招来 第五話



 倒れた少女の虚ろに開かれる紫眼が、何もかもを飲み込む暗き闇へと閉ざされる。
 降り注ぐ黒い雷が、福音を告げようとしていた兵士達を、勇者の姿を一目見ようと訪れた異国の者達を穿つ。彼らは何が起こったか解せぬままに黒い顎門に噛み砕かれ、一瞬にして灰塵と帰した。

 突如として辺りに普く死の香りは、今を生ける者達の鼻腔を伝い、この上ない恐怖を呼び起こす。そのあまりの大きさに怯えるあまり、皆が逃げる意思さえも失ってその場に縫いとめられる。
 声すらも上げられない重き沈黙。このとき、この場の時間は完全に止められていた。あたかも極寒の吹雪に当てられて凍りついたかの様に。何もかもが氷の鎖の如き静穏の内に縛り上げられている中で、この場を覆う闇だけがただその深みを増していった。

ーどうしたと…言うのだ…

 盛り上がらんとする祝いの場に立つ歓声の波を一瞬にして沈めた闇からの雷。魔王を倒した名剣を携えし少女を貫いて倒し、兵士達を焼き尽くした突然の災厄を前に、王もまた玉座から動く事ができなかった。


『 どうやら水を差してしまった様だな。 』


「…!何だ…!?」
 外より差し込む光が失われて、不意に辺りが闇に包まれる。その静寂の中で、禍々しさを纏った声が無音のままに皆の心に響いて波を立てる。

『 何を驚いている?常なる平穏など儚き夢でしかない事など、賢しきそなたらに解せぬはずはなかろう。 』

 不穏なざわめきに揺れる人々を見ての事か、闇からの声がどこか呆れた様にそう囁きかける。得体の知れぬ者を前に人が陥る混乱。目の当たりにした者達にとっては感覚を閉ざしたくなる程の恐怖であっても、天より見下ろす神には滑稽な情景でしかない。

「…何者だ!!」

 恐怖によって凍りついた様に動かない人々と黒雷に撃たれて面影すらも残さぬ程に失われた死者の残滓、そして…倒れているレフィルの姿を見て、王はようやく我に返り、見えざる脅威に向けてそう叫んでいた。

『 ほう、これを目にして尚も恐れぬというのか。よかろう、ならば心に刻むが良い。 』

 国の主として皆を守る責務の下に遥か上の存在と向き合わんとする王に対して賞賛にも似た一言を零した後に、それは告げられた。




『 我が名はゾーマ、大魔王ゾーマ。 』




 世界に秩序をもたらした勇者を奉る祝祭に突如として現れた、招かれざるも大いなる存在。姿すら見せぬ今もこの場にある何もかもにその手を伸ばし、飲み込まんとする闇の王。それは、ただ一つの存在であるとは到底思えぬ程に…世界すら飲み込む程に大きく、故に逃れる事すらできない事をこの場の皆に知らしめていた。

「だ…大魔王…じゃと…!?莫迦な…!?」

 かつて世界を滅ぼそうとした魔王バラモスでさえ、レフィル他数多くの英雄達の手によってやっと勝ち得る事ができた相手であった。だが、その魔王を超える巨悪が、今この場にその存在を示している。更なる脅威の出現を目の当たりにして尚信じる事ができず、王はただそう呻く事だけだった。

『 生贄を以って希望にすがりし人間達よ、次はそなたらが絶望を味わう時だ。そなたらの世界もすぐに闇によって閉ざしてくれよう。 』
「……っ!」

 そして、次の言葉によって王は完全に言葉を失った。このままこの大魔王の好きにさせていては、更なる悲劇が起こる事は間違いない。
―生贄……
 だが、それよりも先に述べられた生贄という言葉が王を打ちのめしていた。闇に在りし者達とて、人が”勇者”という犠牲を以って平穏を得ようと図り続けた事は知れたものであるらしい。
 そして、この場にいる勇者―レフィルは皆のための”生贄”になる事など元より望んでいない。それでも、英雄オルテガの血を引くレフィルに頼る他にアリアハンの混迷を救う手立てはなかった…つまりは生贄を以って希望にすがる事が唯一の道理であった。よって、ゾーマの言葉を否定する事は叶わない。

『 さて… 』

 愕然とする王、そして動けぬ人々にもはや気にも留めずに大魔王が一息ついた途端、死んだ様に動かずに倒れているレフィルの回りに、一層深い闇が覆い始めた。




「…………う………っ…」

 天からの黒い雷に射抜かれて、レフィルは突き刺さる痛みとむせ返る血の匂いに喘いでいた。体に力を入れようとすると、更に激痛に襲われて動く事もままならない。

『 聞こえているのでしょう? 』
「……!」

 全てを背負う決心をつけた矢先に、自らの決意を否定する様に囁かれた声が再び響き渡る。それは、自分自身が発したものと同じものであった。

「どうして…わたしが……あなたがそこに……」

 レフィルに届いたその音―自らの心の闇が告げた声は、ゾーマと名乗った魔の王と同じ雰囲気を纏っていた。そして、自分自身を写し取った様な姿の少女が、何よりも暗い闇の中に佇んでいるのがレフィルの目にはっきりと映った。

