闇の扉 第五話


 永劫にも感じられたはずのほんの束の間の旅路を過ぎた先に辿りついた無明の洞窟を抜けた先に見たのは夜空だった。

「……何が、起こっているんだろうな。」

 だが、その中に普くはずの星々はなく、幾度待っても夜明けがくることはなかった。
「或いは俺が…おかしくなったとでも…?」
 煉獄の中で過ごしてきた中で数多くのものを失ってきたからこそ最初はそう直感したが、五感が訴えかけるものは以前のそれとなんら変わりはない。やはり、ゾーマの言う”闇の世界”を形作る何かが常闇の空を作り出しているのだろう。
「俺も…とんだ所に迷い込んだものだな。」
 町を探し求めて夜の草原を行き、渓流を越えて、いつしか峠の先にある鬱蒼と茂る森へと至っていた。こんな世界でも旅人がいるのか、時折焚き火の残り香や、足跡などを見受けることがあった。この森に至ってからは特にそれが顕著で、倒された魔物の死骸や折れた武器の刃などが、樹の根本に横たわっていることもしばしばだった。

「まさに、常夜の大地…とでも言ったところか。」

 いつまでも明けが来ない闇の世界。それを実感してそう呟いた所で、獣の咆哮が耳を衝いた。すぐさま身を翻して、腰に下げていた”武器”を手に取った。あんなろくでもない世界でも得る物は数多くあったのか、勝負は一瞬で決し、襲いかかってきた魔物は一撃の下に砕け散っていた。
 伊達に地獄の底から這い上がってきたわけじゃない。そう思うと、今更恐れるべきものなど何もない気がした。




「ここんとこ、ちゃんとした朝餉を取っちゃいねぇんじゃねえかい?」

 ほんの僅か前のことを思い返していると、鍛冶屋の男からかけられた言葉が耳に入り、ホレスはすぐに意識を彼へと向けた。
「そうかもしれないな…。」
 そして、問われたことを受けて暫し考えた後にそう返していた。延々とそびえる坩堝の迷宮の中でも、飢えの心配は外の世界と変わらず付き纏っていた。最初に持っていた僅かばかりの食糧では、万里にも及ぶ道のりを越えていくことなどできない。時折狩りをして食糧を確保し、これまでにも増した節食をして尚も足りぬ程の中で、ホレスは自分でも幾分痩せたものだと思った。
「まぁ、こっちもジパングに比べりゃてぇしたもんは出せねぇけどな。」
 あまりにやつれた様子からあのように尋ねずにはいられなかったが、今並べてある品も彼本来の世界から見れば実にお粗末なものと思い当り、鍛冶屋の男―カフウは肩を竦めた。日の光が当たらぬとは言え、大地からの恵みは未だ失われてはいないのか、主食から副菜までの品は一通り揃っていた。
 だが、やはり天の恵みが消えたのは大きいのか、素材の一つ一つの質はこれまで知るそれとは些か悪いように感じられる。これこそが、大魔王ゾーマによって天に張られた夜の帳がもたらす生命への虐げというものなのだろう。
―……何がこの世界を支えている?
 それでも、未だ人が死に絶えていないのは、日の光を奪われた中で尚も大地に与えられる力のお陰なのだろう。それを与えているのは、一体如何なるものなのだろう。用意された朝食を平らげながら、ホレスはその根源たる何かが気になっていた。

「じゃあ、早速おれの仕事場まで来てくんな。」

 食事が済んだのを見届けると、カフウは一足先に席を立ち、誘うように手招きをしつつ旅籠の食堂から出て行った。
「………。」
 下働きの娘が今しがた使っていた食器を片づけていく様を見届けた後に、ホレスもまた立ち上がり、彼の後を追った。


 マイラで最も大きな温泉を擁している旅籠の裏に、白煙を上げる小屋がある。その裏口には、昨日見せられた剣の墓場があり、かの者によって作られた”王者の剣”の”贋作”もまた、錆一つなくも無残に折れた姿を風雨にさらし続けていた。
 中に入ると、轟々と炎が猛るざわめきが幾度も耳を揺らしてくる。その元となっているのは、奥にある大きな竈の存在だった。武器を作るために作られた鉄を熱して打ち伸ばし、何度も折り込んだ末に一刀が完成する。鍛冶稼業の主軸にも等しいものが上げ続ける真赤な炎を、かつて見た煉獄と重ね合わせずにはいられない。

