灼熱の扉 第六話


 ギアガと呼ばれる地から噴き出す闇の中から、一筋の光が勢いよく飛び出して、その軌跡に七色の虹を成す。それは程なくして大きな鳥の形を露わにし、急上昇から転じて滑空し、優雅に空を舞い始める。

「…まさか、このようなことに……」

 その背に身を預けながら、レフィルは下を見下ろして表情を曇らせていた。
「ごめんなさい…皆さん……」
「あなたのせいじゃない。」
 大魔王との戦いによって、傭兵と守人達が闇の手の者の犠牲となり、或いは闇の中に呑み込まれて消えた。魔王を倒すべくして闇の約定を交わしてしまったのも、一つの引き金であったに違いない。ムーの慰めの言葉もこの自責の念に駆られている今のレフィルの耳には届かなかった。
「心の闇……きっと皆の悲しみや怒りを取り込んであそこまで大きくなったんだ……。」
 大魔王ゾーマは世界のあらゆる場を回り、もたらした恐怖による人々の絶望を身に宿していた。その中には、自分自身の姿形を持つ心の闇だけではなく、愛する祖父と母の…それ以外にも多くの者の嘆き悲しむ姿があった。
「やっぱり…止めなきゃ……」
 一度行く手を阻まんとして、逆に闇に取り込まれそうになった恐怖が心身に蘇り、体が震える。それでも、このまま捨て置いていれば、自分だけの問題ではなくなってしまう。何もできぬと分かっていても、レフィルはいてもたってもいられなかった。

 心せよ、全ての災いはギアガより出ずる。

「ゾーマはきっとあそこから来た。あれが闇の世界への入り口。」
 眼下のギアガの地にある大穴こそ、大魔王がこの世界に降臨したとされる全ての元凶に違いない。そして同時に、闇の世界―アレフガルドへ続く道と見て良いのだろう。そこを通れば、或いはゾーマを追う事もできるかもしれない。
「でも、あの穴には…もう入れない……。」
 しかし、ゾーマが去っていった大穴からは闇の眷属達が溢れ返り、行く手を阻んでいる。手練れの戦士達を悲しい程に刹那で葬り去った魔の者達を前にしては、ムーとレフィルだけの力では一溜まりもないだろう。
「……一体どうすれば……。」
 通るべき道が目の前にあるにも関わらず、あまりに危険であるために一歩も踏み出す事ができない。天を回り続けるラーミアの背の上で、レフィル達はただ手をこまねくばかりであった。

「!」

 不意に、遠くで一筋の黒い光が天を衝くのが二人の眼に映った。
「…あれは!」
 それは、魔境ネクロゴンドの入口にあたる入江の方から上がっていた。
「何で…あんなところから……」
「………。」
 ギアガの上空から見える、闇に覆われた紅炎がその空に揺らめいている。その深みは、ギアガの地を覆う闇と近しいものであり、何らかの相関を感じさせるものであった。

「……死の火山。父さんが死んだ場所……。」

 程なくして天の光の内に消え去った闇の炎が噴き上がった源―それは、レフィルにとって深い意味を持つ場所だった。かつてオルテガが魔王に挑むべくして乗り込んだ魔境の入口、そしてその身と命を焼かれた忌まわしき場―死の火山に他ならなかった。




 しばらくこの地を眺める様に空を舞っていた七色の光が、彼方へと去ったそのときの事だった。青白い光が、闇に覆われんとしているギアガの大地の片隅に降り立った。

「おーし、成功成功。ルーラでここまで無茶な芸当できるなんざ、さすがは天才―いや、勇者サマだわな。」

 鳥の羽ばたきの如き風切り音が一瞬鳴ると共に、弾ける蒼光の中から一つの影が現れた。何となく口ずさまれる独り言からは、実に満足した心境がはっきりと見て取れる。
「さて、と……はっ、こりゃあおっそろしいわな。」
 しかし、その様な満足感に浸るのも一瞬の事で、その目はこの地に集う闇の群れへと向けられた。
「なしてこないにぎょーさん魔物がおるっちゅーねん…って、らしくねぇな。」
 これまでに見たこともない大きな力を持つ闇からの来訪者達。辺りに無残に転がる赤い布と武器の欠片が、彼らに抗いし者達の末路を現している。それだけの強い者達が溢れ返る程に多く、この場に現れている。
「しっかし…あれが大魔王…ね。」
 だが、それ以上に注目すべきはその奥で大穴の中にある深淵の闇へと還ろうとしている者であった。

