招来 第四話


 魔王バラモスによって脅かされて揺れ動く世界に平穏を取り戻し、常に希望であり続けた今は亡きアリアハンの勇者―オルテガ。その遺志を継ぐ者達が過酷なる旅路を越えて、巨悪が招かんとしていた全ての滅びを食い止めてから暫しの時が流れた。

 災厄の前兆たる禍々しいまでの空気が流れた一時の記憶は、早くも平穏の中で忘れ去られようとしていた。だが、魔王が倒れたという一つの事実―或いはそれをもたらした者達の存在は未だ根強く人々の心の中に焼きつき、瞬く間に世界の知る所となる。やがて、世界中より集った勇気ある者達はそれぞれが帰り着いた場の中で称えられて、英雄として奉られた。

 だが、その誰よりも、その名を世界に知らしめた者がいる。人の世に突如として訪れた魔物による脅威を打ち払い、皆の希望であり続けた男の忘れ形見。”彼女”もまた、崩された秩序を取り戻す一助となり、長きに渡る苦難の旅路の末に、背負った運命の終わりを迎えると共に、この上ない賞賛を受けた。

 父によって築かれた礎が示す光の道の先にある皆に望まれたものを手に入れた。それは、偉大なる者の遺志をその子供が引き継いでついには成したという美談として、より強く父娘の名を皆の心に焼き付かせる。




 そして、この日もまた…その名が強く世界に轟く大いなる意味を持つ時であった。





 空を覆う宵闇は去り、微かに明るみを帯び始める。天のはずれより現れた明けの光が藍色の空の淵を彩り、みるみる内に普く星々の輝きをも飲み込んでいく。やがて日が十分に昇り切ると、雲一つなく綺麗に晴れ渡る蒼穹が見えた。

「……。」

 続いて朝の始まりを告げるかの様に、小鳥達がさえずりを上げるのが耳に入る。黙したまま静かに佇む中でゆったりと目覚める感覚の中に、それらの優美なる変化が奏でる優しい調べが伝わってくる。
 そして、鶏が上げるけたたましい雄叫びが町の随所で一斉に上がり、このアリアハンの王国の皆に目覚めの刻を告げた。

「もう、朝なんだ……」

 寝床の温もりに身を任せていた少女はそう呟きながら、その体の半分を起こしていた。
―とうとう…この日が来たんだ……。
 壁に留めてあるカレンダーに記された大きな赤い丸印。それに囲われている日付を目にすると、ここに至るまでに過ぎ去った日々の平穏が不思議と儚くも感じられる。

「あら、もう起きてたの?」

 階下で聞こえてきた足音が徐々に近づいて、外を隔てる扉が開かれると共に、そう呼びかける声が届く。
「おはよう、母さん。」
 それに対し、少女は静けさを感じさせるその顔を微かに綻ばせて部屋へ入ってきた母へと応じた。
「ふふ、本当に早起きになったわね。いい傾向よ。」
「うん…。今日は流石に眠れなかったかも…。」
 ずっと頭の中に残る複雑な想いは、確かに眠り辛くなる程に大きかったのは間違いない。それでも特別な日の最初に交わされる言葉に不思議と大きな揺らぎはなく、母と子はいつも通りのやりとりから感じられる小さな幸せの中にあった。
「そうねぇ。でも、何があっても私達にとってのこの日の意味は変わらないわ。」
「…うん。」
 必ずしも望まない今日という日に抱いてきた漠然とした不安、我が子がこれからずっと背負わねばならないあまりに大きな重圧に自分達もまた憂いを隠せなかったが、そもそもは自分にとって喜ばしい日であった事は変わらない。差し迫ったこの日の前に幾度も聞いてきた母の想いを、少女は静かに聞き届けた。

