闇の扉 第二話


 例えようの無い程に想像を絶する事象がなせる、悠久にも感じられる程の長い旅路。一つ一つの記憶を振り返る中で、悔恨が心に亀裂を作り、脳裏を苛み続ける。
 常夜の世界に辿りつき、魔物だらけの道中を経る以前に、既にホレスは疲れ果てていた。
 カフウとの話を終えると、彼は糸が切れたように布団に倒れ込み、そのまま眠りに落ちた。
―……俺も、馬鹿な話に乗ったもんだ。
 唐突に訪れた運命の選択を受け入れた時、自分という存在の全てが失われる事も心のどこかで理解していた。一歩あの道を踏み出したが最後、迫りくる多くの呵責の中で彼が生き残る道は、もはや変化し続ける事の他にはなかった。
 それでも、変わらず残るかつての記憶は、まどろみに落ちる彼の中で再び色づき始めていた。



 それは、止められた時の中を駆け抜ける前の、最後の記憶であった。



 深い緑に覆われつつも、毒々しい霧が辺りに立ち込め滅びの匂いが漂う。

「バース。どう?」

 その中を歩く一人の男―バースに、若い女が呼びかける。体に皮鎧を纏い、腰には細身の長剣を帯びて、巡回を終えた果てに、この地で彼といつも通りに落ちあっていた。
「ドリスか。ああ、問題ない。だが…」
 バースと呼ばれた男もまた、槍と軽装の鎧を身に付けて、死臭が立ち込める森を巡って最後にここに至っていた。
「生き残ってるのが、俺達だけだなんてな……。」
 互いに沈んだ表情で見やる先にあるのは、かつて自分達が住んでいた集落の跡だった。死神が荒れ狂い、大地もろとも村人の殆どを黒の中へと葬り去り、後には死を広げる毒沼だけがここに残っている。滅びを迎えて住まう者が一人もいなくなって尚、災いの残滓は村を蝕み続けていた。
「うん…みんな、死んじゃったから…もう、ここを守る意味なんか…。」
 ドリスが悲しげに目を向けたのは、まだ真新しい幾つかの墓標であった。病魔すら生きられぬ程の荒廃を極めた大地の中で、生き残った村人達もまた苦しみ抜いた果てについに死を迎えていった。残っているのは、彼らを守るために戦い続けてきた自分達二人しかいない。
 いつかここに帰る日を夢見た戦いは、ついに無駄に終わってしまったことに、彼女は涙が零れそうになった。
「ああ…。だが、あの二人を放っておくわけには……」
 それでも、彼らがここを離れるのに躊躇う理由が一つだけあった。毒沼の泉に浮かぶ苔むした石の祠。その中で、今も眠り続けている者がいる。

「………。」
「「!?」」

 ふと、いつしか後ろから現れて、無言で傍らに立つ者の姿を見て、守人達は驚きに目を見開いた。
 顔を袈裟に横切る大きな一筋の傷と、薄汚れた銀色の髪。視線すら向けていない緑の瞳は、険しく潜められた瞼の内にある。それは、かつてこの村を破滅に陥れた罪人の姿に他ならなかった。




「て…てめぇは!!」

 失われていたはずの遠い日の記憶が訴えるままに忌むべき地へと帰りつくや否や、案の定、守人の怒声が耳を衝いた。
「のこのこと帰ってきやがって!!そんなに死にてえか!!」
 問答無用とばかりに、次の瞬間にはバースと呼ばれた男が手にした槍を突き出した。尋常ならざる殺気が込められた一閃の速さに、常人であれば成す術もなく貫かれるはずだった。
「……っ!!」
 だが、その程度の命の危機など、最早見慣れたものでしかなかった。腰から引き抜いた剣を縦に一薙ぎすると、竹を割った様に槍が左右に分断され、程なくして粉々に砕け散った。
「あんたに会うつもりはなかったけどな。そもそもオレがやった事じゃない。そこを皆誤解している。」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!?手を下したのはてめぇだろうが!!」
 この様な村を滅ぼした覚えはなく、滅ぼしたところで喜びを覚える事もない。かつての罪科を責め立てられても、自らの記憶にない以上、以前の様な憤りはもはや感じられなかった。
「まぁ、悪魔の意思に逆らえなかったと言ったとて、分かりはしないだろうけどな。」
「………。」
 そして、真実を知ったところで―いや…真実を知ったからこそ、その罪を背負う気など毛頭無かった。それが例え、眼前の惨状を呼び起こしたこの上ない咎であったとしても。