「何だってんだよ、あの馬鹿でけぇのは。反則くせえにも程があるだろが、ボケ。」

 普く闇の全てを己が意のままに統べ、己の一部とするが故に何者よりも大きな巨神にも似た存在。並の者であればその威容を前にして、軽く圧せられてしまう事だろう。
「下手すりゃバラモスなんか軽く超えてやがるな…。まぁ…そんときはそんときか。やーれやれ…。」
 先程交わされた一通りのやり取りは、もはや戦いなどと呼べるものではなかった。力を以って戦える次元の相手ではない事はもはや嫌と言う程理解させられた気分であった。魔王バラモスですら、人が集う事によって呼び起こされた絶大な力を前にして敗れた。だが、この闇の支配者に対して同じ手は通じなかった。果たしてこの巨悪を前に、人は―否、生ある者達には一体何ができるだろうか。

「で?さっきからやかましい奴らだなぁオイ。なに?俺様とやろうって??」

 大魔王と呼んだ存在が地の底へと還ったと同じくして、周囲から向けられる敵意に気だるげに応じて向き直る。先程強者達を刹那で屠った闇の使徒達が、双眸と爪牙を血色に光らせながらこちらへ向かってくる。
「ハッ、俺様を誰だと思ってやがる?てめぇらの目は節穴か?」
 だが、そのおぞましい光景を前にしても、恐れる理由などどこにもなかった。
「まぁてめえらの方からワザワザ喧嘩売ってくれるっていうなら手間が省けたぜ。」
 それどころか、寧ろ嬉々とした様子で前へと足を進めていく。口元は気の高揚による狂喜で歪み、その手は背負った剣の柄へと掛けられる。
「ホレ、とっとと来いよ。全員まとめて相手してやるってんだ。」
 余した左手で闇の者達に手招きをして挑発すると共に、殺気を向けながらも様子を見ていた魔物の群れの間にあった堰が断たれ、濁流の如くなだれ込んできた。

「この…勇者サイアス様がなァッ!!!」

 そう叫んだ瞬間、黄金の刀身がその姿を現し、激しい雷鳴そのものを撒き散らして闇を打ち払った。尚も突進してくる闇の手の者達を返す刃の金色の一閃で断ち切り、休む間もなく目に映る敵へと躍りかかった。
「はははははははっ!!どうしたよさっきの威勢はぁ!?」
 雷の加護を施された黄金の剣・稲妻の剣で手向かう者達を薙ぎ払い続けながら、サイアスは歓喜をその顔に浮かべつつそう叫んでいた。ここに降りた眩いまでの光は、大地を蝕む闇を焦がして焼き尽くし、虚空に散らせている。
 彼が大魔王の撒いた災禍の種を残らず踏み躙るが如く滅ぼし続ける様は、冒険譚として語られる伝説になぞらえるにしては凄絶極まりないものだった。それでも、退く事も知らずに戦い続けるサイアスの姿は、神の申し子にしてその力を受け継いだ勇者と呼ばれる選ばれし者に他ならなかった。






「これは……」

 広がる大穴と、迫りくる闇の者から命からがら逃げた先に見い出した闇の狼煙。レフィル達はそれに従って彼の地へと訪れていた。
「死の火山…ここで父さんが……。」
 魔王バラモスの討伐を語るに、この地を差しおく事はできない。アリアハンの英雄にしてレフィルの父―勇者オルテガが最期を遂げたこと、サマンオサの猛者サイモンの息子―勇者サイアスが父から引き継いだ聖剣・ガイアの剣を火口に投じる事によって魔境への道を開いたこと。これらの逸話は、この死の火山に纏わる伝説として世界に広まっていた。
「おかしい。」
「うん……。」
 先に見た立ち上る闇の気配は既になく、そこは一見これまで旅してきた中で見た火山と何ら変わりないようにも見えた。だが、見ただけでは感じられない―何か禍々しい気配とでも言うべきものに対して異変を感じて、レフィル達の感覚が必死に訴えかけてくる。