「お誕生日、おめでとう。レフィル。」

 この世に生を受けるという大切な時を刻まれた特別な日。その今を元気に迎えた娘を優しく抱きしめながら、母はそう囁いた。

「ありがとう、母さん。」

 慈愛に満ちた微笑みと共に祝福する母の愛を受けて、心地よい暖かさが伝わってくる。
 満ち足りた中で得られる心からの歓びと共に、レフィルは十八歳の誕生日を迎えた。




 起きてすぐに軽く食事を済ませて、身支度を整えて家の外に出る。未だ日の光の温もりは朝の冷たい空気に伝わり切らず、少し肌寒くも清々しい空気に覆われている。

「いよいよ…だな……。」

 出発を前にして、レフィルは少々の不安を素直に表すかの様にそう呟いた。

「ふむ、些か気負っておる様じゃな。」

 しわがれた声が、その心情を汲み取る様にしてそう告げてくるのを聞いて、レフィルは後ろへと振り返った。玄関前に見送りに赴いた祖父の姿がそこにある。母もまた、その傍らに佇んでいる。
「…大丈夫だよ、じいちゃん。無理は…しないから。」
「うむ、それでいい。」
 かつての旅立ちのとき、痛ましい思いを内に押し込めていた事は何となしに感じられたが、今は素直に物事を捉えられている。孫娘の成長に、老人はその皺だらけの顔を暖かに綻ばせた。

「こうしてみると、あの人にも負けない位勇ましいわよねぇ。ふふ…何だか不思議よねぇ。」

 今また王の招致に応じんとする娘の姿に、母は以前の懐かしい面影を見ていた。英雄としての登城を望まれたがために、今、レフィルは魔王討伐の旅に赴いていた時に身につけていた旅装束を纏っている。兜にも類する程に広く堅牢に頭を保護するサークレットを戴き、裾が擦り切れた紫のマントを羽織り、その下に厚手の青い布で拵えられた旅装束がある。ここしばらくの平穏の内にあった少女の姿とは異にして、そこには長く苦しい旅を切り抜けた一つの貫禄の様なものが感じられた。

「うむ。それに斯様に癖の強い剣を使おうとはそなたも大したものじゃ。その剣の冴え、一度目にしてみたいのぉ。」

 祖父もまた、僅かに氷の冷たさを帯びた三叉の青い刀身を持つ剣を手に取って、不思議な興味と共に眺めていた。探求の旅の半分余りも共にしてきたにも関わらず、その刃は今も尚砕ける事なく極寒の吹雪の如き鋭さを露にしている。自らも傷つける危うさをも秘めた、比類なき魔剣がもつ重み。それは生き抜くべくして奪ってきた数多くの敵の命であるとも思わされた。

「…どうだろうな。わたしなんかより凄い人なら…」

 鞘に収めて手渡される自分の剣を受取りながら、レフィルは二人の称賛の言葉にどこか違うものを感じて目を逸らした。旅を続ける中で、レフィルは数多くの強き者達と出会った。駆け出しであった彼女とは比類するべくもない程の高みにある彼らの存在を知るからこそ、褒め千切られるのは性に合わなかった。

「あら、ちょっと親ばかが過ぎたかしらね。」
「ふぇふぇふぇ、違いないのぉ。」
「もう…。」

 身内びいきとでも言うべき感情に気が付いて苦笑する二人の家族に、レフィルは少々呆れた顔を見せていた。だが、愛する我が子、我が孫の成長を喜ばぬ者はいない。望まぬ道ではあったとはいえ、それを乗り越えて育って帰ってきたレフィルを誇りに思うのは当然の事であった。
「なに、せっかくの宴じゃ。気負う事なく存分に楽しんでくるがよかろうて。」
「ありがとう…。」
 最後に祖父が面白おかしく告げる言葉に込められた意思を読み取って、レフィルは少し肩の力が抜けた気がした。世界から集う皆にこの祝宴に招く事にこそ大きな意味があるが、表向きはレフィルの誕生日を祝うという純然たる目的であった。ならば、そこで当人である自分が楽しまずしてどうなろうか。

