第一章 闇の扉


 夜の暗闇の下に広がる深い森の中を通る者の灯火の赤い光を目指して、蠢く者達が次々と集まってくる。

「おれも…ヤキが回ってきたってか…。」

 口の中に血の味が広がるのを感じながら、男は自らの衰退を痛感してそう呟いていた。
「ここ暫く剣なんざ振ってなかったからな…カンが鈍っちまったか。ざまあねぇ…。」
 長く伸ばされた解れの目立つ黒髪を後ろの首の辺りで束ねて垂らされている様は、狼の尻尾にも似ている。灯火に照らされた顔は痛みと焦りによって苦渋に歪みながらも、精悍さは失っておらず、数々の修羅場をくぐり抜けてきた事を示しているかのようだった。両手に携える一振りずつの刀剣には、足元に倒れている魔物のものであった赤い血が滴り落ちている。
「さてぇ…どうしたもんかね。」
 血肉を求めて彷徨う食屍の亡者・グール。かつて竜であった者の骨が秘術によって再び生を与えられて動き出したゾンビ・スカルゴン。それらを筆頭とした腐肉と骨のみの肉体しか持たぬ亡者の群れに追い詰められている中でも、彼は意外と冷静でいられた。
―元々おれは死んでるようなもんだしな…。
 死せる者が生ある者を脅かす様なこの場の情景が、皮肉にもこれまでの生き方と似たものを感じさせる。この世界に迷い込む前に深い絶望を覚えてから、もはやどこにあろうと死んだ事と同じでしかなかった。
「……ま、人様に迷惑は掛けられねえけどな。」
 それでも、ただで死ぬわけにはいかない。男は大口を開けて迫る魔物の顔面に、諸手に握った二刀を渾身の力で叩き込んだ。だが、横から迫る竜の屍の牙は、今まさに彼の体に突き立てられようとしているのが見える。やけにゆっくりと鮮明に見える死の瞬間への経過をおぼろげに眺めながら、男はどこか安堵にも似た気持ちすら抱いていた。だが…

「……お。」

 次の瞬間、暴風が吹き荒れると共に、屍の竜はその骨の体を一瞬でバラバラに砕かれて宙を舞っていた。
「…やるじゃねえか、おめぇさん。」
 幸運とはいえ、唐突に起こった出来事を前に特に驚いた様子もなく、彼は魔物を仕留めた者へと振り返り、感心の言葉を告げていた。
「……変わった戦い方をしてるねぇ。」
 金属が絡み合って擦れる音が何度も耳をつく。その度に、先程の暴風が再び巻き起こり、触れた者を一瞬にして微塵に打ち砕き続ける。周りの木々も破砕音を出すのも束の間、瞬く間にへし折られて、魔物の群れの上に倒れた。
「……加勢しよう。」
 一度振るわれる度に破滅を呼び起こす死神の大鎌の如き暴風の中心。そこには、闇に溶け込む様な黒い外套に袖を通し、多くの武器を背負った白髪の青年が、何の感情も宿さない緑の瞳をこちらに向けつつ、助勢の意を示していた。
 程なくして彼の回りに群がっていた魔物の群れは残らず倒されて、辺りに再び夜の静寂が戻ることとなった。

「……ふぃー、歳はとりたくねぇもんだぜ。やっぱり鈍っちまってらぁ。」

 襲い来る亡者の群れが消え去って緊張が解けたのか、男は両手の刀をしまわぬまま、その場に尻餅をつくように腰下ろした。息は荒く、肩を大きく動かしつつ近くの木に力なくもたれかかっている。
「………。」
 自らも体力の衰えを嘆く様子を見せる男の姿を、青年はただじっと眺めていた。その視点は、男が携えている二振りの剣へと向けられている。
 他の剣とは幾分その姿を逸する片刃の長剣の刃。血塗られて尚も、まだ血を求めて止まない程の鋭さは、何者であろうと断ずる程の切れ味を感じさせる。そんな珍しい剣を、どこかで見た様な気がしていた。
「お前さんの助太刀がなけりゃ危なかったぜ。一つ借りができちまったな。」
 ゆっくりと起き上がりながら、男は恩人である青年に対して軽く一礼していた。投げ打った所で何も感じない程軽い命であろうとも、いざ拾われると悪い気はしない。それどころか、この辺りの魔物を歯牙に掛けぬ程の力という、もっと面白いものを見れた事にも感謝していたのかもしれない。

