灼熱の扉 第四話
「ここも……手がかりなし、か。」
大空を行く新たな旅立ちの時より世界の各地を巡り尽したところで、レフィル達はまた一つの守人の住処を訪れた。山奥から街中に至るまで、多くの場所で世界を見守る守人達と出会う内に、彼らの主たる竜の女王があらゆる所に行き届いているのが分かる。だが、結局は大魔王へ続く程の有力な情報は得られずにいた。
『次は…バラモス城の近くになる。』
「バラモス城……。」
険しい山々と大きな湖に囲まれた魔王の居城。魔境ネクロゴンドの最奥に位置する終焉の地に、いま再び向かおうとしている自分達の旅路に、レフィルはかつての苦しみを思い返していた。
「…何だかまた……」
かつてその足で乗り越えんとした銀嶺の山脈の先に、湖上に浮かぶバラモスの城が見える。だが…
「また魔物が……こんなに……」
その周りには、あの時と同じ様に空を舞う無数の魔物達が獲物を求めて飛び回っていた。
「…こっちに来る!!」
レフィル達の姿に気づいたのか、彼らは一斉に怒涛の如く押し寄せてきた。歓喜とも威嚇とも知れぬけたたましい鳴き声と無数の大きな羽音が、さながら鬨の声の様に響き渡り、この場にすさまじい重圧をもたらし始める。
『下がってて。』
だが、怪鳥や翼ある悪魔達を初めとする空の捕食者達を前にして全く臆する様子も見せず、金の竜はレフィル達を守る様に前に出た。
『大丈夫。今の私にはなんともない。ラーミア、レフィルをお願い。』
以前にこの地で魔物の群れの中に巻き込まれて、死闘の果てに力尽きていたあの頃とは違う。心配を隠せないレフィルを一瞥した後、ムーは下より襲い来る魔物の群れに向かって大きな翼を広げて滑空し、その勢いのまま突進した。
「ムー…。」
暗闇の如き魔物の群れが、突如として飛び込んできた光の一閃によって切り裂かれ、黒き雲から降り注ぐ雨の様に幾つもの影が地上に向かって墜ちていった。
―また…強くなって……。
ある者は吐き出される氷の息吹によって凍りつき、或いは凄まじいまでの竜の膂力によってなぎ倒される。触れた次の瞬間にはこの場からたたき落されている。以前見た時にも増して、竜としての力を使いこなしているのが、レフィルにも実感できた。
「………。」
一方で、力を失くした今では足手まといにしかならない現実に途方もないもどかしさをも覚えていた。大いなる力を宿す氷の魔剣も、今のレフィルにとっては気休め程度の力にしかなり得ない。女王から賜った光の玉から得られる加護をもってしても、身を守るのが精いっぱいという程度にとどまるだろう。レフィルは腰に差した吹雪の剣の柄を強く握りしめ、それを抜く事もせずに静かに佇んでいた。
大地に大きく開いた底知れぬまでに深い穴を覆う石積みの塀の側に、赤を主調とした異国の隠密の兵装を纏った者達が集まっている。
「しかし…こりゃ一体なんだってんだ…?」
物見の上から穴を見下ろしながら、男は目を怪訝に細めてそう呟いていた。背負った大剣と斧を操れる程に筋骨隆々な体からは、数多の修羅場をくぐり抜けてきた蛮勇を醸し出している。それ程の大物でさえ、ここに起こる異変には普通ではいられなかった。
「ドレーク殿、状況は如何です?」
そこに、兵士の姿の青年が声を掛けてきた。
「…何度かデカイのがきやがったが、どうにか被害なしで追い返してるぜ。まぁ…俺ら傭兵団の信頼を落とすわけにゃいかねぇとはいえ、ここにずっといるのも流石に嫌になってくるぜ…。お前さん方も同じかもしれねぇけどよ。」
「ええ…。しかし…何でしょう、この重苦しい空気は……」
下に控えている赤い衣の一団は、皆それぞれの得物に手を掛けていつでもその刃を閃かせる事ができる様に気を張り詰めている。しかし、日に日に重みを増していく空気と闇の底から次々と現れる蠢く者どもを前に、傭兵達は次第に疲労の色を濃くしていた。
「ああ。これも…あの大魔王だかが現れた影響なんだろうぜ。前向きがモットーの俺がここまでしょげちまうとは恐れ入るぜ。」
「は…はぁ……」