「じゃあ、行ってきます。母さん、じいちゃん。」
「行ってらっしゃい。」
「うむ、気をつけてな。」

 大切な母と祖父の暖かな見送りを受けながら、レフィルは足取り軽く王城への道を歩み始めた。その顔には既に迷いなどなく、とても落ち着いた表情を湛えていた。




 聖水とも見紛う様な澄んだ水が湛えられた大きな堀によって囲われた城へと続く、長く広い橋の上。

「おお、これがあのアリアハンの城か!」
「何とも見事な城だな。」

 そこには、朝早くであるにも関わらず、いつになく多くの人々が行き交っていた。身なりこそ、礼服や正装等に整えられているものの、その多くが外から来た旅人であると、容易に察する事ができた。
「勇者の国…か。オルテガを超える新たな勇者が今もこの国にいるんだな。」
「ああ…、ド田舎の方でも噂になってるぜ。今じゃオルテガよか有名なんじゃないか?」
 世界を滅ぼさんとしていた魔王バラモスをも倒した事で、新たな英雄の名は過去の偉大な勇者すら凌ぐ程に、強く広く世界に聞こえていた。魔王の侵攻を食い止めたかつてに続いて、今度は揺るぎのない平穏を築きあげた事で、勇者を輩出したアリアハンの国は自ずと古の栄光―世界を統べる大国の位へと還ろうとしている、そう噂されていた。

「おい、あっちを見ろ!!」
「…!!」

 突然、誰かが大声を上げながら橋の入り口の方を指差した。

「おお、あれが!」

 大橋の内に乱れ散る外客達を退けるように誘導する兵士達のその奥に、深みを帯びた紫の外套が静かに揺らめいている。ただ居ながらにして発せられる不思議な雰囲気に、誰かが確信をもって上げた声が、瞬く間に周囲へと広がっていく。



「アリアハンの勇者…!」



 そして、左右より上げられる熱狂的な歓声の中を、皆を引き寄せたその張本人たる英雄がゆっくりと歩んでいた。
「まだ若い娘だと聞いていたが…」
「流石はオルテガの子といったところか。」
 熱烈に迎え入れられる中でももの静かな表情は揺るぐ事はなく、紫の瞳はただ鋭く目の前を映し出している。腰に帯びたやや奇怪な形をした剣は、並の使い手では扱いきれないものを感じさせる。それを御しきるだけの力量も相まって醸し出している異質な雰囲気は、かえって女の身でありながら魔王を討ち取った事を皆に納得させる結果となっていた。


―たくさん、集まってるな……。

 天にさえ届きそうな歓声を遠くに聞き、少女はただ足を前に進めていた。
―…この中に、いるのかな…。
 群衆の中には見知った顔もいくつか見られたが、外から訪れた見知らぬ旅人達がほとんどであった。そして、共に旅した仲間の姿を見つける事はできなかった。それでも、この宴の事を知ればあの旅の日々を一度でも振り返ってくれる事だろう。この上ない喧噪の中の孤独の中で、大切な友人への思いは募るばかりであった。

「レフィルさま!お誕生日おめでとう!!」

 複雑な思いを胸にしばらく歩いていると、突然甲高い声で告げられる祝いの言葉が耳に入ると同時に、目の前に小さな女の子が何かを差し出しているのが目に入って思わず足を止めていた。

「こ…こら!エレン!レフィル様、大変失礼しました!」

 直後、すぐにその後を追って母親が群衆の中から慌てて飛び出して、娘を引っ手繰る様にして攫いながら、一心不乱になって頭を下げてそう謝ってきた。

「これ、わたしに?」
「うん。今日のためにいっしょうけんめい練習したんだ。ぜったい食べてね。」

 だが、レフィルは特に気にした様子もなく、エレンと呼ばれた少女の傍へとしゃがみ込みながら、彼女が手にした紙箱を見つめていた。それについて尋ねると、少女は自慢げに満面の笑みを浮かべる。微かに中から香る匂いからは、ほのかなまろやかさと果実の甘味を感じられる。

「ありがとう、エレンちゃん。」

 その中身が、少女が自分のために作ってくれたケーキであるとすぐに察する事ができた。優しい笑みをその顔に湛えながら、レフィルは少女が差し出すその箱をそっと受け取った。
「あたし、大きくなったら、レフィルさまみたいに世界を旅したいの!だから、頑張る!」
 再び歩みを進めるその背中に、少女の声が再び飛んでくる。その内には、心の底からの憧れの気持ちが込められていると容易に感じ取れた。


