第二十六章 灼熱の門



 天高くにそびえる山の上に集っていた闇が去り、再び蒼き空へと戻っていく。友の帰還と共に日は西へと傾き、金色の黄昏に空を染め上げた後に地の果てへ去り、星々が普く夜空へとその姿を変えていく。

「かがり火を焚け!」

 遥か高き山に建つ城の外と中では、兵達が巡回し、夜の静寂の内でその眼を凝らして厳しく見張りを続けている。先に襲い来た闇の使徒達がまたいつ来るかわからない。
「交代のお時間です。」
「そうか?すまんな。今のところ異常なしだ。」
「了解しました。」
 しかし、彼らの顔には惑いはなく、国に仕える確固たる意志を以って、各々の任を全うしていた。誇り高き天の守護者が住まう城にまで迫る闇の手の者達の力は確かに恐ろしいものであった。或いはそれが返って彼らをそれぞれの務めに心を向けさせているのかもしれない。


 その頃、強者達に守られし城の中ではささやかな晩餐会が行われていた。食卓についているのは主たる女王と、客人として呼ばれた二人の少女のみで、他には数人の護り手が部屋の随所で警戒に集中して静かに佇み、僅かばかりの給仕の者達が食卓の上を慣れた手つきで整える姿が見られるだけであり、辺りは豪奢な内装に似付かぬ程に静まり返っていた。

「………。」

 その中で、招かれた客人の一人―微かな光を帯びたドレスに身を包んでいる少女が何も物言わずにただ俯いていた。
「レフィル?」
 その様子に、向かいの席に座るもう一人の客人―緑のローブを纏った赤髪の小柄な少女―ムーが首を傾げる。

「……もう!…ケーキに普通こんなもの入れないわよ……」

 ムーが不思議そうに前を眺めてしばらくして、レフィルはその顔を上げながらそう告げてきた。文句の口上を告げる顔は涙に濡れて、その左手に摘んでいるフォークには白いクリームの欠片が微かについていた。
「む…?」
 突然泣き始めたレフィルを前に、ムーは少々理解に苦しんだのか、思わずしきりに瞬きをしていた。
「…おいしくなかった?」
 そして、心配そうにレフィルの顔を覗き込んだ。右手に覆われた目元からは涙が止めどなく流れ、口からは絶えず嗚咽を零し続けている。自分が作ったケーキのどこが悪かったのか。表情の揺らぎは現れずとも、友の泣く姿を見てはそれ以上何もいえなかった。

「いいえ、ムー。ふふ、レフィルったらあんなに嬉しそうな顔して…。」

 そんな二人のやり取りを眺めて、女王は穏やかな笑みを湛えていた。年若い少女のレフィルと同じ顔立ちでありながら、守護者たる者として長い時を生きてきたせいか、多くの優しさを知って、より穏やかな雰囲気を纏っている。
「嬉しいの?」
 その言葉に、ムーは不思議そうに女王を見つめた後、泣いているレフィルを一瞥した。
「命の木の実とラックの種…それに、ルラムーン草まで……」
 勇者として旅立つ前より料理を嗜んできた事で磨かれた味覚が、ケーキの材料として入れられていたものを正確に知らしめる。ケーキとして用いるにはまともな材料は殆どなかったが、それでもその全てが傷つき倒れた自分に対する思いが込められている事に胸が熱くなり、更に涙が零れていく。
「あら、まぁ。やっぱり本当、面白い子よね。優しいお友達に恵まれて羨ましいわ。」
「…はい。相変わらず…です。」
 常軌を逸した行動によく出ながらも、不思議と嫌な気分にはさせないムーに、客人として長い間付き合っているときにも何度も微笑ましさを感じさせられてきたのだろう。レフィルもまた、旅していた頃となんら変わりないムーの個性を今また見せられて、懐かしい気分に浸っていた。
「相変わらずって?」
 そんな二人の言葉の意図が感じ取れず、ムーは思わずそう尋ねた。自然に過ごしているつもりであったが、そんな自分のどこがおかしいのか。
「…あなたがいてくれて本当によかった……」
「?」
 それに対してレフィルは今一瞬の幸せに浸り、望んだ答えを返すことはなかった。だが、その言葉も紛れもなくムーに対する感謝の気持ちであった。涙に濡らした顔を綻ばせるレフィルを見て、ムーは小首を傾げていた。
「深い絆…それがあったからこそあなた達は……」
「女王様?」
 取るに足りないやり取りの中で、無二の親友としての繋がりを確かめあう様なレフィルとムー。ネクロゴンドに集った勇士達が成した事―魔王バラモスの討伐を小さくか弱い人の子達がやり遂げた事実を思い返していた。その中心となったのは、偉大なる勇者の後継者として生きざるを得なかったレフィルの存在に他ならない。彼女を支えたムーともう一人の仲間との絆が、或いはその身の丈に合わぬ大任を全うさせたのかもしれない。