「下の方に何か見える……何?……あの歪みは?」

 レフィルの目に、煮えたぎるマグマに満たされた火山の底にある異変が映った。
「……ただの湯気じゃない…よね。黒い…渦?」
 それは立ちこめる熱気のせいなどではなく、別の大いなる何かが働きかけてできたものであると見て間違いなかった。先程見た闇の紅炎も、これが引き起こしたものなのかもしれない。
「相当古いものだと思う。たぶん、だけど。」
「古いもの?でも、あれは…いったい…?」
 ゾーマの手によって明るみに出た事はあっても、その存在自体は古くからのものであるらしい。一体何故この様な闇の通り道が昔から存在していたのか。そして、その正体が一体何物であるのか。

「旅の扉…に近い。でも、何かが違う。」
「…え?」

 旅の扉は、離れた地点間の空間を繋げるものである。これも類するものであるとムーは見ているらしいが、それでも何か違和感を覚えている様子だった。
「そもそもこんなところに出てくる扉の存在はメドラでも知らない。けど、似ているから訳が分からない。」
 確かに、この灼熱の海に通じる旅の扉などあれば、すぐに危険な場として冒険者達を通じてその情報が広まるはずである。誰も到達し得ない秘境にその入口があると考えるのが妥当だが、或いは旅の扉とは分類を異にするものとも考えられる。いずれにせよ、その正体を十分につかみ切る事はできなかった。

「旅の扉……どうして…こんなところに…。それに、一体どこに続いているというの…?」

 一方で、レフィルはこの異様な現象が、旅の扉と似たものであると知って、更なる疑問を自らに投げかけていた。
「レフィル?」
「ううん…、…そんなわけ……。例え…そうだとしても……どのみちこんなところじゃ……」
「??」
 思案に耽って上の空となっている彼女を見て、ムーはただ首を傾げるばかりであった。
「でも……確かめ…なきゃ……。」
 あの歪みが旅の扉と言うのであれば…そして、父が遂げた最後とは……。この地に抱く感慨と思索の呵責の中で、レフィルは時折途切れ途切れに言葉を零していた。

「待って。」
「……!」

 そして、気づいた時にはその足は火口の淵まで歩みを進めていた。あと一歩で身を灼熱の中に投げ入れんとしたそのとき、ムーが後ろから手を掴んだ事によって、ようやくレフィルは我に返った。
「飛び降りるのは危ない。」
「え…?わ…わかってるよ、でも……。」
 一歩踏み外せば、そのままマグマに落ちて燃え尽きていた。自分がその様な危険を冒そうとしていた事を改めて実感しながらも、それでもその双眸は炎の中にある歪みに向けられていた。どうしてもこれだけは確かめなければならない。それが自分が求めているものに少しでも繋がっていると感じられる限りは…。

「フバーハ、トラマナ」

 そのとき、突如としてムーが二つの呪文を唱えた。
「ムー…あなた……」
 炎や吹雪から身を守るフバーハの光の衣と、足元の地形からの害を遮断する守りが体を包むのを感じながら、レフィルは今の守護を施したムーの目を見た。
「これで少しは熱気を遮れる。でも、完全じゃない。」
「…あ…ありがとう。」
 この場から引き離すのではなく、守りの呪文を与えたと言うならば、おそらく引き留める意思はないのだろう。およそわがままに過ぎない自分の道を行く一助となったのは、危険を省みないレフィルへの友人としてのせめてもの手向けであった。
「私もついていく。あなたは…ひとりじゃない。」
 そして、その子供の様に小さな手をレフィルの手のひらの中へと滑り込ませながら、ムーははっきりとした意思を以ってそう告げていた。
「ムー……。」
 旅の中で得た掛け替えのない友は、かつて魔王討伐の折にそうした様に、再び生死の境を行く旅路を共にしてくれようとしている。レフィルはその絆の深さを改めて感じながらも、何となしに感じられる不吉な気配の先に待つ運命にまたも巻き込んでしまう事を酷く憂いていた。

「父さん…わたしは……。」

 頭の中を過ぎる一つの絶望的なまでに小さな可能性。炎の中にある闇が出でし道。父を失う事となった灼熱の中へと今赴かんとする中で、何とも言えない気持ちが心を満たす。今はただ、その答えを知るべくして前に進むだけであった。




