灼熱の扉 第三話


 夜が明けて、天高くにある無名の名城の中に朝日の光が差し込み始める。

「もう行ってしまうのね。」
「はい。」

 出発を前に、レフィル達は再び竜の女王の部屋を訪れていた。
「こうして見ると…勇者らしいわね。皆があなたをその道に進ませようとするのも分かる気がするわ。」
「本当に……。」
 祝典の際に身に帯びていた旅装そのままであるからこそ、勇者たる者の雰囲気を色濃く出している様に感じられる。蒼い丈夫な布で拵えられた上着に、紫のマント、銀色の金属に蒼い装飾が施されエメラルドが額にはめ込まれている兜にも似た環状の冠―サークレット。そして、腰に帯びた蒼い魔剣。それらの装備が力を失ったレフィルの弱々しい様を覆い隠している。それは、仮面にも似ているのかもしれない。

「まだ近くに大きな闇の気配を強く感じるの。或いはゾーマもこの世界に……」
「この世界に……」

 アリアハンを絶望に落としただけでは飽き足らず、世界の全てを暗黒に飲み込むべく、大魔王は未だ闇に還らずに地上の何処かに在る可能性が高い。
「私の目となってくれている守人達に会えば、何か分かるかもしれない。」
 それを探し出すために、世界を見守る役目を背負った人間―守人達と出会い、多くを尋ねる事で有力な手がかりを得る。
「はい…。」
 これが、竜の女王がレフィル達に示した道の一片であった。未だ得体の知れない存在との戦いを前に、それ以上の助言を与える事はできない。後は自らで道を見い出すだけである。
「くれぐれも気をつけて。あなたに何かあったら、私だけじゃない。あなたの仲間も家族も、皆悲しむだろうから。」
「……。」
 ゾーマによって本来あるべき場所を失うも、帰りを待つ者から忘れ去られることはない。そして、大魔王によって失われた居場所も、全てが終わればきっと取り戻せる。あるいはそれが、絶望に塗れた今のレフィルに与えられた一つの希望たりえるものなのかもしれない。

「行こう。」
「……うん。女王様、短い間でしたが…お世話になりました。」

 袖を引いて出発を促すムーに頷いた後、レフィルは自分を助けてくれた守護者に対して、不器用ながらも心からの礼を告げた。
「レフィル、ムー。二人とも、また会いましょう。」
 新たな旅立ちに赴く二人の可愛い友人達を、女王は優しい笑みと共に見送った。

「さて…」

 二人がこの部屋から去ったのを見届けると、女王は後ろに向き直った。その顔からは優しい笑みが消え、冷厳なる王者たる雰囲気が漂い始める。
「……まさかもうこんな所まで来てるとは思わなかったわ。」
 射抜くような視線が見据える先には、空間を貪る様にして地を這う闇がある。その行く先は、カーテンの奥で目覚めの時を待つ我が子がいる。
「私を絶望の底に引きずり下ろしたいとでもいうの?如何に大魔王とはいえ、思い切った事をするのね。」
 この天の果てから世界を見守る存在が、大魔王にとって邪魔になっての事なのだろう。力を伸ばして世界を滅ぼそうとしたバラモスを滅するために自分が地上に降り立ったのとは逆に、今度は破滅を求めるべくして地上の守護者を消さんとする大魔王の思惑に、女王は一つの皮肉の様なものを感じていた。

『去りなさい。』

 短くそう告げる時には、真紅の瞳で睨みつける彼女が作る影が徐々に大きくなり、やがては侵入者をも覆い尽くさんばかりにまで膨れ上がる。手向けられる魔竜の手のひらを前に、闇の使徒は物言わずに佇んでいた。


「へ…陛下!ご無事ですか!?」

 程なくして、兵達が駆け付けた時には全てが終わっていた。部屋は特に荒れた様子はなく、先程の二人の来客が来たときそのままの状態に見受けられる。
「大丈夫よ。…それより、この子を守らなければならないわ。皆を集めてくれる?」
 ただ一つ違うのは、女王がいつもの出で立ちでなかった事だった。抜き身の剣を右手に携え、その体は深緑の鱗で固められた王家の鎧に包まれている。側で消え逝く闇の残滓は、守りをくぐり抜けてここまで辿りついた闇の手の者のそれに相違ない。
「はい、ただちに!」
 事の深刻さを悟った衛兵は、伝令の手配を行うべくすぐに部屋を出た。
―……無理は、できないものね。
 誰もいない僅かな間に、女王は体に感じる強い痛みにその顔を歪め、微かにその息を荒げていた。未だ傷は癒えていないばかりか、無理を続けた代償がその身に深くのしかかっているのが誰よりもよくわかる。それでも…
―でも、この子のために…何より、あの子達のためにも……
 守護者たる使命を代わりに果たし、尚もその宿命に振り回される事になってしまった写し身の人の子の苦しみを思えば、この体が崩れんばかりの痛みもまた一つの運命なのかもしれない。奥で静かに佇む卵に手を触れながら、女王は何も言わずにその場に膝を屈した。


