闇の扉 第三話
外に出ると、いつしか辺りは暗闇に包まれていた。毒霧と土埃によって遮られ、天に瞬くはずの星々は見えない。
「……どうやら、長居が過ぎた様だな。」
それが何を意味しているか、既に分かっていた。こうなる事を知っていて、あの中で安穏と時を過ごした己の愚に舌打ちしながら、辺りの様子を伺っていた。
『いたぞ……!!』
正面から聞こえる幾つもの足音。時折金属が打ち鳴らされる音が耳を劈く。防具が擦れ合う音と気付くのにそう時間は掛からなかった。
程なくして、武器を携えた者達の人影が、視界を覆う霧の中から見えた。
『てめえのせいで…この村は……!』
それは、既にもうそこまで迫っていた。この祠を囲む様に並ぶ大勢の村人達。滅んだはずのテドンの住人達は、皆表情を憎しみに歪め、こちらを鬼の様な形相で睨み据えていた。
「……ようやく気付いたようだな。」
一瞬にして滅び去ったテドンの村の者達の無念と妄執。それが、この地に再びかつての村の姿を再現させていた。だが、今度は明らかに様子が違った。
「あんた達が滅んでいるという事実を。」
夜の間だけ再生されていたはずの大地は、昼のままの滅びた姿を晒している。未だ生きていたいという思いが、テドンの村を蘇らせていた中で、その想いは全て失われ、代わりに残ったのは滅ぼした者に対する憎悪と怨恨だけ。
かつては人であったはずの村人達もまた、復讐を果たすだけの幽鬼と化していた。
『本性を現しやがれ!!悪魔のガキが!!』
「悪魔…だと?…………!!」
悪魔…その一言が、内なる何かを呼び起こす。
―…ぐああああああっ!!!
それが存在を満たす様に膨れ上がると共に、体から引き剥がされて、引き千切られる様な激痛が走った。
―……これ…は?
程なくして痛みが収まると共に、視界が地上から離れていくのを感じられた。
『……やっぱり、貴様が俺達を……!!』
罵り蔑む言霊を吐き続ける亡霊達の姿が、遥か下に見える。
「……何を言ってやがる。」
その時、己の口が怨霊達の罵言に答える様に勝手に言葉をつむぎ始めた。
―………なに?
口を動かしたという感覚も、苛立たしげに歯軋りをする感触も、確かに伝わってくる。だが、それが己の物ではない様に感じられるのは、気のせいなどではなかった。
「”おれ”を追い詰めたのは…どこのどいつだ!!」
もはや、この体は内なる別の意思―幼き日の心によって支配されていた。”ホレス”は己に全ての怒りの捌け口を向け、そして己が滅ぼした村人達に対して怒号を上げた。
『ベギラゴン!!』
『イオナズン!!』
叫びが森の中に消えるのを待たずに、亡霊達が次々と呪文を紡ぎ、こちらへと放った。灼熱の波と一筋の光が同時に迫り、最上級呪文の爆発が炸裂して、視界が眩いまでの光に覆われる。
「邪魔だ!!」
『『!!』』
だが、灼熱と爆発が身を苛む前に、一気に敵の下へと駆け抜けて、腰に帯びた剣を引き抜き、出鱈目に振り回した。星降る腕輪の力によって流星の如き速さを与えられた上で、更に隼の剣が与える二倍の斬撃が重なり、あたかも黒い嵐の如く荒れ狂う。がむしゃらに振るわれる黒の剛剣は、一瞬にして十六もの黒い筋を残し、剣の届く範囲にある全ての亡霊達を切り裂いて葬り去り、光の粒と化した。
「……くそ、こいつら!!」
だが、駆け抜けた先で足を止めた瞬間、亡霊達によって無数の矢が射かけられた。すぐさま背中に差した杖を取り、すぐさま振るうと共に雷が巻き起こり、矢がこの身に届く前に尽く焼き払って灰燼と帰した。
「そんなにおれが憎いか…そんなに…おれを殺したいか…!?」
払い損じた矢が幾つか体に刺さり、鋭い痛みが伝ってくる。それでも、怯む事無く意識を保ち、敵意を問う様に叫び続ける。