「とりあえず、できる限りのことはしといたぜ。」

 遅れてこの仕事場にやってきたホレスの姿を認めると、カフウは土間の片隅を指差しながらそう言った。そこには、大小様々な武器が安置されていた。
「ああ。これを直せたのか。」
 その中の一振りを取りながら、ホレスはそう呟いていた。
「まさかそいつをもう一度目にすることになるとは思わなかったぜ。」
 それに応えるように、カフウもまた感慨深そうに頷いた。

「神剣―草薙の剣をよ。」

 今ホレスの手の内に収まっているのは、ジパングで八岐大蛇を操っていたヒミコが携えていた利剣、草薙の剣そのものだった。かつてはジパングの人間だったカフウから見ても、その存在はとても懐かしいものであり、ホレスが同じ世界に住まうものだということを一層強く感じさせていた。
 これがここにあるということは、馬鹿げた生贄を彼自らの手で終わらせたということでもある。それを知った時のカフウの表情は、どこか寂しげなものにも見えた。もう少し早く終わっていれば、彼もこのような場に来ることはなかったかもしれない。
「随分と乱暴な使い方してたけどな、まぁ心金が無傷だったってのが幸いだな。」
「ああ。」
 坩堝の中を行く中で、ホレスは数多くの苦境に出くわして、その一度毎に数多くの武器を失っていた。辛うじて原型を留め、今ようやくあるべき姿に戻った草薙の剣も、ホレス自身が剣に通じていれば然程の傷みを受けることはなかっただろう。
「…流石におれでも、折れちまったもんを元通りにすることはできないぜ。こいつもさぞかし、良い剣だったろうにな。」
 その証拠とも言わんばかりに、黒い刀身を持つ細見の剣―隼の剣が机の上で二つに折れた姿をさらしていた。カフウも惜しむだけあって、細身の刀身の中に込められた鍛度は並大抵ではなく、剛剣とも呼べる程の強さを宿していた。
「もはやそいつは使い物にならない…か。」
「ああ。こいつは打ち直すより他はねぇ。」
 材質として用いられている不思議な黒い鋼は、カフウから見ても立派な素材だった。だが、折れてしまった以上はもはやそのままの姿で再び振るうことは叶わないだろう。迷宮の中で長きに渡って共に戦ってきた剣だけに、多くを斬り捨てて生き延びてきたホレスでも、その別れに微かな感慨を感じえなかった。
「……というか、ホレスさん。おめぇさん、こんな物騒なモンまで使ってたってのかい。こいつは、おれにゃ直せねぇけどな。」
 失われた剣から目を離すと共に竜の骨から削り取られた黒い仮面を手に取りつつ、カフウは呆れたように肩を竦めていた。
「こいつも…もう元には戻らないか。」
 魔王バラモスとの戦いに至るまでにも、幾度もホレスの身を守ってきた拒絶の呪による守りの力。その力を秘めた、”傀儡”を作り出すための呪物―”鬼神の面”。それは、坩堝の中の輪廻に落とされる直前に、何者かの手によって砕かれてしまった。呪いを受け付けぬホレスにとってはこの上なく頼れる力であっただけに、それを失ったままの旅路はより過酷なものに感じられた。
「…にしても、面白いことしてるじゃねえか。その杖に、色々な力を集めてるなんてよ。」
「ああ、”合成”か。」
 あれから世界を巡る旅の中で集めた幾つかの杖もまた、煉獄の番人との戦いで圧し折れて使い物にならなくなっていた。そのような品の中で、未だに力の残滓があるものを拾い集めて、今ホレスが手にしている銀色の杖―変化の杖へと結集していた。エジンベアで手に入れた雷の杖の他に、魔封じの杖、眠りの杖、漣の杖などの力が込められて、呪文をあまり手繰れぬホレスでも、あらゆる魔法の力を使うことができるようになった。それもまた、迷宮を抜ける大きな助けとなった。
「これだけごったがえしちゃあ、変化の杖というよかまるで”混沌の杖”だなぁ。」
「…違いない。」
 杖の力を集めるだけに留まらず、ホレスは変化の杖の力の更なる使い方を数多く心得てきた。そうして使ってきたことを解してか、カフウは意地の悪そうな顔をしながら自ら考えた銘を告げたが、ホレス自身も素気なくも苦笑を零していた。