「なら、ひとつ頼みがある。俺を近くの集落まで案内して欲しいんだ。」

 恩義を感じているところに糸口を見出したのか、殆ど何もしゃべらずにいた青年の方から、そう語りかけてきた。魔物に窮していた自分と同じ様に、彼もまた行き場を失ってこの闇の中を彷徨い続けて困惑している事に、その一言で男はすぐに察した。
「ああ、マイラの村ならもうすぐそこだ。」
 幸いにして、青年の頼みはお安い御用であった。元よりこの危険な世界の中で、一人で遠出などそうそうできるものではない。男が指差す先には、幾つも灯火となる篝火が焚かれ、人のにぎわいが風に流れて青年の耳に届いた。


 時が幾ら流れようとも夜明けは来ない。だが、変わらぬ夜の中でも、狂える魔物達がはびこるようになっても、人々は集落の下に集い、力を合わせて生き続けていた。
 ここ、マイラの村もその一つ。暗黒に堕ちて天の恵みを受けられぬ世界にあっても、地の恵みは未だ人々の手に届くところにある。それは、地脈より湧き出る温泉という形を以って、このマイラの村に住む者達に恩寵をもたらしていた。

「おれはカフウ。しがない鍛冶屋さんよ。」

 数ある温泉の内の一つを見い出した者は宿場を作って闇の中を旅する者達を招き、その疲れを癒していた。先程出会った男―カフウもその一人であった。
 仕事着に身を包んだ女性―カフウの細君が注ぎたての茶を主人と客人の下へと丁寧に置き、静かにその場を去っていく。妻に宿稼業を任せる傍らで、カフウ自身は魔物に相対するための武器や、地を耕すための農具を作る鍛冶に没頭している様だ。
「出身は…ジパングか?」
「ジパング?そうだな…そういやそこで生まれたんだっけな。随分長いことこっちに住んでたから忘れてたぜ。」
 木をふんだんに使われた全体の造りと草を編まれて作られた畳と呼ばれる床から、それを特徴とした国の名が青年から零れ落ちる。懐かしい名を聞いて、カフウは遠い日を思い返させられていた。しかし、結局は過去の事でしかなく、程なくして感慨も失われていた。

「てか、ホレスさん。あんたもこの世界に迷い込んじまったクチか?」

 今度は逆に、カフウの方が青年―ホレスへと尋ねる番だった。かつては光溢れる懐かしい世界にいたはずが、ある日の悲劇の中で打ちひしがれる中で、いつの間にかこのマイラの村に辿りついていた。そんな自分達と同じ様に、彼もまたこの世界に来てしまったのだろうか。
「お互い難儀するねぇ。ずっと夜ってのが未だに慣れやしねぇ。闇の世界とは言ってくれるぜ。」
「ああ、一体どうなっているんだ?この国は…。」
 この地に住む殆どの者が、生まれついての闇の世界の住民である。その様な中で同じ境遇の者に出会う事ができるとは予想もしなかった。だからこそ、カフウの口数は増す一方であった。

