闇の扉 第四話


 唐突に大空に掛かった光と闇の虹から舞い落ちる何枚もの羽とそれを貫いて綻び砕く黒い稲妻。それがあの時に見た最後の光景だった。

 黒雷によって縛りつけられて、引きずり込まれた闇の中へと意識は徐々に融け込もうとしていた。
 ここに誘ったであろう大魔王の呼び声も、何も聞こえない。一面に広がるのは黒一色、それ以外は何も見えない。己の流した血の匂いも感じることができない。あるのはただ、体が冷たくなっていく感覚だけだった。

―死ぬのか、オレは………。

 そう感じもしたが、どれ程体が凍てつこうとも、死が訪れる気配などなかった。
 いや、この場自体が死を許さず、それよりも魂を苛む重苦を体に与えんとしているのだろう。
 末路を看取る者すらいない静寂の牢獄。

―オレは……どうしてこんなところにいる?

 人としての感覚の尽くを―地獄耳と呼ばれたこの耳すらも閉ざされ、今より連なる道を切り開くことすらできない。
 ただただ、このような場に封じられた己の過去を辿り、ひたすらに問い続けるだけだった。




 あれからどれだけの時が経っただろうか。微かな蠢きすらも目にすることも感じることすらもできず、聞き取ろうにも耳も聞こえない。
 己が己ですらなく、ただ剥き出しの意識だけが覚醒している状態が続いていた。

―下らない……。

 こんな所に閉じ込めて大魔王は一体何がしたいというのか。理不尽が微かな感情を生み、静寂の中へと波紋のように広がっていく。
 その意志は洞穴に響き渡る音のように、何度も繰り返し裡に刻みつけられる。その欠片ですら逸れぬままに強まる想いに、痛みすら感じていた。

―オレの力も、所詮はこんなものか。

 何かから逃げるように空を駆けていたのが誰かは分かっている。そして、これからどうするべきであったかも。
 しかし、今の自分は閉ざされた中で何をするにも叶わぬ身となっている。そのまま時は流れ続け、或いは既に永劫にも近しい時を刻んでいるのかもしれない。
 仮にこの場を出られたとて、そのような中で今更できるようなことなど無いに等しいだろう。

―…いや、そうじゃない。

 そう考えるに至って、不意に心を襲う呵責の波の中から何かが訴えかける。

―あいつだって、もう一人じゃない。

 嘆きと絶望の道を行く中で、いつ壊れてしまうか分からなかったはずの彼女にも、それを支える者達はいる。
 自分にまで闇が及んできた中で、彼らもまた同じ道をたどっていたとしても、もう一人の友と一緒にきっと新たな道を開くべく歩んでいる。


『 それは、どうかしら。 』


 微かに希望を見い出そうとしたその時、誰かが外から”語りかけて”きた。

―レフィル…いや、ゾーマか!

 目も見えず、耳も聞こえない。それでも心に直接語りかけてくるその声の質には覚えがあった。
 声色こそ聞き慣れたそれであっても、心の内を揺さぶる感覚はあの大魔王によるものと同じだった。

『 どっちでもない。それに、正解なんて意味をなさないわ。 』

 いずれにせよ、語りかけてきた相手が誰であろうと関係ないのはこちらも同じことだった。この暗い闇の中に閉ざされたまま何もできずにいる事実は、何一つ変わっていない。
 牢獄の中で久しく聞かなかった声に、ただ意識を傾けるのがこの時は精一杯だったのかもしれない。

―……ならば、そんなことはどうでもいいということか。今更…オレに何を望む?

 今更こんな所にまで赴いて、一体何をしようとしているのか。思わずそう問い返していた。

『 既にこの世界は救いようのない程に歪んでいる。上辺だけの希望なんかじゃ何も変わりはしない。 』

 己の意思に関係なく、見えざる何かの影響によって絶えず変わり続ける世界。それを知覚できる者は誰一人としておらず、それが返って世界に安定を齎したこともあった。しかし、悪い方向への作用も強く、突然生じた矛盾や混沌によって、在りえるはずのない異形が生まれたり、気づかぬ内に亡失してしまった者達すらもいる。
 そんな突飛もない話など、一笑するものでしかなかった。