―夢…か。


 成し遂げたとされる偉業への羨望や賞賛。それは、旅立ちの時にかけられた期待とはまた違う意味で、とてつもない重みがあった。数々の冒険を切り抜ける中で支えとなった勇気と魔王を倒したという輝かしい武勲は子供達の憧れとなり、夢を与えて未来に進む道となり糧となる。
―そっか…、皆わたしを見てるんだな…。
 そうしたものを与える”勇者”の名を、これからも背負い続ける事となるだろう。ここにきて、自分の身が己だけでなく、数多くの者の行く道を左右する意味合いが思いの外強くなっている事を自覚して、気の遠くなる様な感情を覚えていた。

「お待ちしておりました、レフィルどの。」

 いつしかレフィルは、アリアハンの城門の前に至っていた。同時に出迎えてきた王の使者が、恭しく頭を垂れて一礼する。
「さあ、どうぞこちらへ。」
 彼が優雅なしぐさで振り返りながら兵士へと合図を送ると共に、城の入り口を閉ざしていた正門がゆっくりと開き、その先に続く真紅の絨毯が目に入った。レフィルが城の中に入ると共に、後ろに佇む群衆からの歓声は一層の昂りを見せた。





「おお、レフィルよ!よくぞ来てくれた!!」

 案内の者に導かれるままに足を進めた先にある城の中の執務室で、レフィルはその到来を歓迎する声を耳にした。
「わたしなどのために、この様な素敵な催しをご用意頂けて光栄です。」
 喜ばしさを全面に出した表情で出迎えるアリアハン国王、国を挙げての祝典の主催者たる者に対してそっと跪いて感謝の言葉を述べる。

「うむ。あれから暫く見ぬ内に成長したのぉ。実にいい顔をしておる。」
「え…?」

 かけられた思わぬ褒め言葉に対して、レフィルが小さく疑問を抱いている様に表情を固めたのを見て、王は我が子を見る様にして苦笑した。口上こそ未熟なものであったとしても、その声色には一片の迷いもなく、さほど違和感はない。

「オルテガより、何かと思い詰めやすい娘で心配だ、とよく聞いておったが随分と変わったものじゃ。」
「父さんが…そんな事を…?」

 父親であるオルテガとも親交を深めている内に聞いた話だろうか、昔を振り返る様にして呟かれる言葉に、レフィルは何とも言えない気持ちになった。旅立った父もまた、常々自分の事を気にかけていた。その気持ちが伝わったからこそ、王は進んでレフィルの気を解す様に振る舞っていたのだろうか。定かではなかったが、そう信じずにはいられなかった。

「陛下、レフィルどの、お時間です。」
「おお、そうか。ご苦労。」

 ふと、話の途中でドアが叩かれて、一人の兵士が知らせを述べると、王は頷きながらゆっくりと席を立った。
「では参ろうか、レフィルよ。」
「はい。」
 既に集まってきた者達は、英雄の登場を心待ちにしている。彼らの思いに応える事も与えられた役割と言うのであれば、前に進むためにこなすまでである。
 レフィルは静かながら堂々とした足取りで王の後を歩み始めた。



 そして、英雄の誕生日を祝う宴が始まった。


 魔物の手によって大切なものを奪われて悲嘆に暮れていたか弱き者、自らも勇者という輝かしき称号を求めて旅していた冒険者、成しえた武勇の数々を知ってそれを一目見ようと興味本位で訪れた高貴な身分の者達、その他多くの思いを胸に集まってきた人々の間で、設けられた祝いの場は盛り上がりを見せていた。
 その勢いは大国が擁する大きな城にさえ収まり切る事はなく、いつしかアリアハンの国全てが祝宴を支える結果となった。人が溢れる城の喧騒を離れた者達は、英雄の子が育った町並みを眺めて思い出として刻み込み、街中の酒場で催される無礼講の中へと溶け込んで行く。アリアハンの民達も、膨れ上がり続けるこの祭りを進んで支え、重なり合う喜びの声は、この広い国土の内で寄り合って一つになり、大空高くこだました。