 内で起ころうとしている騒ぎをよそに、城の外は朝を迎えたばかりの涼しく穏やかな風が静かに吹いている。

「ラーミア…」

 そこでレフィル達を待っていたのは、七色の光を纏った白い鳳であった。
「……ごめんね、わたしのために……。」
 彼女もまた、レフィルを闇の中から助けようとして運命に巻き込まれた。その際に負った深い傷を癒しながら、主にして母にも近しき者の目覚めを待っていたに違いない。
「でも、急がないと……。だから、もう一度…もう一度だけ……」
 ラーミアが傷ついてしまったのはレフィルのためである。その翼がなければ絶望に満ちたアリアハンの地から、そして、闇に呑み込まんとする大魔王の手から逃れる事はできなかった。だが、その身を省みずに助けを求め続けた代償として、翼を傷める事となってしまった。

「……ありがとう。」

 それでも、レフィルは今一度その力を借りなければならなかった。自分を助けるために躊躇なく頭を垂れてその背に誘うラーミアの姿に、頼もしさと共に悲しさをも感じられる。彼女もまた、神の使いと呼ばれる所以たる宿命を背負っているのだろうか。
「背徳の化身にして神の眷属たる者、其の御霊は我が身を汝が魂の器の代と成さん。」
 レフィルがラーミアに乗ったのを見上げると、ムーは杖を地に衝いて言霊をつむぎ始めた。

「ドラゴラム」

 流れる様に詠唱を続けた果てに、その呪文は唱えられた。魔力によって呼び起こされたものが、奔流となって一気にムーの体へと集い始める。
「グ…グググ……!」
 それを一身に拒むことなく受け入れる彼女の口からは人のそれではない呻き声がこぼれ始める。力強く脈打つ鼓動は、大気を通じてレフィル達にもはっきりと伝わってくる。
 次の瞬間、その体が燃え上がる炎が爆ぜる様に一瞬にして膨らむと同時に、竜の咆哮が辺りを震撼させた。

『………。』

 そこには、金の鱗に覆われて大きな翼を背に宿した竜の子が、その緑の瞳で静かにこちらを見つめている姿があった。
「……相変わらずね。それとも…少し成長したのかな…。」
 親友の一人にして魔法使いの少女・ムーが得意とする竜化の呪文―ドラゴラム。代償として封じられるはずの人としての意識をその身に留め、得られた翼で自由気ままに空を駆け巡る様は、雄大な姿と似付かぬ天真爛漫な子供にも似たものを感じさせる。
 人として会いまみえたときは相変わらずであった幼い出で立ちも、竜に転じてみると初めてその姿を見たときよりも更に大きく成長している様に感じられる。不思議にも、レフィルには何となくその様な気がしていた。
『………。』
「どうしたの、ムー?」
 一方、懐かしさを覚えながら見つめるレフィルをよそに、ムーは黙り込んだまま空を見上げていた。

『空気が重たくなってる気がする。』
「……え?」

 広げられた金色の翼の方にしきりに意識を向けながら呟かれたムーの言葉に、レフィルは不思議そうに小首を傾げた。
『……よくわからないけど、飛びにくい。』
「それって…大丈夫なの?」
『気持ち悪いけど問題はない。』
「なら…いいけど……。でも、確かに何だか…変な気分ね。」
 空を飛ぼうとしたその瞬間に、ムーは全身に妙な重みを感じた。言われてみれば、確かに朝方にしては先程よりも空気が淀んでいる様に感じられる。
―闇の…せい?
 陰鬱な気分を引き起こす体の底にも伝わる不快な重みは、世界を救う旅の中にあった時でさえも体感した事はなかった。これもまた、大魔王がもたらした厄の一つなのだろうか。

『私についてきて。』

 飛び立つべくして翼をはためかせながら、ムーはレフィルとラーミアへとそう告げた。
「守人さんのところに行って回るんだよね。ちょっと長くなるかな…。ムーもラーミアも…無理はしないでね。」
 共に大きな翼を持つ竜と鳳でありながらこの世界を覆わんとしている闇の影響は免れない。更にはラーミアは傷が癒えたばかりである。自分のせいで仲間達が傷つく事を厭う心からか、レフィルはそう言いながら、心配そうな表情をその顔に浮かべていた。


 金色の竜に導かれ、七色の鳥の背に乗り、微かな闇の残り香が漂う空を行く。世界に散らばり各地を見守る守人達の下に訪れる日々が始まってから、既に幾日かが経とうとしていた。