『 もう忘れてしまったの?それとも忘れていたかった?でも、あなたがあの時に闇を望んだ事は変わりない。 』

 表情はおろか生ある者の温もりすら感じさせない、氷に閉ざされた死人の様に冷たい面持ちでこちらを見やりながら、少女はただ過去に犯した過ちの事実を残酷に突きつけてきた。



 此に在りしは昏き絶望
 
 汝が求めしは逸理の約
 
 其を望まば、己が内に在る深淵に問いかけよ
 
 闇に灯りし汝が標、其が道を拓かん



「これは……まさか…」

 ついに迎えた魔王バラモスとの戦いで、二人の仲間を倒されて自らも命を落としそうになったその時に聞こえてきた闇よりの誘い。その時に聞こえてきた祝詞が再び頭を過ると共に、不明瞭ながら強い意味を持つ記憶の断片が呼び起こされる。



―やめてっ!!



 理を超える事しか、あのときに生を拾う道はなかった。だが、それによって自分が自分でなくなる事に対する恐怖が、自分に対してそう訴えかけていた。



―やめて?そうして自分を破滅に追いやったのは、あなた自身じゃない。



 しかし、死の運命に対する憎しみが、その恐怖を完全に否定した。そもそも望まぬ道を拒絶する事すらできぬ自らの弱ささえ、その激しい憎悪の対象でしかなく、ずっと捨てたいと思っていたものであった。



―そう、もう迷わない…。わたしの道は…誰にも…!!


『 ゾーマは闇そのものに限りなく近しい存在。だから、闇に願いを託したならばそれはおのずとゾーマへと至るの。そのとき、わたしはゾーマの一部となった。 』


 魔王によって命を踏みにじられるところに至って、もはやレフィルは自らを闇に染める事に一片の迷いなどなかった。このときに、ゾーマは標となったレフィルの嘆きと絶望に触れて、それを取り込んでいた。もう一人の自分―心の闇が囁きかけた言葉はそう言っていた。
『 自分を滅茶苦茶にした何もかもに仕返しをしたかった。ずっとずっとそう思っていたんでしょう?そのためなら、何もかもを犠牲にしても構わなかった。違う? 』
「それは……」
 間違っている。そう口にしたくても声にならなかった。自分を縛りつけた全てに復讐したいがために絶大な力を求めた挙句、機を与えてくれた仲間でさえも生贄に捧げる事を躊躇わない感情が起こっていた事は心のどこかで自覚していた。

『 もう誤魔化すのはやめにしましょう。今も忘れていないくせに。どう思ったところで、アリアハンの誰もかもがあなたを破滅に追いやろうとしたのは変わらないわ。あなたは確かにバラモスを倒した。それなのに、今度は何も知らない人達があなたのその力を恐れている。わかるでしょう? 』

 如何なる理由があれ、レフィルを勇者という死地を行くものへと仕立て上げたのは他ならぬアリアハンの民達である。彼らとて、バラモスがもたらす見えざる厄に怯えて暮らしてきた被害者であるが、その事実もレフィル自身の心の奥底に根強く残る闇に対しては、ただ一つの慰めにもならなかった。

『 ほら、今度もみんなあなたを見ている。今現れた新たな魔王…ゾーマを打ち払うべき勇者として。 』
「!!」

 そして、更なる力を持った新たな脅威を前に人々は、皆レフィルの方を向いていた。仮初の平和を打ち砕き、再び世に混沌が招かれようとする中で自分に対して光を見出そうとしているのか、その表情は抜け殻の様に虚ろでありながら、四方八方より向けられる視線は射抜くように鋭いものであった。

『 怖かったんでしょう?こうなってしまう事が。けれど、その時はもう来てしまった。もう後戻りはできないわ。前にも進めない。バラモスの時と同じようにね。 』

 勇者に選ばれなかった者達の平穏への妄執、その恐ろしさは勇者を望まなかった自分だからこそ良く分かっていた。守られている事を実感できない者達が実際にこうして魔の者の気配に触れる事で生じる恐怖は計り知れない。皆から受ける重圧の重さは、バラモスの時の比ではない。


「そん…な………」


 希望として崇められたが故に、更なる悪が現れれば再び立ち上がらなければならない。だが、戦いによって傷ついて力も失った今のレフィルにはどうする事もできない。受け入れれば死あるのみ、拒絶も許されない。結局は暗き道に進む事を強いられる絶望が待ち受けるのみである。
 闇にただ一度手を伸ばしたが最後、こうしてそのまま引きずり込まれるとは、レフィルには全く予想できなかった。


『 そう。あなたのその絶望を、ゾーマは望んでいる。 』


 気力を失い、虚ろに開かれた目で虚空を見つめるレフィルの表情には、既に光などなかった。纏わりつく闇を払う事すらできず、ただ横たわるだけの力ない様子を待っていたかの様に、心の闇は明確にそう告げてきた。