「何にしても、面白いモンを沢山見せて貰って、礼さえしてぇ位だぜ、」

 それらの品を眺めつつ歓談した後に、カフウは更に奥に置かれている品の方へと目をやった。
「……やはり、こいつらはそれだけ凄い品なのか?」
「ああ。おれが手を入れるまでもねぇ。てぇした品ばっかだよ。この剣なんて、刃毀れ一つしてねぇんだぜ。」
 幾度も形作られる坩堝の中で、時にはひずみを介して触れた異世界で、ホレスは様々な品を手に入れてきた。それも、存在をかけた戦いの最中による先鋭された目によって、より実用的なものを数多く。深く傷ついて力尽きようとした瞬間に再び所有者を蘇らせる不思議な宝珠や、今カフウが手にしている文字通り何を斬っても刃が欠けない程の硬質な刀身を持つ大業物など、結果的に他の旅人達からも羨まれる程の貴重なものが、ここに出揃っていた。

「…けどよ、まさかおめぇさんみてぇな細っこいのがこんなん振り回してるってのが未だに信じられねぇぜ。この目で見たってのによ。」

 そして、カフウがもう一つ―それもより注目していたのは、土間にドシリと置かれた巨大なトゲ付きの鉄塊だった。
「……俺もそう思う。だが、こいつが一番効率的だったんだ。」
 それは、この辺りの魔物が大挙して襲ってきた時に不覚を取り、追い詰められていたカフウを救った黒い暴風の正体だった。彼がまじまじと見つめる常軌を逸した大きさの鉄球を、金色に輝く鎖と柄で繋ぎ止められている。そんな度派手な代物をどのようにして、あたかも大鎌のように軽快に操って見せたのか疑問が尽きない。
 ともあれ、今のホレスが携える最強の武器―それがこの、”破壊の鉄球”だった。

「さて……」

 カフウによって、一通りの品が整えられたのを見届けて満足したように頷きながら、ホレスは変化の杖を取って念じた。すると、変化の杖そのものが幾つもの銀色の輪となり、その中に並べられた武具が次々と収められていった。全てを収め終わると、また元の杖の形を成して、ベルトの剣帯の一つに収まった。
「便利なモンだねぇ。」
 あれだけの武具がありながら、今は腰に帯びているのは先の大業物と、変化の杖のみという実にすっきりした見栄えになっている。変化の杖一つでこんなことまでできることに、カフウは驚きは元より感心さえしていた。

「もう出発するのかい?」

 全ての荷物を収め終えた後に、踵を返して出ようとするホレスに、カフウは背後からそう尋ねた。
「ああ。結局のところ行く宛はないが、あんた達のお陰で歩き方は分かった。」
 闇の世界から迷い込んだ後、ただ一人で常夜の草原を彷徨う中では西も東も判別が付かなかった。が、迷いついた果てにあるマイラの村で、この世界で迷わずに旅する手段も教わることができた。
 カフウへの恩を返すために留まってもよいが、今は旅の中でこの闇の世界を知り、同じく迷い込んだであろう”彼女”を探すことが先決だった。
「そうかい。…そうだな、じゃあこいつはおれが預かっとくぜ。」
「ああ、俺からも頼む。あんた程の腕なら、或いは…。」
「言ってくれるじゃねえか。」
 出発を前にして、思いだしたようにカフウは先に見せられた品―折れた”王者の剣”の刀身を手に取った。弟子にして親友にして、尊敬すべき師とも呼べる男の人生を狂わせた忌まわしい品ではあるものの、刀匠として純粋にこの刃を形作る材質には興味引かれるものがあった。
 ホレスもまた、あの男を神域にも至る程に、”贋作”を作れるまでの才能を開花させたカフウの腕前を信じていたからこそ、これまで疑念に思いながらもずっと携えていた品を預ける気になった。ほんの一日しか共に過ごしていないはずではあったが、同じ世界から来たという絆あってか、存外親友にも近しい縁を築けたのかもしれない。

「じゃあ、気ぃつけてな!!」

 己の意思で再び魔の世界へと踏み入ろうとする一人の男に、カフウは心を込めてそう告げた。それが彼の後を押す追い風にならんと願うかのように。

「また会おう、カフウ。世話になったな。」

 それに応えるようにして最後の言葉を返しつつ、ホレスはカフウの仕事場を、そしてマイラの村を後にした。生き抜くために全てを捨て果てて抜け殻のように疲れ果てていたはずが、今では貫禄すら帯びた冒険者の雰囲気を纏っている。
 その背中には、金色の翼を広げた鳥の紋様が描かれた蒼い盾が、静かに佇んでいた。


 見えざる存在の大きな力に流され続けた果てに、三人はそれぞれの過酷な道を歩まされた。
 それが如何なる歪みによるものであれ、今在る世界で生きることしかできはしない。
 終局の舞台での始まりの時は告げられた。

(第二十七章 闇の扉 及 第五部 流れゆく先 完)