『 この世界は二つに割れたがっている。もう既に、もう一つの世界は形を成し始めている。 』

 ただひたすらに語られる世界の理の果てに、そんな言葉が出た。

―これは……

 その時、不意に失われていたはずの感覚が、何かを突き抜けた。

『 そう。これがもう一つの世界―……よ。その歪みを生みだしているのは、あなたに他ならない。 』

 最初に見えたのは、どこまでも蒼い円環だった。湛えられた水の蒼を彩るように、緑や白の隆起がその内に浮かんでいる。それに徐々に近づいた先に見えたのは、地平の果てにまで続かんとする草原。人々が語らいながら行き交う町。それは、かつてどこかで確実に見たもの。すなわち、これまで旅してきた世界に他ならなかった。円環の中心に絶えず注がれる何かが世界を彩り、形を成している。しかし、悠久の時を経ていく内に、その流れは徐々に少なくなり、それに伴って世界から色という色が、匂いという匂いが消えていく。
 もう一つ見えたものもまた、先程と同じ円環の世界だった。同じように、不思議な流れが円心に落ち、世界を動かし続けている。そちらに注がれる流れは、決して衰えることはなく、新たな希望さえ感じさせる程に輝かしさを醸し出し続けていた。

―ふん…それで?

 これもまた、所詮は彼女が見せるまやかしでしかなく、単なる茶番に過ぎないことは分かっていた。

『 それだけ。後は、あなたが進む道。その中でどうするかを決めることね。 』

 続きを促そうとしたら、呆気なくそう返すだけで何も答えようとしなかった。
―どうするか…だと?
 だが、その言葉の内の一端に気がついて、思わずそう反芻していた。どう考えたところで、今は動けるような状態ではない。これから何が変わろうと言うのか。

『 先に断っておくけど、これはゾーマもバラモスも関係ない。ううん、それ以下のつまらない存在が引き起こしている歪みに過ぎない。 』

 唐突に、闇の奥からまた何かを伝えてくる。世界そのものを変えてしまうという事象を見せつけておいて、それが巨悪の意思すらも超えたもの、それももっと矮小なる何者かが成しているという。そんな下らない小さなものの働きかけ程度で失われる程に、この世界は脆いものでしかないのか。

『 幻想はたやすく崩れる。小さな矛盾が重なれば、ほら。すぐにでも。 』

 他愛もなさそうに少女がそう告げる”声”が、不意に”耳”を通して己の裡の中へと入り込んできた。
「!」
 その瞬間、死んだように冷たくなったはずの体全体が、一斉に訴えかけはじめる。目は淀む闇を”映”し、耳は静寂を”聞”き、失われたはずの五感全てがあるべき姿へ戻っていくのを感じた。

「これが、幻想だと…?一体何の冗談だ。」

 今の働きかけがなされるまで、この虚無の牢獄から抜け出すことはおろか結局何もすることができなかった。呪縛の類に掛かるというのはこういう気分なのだろう。
 そんな冷厳なる呪縛が、所詮幻想でしかない。例えそれが事実だとしても、信じられるはずがなかった。

「氷の棺…か。」

 長い時を経たとも思えぬ程、ほんの一眠りした後のように目覚めたばかりの感覚は澄み渡っていた。携えていた物もまた、抜かりなく身に付けられている。
 呪文もまたいつものように発動し、灯明呪文―レミーラの光が辺りを照らし出した。目の前に巨大な氷の柱が無数にあり、一つ一つに人間魔物如何を問わず、多くの者が閉ざされている。自然の洞穴らしき空間の最奥にあるこの場所は、まさに氷海の地獄と呼ぶにふさわしいものだった。

「あれは……」

 触れただけで凍りついてしまう程の極冷の地底湖を渡す見えざる道を辿り、それに導かれるままに進んだ果てに、それがあった。

―何だ?この空間は?