『『 約束されし時は既に近し。ここに在りし希望の生贄を以って、我らは闇の招来を成すであろう。 』』


 いつしか紫のオーラに包まれているレフィルを皆が見守る中、音無き大魔王の声と少女の声が重なり合い、その宣告はここに在りし生ける者達の内に深く刻み込まれた。


『 待っているわ。あなたは必ず、わたしのところに来なければならない。だから…… 』


 闇の写し身が最後に告げた言葉は、逃れられない運命をレフィルに伝えながら、小さく余韻を残しつつ虚空へと消えていった。






「去った…のか……?」

 呆然と立ち尽くす王の口から、その様な言葉が零れ落ちる。絶望を告げる無韻の宣告を最後に、この場を包みこんでいた暗闇は晴れ、底冷えする様な冷たく重い重圧も綺麗になくなっていた。

「…これは、夢か…?いや…」

 確かに巨悪はこの場から消え去っていた。だが、それがもたらしたものははっきりとその証を残していた。
 黒き雷に撃たれた兵士や来賓の者達の命はもう戻ってはこない。何より、大魔王の存在を知らしめられた事を、この場の誰もが今更忘れる事などできるはずもない。


「嫌……」


 英雄と呼ばれた少女もまた心身に深い傷を負って、王の足元で虚しく転がっている。目からは涙がとめどなく流れ落ち、震える口からは嘆きの声が幾度も呟かれている。


「レフィル…」


 やがて眠る様にして意識を失ったレフィルを、王はただ黙って見下ろす事しかできなかった。勇者の使命という魔と人の呵責の狭間に堕とされた果てに力を失って、今また再び更なる恐怖を背負わされた彼女に、もはや救いの手など差し伸べられない。






 不意に、上方からけたたましいまでの甲高い鳴き声の様な音が響き、静寂に包まれた空間に陣風が巻き起こった。

「…っ!?これは…」

 突如として舞い降りたそれが立てる羽音と共に、剥がれ落ちた白い羽が幾つも宙を泳ぎ始める。その姿は、レフィルから受け取った冒険の書で王が見たそれと同じであった。

「ラーミア…」

 六色の光を集めた果てに降臨した、神の使いの異名を冠する不死鳥・ラーミア。傷ついたレフィルへと顔を擦り寄せる様は哀しみに満ちており、伝説より伝え聞いた威容も幾分か小さく見える様な気がした。

『タスケ…ナキャ……』

 しばらくレフィルの体を改める様に触れた後、ラーミアは彼女をくちばしで拾い上げ、首を器用に回して自分の背中に乗せた。
「なっ…どこへ行く!?」
 そして、王の制止に一瞥もせず、不死鳥はすぐに飛び立ち、レフィルと共に大空へと去っていった。

「………。」

 残された王の前には、闇にあてられて生気を失った様に力なくうなだれる者達の姿しかなかった。それを見下ろす王でさえも、体の力が抜けていく様な感覚に襲われて、気がついた時には玉座に身を委ねていた。





 王城より飛び立った光は、そこに舞い降りた闇から逃れる様にして天高く昇り続けた。重い闇を纏った…纏わされた大切な人を背中に乗せながら。
 飛び交う小鳥達は、その大きな光が怯える様に速く天を駆ける様に驚いて四方八方へと散っていく。烈風を巻き起こしながら去っていく存在が残したのは、強き光とそれに守られし闇の軌跡。本来の鮮やかな色彩の無い白と黒の虹が、黄昏の空に掛けられる。

 ラーミアはただ鳴き続けていた。親鳥に助けを求める子鳥の様に。神の僕と呼ばれる存在であったとしても、未だ幼いラーミアに、レフィルを救う術はなかった。
 光そのものとなった様に、彼女は何度も世界の周りを巡り続けた。身を裂かれる様な痛みを受けても、空を行く魔の者に行く手を阻まれても、ラーミアは決して止まる事はなかった。
 無理な飛行と共に傷んだ白い羽が、次々と地を目指して落ちていく。呼び声も段々と弱くなり、羽ばたきにも目に見えて力が無くなっていく。
 そして、とうとう力尽きて遥か高くから青き大地に向けて吸い込まれていった。


『何があったの?』
『!!』


 だが、その刹那、不意に少女が何かを尋ねる声が聞こえると共に、ラーミアの体はしっかりと何かに掴まれて空中で支えられていた。
 金色の巨大な体を空に留めるために、その翼は幾度も力強く羽ばたいている。雄々しい角と厳めしくも凛々しい顔が、目の前に寄せられている。そこに灯る緑の双眸が、優しく自分を見つめている。それは、この世で最も強いとされる存在―竜の姿に相違なかった。そして、その魂は紛れもなく、レフィルと共にあった者のそれであるとラーミアには容易に察する事ができた。

『レフィル?』

 支えられながらただ静かに佇むラーミアを横目に、竜は彼女の背中で眠る様にして倒れている少女の姿を目にしてそう呟いていた。


『………………。』


 古い友に会うべくして旅してついに会いまみえる事ができたと思えば、肝心の彼女らは傷つきながら逃げ惑っていた。一体何がレフィルとラーミアを追い詰めたのかを知る由もなく、竜は二人をしっかりと支えながら何処かへと飛び去って行った。