「おお、あんたは女王様のお客人の嬢ちゃんじゃねえか。どうしたよ?そっちのべっぴんさんはお友達かい?」

 レフィル達は今日もまた、地上を見下ろす山に住まう守人の一人を訪ねていた。口周りと顎に立派な鬚を生やした戦人の出で立ちをした男が扉の内から出迎える。
「大魔王ゾーマを見なかった?」
 親しげに話しかけてくる守人に答えるより先に、ムーは有無を言わせんばかりに短くそう尋ねた。
「…ああ、そういう事かい。いや、今のところこっちには来てないな。特に変わった様子もねぇみたいだしよ。」
「そう。なら別にいい。」
 その淡々とした語りから彼女達に時間がない事をすぐに察して、守人はムーが望む答えを返した。
「ご時世とはいえ…相変わらず愛想のねぇ子だなぁ。それよか、お前さんが力添えしたあの村の皆は今でも元気にやってるみてぇだぜ。大魔王なんかどんと来いって勢いだったな。」
「順調、順調。」
 とはいえ、やはりあまりにあっさりと引き下がろうとする様子に少々寂しさを覚えたのか、守人は一つだけ興味を引く話題を口にした。すると、ムーはどこか嬉しそうに振る舞い始めた。
「あの村…?確かに…何だか生き生きとしてる……。」
 小躍りしているムーのそばで、レフィルは窓の外から見える小さな集落を見下ろしていた。田畑には実りを待つばかりの作物が青々と広がり、人々はそれぞれの仕事に精を出している。
「でも…一体何をしたのですか?」
 一目見て、活気溢れる村であると知る事ができた。そして、それを成したのはムーの働きによるものであると聞く。では、ムーは何を以ってこの村を住みよい村としたのだろう。レフィルにはそれが気になっていた。
「ああ、こいつの魔法使い振りは大したもんだぜ。パルプンテとかいう呪文で、日照りで干からびちまった田畑にうまい具合に雨を呼び寄せやがってな、凶作になって飢え死にしねぇで済んだんだとよ。」
「そんな使い方が……。」
 破滅をもたらすとばかり印象に残る究極の呪文・パルプンテがこの村に恩寵を与えたという話に、レフィルは意表を突かれた様な気分になった。
「おまけに突然あんな天候になっちまった原因が空にある歪みだとか突き止めて、それを取り除いたりとかしてな。目の付けどころからしてタダもんじゃねぇわな。」
「それは…すごい……。」
 使いこなせば変幻自在な力を上手く利用しただけでなく、日照りが起こってしまった元を断ち切る事で気候をあるべき姿に戻すだけの機転まで利かせている。メドラの力と悟りの書によって得たあらゆる知識から来る数々の高度な呪文だけでなく、自然の本質さえも見抜こうとしている様は、魔法使いとしてかなりの域に達したものと見られる。
―ここでも…皆のために働いてたんだ……。
 そして、ムーはその天賦の才を秩序を支える道具として有効に活用している。そうして自らが進むべき道を決めつつある仲間の姿を、レフィルは輝かしくさえ思っていた。

「残念だけど、話はもうおしまい。次行く。」

 魔法によって救われた村での出来事を自慢げに語る守人の話を遮ってそう告げながら、ムーはレフィルの手を引いてその場を去ろうとした。その話に本人も満更ではない様子だったが、やるべき事がある以上ここに長居をするわけにはいかない。
「おうおう、ちょっと待っとけ。急ぎだってのは分かってるが、弁当になるもんは欲しいだろ。」
 すると守人は、先を急ごうとするムー達を呼びとめて、何かをこちらに寄越してきた。
「またここに来る事がある様だったら渡してくれって頼まれたのさ。お前さんの大好物もご丁寧に入ってるみたいだぜ。」
 手渡された袋の中には、旅人向けの日保ちの良い食糧が数多く入っていた。一品一品にムーによって助けられた農夫達の感謝の気持ちが宿るかの様に、手が込められているのが分かる。
「スライム団子…!!」
「ムーったら……。」
 そして、ムーが好きだった菓子の類が幾つか入っている。それを見て目を輝かせるムーの姿は、まさに無邪気な子供のそれであった。一つの村を救い、世界を守るための戦いにも携わっていた力ある魔法使いとは思えない。相変わらずの幼さにも似た純真さを見せる友に、レフィルは呆れた様に溜息をつきながらも、穏やかな表情で苦笑していた。
「お世話になりました。」
「ああ、また来いよ。」
 餞別の品を受け取った後、レフィル達は礼もそこそこに再び空へと旅立った。

―何か…いいな、こういうのって。

 魔王という巨悪が無くなった後も、人々の間に降りかかる厄がなくなった訳ではない。それは時に、人同士の争いにさえ通じるものもある。そうした問題に自らが持てる力を以って挑み、敵わずとも機転を利かせて制する。そして、さらに突き詰めて追及した果てに、本質を見抜いて全てを解決に導く。皆から集められる感謝はもちろん、やり遂げた達成感もかなりのものに違いない。その様な生活を送ってきたであろうムーに、レフィルは心の底からの羨望の念を抱いていた。