 先に続く空洞の道の先にあったのは真紅一色の場。先程から、轟々と燃え盛る炎の音と吹きつける熱気がこちらにまで届いていた。
 それは、一見すると巨大な竈のようにも見えた。立ち入る者全てを燃やし尽くさんばかりの焦熱の場。だが、炎に包まれて赤熱している中に、通るべき道がおぼろげながらも何故か確実にあるような気がしてならなかった。


『 ここは滅びと蘇りの坩堝。 』


 闇の内からの声が、その謂れを伝えてくる。
「滅びと…蘇り?」
 滅びと蘇り。その言葉は他愛のないもののようであったが、心の奥底に何らかの覚えが確かにあった。人も、魔物も、大地も、天ですらも免れ得ない無限の循環。それを体現したような場所も、これまでも幾度も旅してきた。
 無限回廊、迷いの森。延々と続き、かつ一度たりとも同じ姿を見せないそれらの魔境の根幹に、凄まじい速さで繰り返される滅びと蘇りがあると聞く。さながら、形を変え続ける迷宮のように。

『 それが、あなたに課せられた罰。 』
「これが…罰だと?」

 そう告げられた時には、これまで辿ってきた道もその周りの光景も闇に融けるようにして消えていた。あるのはただ、正面の焦熱の道のみ。この闇の働きかけではないならば、一体誰の差し金か。だが、この道を否が応にでも通そうとする意思だけは明らかだった。
『 あなたはどんな痛みや苦しみにも耐えてきたのでしょう? 』
 もう後戻りなどできない。今まさに踏み入ろうとした所で、また心に囁きかけてくる。
 耐えなければ生きられず、乗り越えなければ先に進めない。それは言われるまでもなく今も何一つ変わっていない。

『 どうか、負けないで。 』 
「!!」

 …が、不意にそう告げる”あいつ”の声の前に、思わず目を見開いた。
「い…一体何を言って…!!?」
 その時には既に、己の気づかぬ内に坩堝の内へと足を踏み入れていた。愕然としたままで、何も考えることができず、ただこの場で立ち尽くしていた。
 次の瞬間、炎の中をくぐり抜けつつこちらへ魔物が疾駆してきた。その正体も悟れぬままに、ただ絶大な力に反応して、守りの力を秘めた呪物―鬼神の仮面を咄嗟につけるも、何の意もなさなかった。

『 あなたは結局わたしのことなんか何も知らない。だからこそ、こんなつまらない遊びなんか乗り越えて、わたし達に会いに来て。 』

 守りの力もろとも打ち砕かれて、四散する意識の中で、彼女は最後に約束するようにそう告げていた。
 闇の盟約を結んだその時より分離して、大魔王の下に回帰した心の闇。だが、その奥底に秘められていた思いは、あいつが―レフィルが常に抱えて苦しんでいたこと、そして、常に孤独に耐えてきたがための友に対する願いであり、向く先はなんら変わりはなかった。
 それが、遠い昔のような日々の中で最後に刻んだ言葉となった。



 意識を取り戻したら、その足は坩堝の底についていた。既に火がかけられているのか、凄まじく熱い。それでも既に空気すら燃え上がる程の熱気の中にいるにも関わらず、死に至ることはなかった。
 辺りを見回すと、枯れた木々や大岩、城の瓦礫などのものが、無秩序に投げ込まれたように転がっている。それらもまたこの灼熱の空間の中で燃やされて、やがては溶融して中心の液溜まりへと集っていく。

 全てを滅ぼすまでの灼熱から噴き出す煙の中で、何かが変わり続けている。坩堝に仕組まれたからくりか何かが、この煉獄の中に違う流れを生み出している。全ての生を許さぬはずの中で、多くの物が生みだされ続けている。
 炎の中で鍛えられる鉄や土器といった物ばかりか、この場にあった時には既に滅んだはずの生物ですらも、また再生している。一体何が起こったのかは分からない。だが、それは先の云われにもあった―”蘇り”そのものに間違いなかった。