「さて、話したいことも聞きたいことも山ほどあるわ。心の準備ができたら、私の部屋においでなさい。」

 そして今回もまた、苦楽を共にしてきた友との再会を果たす事ができた。心身共に傷ついて倒れたはずのレフィルが再び立ち上がっている姿に頼もしさの様なものを覚えながら、女王は最後にそう告げながら静かに席を立った。
「話したいこと…か。わたしも……」
 片割れ、守護者を初めとする慣れた響きの言葉の断片は元より、自分自身を映したかのような姿形。自らの心の闇とは程遠い慈愛に満ちた雰囲気。そんな彼女が自分の話を聞き届けてくれる事に、レフィルは安心感を覚えていた。
「行こう、レフィル。」
「……うん。」
 進むべき道を知るにはまずは女王を訪ねるべきである事はよく分っていた。ムーに促されるままに、レフィルはしっかりとした足取りで前に進み始めた。
「でも、その前に腹ごなし。」
 が、直後に後ろから聞こえた相変わらずの呑気な言葉に、レフィルは思い切りバランスを崩し、派手に床に転んだ。どうやら持ち前のマイペースの度合も相変わらずらしい。



 ムーに連れられて城の中を散策した後に湯浴みを済ませ、言われた通りに竜の女王の部屋に足を踏み入れると、竜の女王が出迎えてきた。部屋着なのか、簡素なローブを纏っただけの姿は、先程までの竜のローブと金のティアラを帯びた女王たる者とは大きく異なりながらも、元来の神に近しき者が持つ雰囲気をそのままの形で醸し出していた。

「地上の守護者…やっぱりあなたが……」

 王たる者に相応しい大きなベッドを覆い隠すカーテンの前に静かに佇む女性の云われを口ずさみながら、レフィルは何とも言えない気持ちを感じていた。。
「そう。私は竜の女王。世界が滅びを迎えんとするそのときに、世界を滅ぼさんとする意思を阻止する。それは本来わたしが担うべき役割だった。」
 下界の人間達の間でも守護神として祀られている程に、その名は広く知れ渡っていた。だが、この言葉を聞いている内に、当人に会う事になった今をようやく実感した気がした。
「バラモスは昔から、疎んじられている強き者達のために世界を滅ぼす野心を抱いていた。その力が世界を滅ぼす程に大きくなったとき、もうこれ以上捨て置くわけにはいかなくなった。世界のためにもね。」
「…じゃあ……女王様は、一度バラモスと戦って……?」
 魔王と呼ばれるだけあって、バラモスの力は圧倒的なものであった。そうした己の力に留まらず、力ある魔物達を己が配下としている事もあり、既に世界を握るには十分な力を持っていた。そして、同じく絶大な力を宿した”ダーマの咎人”―メドラの力を滅びに繋げる事を企んだそのときになって、女王は自らが動くべき時が来たと悟った。
「そこで終わらせられれば、あなた達に危険な役割を担わせる事もなかった。バラモスは…元より人の子の手に負える相手ではなかったはずですもの。」
「え……?」
 確かに旅の終わりに辿りつこうとした時にようやく見つけた魔王バラモスとの戦いは熾烈を極めた。闇の神の力を借りなければ、レフィルも容易く滅ぼされていただろう。女王の言うとおり、最後には死闘の末についにバラモスを倒したとはいえ、やはり自分達には荷が重すぎる相手だったのだろうか。
「そうね……この際だから、あなたにも見せた方がいいかしら。」
 その様に考え込んでいるレフィルを見て、女王は一息つきながら纏った衣の止め帯に手をかけた。

