知したムーが理力の杖を構えながら告げた言葉に、レフィルは驚きを隠せずにいた。盗賊団に属していたり、人工の賢者としての資質を磨かれてきたムーですらも、ガライが気配を消したことに気がつかなかった。
 おそらくそれだけの機転を持っていたからこそ、一人で闇の世界を旅してこれたのだろう、と思い知らされる気分だった。

「これは…?」

 足元から忍び寄る魔物の影は、既に目の前にまで至っている。
『マドハンドじゃな。』
「マドハンド?」
 これまでに目にした事のない姿を前に首を傾げるレフィルに、どこからかガライがその名を告げていた。汚泥によって形作られた地から生えた腕だけの魔物―マドハンド。地の底にまで引きずり込まんと手招きを続ける様は、見るにおどろおどろしい。
『…こやつがここにいる、ということは近くにヤツがおるやもしれん。気をつけなされ。』
「奴?」
 油断こそできずとも、然程大きな力を持つ魔物ではないことはレフィルにも容易に察することができた。それでも、ガライは警戒した様子を崩さずに、尚もレフィル達へと注意を促している。

「!」

 これから現れると示唆されたその新手の魔物のことを反芻し、疑念に目を細めたその時、樹林がみしみしと音を立てながら倒れていく音が遠くから聞こえ始めた。
『そら、おいでなすった!!』
 無惨に薙ぎ倒される木々の奥から、巨人の影が見え始める。怒号とも慟哭ともつかない鬨の声が、レフィル達の体の奥底にまで低く重い響きを轟かせる。

「これが、大魔神…?」

 天を衝かんばかりの巨大な青銅の体躯、荒い作りながらも巨神のような威厳を漂わせる風貌。これこそが、ラダトームの周辺で特に恐れられている深緑の怪物―大魔神であった。
「でかぶつ」
 歩んできた道に残された圧し折られた木々の骸や巨大な足音が、その重圧を更に強調しているかのようにも思える。が、力を増すがために青銅の体を得ても、その重さと元々の巨躯が動きを鈍らせる。そうした物騒なだけで鈍重な青銅の塊でしかないと見たのか、ムーはぽつりとそう零した。
「先手必勝。」
 程なくして、彼女はすぐに理力の杖を手に大魔神へと突進した。大きな足が踏みつぶさんとしたその瞬間に空高く跳び上がり、巨神の真上まで至る。頭上で荒々しく回した理力の杖の矛先を、大魔神の脳天へと定めて渾身の力を以って振り下ろした。

「!」

 だが、理力の杖が頭蓋から打ち砕かんとしたその瞬間、大魔神は咆哮を上げながら拳をムー目掛けて突き出してきた。あわや殴り飛ばされるその時、ムーは強引に攻撃の軌道を曲げて正面から魔神の攻撃を迎え撃った。
「速い、銅像のくせに…」
 打ち合った反動そのままに後ろに大きく宙返りをしつつ着地しながら、ムーは小さくそう毒づいた。一撃一撃が人の子を容易く圧殺する程の威力であれ、その暇を与えなければ大したことはないはずだった。だが、こちらの動きに対する反応の速さは予想を超えており、こちらの刹那の間の反撃にさえ応じて見せた。
 付け入る隙を与えないと言わんばかりに完璧に仕上げられた名もなき者の芸術品。如何なる戦士であれ、一筋縄でいかない強さを見せつける様にどうしたものかと、ムーは目を細めていた。

「ムー、下!!」
「!」

 一合を交わした後に互いににらみ合い様子を見ている最中、レフィルの警鐘が耳をつく。だが、既に遅くムーは下から何かに引き寄せられていた。
「邪魔…」
 そこを見ると、ローブの裾が何本もの汚泥の手によってしっかりと掴まれていた。
「…っ!」
 足にまで絡みつこうとした手を蹴り払いつつ、理力の杖で残りのマドハンドを叩き伏せようとしたその時、上から何か巨大なものがムー目掛けて落された。
『こ、これはいかん!!』
 マドハンドによって動きを封じられている所に、大魔神がその足でムーを踏み潰さんとしているのを見て、ガライは焦燥を隠せずにいた。このまままともに受けた時は元より、生半可に身を守ったとしても無事で済むはずがない。