『同じ苦しみを味わえ…!!』
それに応えたのは、変わらぬ恨みの言葉と、射かけられる矢と力ある言葉、そして、剣や槍を手に迫り来る亡霊達であった。
「……同じ、苦しみを味わえ…だと……?ふざけるなぁああああああああああ!!!!」
亡霊達が成す怨恨の怒涛の中に飛び込みつつ剣を振るいながら、内に途方もない程の怒りが噴き出し始めるのを遠くで感じられる。致命傷とはいかずとも、深く傷つきながらもその怒りが静まる事などなかった。
「貴様ら全員が植え付けたんだっ!!この憎しみは!!何度殺した所でこの恨みは消えやしない!!」
幼き日に虐げられ抜いた過去につけられた心の傷を憎悪と変えて、溢れる激情を吐き捨て続ける。
「もういい……!!こんな村…おれが全部焼き払ってやる!!!」
気の狂わんばかりの怒りに囚われて、もはや力に振り回される他に道は無かった。変化の杖を手に取ると共に、漆黒のオーラが体を包み始める。掠めようとした矢や剣がそれに触れると共に、それを手にしていた者諸共黒い粒と化して跡形もなく消え去り、足元の大地は命を奪われて亡骸の持つ毒素の沼と化した。
それは、まさに滅びの力が形を成したものに他ならなかった。
―……バカを言うな。
今再び過ちを犯そうとしている自分自身を、もはやこのまま放っておくわけにはいかなかった。
「…!!?」
意志を傾けて呼びかけようとしたのが功を奏したのか、殺戮を続ける男はハッとした様に動きを止めた。表情から一瞬憎悪の念が消えるのが見て取れる。
「貴様に何が分かる!!?おれが…どれだけの……」
だが、要らぬ邪魔をした事に怒りを覚えたのか、天を仰ぎながら怒号を上げてきた。
―バカ言え。オレは…一度全部”お前”の行く末を見てきただろうが。
「!?」
それまで知りえなかった自分の本質、時折発作的に起こる異常なまでの怒りの原因。今己を突き動かしているものを、かつても見た。その時は、受け入れる事のできない過去と割り切って、前に進む事を選んだ。
―オレの全部の識を飲み込んだ所で、お前は時が止まったままのガキだ。癇癪で動くのは止めておけ。
今もその気持ちは変わらない。だが、かつての自分は未だにこの屈曲した憤怒を抱き続けていた。そして、悪いことにただ自分を虐げ抜く事しかできない下らない輩に対しての怒りを鎮める術を知らなかった。まさに、感情を御す事を知らない子供の所業でしかなかった。
「黙れぇえええっ!!”お前”も…殺してやる!!!」
―……お前にオレは殺せない。お前がその力で死ななかったのであれば、同じ魂を持つオレにも通じない。
「くそったれがぁあああああああああああっ!!!」
凄絶なまでの怒りが、全てを見失わせている。もう何者の声も聞こえる事はなかった。
「素なる子に至る簒奪の災禍、其が貪りし物に有形も無形もなし!!眩き滅光と暗き深淵の狭間に在りし混沌に総てを喪いし者を誘わんっ!!」
閉ざされた心の中で、怒号によって紡がれる血塗られた言葉が何度も響き渡る。
「ザラキーマ!!!」
そして、唱えられた呪文と共に、黒い波動が一瞬にしてテドンの村を覆い尽くした。
見開かれた瞳が最後に目にした者は、黒に貪り食われて消えていく亡者達の姿であった。
―……ホレス…。
―……。
―やさしい子ね…。いつも…ありがとう。
―あ、ホレス。戻ってたの?
―………。
―もぉ、お花ならあたしが摘んできてあげるのに。
―…いいのよ、フュリー。あなた達の気持ち、お母さんすごく嬉しいんだから。
―………。
―あ、照れてる?もぉ、恥ずかしがり屋さんなんだからぁ。
―…………。
憎しみ抜いて、闇を突きぬけた果てに見えたものは、この忌まわしい村で見た、数少ない幸せの記憶だった。
―……気は済んだか?