 闇の氾濫によって廃墟と化した、監視者の場に流れる灰塵が視界を覆い尽くす。そこには最早、生ある者の―闇からの来訪者達の気配は何一つとして残っていない。

「よーやく打ち止めか。ったく、俺様とした事が随分と鈍っちまったもんだぜ。」

 地上に溢れ返るまでの闇が残らず滅ぼされたのは、ギアガの地に突如として現れたサマンオサの勇者の手によるものだった。ここに残る幾つもの力の痕跡、焦がされた大地が振るわれた力の恐ろしさを物語っている。それでいて、サイアスは実に不満な様子で首を横に振っていた。一気に全てを破壊しつくす程の大きな力を、単なる闇の尖兵如きに用いた己の未熟さに多少の抵抗を覚えているらしい。
「さぁて…、これがあのアレフガルトとやらの入り口とやらだな。」
 ともあれ、ここにもはや邪魔者はいない。既に目の前には大魔王がこの世界から去った道が続いている。
「無駄にでかく作りやがって。やることの乱暴さといい、流石は大魔王サマってか?」
 大穴を覆う石垣はその土台ごと砕かれて、更に大きな闇の道と転じている。人の子一人が通るにしては、明らかに過ぎた道とも思わされる。その偉容にも似た禍々しさを前にしても、サイアスはただ気だるげに大魔王のなした御業を見下ろすだけであった。

「……おっと。」

 不意に、サイアスの目の前を一筋の闇が通り過ぎた。微かに前髪を翳めながらも、彼は傷一つ負わずに身をかわしていた。
「あぶねえ…なっ!!」
 そして次の瞬間には、一度は背に収めた黄金の剣を再び抜剣し、突如として現れた敵をすぐさま薙ぎ払った。闇の使徒は斬り裂かれた部位から爆ぜる光によって内側から砕かれて、闇の欠片となってやがて消滅した。
「おー?何だてめぇら。」
 奇襲者を事もなく断じたところで、闇の底から再び沸き立つ蠢く者どもがギアガの大地に現れる。それを前に、サイアスはこの場に似付かぬ程に呑気な出迎えの言葉を零していた。

「懲りずにまたきやがったってか?」

 押し寄せる闇の奔流を前に、大穴の淵から後ろに跳躍して距離を取るサイアス。いつしか、最初に訪れたそのときと同じくらいの魔物の群れが彼の行く手を阻んでいた。
「第二ラウンド…ね。ハッ、てめぇら…まさか疲れ切ったトコを叩こうとかチープな事考えてんじゃねえだろうな?」
 守人達ですら容易く飲み込む程の闇の軍勢を消し飛ばしたばかりで、サイアスは確かにそれなりに疲弊していた。相手がそれを見計らっているかは知らないが、厳しい状況には変わりなかった。
「だが、そんなん俺様にゃ通じねぇえっ!!さぁ、来いやぁあっ!!」
 しかし、当人はこの不測の事態を前にしてうろたえるどころか、寧ろ余計楽しそうに猛りを上げながら、黄金の剣を天に掲げた。
「もっかい喰らっとけぇっ!!」
 その切っ先に集う雷光が幾度も弾け、主たるサイアスの命を待ち焦がれている。
「ギガ…」
 選ばれし者だけが行使できるとされる神の雷、その偉容の名の欠片が口にされた、そのときの事だった……

「ぬっはぁああああああああああああっ!!」

 不意に、上空から勇ましい掛け声と共に、何か巨大な影が闇の手の者達目掛けて落下した。
「…ハ!!?」
 天雷を呼んだはずが、代わりに見覚えがありながらも訳の分からない球体―巨大な花火玉がこの場に現れた事に、サイアスは混乱のあまり、思わず驚愕に開いた口から奇声を上げていた。
「なんじゃあこりゃあああああああああっ!!?」
 次の瞬間、球の中に詰め込まれた火薬が爆発を起こし、その場にある全ての者達を纏めて上へと巻き上げた。途方もない程の爆風に交って、様々な色の光があちらこちらで弾けて華を咲かせている。闇の使徒達だけでなく、サイアスもまたこの圧倒的な流れになすがままにされ、空中に投げ出されていた。衝撃の受け方が悪かったのか、その体は上昇しながらも回転し続けて、彼の目に映る光景でさえも天地が絶えず逆転し続けていた。