「それよりも……大旦那を憲兵に連れてかれちまってまともな品も打てやしねぇ…こっちも生活掛かってるんだからよ。まぁ…とりあえずこいつを見てくれ。」

 他愛もない話を続けた果てに、カフウは傍らに置いていた一振りの剣を鞘ごとホレスへと寄越した。ずしりとした重みを感じながらそのまま柄を握り、そっと刀身を鞘から引き抜き、手に取った。ジパングで作られている刀ではなく、広く馴染んだ何の変哲もない両刃の剣がホレスの手の中にある…。
「良い剣だな…。」
 それは、決して世辞の心から出た言葉ではなかった。柄も鞘も、そして刀身のどこを見ても、大きな工夫が為されている様子はない。ただ、手に取って構えてみると、鋼の鈍い光沢が一片の解れもなく切っ先まで続いているのが見える。全霊を込めて鍛え抜かれたが故に最もその本質を得てその形を成している。魔法などの技巧に頼った剣には見られぬ、極められた剣としての本質が表れていた。名だたる使い手が手にした時、果たしてどれだけの力を見せつける事だろう。
「ああ、そいつは大旦那の作品だよ。」
「大旦那?」
 その不思議な名剣の作者は、どうやらカフウの知人らしい。刀匠である彼がその男のことをとても買っている事を、ホレスは意外に思っていた。
「おれも信じられねぇぜ。元々大工っつっても刀鍛冶の方はド素人もいいとこだったんだ。それがあの人は、おれなんぞのために着実に腕を磨いてってな、今じゃ立派な相棒になるくらいまでになったんだよ。」
「大工…だと?」
 しかも、その正体はほぼ最近武器の鍛冶を始めたばかりで、心得に乏しい大工の男であったという。そして、カフウの良きパートナーとなるまでに成長を遂げた様だ。現時点での鍛冶の腕も将来の期待性も並ではない、そんな優れた人材がいる事など想像できない。
「後で裏口に行ってみな。もっといい品だったもんが置いてあるぜ。」
 謎を深めながらも、その影を追うべく剣を眺めるホレスに、カフウは意味深にそう告げていた。
「いい品…”だった”?」
 その言葉の意味が示しているところは、既に失われたものであるとすぐに分かった。


「……失敗作の山、か。」

 カフウに言われるままに裏口に向かうと、茂みの中に何本もの金属の欠片が突き立てられている。中途半端に刃が付いた品、途中で刃が欠けてしまった品。それらは全て、砕かれた刃に他ならなかった。
「そう見えるかい?だったらちと手に取って見てくんな。」
 もはや名剣の名残すらも残されていないはずのそれらの品の中から、カフウは一本を引き抜いてホレスへと手渡した。
「……さっきのよりも、作り込まれた品…なのか?これは…」
 一目見て、ホレスはその剣が持つ価値を瞬時に見抜いた。基盤の全てを鉄に叩き込んだ先の剣を更に昇華させた様に、刀身には更なる強さが込められていた。これもまた、単なる鋼鉄の欠片に過ぎないにも関わらず、かの刀匠の凄みを未だに宿している様に感じられる。
「な、分かっただろ?そいつはおれでもそうそう作れる品じゃねえ。けどな…それが逆に仇となっちまうってのはな…。いかれてやがる。」
 急速に成長し続ける中であれ、積み上げられてきたものがついに開花して出来た、会心の逸品。それが出来たそのときの喜びと共に、折られてしまいこんな所で寂しく佇むしかなくなってしまった今の嘆きの狭間で、カフウは虚しく笑みを浮かべていた。
「大旦那はこいつをいつもにも増して丹精込めて鍛え上げていた。流石のおれも、そんときのあの人の気迫には押されたもんだったぜ。」
「………。」
 失われた名剣が生まれたそのとき、大旦那と呼ばれた男もまた最高の状態で鍛冶作業に望んでいた。その姿に、未熟な時より男の技の成長を見届けてきたカフウも圧倒されていた。
「で、いざこいつができたときの喜び様ったらなかったぜ。そんとき…あの人はおれにこう言ったんだ。『これで、お前さんに報いる術ができたぜ。』ってよ。鍛冶屋として、もともと満足して食ってけるだけの力はあったのによ…すげえもんだぜ。」
 そして彼は刀匠としての生き方を教えてくれた師としてばかりでなく気兼ねなき友として、カフウに恩を返さんとした。まるで自分の事の様に誇らしげに話すカフウの言を、ホレスはただ静かに聞いていた。
「けどよ、大旦那が武器屋を始めようとしたときに全部が台無しになっちまったんだ。」
 満足のいく剣をまだまだ作り続け、今まさに道を進まんとした所まで話を進めた所で、カフウの顔から笑みが消えた。
「この剣を買っていった奴が、それを別の奴に売りつけてったんだ。”王者の剣”とかいう銘でな。けど、買った剣の名に粋がって、そいつは魔物共に呆気なく食い殺されちまった。それでこの剣が偽物だって噂が立っちまってな……大旦那は捕まっちまったんだ。」
 見事なまでの剣を仕上げた事の喜びを力と変えて、男が武器屋を始めた矢先にその名剣はすぐに別の商人の手に渡った。だが、それはただ利を貪るだけの悪辣なる者であり、偽の名を以って見る目の無い者へと売りつけていた。
「”王者の剣”…だと?」
 話の中で、かつて聞いた言葉を再び聞くこととなり、ホレスはそれを反芻する様に口に出していた。
「おめぇさんは知らねぇだろうが、”王者の剣”って言えばこの世界に伝わる三つの伝説の武具の一つって話だ。今じゃ大魔王ゾーマとやらに奪われて、どことなりと消えちまったみてぇだけどな。そして、残ったこの剣は偽物の聖剣として、憲兵共に叩き折られたんだ。…ちょっとやそっとじゃ折れねえってのに、奴ら、しつこく折りやがった。」
 伝説に名を連ねる聖剣を持つ者が、死ぬことなど許されない。もし死ぬような事があれば、その者が携えていたものは偽物という事になる。そうなると、聖剣の偽物も、それを作りだした鍛冶師もまた許すわけにはいかない。剣は魔物との戦いはおろか、兵達の如何なる責めをも受け切った果てにやっとの事で砕けた。それがかえって、彼の造り出した名剣が比類なきものである事を示しているだけに、皮肉なものであった。