再び開ける視界が映しだしたものは、先にも増して打ち崩された廃墟であった。
「……はぁ…はぁ……!!」
体中から力が抜けていき、息も絶え絶えになっている。全ての力を使い尽くしたのか、思わず地面に膝をついていた。
―ありもしないモノを滅ぼしたところで何も起こりはしないんだよ、バカが。
同じ体の苦痛を共感しながら、前面へと注意を促した。確かに死の力は里の全てを再び呑み込んだが、元より滅んでいる者達を完全に消し去る事など最初から叶わなかった。
「ばかな……!?き…貴様ら…!!!」
漆黒の中に呑み込まれて、滅んだはずの怨霊達が再び恨みの蒼炎を燃え上がらせて、やがて人の形を成していく。怒りと共に消し飛ばしたばかりの憎き者達が再び現れたのを見て、驚愕と激怒の感情が起こるのが伝わってくる。
―悪魔に取りつかれた時点で、お前はもうどうする事もできなかったんだ。それは、ここの全部の記憶を失った”オレ”とて同じことだ。寧ろお前の憎悪の念をそのまま受け継いだオレの方が……ったく、下らない……。
「……黙れぇえええええっ!!!」
元よりこの村の者達に虐げられた事による憎悪は、幼い心に深く染みついていた。そこで悪魔の悪意にあてられたからには、その誘惑を振り切る事などできようはずもなかった。そして自分もまた、過去のしがらみに囚われて、死の力を振るってしまった。
―まぁ、そんな戯言なんざに従う方がバカってものだろうけどな。
惨めな過去を否定する様に、喉が裂けんばかりの怒号が上がるのを見ていると、その姿がおのずと今の自分の本質と重なる様な気がした。定められた運命などという下らない言葉をよく自分で吐けたものだ。それに一番逆らっていたのは己自身であったはずだ。しかし……
―……だが、お前も疲れただろう?こんな下らない願望なんかに身を委ねるな。
今度は憎しみによる破滅の中に囚われる己の姿に、その定められた運命とやらを感じていた。
「何だと…?」
今の自分を否定する様な言葉に、再び怒りの矛先がこちらへと向かう。だが、元よりそんなものは恐れるものなどではない。
―お前の本当の願いはなんだ?
怒りに駆られて何もかもを見失った己自身に、そう問いかける。
「!!」
すると、ハッとした様に目を見開いて、一瞬その動きが止まった。その刹那の間、緑の瞳に深い悔恨の様な暗い感情が宿るのが見える。
―こんな下らない連中に刃を向けることか?もうガラクタ同然の村に囚われることか?
「何をごちゃごちゃと!!」
しかし、それを払拭する様に、再び己を怒りにたぎらせて、再び死の力を撒き散らした。…が、亡者達はやはり再び何事もなかったかの様に蘇るだけであった。
―そらみろ。村を何度滅ぼしたところで、お前の怒りは消えやしない。その根源は別のところにあるんだからな。
「…っ!!…何が言いたいって言うんだよ!!あんたは!!!」
消えない村人達と同じ様に、この激情も消える事がなかった。一度滅ぼしたにも関わらず、何故か消えない怒り。それが意味するのは、本質を見失った事にある。
―思い出せ。お前の本当に幸せだった過去を。
「何…?」
余りに激しい怒りは、かつての救いさえも忘れさせていた。ただ拒絶だけが普く村の中で、自分を受け入れてくれたものもある。
―母さんとフュリーと…いや、もう死んじまった親父もか。家族皆でまた幸せに暮らす。それが”お前”の願いなんだろ?”ホレス”。
「おれ…は……」
祠の地下室で昏々と眠り続ける母と姉、そして既にこの世にない父。悪夢の様なテドンでの日々の中で、この三人だけは、悪魔と蔑まれても何も言葉を発せなかった自分の心を汲み取ってくれた。
―オレがあいつらを放っておけなかったのも、俺と同じ様な苦しみを知っていたからだろうな。或いは二人の面影を見たからか…。
「レフィル……ムー……。」
―二人を失ったから、あいつらにその温もりを求めようとしたんだ。オレも、無意識のうちにな。
勇者や賢者としての運命を背負わされた末に、音を立てて壊れてしまった二人の少女。背負えぬ誉れも悪魔の烙印も、当人からすればさしたる違いはない。そして、大切だった者に面影を見い出し、今度こそ何としてでも守り抜こうと本能的に欲していたのかもしれない。
「………。」
大切な者を自ら失わせてしまった深い悔恨と哀しみを忘れるために、気づかぬ内にその記憶を憎しみの檻の中に封じていた。その哀しみと共に、かつての幸せが脳裏に満ちてゆく。全身が熱くなるのを感じた次には、目から止めどなく涙が流れていくのを遠くに感じ取っていた。
「……これで、”オレ”の全てがはっきりした。」
哀しみと温かな記憶の中で、憎悪の念は溶ける様に小さくなっていく。いつしか己の体に感覚が戻っていくのを感じながら、思わずそう呟いていた。
「……もはや、長居は無用だな。」
怨恨を宿した者達は、今も尚周りを囲んでいる。だが、もはやこんな掃いて捨てても湧いて出てくる様な下らない輩など、相手にするつもりはなかった。
今は新たない場所を探すだけ。そうして立ち去ろうとした、次の瞬間であった。
『 そなたが欲したものは、失われた家族か。 』
不意に、音として感じられない声が脳裏に響き渡った。
「……!!?」
これまで感じた事もない、不可解な呼び声。それは、思い返された幸せの記憶の温もりを根こそぎ冷え込ませる様な冷たさを帯びていた。
「…何者だ!!」
ここで得た全てを奪われる様な感覚に、本能的に敵意を感じ取れる。だが、辺りを見回しても亡霊以外の何者の存在も感じ取れなかった。
―………どこだ?どこにいる……?