「アストロン」

 ムーが大魔神に潰されようとして―ガライが助けに入らんと今にも飛び出さんとしたその時、レフィルがそう唱える声がした。
『…っ!?』
 いつしかムーを守るように、紫の外套の下に竜鱗の鎧をまとった少女が大魔神の前に立ちはだかっている。踏み下ろそうとした足は、地面から突き出た鈍色の尖塔に阻まれるようにして動かない。ムーを縛りつけていたマドハンドの群れもまた、地から生え出た鋼鉄の刃によって斬り裂かれ、元の汚泥の塊へと帰した。
 レフィルの左手に取られた吹雪の剣がその蒼い刀身を地面へと突き立てて、その周囲を凍りつかせている。アストロンの力によって、その尽くを魔鋼の刃と化して…。
「………。」
 大魔神が思わず後じさったと同時に、レフィルは吹雪の剣を地面から引き抜いた。同時に、鈍色に光沢を返していた魔鋼の尖塔や突起の全てがあるべき姿へと戻っていく。光の下にあったならば輝きを返していたはずの氷晶は、今は奥底に闇を映すだけだった。
「チャンス」
 足の底を深く貫かれて、そこから生じた亀裂が半身へと波及し始めている。それで動きを鈍らせたのを好機と見て、ムーはすかさず大魔神へと躍りかかった。満足に自らの体重を支えきれない以上、踏みつけの攻撃もこれ以上はこない。
 ひび割れた部位目掛けて渾身の一撃を叩き込まれた後にメラミによる追撃をかけられて、体を大きく穿たれ、大魔神はたまらず地面に膝を屈した。
「終わりよ。」
 その瞬間、心の蔵にあたる部分へと何よりも冷たい蒼い剣の切っ先が突き込まれる。長きに渡ってレフィルの供を務めて尚も折れることなくあり続けた刃は、堅牢な大魔神の体ですらも容易く貫いていた。内側からもたらされる極寒の冷気が徐々に体内の隙間を満たし、膨らみ続ける氷が内側から押し崩し始める。
 受けた痛手の大きさばかりでなく、冷たく睨み据える少女の紫の瞳を前に、大魔神はもはや凍りついたように動かなかった。

「イオラ!」

 巨神の体が軋みを上げ始めたのを見て、レフィルはそう唱えると同時に吹雪の剣の切っ先を引いた。瓦解を始める大魔神の亀裂から眩い光が零れ出た瞬間、内側に込められたイオラの力が発動して、青銅の体は敢無く粉々に打ち砕かれた。
「…………。」
 飛び散る欠片を避ける素振りすら見せずにレフィルの双眸が見降ろす先にあるのは、微かに氷の気を帯びたかつて魔神であった無残な金属片だけだった。

「……大丈夫?」

 相対した敵の末路を看取ったそのままに静かに佇むレフィルの顔をのぞき込みながら、ムーがそう尋ねてきた。
「あ……う、うん…。ムーも…。」
 最後に懐に飛び込みつつ一撃を放ったことによる余波を心配してくれたのだろうか。先程の冷厳さが嘘のようなぎこちない態度でそう返しつつ、レフィルもまたムーの姿を見返した。一時はマドハンドに足を掴まれ、大魔神の巨躯に潰されそうにもなったが、深い傷を負っている様子はないのを見て安心して、ふぅ…と安堵の溜息を零していた。
「ガライさんも…ご無事で……」
「なに、わしは魔物除けの心得がありましてな。それがあなた方にも用いることができぬのが残念ですが。」
 戦いの最初に姿を消したガライもまた、元気な姿を見せていた。レフィル達が守るまでもなく気配を消して、魔物達と戦わずしてやりすごす。これまでもそうして、この闇の世界を旅してきたのだろう。
「それにしても、見事なものですな。」
 今の戦いを見届けて、ガライは心底感心したようにそう言い放っていた。幾度か危ない場面も見受けられたが、結果的に大きな傷を負うこともなく特に厄介な魔物を倒して見せた。大魔神を相手に正面切って戦いを挑んで無事でいられる旅人がこのアレフガルドに果たして何人いるだろうか。

「ささ、ここまで来ればもう間もなくわしの家です。長旅で疲れたお体を存分に休めて下さい。」

 二人を労いながら、残りわずかの旅路の先を見通しつつ、ガライは実に楽しそうに足を進めた。