「王者の剣…。本物はこいつだ。」
「…!」

 ホレスが取りだしたのは、魔王バラモスの置き土産を回収したものであった。バラモスはこの片割れを媒介として剣の形を成して、”王者の剣”と称していた。そして今、その欠片はホレスの手の中にある。
「何でぇ、やっぱり所詮は過去の産物ってか…。こんなモノのために、大旦那は捕まっちまったのか。」
「……全くだ。馬鹿げている。」
 かつては伝説の品とまで謳われていた聖剣も、今となってはもはやただの金属の欠片に過ぎない。未だ伝説を信奉する輩によって行われた、生まれたばかりの名剣を廃して失われた聖剣を立てる愚かな真似に、ホレスばかりか全てを目にしてきたカフウですら呆れるしかなかった。
「変な愚痴を聞かせて悪かったな。けどまぁ…この村の連中は良い奴らだよ。今でも大旦那の帰りを待ってるんだ。あんな事があったってのにな。」
 しかし、この世界にいる全ての者が、伝説に目を奪われた愚か者ではないらしい。このマイラの村の者達も、新星の如き刀匠に魅せられて、その力を未だ称え続けていた。長きに渡る不穏の時代において、これ程の人望を集める事が出来るものはそう多くはない。
「ま、気の済むまでゆっくりしていっておくんなさい。お前さんの武器は一応一通り手入れさせてもらうぜ。他に武器が入り用だったら遠慮せず注文してくんな。安くしとくぜ。」
 大旦那と仰ぐ新しい名匠の話をホレスに知らせて満足したのか、カフウは至極すっきりした様子でそう告げていた。

「カフウ、最後に一つだけいいか?…あんたが大旦那と呼ぶ男、そいつは…何者だ?」

 歓迎の言葉に頷きながら、ホレスはそう尋ねていた。これまでの話で聞かされた事、そして質素ながらも魂すらも込められてると紛う程の名剣。それらからその男を、ホレスは知っている様な気がしてならなかった。



 命を救ってくれた恩を返さんと与えられた宿の一室。これまで集めてきた宝が部屋の片隅に纏めて置かれている。魔物を打ち払うための数々の器をカフウに預けて尚、数多くの品が所狭しと並べられている。

「……まさか、生きていたとはな。」

 その内の一つ、死神の意匠を施された箱を手に取り、磨き布で丁寧に拭きながら、ホレスはそう一人ごちていた。丹念に磨き上げた末に、座卓の上に無造作に置き、窓の外を見やる。そこは、先程までいた名剣の墓標であった。
―確かに、あいつ程の熱意があればな…。
 カフウから聞いた男の名は、ホレスがよく知った人物であった。剣を造る心得がなくも、気力体力共に充実しており、更には義侠に溢れる彼だからこそ、あれだけの品を作る事が出来たに違いない。
「それにしても……長かったな。」
 星一つ瞬かない空を仰ぐホレスの目には生気など無かった。彼自身もまた、ここに至るまでに数多くの地獄を見て、暗き旅路を生き抜き、絶望に抗う中でその心身は疲れ果てている。
 ひとときの安寧の時を得た今でさえ、ホレスが纏う雰囲気は以前のそれと比べて大きく変わり果てていた。

 開かれた闇の扉の内にあった底知れぬ程の奈落の果てまで続く永久の道。気の狂わんばかりの責苦に自らを歪めながら耐え続け、ホレスはこの闇の世界へ辿りついた。