耳を澄ましても風のざわめきしか聞こえない。物音一つ立たない中で、返るべき音もない。亡霊達とは違う何者かが発している重圧は感じられたが、その位置を掴むことは叶わなかった。
『 それがそなたの内なる闇か。……確かに、受け取ったぞ。 』
「どういうことだ!!」
全て見ていたとでも言うのか。何をしたいのかは分からなかったが、少なくともこちらにとっては面白くない。
思わず声を荒げながら、腰に差した草薙の剣を引き抜いて、柄を力強く握り締めていた。
『 それだけではあるまい。我が世界にて、更なる闇を晒してみるか?罪を背負いし人柱よ。 』
「下らない……。姿を現せ!!」
見えざる何者かが、もう一人の己の慟哭を望んでいた事が、今の言い振りからはっきりした。そんな下らない事のために、わざわざ呼びかけてきたというのであれば腹が立つ。
『 我に会いまみえるを望むか。それもよかろう。ならば、己の足で我が下へと赴くがよい。 』
「何だと…?」
己の足で赴けと言う事は、奴がこの場にいないという事に違いない。どう足掻いたところで、今はこちらから手を出す事はできないらしい。
だが、それ以上に言い様のない違和感を、頭の中で感じていた。
『 我が名はゾーマ。闇を統べし者―大魔王。心の闇を抱きし者よ、我が世界へと来るがよい。 』
ここと異にする空間に居ながらにして、俺に呼びかける事など造作もない。それ程までの力を得た存在である事に、どうして気がつかなかったのか。大魔王と自らを称する何者かの重圧が、全身に圧し掛かるのを感じていた。
「だ…大魔王だと…っ!!?」
これこそが違和感の…いや、不安の正体だった。星を滅ぼさんとした魔王バラモスはネクロゴンドで確かに最期を遂げたはずだった。だが、それを上回る底知れぬ恐怖を、虚空から伝って来る。それに圧されて無意識に後ろに一歩下がった時の事だった。
「……こ…これは……っ!?」
不意に、泥沼に沈んでいく様に、体が沈み始めた。
「な…何だ……これ…は…っ!?ぐ……っ!!」
同時に、足元から黒い雷が全身に纏わりつき始める。蔦の様にに絡みつき、蛇の様にうねり、棘の様に幾度も突き刺す様な激痛が、この身を苛み始める。それは、備える間もなく、呆気なく陥穽へと落ちた事実でさえ、忘れてしまう程のものだった。
「ぐ…ぁあ…っ!!く…そ…!!どうなっ…て…っ!?」
我を失う程の痛みに耐えながら、必死に沈みゆく体を動かすも、ただ闇の中へと沈んでいくだけだった。
「!」
その最中、不意に遠くでかつて聞いた甲高い呼び声が鳴り響くのを感じられた。
「ま……さ………か……!?」
程なくして、天から光輝く何かが目の前へとゆっくりと落ちてきた。思わず手を伸ばして手のひらに取ったそれは、暫しの間虹色の憐光を帯びていた。だが、その光はやがて闇の中に吸い込まれる様にして消え去り、その残滓たる白い羽だけが残った。その淵に、微かに赤く芳しいものが付いている……
―馬鹿な…これは、ラーミアの……
天を駆ける鳳の翼の欠片。それを彩るのは付いて間もない鮮血。そしてそれと同じものが、天に突如として掛かった白黒の虹より、何枚も舞い落ちてくるのが霞んだ視界に映る…。
「ラー…ミア…レフィ…ル……。一体…な……にが…??」
齎されたのは紛れもない破滅の影。それらは間違いなく”あいつ”にまで届いていると感じる事ができた。それを悟った時には、壊れていく体の痛みなどとうに忘れていた。
天に昇る黒雷が、いつしか手のひらから手放していた白い羽を綻ばせて引き裂いていた。闇に視界が閉ざされる前に見た最後の光景は、黒に散らされた白の欠片が舞う様だけであった。