 このような小さな物ばかりか、天と大地そのものが滅びと蘇りを繰り返している。この先で歩んできた道もまた、その事象の一端に過ぎなかった。
 同じくここに生まれ落ちた魔物の群れが襲い来るのを返り討ちにしたその時に見たのは、例外なく亡骸が薄れるようにして消えていく様だった。やがて地に還る、という言葉を体現した様にも思えるその現象を前に、違和感すらも感じられる。
 魔物達だけではなく行く道々もまた、その輪廻の中にあった。幾重にも階を成して迷宮のような道が続いている道を進んでいると、過ぎ去った階層への道が閉ざされて、その下から何もかもが焼き尽くされる音が聞こえてきた。既に用が済んだ場は、尽く消え逝く定めにあるらしい。
 そして、自分自身すらもこのルールの中に引き込まれた存在となっていた。階層を経る毎に次々と強くなっていく魔物を相手に不覚を取り、力尽きた時に与えられたのは、死などではなかった。次に目覚めたその時にまず感じたのは焦熱の苦痛。そう、再び坩堝の最下層に戻されていた。この先で手に入れてきた全ての物を失い、再び最初にここを訪れたその時に回帰したらしい。それでも、倒されるまでに感じた苦痛は幻などではなく、深い恐怖感を未だにこの身に焼き付けていた。
 再び上を目指さんとした時に見た光景は、先に訪れたその時とは趣を異にしていた。最下層にある灼熱の坩堝の空間の先にあったのは、どこかで見たような遺跡であるはずだったが、今度は静謐な水が湛えられた湖の洞窟があった。時を戻されただけの問題ではないらしく、集まる品もまた、以前と異なるものばかりで、憶えていたはずの道のりは全て無意味なものでしかなくなっていた。


 無限地獄、というのはそうしたものだろうか。そんな旅路を何年過ごしたか、と思ったその時、”ひずみ”が見えた。この繰り返しの場とは違う何か。それは、坩堝の外に繋がる道だった。
 ひずみは幾度も、時には下層にも現れた。その先に繋がる世界は、何もかもがバラバラだった。

 ひとつくぐれば、そこは見慣れた少年が自分の帰りを出迎えていた。再び旅立ったその時より、ずっと土産話を首を長くして待っていたという。しかし、一夜が明けた時、自分は再び坩堝の世界の中へと引き戻されていた。

 また、もうひとつくぐれば、今度は人間達が必死になって魔物達から誰かを守らんとして戦っていた。だが、単なる野生の魔物の群れなどではなく族を治める長によってまとめられた軍が大挙してする前では細微な抵抗でしかなく、一方的に皆殺しにされた。一瞬何かが揺らめく感覚と共に見たのは、滅ぼされた村で勝鬨を上げている魔物達の前に現れた、守るべき者―死んでいった者達が希望と―勇者と呼ぶ存在だった。激昂して魔物へと襲いかかるも、未熟さ故に敵わず、最後は跡形もなく灰燼に帰した。
 いつしか自分が勇者と呼ばわれるようになり、次々と付いてくる経歴様々な冒険者達を率いて旅を続けることになった。やがては魔族の王と、仲間であったはずの仲間達と、そして死んだはずの本物の勇者と刃を交えることにもなり、最後に見た黄金の腕輪を目にしたその時、意識が途絶えた。

 分かたれた魂が火花を散らす血戦を、誰にも気付かれぬ変わりに己が関わることもなく見届けた。それぞれが抱く思いが何であれ、それに割って入る理由などなかった。

 許されざる者が抱く世界が滅ぶ始終を見届けた。その本質が裏切りと虚構の果てにあるものと知った時、媚を売る様にして抱かれる偽りの温もりと楽園を前に完全に落胆した。結局、人の心を傷つけることしかできない無能者が、どうして安穏と暮らしていけるのか。

 それらの世界での姿形、留まる時間の長短は数あれど、その世界にいる間は坩堝の中で定められた法則に縛られずに生きることができた。


 最後のひずみで見たのは、砂金のようなものが円を描くようにして回り続けている、大宇宙の星空を思わせる空間にある神殿だった。夜空に向けて立つ三つの柱。それが帯びる淡い光を見た時、この繰り返しの終わりを予感できた。