「邪魔をしなければ早々に立ち去るつもりだ。怨みを晴らそうというならそれなりの覚悟はしてもらうが。あんたらには悪いがオレは死ぬつもりは全くないんでね。」

 知らざる事こそ罪に値する。或いは罪である事を知り、自分に当てはまるかもしれないと思いつつも、その言に従うつもりは最初からなく、ただ己の欲する所に赴くだけだったのかもしれない。
 とりあえず面倒事などしたくない一心で剣を収めたが、相手が身構えている以上、こちらも油断する訳にはいかなかった。
「お前…今更何しに戻ってきたの?」
「テドンの村に行く。それだけだ。」
「…何故?」
 剣の柄に手をかけたまま、女―ドリスがそう尋ねるのに対し、直接的で単純な答えがその口から出る。当然それだけで納得するはずもなく、疑念の声が投げかけられた。
「理由は……あの村を今でも長い事守っているあんた達が一番よく知ってると思うけどな。」
「……?」
 だが、彼らが何故この村に今更になっても留まっているか―その理由は既に分かっていた。

―えぇい、くそっ!!また下らないものを…!!

 ”あの時”に目にしたもの。それは彼らにとっても注視し続けなければならない存在であった事を…。
「リリスとフュリー…今もいるだろう?」
「お前……」
 ”母”と”姉”の名を出したとき、守人達の顔色が変わった。敵意よりも、どこか懐かしいものを思い出す様な表情を浮かべているのが見える。
「……蔑まれ抜いた末に悪魔に憑かれて里を滅ぼしたあんなガキを、自分の身を差し出してまで命がけで守った。死を以って救いをなそうとしたクルアスとは丁度逆にな。」
 里どころか、この森一帯すらも滅ぼしうる死の力に流され続ける中、誰も手を差し伸べる事は叶わなかった。濁流に揉まれ続ける中、苦渋の果てに死の情けで見送らんとした”父”が槍を向けたそのとき、二人が流れの中に飛び込んできた。そして、代わりに死の流れに呑み込まれてしまった。
「オレには記憶がない。ムオルでグレイに拾われてからがオレにとっての始まりだった。本当の親父は物心つく前に死に、母と姉がいるなんて事も知らなかった。」
 家族を失って茫然自失となった”父”と共に、流れゆくままに辿りついたのが、今の故郷であるムオルの村であった。”父”の事は師―グレイから粗方聞いていたが、ショックで記憶を失っていたのか未だに鮮明な記憶はなかった。二つ目の故郷の中から全てが始まったのと等しかった。
「だからこそ、今になって戻ってきた。バラモスは倒れ、既に勇者の友としての旅は終わった。あとはどこで何をしようとオレの自由だ。」
 物心ついても消えない空虚感は、思えばこの地に纏わる忌まわしい事柄から来ていたのかもしれない。だが、その虚空を成す記憶の一片が、ここに至る道を歩ませた。”あの二人”を初めとするものが、果たして心の奥底を満たしてくれるものかは知るところではなかったが。
「バラモスが!?」
 その時、零した言葉の一片が気にかかったのか、ドリスが驚きの声を上げた。
「お…お前も……そこに!?」
「……。」
 バースもまた、愕然とした様子で、死の呪文の欠片に触れて傷痕を残した顔を近づけつつまじまじと顔を見つめてくる。
「……そう、か…。」
「私達の村を脅かす者は…もう何も……。」
 敢えてそうだと告げずとも、二人とも何が起こっているかを悟ったらしい。ネクロゴンドの麓にあるはずのこの里の魔物の動きが最近になって鳴りを潜めはじめたのも、おそらくはバラモスという一つの柱が崩れ去ったからだろう。事実、この森の中でも魔物に殆ど遭遇する事もなかった。
「お前を許す気にはならない。だが…もし、勇者にまた会う事があったら…」
「いいだろう。そうだな…テドンの生き残りが感謝していたと伝えておけばいいか。」
 魔王を倒す志を秘めた者は数いれど、”勇者”達の働きが無ければバラモスを倒す事は不可能だったかもしれない。そして、それを果たした先に彼らに感謝を抱く者も少なくないはずだが、まさかこの様な場で出会おうとは思いもしなかった。望まぬ使命でありながらも、勇者たる職がこの世界に必要なものであったと、心のどこかでそう考えていた。