この場に漂う陰鬱な空気に晒され続けて沈んでいく雰囲気を前に口にした、豪気な好漢を自称する傭兵団の長の冗談交じりの言葉に、兵士は返す言葉が浮かばなかった。確かに言葉通りに幾分やつれている様子であったが、覆面から覗かせる目は未だ不敵な笑みを思わせる輝きを見せている。これが或いは命のやり取りを生業としてきた者が持つ余裕というものだろうか。そんな希望と悪くなり続ける状況の狭間で、何を見るべきなのかを掴むには相応の経験が必要なのかもしれない。
「お?上の方から誰かくるみてえだな。」
ふと、空から何者かがこちらに向かうのを感じ取って、傭兵は上を見上げていた。
「あれは…不死鳥ラーミア……」
「ラーミア…って事は例の”お客サマ”か。」
羽ばたかれる翼から七色の光に包まれた羽が緩やかな曲線を描きながら落ちてくる。あのときの突然の来訪の折にも目にした事で、彼らにはここを訪れる者達が誰であるかをすぐに理解することができた。
「おっと!これはこれは。」
「…ムー殿!」
不死鳥が地上に舞い降りる前に、不意に一陣の突風が通り過ぎると共に、傍らにあった金色の巨躯が地響きと共に目の前に降り立っていた。程なくしてその姿が薄れて、代わりに魔女の緑衣に身を包んだ赤髪の少女が現れた。
「ここが…最後の守人の……」
ラーミアの背から降り立ちながら、銀色の円冠を戴く黒髪の少女が辺りを見回していた。
「おうおう、お前ら。こんな所に何しに来やがった?まさか観光とか言うなよ?そんなお気楽で一つ間違えば取り返しのつかない事になるだろうからな。」
目的の場所に到着して早々、ムー達は赤い戦装束に身を包んだ大男に声を掛けられた。
「竜の女王の指示で守人達に会う様に言われた。闇の源を辿るために。」
「だろうな。にしても遅かったじゃねえか。空の旅もキツくなったかねぇ。」
既にここに自分達が来る事は知らされていた―或いは予期していたのだろうか。男はムーの言葉に驚く様子一つなく、ただ自然に佇んでいる。
「…ん?お前さん……女王サマ?…なわけねぇか。どうみても人間だもんな。」
「……。」
そして、レフィルの顔から感じるものがあると思わせる口ぶりから、おそらくは竜の女王とも顔見知りなのだろう。彼の部下らしき赤い衣の傭兵達も、今も尚、石垣に囲われた大穴の回りで警戒を続けている。口の悪さからは想像つかないが、この男もまた守人の使命に携わる者の一人らしい。
「女王様のご指示であれば、私達はそれに従うまでです。何なりとお申しつけ下さい。」
それと対照的に、傍らに立つ兵士は至極丁寧に一礼し、レフィル達に指示を促した。哨戒中の赤服の一団はあくまで傭兵であり、実際にここの守人と呼ばれる者は彼の方だった。
「……まだ昼なのに、まさかこんな暗いなんて……。」
「ああ、こいつはただの雲じゃあねえ。光を思いっきり遮ってやがる上に、やたら重っ苦しくさせやがって気持ち悪ぃんだよ。」
「空を漂ってたものと同じ……それがこんなに濃く……。やっぱりここから……」
見上げた先には、黒い雲が天を覆い尽くしてこの場に光差さない空間を作り出している。大地にある温もりは失われ、草木は枯れた後に土に還る事も許されず大地を蝕む毒となっている。以前の様な明るさが世界から失われつつあるのはこれまでも見てきたが、ここはそれにも増してひどい有様だった。
「あの日に一度日食の様なものが起こったのを確認して以来、この大穴の周りには闇が立ち込めて、中から時折魔物や闇の使徒達が現れ始めました。」
竜の女王の城にも現れた闇の手の者達、そして世界を覆い始めた闇はこの地から現れたらしい。どうやらここが一連の災いの元凶と見ていい様だ。
「その始まりは…いつの事ですか?」
その事実を知って、レフィルは思わず気になった事を兵士に尋ねていた。
「ちょうど、十日前になります。」
「十日……やっぱり、あの日だ…。」
それは、今でも鮮明に思い出せる忌まわしき日であった。
「その日食も、月齢とは完全にずれた不可解な時期であったので、巨大な何者かが空を覆ったものであるかと…。」
「ゾーマ……」
この場から闇が現れた日と同じくして、大魔王はレフィルの前にその姿を現した。その事から、やはり初めからレフィルを絶望の底に落とす狙いがあったのは間違いないと思わされる。