 所詮作られたものでしかない―いや、作られたものだからこそなのか。これまでの世界さえも小さいものとしか思えなくなっていた。



 そして……


『 ようやく、戻ってきたのね。 』


 坩堝の中を昇り詰めた果てにあった終点に辿りついた時、懐かしい声が聞こえてきた。
「…終わったのか。」
 その声を聞いた途端に、俺は全身から力が抜けていくのを感じた。同時に、右手に取っていた折れた黒い細剣が手元からぽろりと落ちた。
 やがて、またひずみが生じて迷宮全体が大きく揺らいでいく。気がついた時には、暗闇の中にある遺跡のような場所へとたどり着いた。
「ふん、”俺”もまだまだ甘さが抜けないものだな。」
 何も見えぬ無明の中であっても、苔生した洞窟の湿った空気や、ぽたぽたと滴り落ちる雫の音を鮮明に感じられる。だが、その他愛もないものですらも、新鮮なものだった。止められた時の中に閉じ込められていたとはいえ、それでもこの日々は自身を変えるにはあまりに長過ぎた。

『 だったら、これが最後ね。 』

 少女のそう告げる声が頭に響くと共に、不意に目の前に柔らかな光が現れる。
「宝箱…?」
 丸みを帯びた金殻に覆われて、蓋には真紅の珠が取り付けられている。それは、少し大きめのものを保管するための宝石箱にも似ていた。金で拵えられているにも関わらず煌びやかさは感じられず、寧ろ木漏れ日にも似た優しい雰囲気を醸し出していた。
『 もうひとつの世界があるのを知っているのはあなただけ。そのあなたへの最後の手向け、だそうよ。 』
「最後の手向けだと?……っ!?」
 闇の少女が囁くように知らしめてくる話に首を傾げたその時、その箱が突然静かに独りでに開いた。

「これは……。」

 開かれたその金色の箱の中から、太陽のように眩い光が見える。そこから、不思議な音色が流れてくる。
「………。」
 柔らかな音色で奏でられるワルツを耳にしたその時、いつしか捨て去った過去にある、微かな幸せの記憶が思い浮かび始めた。
『 それは、もう一つの世界のモノ。 』
「何だと…?」
 音色に思わず聞き入ったホレスに少女の声が己の知る意味を伝えてくる。
 遠い昔にも思える程の時を経た―それでも然程の時は流れていないがその時にも、もう一つの世界の存在を示唆されていた。

「………っ!!」

 …が、その時、不意に幻想がかき消えると共に、虚脱感が体を…否、魂魄自体を襲った。自分の中の何かが、あの箱の中に奪われていくような、そんな感覚だった。
「く……。」
 思わず倒れそうになった瞬間に、金色の箱は静かに閉じて、薄れるようにして消えて行った。
―今のは一体…。
 これまでの奇妙な空間を築いた者が招いた、最後の手向けとやらがこれだというのか。だが、一体何をしたのかは結局分からなかった。

「………。」

 いつしか、闇から語りかけてきた少女の声も聞こえなくなった。果たすべき役目を終えた以上、もう用はないということか。それでも、坩堝に投じられる前に零した最後の言葉が未だに心に残っている。あれはよく知る彼女自身の思いなのか。

―……ともかく、これで俺は自由だ。

 今度こそ、ゾーマによって引きずり下ろされんとした闇の世界とやらについたらしい。ようやく、自身の思いに従って旅を再開できる現実を前に、そう思わずにはいられなかった。



―違う……アレは………。



 再び歩みを始めてから暫くして、先に奪われた物の意味の断片を知ることになった。
「選択……。そうだ、俺は……あのとき………”捨てた”のか。」
 奪われたのではない。自分から捨て去った。その選択の記憶すら、捨ててしまいたい。そんな甘い考えをどこかに持っていたからこそ、今の今まで曖昧になっていたのだろう。

 それをもし知ることになったならば……俺は俺でなくなるのだから。




「………。」

 そこまで思い返した所で、ホレスは明けない朝に目覚めた。畳の上に準備された寝床に身を横たえつつ、宿の従業員達が静かに歩いている音が耳に入る。
―ふん……流石に常闇の世界か。
 普段の目覚めからよく感じている野鳥の囀りも曙の光も、ここにはない。太陽が与えるのは温もりの印象が強かったが、時の標としての役割もまた自分の内で果たしていたらしい。
「さて……。」
 それを失って尚も、人は時という理の下に集う事で、この闇の中で生きてきたのだろう。遠くから聞こえる鐘の音が伝える音を聞いて漠然とそう思いながら、ホレスは布団から身を起こした。