「デュフューズ・イース・ビヘンド・セロン…トラマナ」


 幾分長い詠唱を要するも、既にこの程度ならば慣れたものだった。トラマナの呪文が言の葉によって形を変え、毒沼に掛かる光の橋となって崩れた祠への道を築いた。
「これは、クルアスさんの……。」
 父が使っていた技術の片鱗を使いこなしているのを見てか、ドリスは戸惑う様に成り行きを見守っていた。確かに恩人の力を仇であるはずの者が使っていれば、さぞや複雑な心中だろう。
「魔物は……いないようだな。」
「ああ。クルアスさんが残した魔物除けの結界はまだ活きているからな。」
 トラマナの橋を渡りきった後に続く階段を渡りきった先は、不思議なくらいに静まり返っていた。父がこの村に齎した魔法の力は、ここでも活かされているらしく、魔物はおろか、鼠一匹の気配すら感じられない。

「相変わらず…だな……。」

 そして、その最奥にある地下室もまた、あの日と変わらぬ光景を残していた。
「く……。」
「お前の死の波動の最後の犠牲者だったよ。どうしてか知らないが、今もこうしてその姿を残しているんだ。」
 石の棺の上で穏やかに眠る様に佇む二人。一人は少しやつれた姿の黒髪の女性、もう一人は活発さを感じさせる程の年頃の小さな少女。彼女達こそ、あの日に命を絶やした家族と呼べた者達、母・リリスと姉・フュリーであった。
「おい。何して……」
「………。」
 バースの制止も、既に聞く耳持たなかった。その手を亡骸へとそっと触れた…

「!」

 次の瞬間、思わず己の感覚を疑いつつ、一歩後ろに下がっていた。
「どうしたんだよ?」
 それを怪訝に思ったのか、バースがそう尋ねる。
「……まだ生きている。」
「…何だって?」
「ザラキーマの死の力が未だに二人を覆っている。まだ完全に命を奪い尽くしていない……。」
 この手に残る感触は、とても懐かしいものであった。昔の記憶を失っているにも関わらず、その時にこの身を包んだ温もりが、再び感じられる。その暖かさは、死した人間の持つものではなかった。
「…でも、もう何年も…あのときのままの……」
「まるで時が止まっている様だな……。」
 死の呪文を受けて、心音を鳴らすことを止められた二人に一体誰が力を与えているのか。守人達が口々に言う様に、まさに時が止められているとしか言い様がなかった。

「母さん…フュリー……。あんたらは…あれでよかったのか……?」

 生きる事も、死ぬ事も許されない。そう思うと、何かやり切れない気持ちが内に起こる気がした。
「優し過ぎたのよ…フュリーも、リリスさんも……。」
「………。」
 忌み子として生まれた者が身内にいても、この二人が持つ人望はその悪名すら跳ね除ける程のものであったらしい。悔やむ様に告げるドリスの言葉に込められた感情からも、それを伺い知る事ができた。
「せめて、遺灰だけでもと思ったんだがな…。」
「二人をどうする気?」
「親父…いや、クルアスの下に連れ帰るつもりだった。けど…この二人はまだ生きている。生者を葬る事なんか最初からできない。だから…このまま眠らせておく。親父には悪いが、今はこれだけだ。」
 ここに来た目的の一つ。それは、新しい故郷に骨を埋める事となった父と、この二人を会わせてやる事であった。しかし、息があるとも言えないが死んでいるとも断じられない―生死の境を彷徨う者に余計な手だしをする事はできない。柄になく、残念な気分になった。
「クルアスさんは…もう亡くなられて…?」
「ムオルの学者の下に身を寄せたが、既に余命幾許もなかったらしい。程無くして死んだそうだ。」
「そう……。」
 己は里を滅ぼした罪人でしかなかったが、家族は村人達から賞賛を集めあの惨劇を経ても死を悼まれる程の存在だった。哀しみを湛える守人達の表情を見ていると、かつては浮かぶ事すらなかった感情がこみ上げてくるのを感じられた。
 それが、家族の誇りから来るという事に気が付くのは、あの長い旅路の中での事だった。


―……ホレス…。
―……。
―やさしい子ね…。いつも…ありがとう。


「……夢、か。」
 二人の守人達が去った後も、しばらく棺の間の中で佇んでいた。気がついたらまどろみの中で、かつて目にした光景を見た気がした。
 小さな子供が、床に伏せっている母へと黙って花を手向け、優しい微笑みを返される。そんな情景であった。
「……それとも、あんた達が…?」
 単純な夢とばかり思っていたが、或いはこの二人が懐かしい思い出を垣間見せていたのだろうか。ふっとそんな事が頭に浮かんだ。
「………。」
 死に瀕した人間に、その様な事などできようはずもない。それでも、何故か完全に否定し尽くす事はどうしてもできなかった。


―親父はもういない。それでも、あんた達がもし目覚められたなら……。”おれ”は…


 いつしか、心の奥底に封じ込められた何かが疼きを上げるのを感じながら、何も言わずにこの場を後にしていた。