『 そのとおり。 』
ひとつの確信を得たそのとき、上空から聞き慣れた声がレフィルへと届いた。
「…あなたは……!!」
光差さぬ暗き空の中から聞こえるレフィル自身の声が、大穴を囲う山々にこだまし、辺りに響き渡る。その中で、レフィルは空の闇から現れた己の心の闇の姿を見た。
『 わたしがゾーマと共にあなたを訪れたのもその日だった。契約を…果たすために。 』
「……どうして……どうしてこんなことを……」
平穏の中で未だ残る英雄としての役割に努めようとする中で、更なる脅威が現れた事で、アリアハンは間違いなく絶望の中に落ちている事だろう。そして、レフィルは平穏な生活の場を追われて世界を彷徨う事となっている。
『 まだそんな事を言っているの?あなただって望んでいるくせに、どうしていつも抑え込もうとするの?だから変われないのよ。 』
「……。」
辛い旅の中で幾度も味わった悲しみや怒り、絶望から生まれる暗き衝動はレフィルの中にも間違いなく膨れ上がっていた。最初は期待を背負う事への小さい葛藤でしかなかったが、不安が強まるにつれてやがては大きな恐怖にも似たものに転じている。
『 何度でも言うわ。これはあなたが招いた結果よ。だって、せっかく二人が先に進む道を切り開いてくれたのに、闇に迷い込んでしまったのは他ならぬあなた自身なのだから。それもどこかで願ってたのでしょう? 』
心の闇を示す事と引き換えに大いなる力を得る。その真なる意味は、魂を黒く染め上げて闇に捧げる事に他ならない。破滅的な願いに従って、これまで抱いてきた望みを全て捨て去る事こそ、あの時に犯してしまった過ちであった。
『 誰も彼もが死出の旅路を望んだから悪い、だったら同じ苦しみを味わってから皆滅んでしまえばいい。さあ、もう一度願いなさい。世界の破滅を。 』
未だに奥底に残るレフィル自身の憎悪の欠片へとそう囁きかけると共に、心の闇は舞い降りてくる更なる闇の中へと還っていった。
『 我にまみえるべく、ギアガの地に足を踏み入れたか。 』
その中心から、音色なき声がレフィルへ向けられる。
「……。」
無音にも近しいにも関わらず体の底を重く揺るがす程の大いなる存在の到来をその身で感じながら、レフィルは黙って紫の瞳で暗闇の空を見据えていた。
我ら、神の名の元に大魔を退けし者。
心せよ、全ての災いはギアガより出ずる。
其は深淵に繋がり、数多の蠢く者を招かん。
―ギアガ……全ての災いはギアガより出ずる…。まさか…ゾーマが…??
ギアガーそう遠くない日に心に刻んだ言葉が思い返される。そのときはただの伝承としか思っていなかった。だが、このギアガと呼ばれる闇の大地で起こった災禍の顛末、そして、大魔王と会いまみえる事となった今、その碑文が伝えんとした忌まわしき意味を解する事ができる。
『 だが、今のそなたに用はない。 』
「……っ!!」
闇にその身を包んだ大いなる存在が何の感慨もなさそうに短く告げると共に、レフィルの全身を押し潰さんばかりの重圧が襲った。
「…ぁ……っ!!」
長きに渡る静穏の中で力を失ったレフィルに大魔王の力を跳ね返す事はできず、なすすべもなく地にねじ伏せられた。
「う…うう……」
指先に力が入らず、立ち上がる事はおろか、身動き一つも取れない。
『 他愛もない。もはやバラモスを破った力の片鱗すらも残っていないとはな。 』
世界に光を与える太陽と双璧を成す様な闇の権化たる魔王との決定的な力の差によってか、ただ一瞥されただけで、レフィルは完全に動きを封じ込められていた。
『 既にこの世界は絶望に満ちた。やがては嘆きと滅びより現る闇に閉ざされる事となろう。 』
空に漂う闇は、レフィル達から見ても日に日に強くなっていくのを感じられた。それはやはり、他ならぬ大魔王ゾーマ自らの手によってもたらされたものに相違なかった。
『 見るがいい。これが、そなたを待つ者達の姿だ。 』
「……え?」
世界が辿るべき運命を静かに告げた後に、大魔王はレフィルに唐突にそう言い放った。すると、レフィルの目の前が深い闇に覆われ…
―……なんてこと…!…レフィルが……!