「…うぉうっ!?」

 不意に、何か大きな手で足を掴まれる様な感覚と共に回転が止まった。
「…げぇっ!!?」
 だが、それはこの混乱の収拾を意味するものなどではなかった。

「ウワーハッハッハッハッハッハーッ!!!よもや一人で邪悪なる者どもと戦おうたァお主も見どころがあるのォッ!!!」

 体の芯まで響き渡る程の大音声で発せられる豪快な笑声と共に、最も会いたくないであろう人物の顔が逆さの視界の中に飛び込んできた。
「お、オイオイオイオイ!?な、なんでアンタがここにぃっ!?」
 凄絶なまでの笑みによって食いしばられた白い歯と見開かれた目、豪快な髭。爆弾岩を模した刺繍が施されたやたら豪華な腰布以外は一切纏わぬ筋骨隆々の巨漢。人間であるかどうかさえも疑わしい…まさに狂気の沙汰ではない。それが、旅人達の一部で比類なき強者と恐れられる―根性の漢・バクサンであった。
「ムムゥッ!!そこにおるはサイアス坊!!実に久しいのォッ!!!」
 一体いつから接点があったのか―最後に遭ったのは確かハンバークの町であったか、バクサンはその手でがっちりとサイアスの足を掴んだまま”久方振りの再会”に喜びを表していた。
「じょ…冗談じゃねぇぞ、オイ!!?俺ぁゾーマとか言う大魔王サマを追っかけなきゃならねぇってのに…!!」
 しかし、会った側であるサイアスからすれば、溜まったものではなかった。この漢に出会ってこれまで無事で済んだ例はない。これから自ら望む大魔王との戦いに向かおうという時に、今度は一体何をしようというのか。
「おおうっ!!では、やはりお主もあの大穴に行きたいと申すかァッ!!!うむッ!!流石はサマンオサの勇者とまで呼ばれた漢よのォッ!!」
 不安が膨れ上がるそばで、これから自分がなそうとする大いなる目的を知った漢が感銘のあまり気を高ぶらせ、悦びを以ってその隆々たる肉体が、逞しい剛腕が引き締められる。
「おおおおお…っ!!?」
 だが、それもその手に捕らえられているサイアスにとっては、恐怖への予兆に過ぎなかった。
「では、ワシも一肌脱ぐとしようかのォッ!!!」
「ひ…一肌脱ぐって、ま…まさか……!?は…離せぇええええっ!!」
 そして、ついにそれは現実のものとなる…。逆さに掴まれたサイアスの体が、あたかも槍投げの様に軽々と持ち上げられ…

「どぉりゃあああああっ!!!」

 そのままギアガの大穴へ向けて、サイアスを掴んだ巨漢の腕が振るわれた。
「ぎゃあああああっ!!!」
 目の前の景色が急激に後ろへと流れていく。支えを失った体は落ちる事無く空を掻き分け、ひたすら前に突き進んでいく。

「こんなん勇者じゃねぇえええええっ!!!」

 目指すべき地に赴く姿として、これ以上の無様なものがあるだろうか。それこそ大魔王が与える絶望よりも深い情けなさを覚え、だらしのない絶叫を虚空に轟かせながら、サイアスは強弓より放たれた一矢の如くギアガの大穴の中心へと吸い込まれていった。

「さてェッ!!門出を祝って一発打ち上げようかのォッ!!ウワーハッハッハッハッハーッ!!!」

 自らの手によって闇の世界へと旅立っていった勇気ある若者を見送った後、バクサンはまたどこからともなく何やら巨大な玉を取り出して天に掲げた。眼下には辛うじて生き延びた闇の手の者達が、その迫力に身動き一つ取れずに佇んでいた。或いはこの凄まじい狂乱の中に恐怖を感じているのかもしれない。
 程なくして、ギアガの大地から天を衝かんばかりの爆発の煙が勢いよく上がった。花火と呼ぶには余りに物騒な閃光と共に、爆風によって魔物の群れや心を闇に染めた者達が次々と再び空に上がっていく…。

「どっせぇええええええええええええいっ!!!」

 …が、その災厄を投じた当の本人もまた、その爆発に巻き込まれて天の遥か彼方へとその巨体を吹き飛ばされていた。

 幸いにして、この出来事の顛末は後世どこにも記される事はなかったという。だが、真実を知る者達には、この様なはた迷惑で破天荒な行いが、思わぬ形で世界の流れをよい方向にもっていく事もあると知らしめたのかもしれない。そして、その被害を一番受けたサイアスの心の中に知られざる恐怖として焼き付いてしまったのは言うまでもない。