「あなたが担った役割の大きさ、それを見せてあげるわ。」

 そして、何かを封じ込めているかの様に固く結ばれたそれを一思いに引いた。同時に、帯によって締められていたローブが弛んだ。
「じょ…女王様…?何を………っ!」
 突然の行動に驚きを隠せずにレフィルが何かを言いかけたそのとき、女王の体が徐々に薄れていくのが見えた。
「…こ…これは……。」
 微かに身に帯びた光の中で、女王であった存在がだんだんと別の何かへと変わろうとしている。

『…………。』

 いつしか目の前に、翠玉の如き煌きをその身に纏った巨大な竜が音もなくその姿を現していた。広く取られた天井にも届く程の体躯でありながら、神性を強くここにいるレフィル達に示している。
「……!」
 もはや自分の写し身とは異なり、正真正銘の守護者たる者の雰囲気を帯びた竜の女王を前に、レフィルは言葉も出なかった。

『驚いた?』

 そんな彼女を見て、竜は人の姿を取っていたときと変わらぬ声で、そう囁きかけてきた。姿が変われど、慈愛に満ちた心は一片も変わることなく竜の体に宿っている。
『これがあなた達が地上の守護者と呼ぶ者、かつて破壊の魔竜と恐れられた私の真の姿よ。』
「凄い……。これなら…確かにあのバラモスも……。」
 自ら名乗ったかつての忌むべき名の名残なのか、それとも神に近しき守護者であるが故か、射殺す様な殺気も圧し潰す様な気迫も発さずに慈母の如く佇んでいる今でさえ、その体躯以上の圧倒的な存在を感じさせる。ひとたび飛び立てば、大空に舞う破壊者の姿を前にして皆が畏怖を覚えるだろうか。或いはあのバラモスですら歯牙にも掛けぬ程に倒せてしまうかもしれない。
「でも、酷い傷痕……。」
 しかし、レフィルが感じたのはそれだけではなかった。深く抉り取られたかの様な痛々しい傷痕が、腹を覆う鱗を穿つ様にして残っている。
「………。」
 レフィルが眺める傷痕を、ムーもまた静かに見つめていた。
『この力を以って、バラモスを倒すはずだった。けれど、それは叶わず私は傷を負って動ける状態じゃなくなってしまったの。』
 ムーがメドラとしてバラモスと戦っていたその時に、自分を庇って必殺の魔拳をその身に受けた事により、竜の女王もまた生死の狭間を彷徨っていた。
『笑っちゃうでしょう?地上で神と崇められている私も、所詮は生命の一つに過ぎないなんてね。』
「生命…か。」
 大切な者を失った憤怒と憎悪に任せるままにメドラによって巻き起された災禍に呑み込まれたとはいえ、成す術もなく倒れていた女王が自嘲気味に吐いた言葉を、レフィルは思わず反芻した。死を跳ね返す程の常軌を逸した体力と精神力を持つホレスもまた、神を信じずに「人間」という一つの生命である事にこだわり続けていた事が自然と思いだされる。
「そこの卵も……あなたの…?」
 静かに揺れるカーテンの奥にある台座の上に、白い殻を持つ大きな卵が安置されている。温もりを与える不思議な光に包まれて、今にも目覚めの時を迎えんとしている様に感じられる。
『ええ。あの騒ぎの少し前に生まれたの。』
「それってまさか…そんな状態で戦いに……!?」
 …が、それが示す事実を知り、レフィルは愕然とした。子に命を分け与えたその状態で、世界を守る戦いへと赴いたという事になる。使命とはいえ、体力を失ったままであまりに過酷な運命に立ち向かい、果てには未だに癒えない深い傷を負ってしまった事にショックを受けたのか、レフィルは表情を曇らせていた。
『そんな暗い顔をしないで。この子を守るためにも、わたしは行かなければならなかったのだから。』
「女王様……。」
 だが、女王が動かなければ、バラモスはメドラの力を手にしてその野望を果たしていただろう。そして、世界が滅ぼされれば、ここにある女王の子も当然死んでしまう事になる。どのみち最初から避けて通れる道ではなかった。

『さあ、続けましょう。何でも話して頂戴。』

 闇に追われた果てにこの城に連れられた迷い子に、翠玉の守り神は紅玉の如く紅い瞳を向けながら優しくそう告げた。