―おお…レフィル……!!そなたまで…も……!
「…!!……まさか…!?」
そこに見えたのは、自分の名を呼んで嘆き悲しむ者達の姿であった。女は手にした花瓶を取り落して、その欠片が散らばる床の上へとへたり込み、老人もまた…その皺だらけの顔を涙に濡らしながら力なくうな垂れていた。
「母さん…じいちゃん…そ…んな……」
その顔から生気が失われ、落胆によって沈んでいるのが見て取れる。ほんの少し前までは共に笑い合い、元気に過ごしてきたたった二人の家族が、今では抜け殻の様な虚しさと悲しさを全面に醸し出している。
「い…嫌ぁああ……っ!!」
帰りを待つ愛すべき家族達は、既に嘆きの底に沈められてしまった。信じられない光景を見せつけられて、レフィルは悲痛な絶叫を上げた。
「レフィル!!」
壊れてしまいそうなまでに嘆き悲しみ続ける友を見て、ムーはすぐにそばに駆け寄った。だが、いくら落ち着かせんと体を揺すっても、彼女が我に返る事はなく、ただ絶望へ落ちていくばかりであった。
『 存分に悩み、そして深く嘆くがよい。深淵に届くそなたの慟哭こそ我らが望んでいたものよ。其は闇に堕ち、更なる暗き闇を生みだす……。さあもっとだ、もっと絶望を!! 』
悲嘆に暮れるレフィルが倒れ伏す地面から闇が溢れ始める。それが彼女の体を蝕む様に深みを増して包み込む様を前にして、大魔王はついに歓喜にも似た感情をその言葉に乗せていた。
「…ぁあああああ……っ!!」
痛ましい泣き声は尚も止む事もなく発せられ続けている。もはや大魔王が手を下すまでもなく、レフィルは闇の中で悶え苦しむ他なかった。
「………。」
今にも砕け散ってしまいそうな友から静かに手を放しながら、ムーはゆっくりと立ち上がり、大いなる闇に対して手にした戦鎚の如き魔杖・理力の杖を向けた。
『 何の真似だ。 』
打ちひしがれるばかりのレフィルに対して何もしてやれぬ哀しみと共に、その元凶となったゾーマに対する強い怒りがその緑の瞳に宿っている。今まさに歯向かわんとする小さな幼子に、ゾーマは一歩足を前に進めていた。ただそれだけの動作で、大地が震える様な圧倒的な重圧が辺りを襲う。
「………。」
だが、ムーはその殺気を受けても身じろぎ一つせず、全く動じていない。
「あなたは…絶対に許さない。」
闇に包まれて正体すらも知れずして尚、人の子を遙かに凌駕する存在と知らしめる大魔王を前に、ムーは氷の様な無表情を保ったまま竜の灼熱の吐息の如き怒気を静かに吐き出していた。
『 無駄だ。貴様が如何に力を宿していようと、わしは倒せぬ。 』
記憶と過去を引き換えに、森羅万象に耳を傾けて自らの力とする究極の禁呪さえも操る圧倒的な力を得ただけあって、人の子でありながら、その実力は今では魔王バラモスにすら匹敵すると言って差し支えなかった。それでも敵わないとは、一体何を確信しているのか、ゾーマは敵意を向けてくるムーを侮蔑する様にそう告げた。
「うるさい…!」
しかし、その言葉も今のムーには何の意味ももたらさなかった。激情によって血がたぎると共に、彼女の体からもまた凄まじいまでの重圧が発せられた。魔獣の咆哮にも及ぶ程の殺気の塊がゾーマへと叩きつけられる。
「最果てに伏したる数多の蠢く者共よ、汝らは創世の光の奔流と化して我が元へ集え」
同時に、ムーは忌まわしき力ある言葉を、その怒りと同じくしてはっきりと唱え上げた。それは、普段にも増して綻び一つなく正確に、そして明確な意思を以って発せられ、究極の域にまで高められた言霊と言って間違いのないものだった。
「パルプンテ…!」
そして、心の友を守る決意と怨敵に対する激怒によって得た凄まじいまでの力の全てを込めて、ムーは最後の扉を開いた。