 一方の城内では、世界の国々から集まってきた使者達による祝辞が届けられ、数多くの優美な催しものが行われた。
 世界的に有名な劇団が繰り広げる父オルテガの冒険を基とした英雄譚の楽曲や、社交の場で連想される貴く優雅な舞踏会。それらはレフィルにとって遠いものに思える程に縁のないものであったが、知らない事がかえって新しい世界に対する興味を刺激して、飽きる事なく見入らせる事となった。
 時折他所からの来訪者達が声をかけてくる事もあったが、一線を通り越して気が解れていたのか思いの外苦痛に感じる事もなく、逆に話をはずませて楽しい時の一つとして感じられた。

 そうした心を満たす様な充実した時間は、いつしかあっという間に過ぎていった。



 空に見える太陽は既に西に傾ぎ始め、辺りは黄昏の内に金色に彩られている。程なくして夜が訪れようとしているにも関わらず、賑わいは静まるところを知らない。
 人々の間で飛び交うのは、一層の興味を掻き立てる大きな祭事の噂。それに伴って、町の衆達もまたあやからんと、慌ただしく動き出していた。そうして、この日で最も期待すべき時に対するざわめきが大きく波打っていた。


 それと対象的に、王城の中にある玉座の間では厳格なまでの静謐と、暗幕によって閉ざされた暗闇が辺りを支配していた。赤い絨毯が敷かれた道の左右に、それぞれの楽器を携えた兵士達が並び立ち、その後ろにはアリアハンに仕える者達や世界より集まった要人達が用意された席に着席している。
 玉座に座る王もまた、正面を見据えたまま静かに佇んでいる。その面持ちは、確かに王者たるものに相応しい堂々としたものであったが、”頂点”に君臨する者としての姿勢とは異なっていた。これよりここに来るは、世界の皆に安寧の時をもたらした若き英雄であるからには、自らも含めてこの場の皆、単なる脇役でしかない。
 だからこそ、彼らはただ黙したまま、この場の時を動かす主役の存在を待ち続けた。

 やがて、唯一つの入り口である階段の方から、靴音が微かに聞こえ始めた。それは張り詰めていたこの場の空気に伝わって小さく響き渡り、皆に”彼女”の来訪を伝えた。一つ、また一つと奏でられる足音は段々と大きくなっていく。そして…

 階段からその姿が現れたと共に、暗幕が取り払われて光が差し込んだ。
 光と共に現れた英雄の称号を冠する少女が歩みを進めると共に、両脇に立つ兵士達が手にした楽器を鳴らし始める。ばちが張られた革を打ち鳴らした乾いた音と、金の管楽器に吹き込まれた息吹が奏でる賑やかな音色が彼女の到来を祝うかの様に段々と大きくなっていく。

「………。」

 楽曲の調子と晴れやかさに合わせる様に迷いない歩調で前に進むレフィルの表情には何も映し出されていない。他ならぬ一番辛い場面にあって、これまでにない程の不安感が身を包む。
 しかし、それでも彼女は歩みを止める事も、その昏い感情の一片も表に出す事もなかった。この先にあるのは、また新たな日々への明るみの道。ならば、躊躇う必要など何もなく、前に進んでしまえばいい。


 いつしか、レフィルは王の御前に至っていた。同時に、出迎えの曲を奏でていた兵士達がその手を止める。暫しの余韻を残した後、再び辺りに静寂が戻った。
 玉座に座る王がその腰を上げ、ゆっくりとレフィルへと歩み寄る。傍には鞘に納められながらにして強い力を感じさせる剣を抱えた従者の女が寄り添う様に付いている。彼女よりその剣を受け取ると、王はレフィルに敬意を払う様に身を屈めながら、それを差し出した。


―重いな……。


 受け取ったのは、この儀を前に預けた、長い時に渡って自分自身を守ってきた魔性の護剣―吹雪の剣であった。戦いの時から離れて長く経つ今、初めて手にした時に感じた重みが再び感じられる。
―でも…今は……
 思えば今も昔も過ぎた力であった。そうした感慨に浸るのも束の間、レフィルは再び玉座へと戻る王を見届けた後、後ろを振り返った。そして、左手で剣の柄を取ってそれを抜き放った。
 三叉の蒼い刀身がその姿を現すと共に、そこから発せられる冷気がレフィルの肌に微かに触れる。

 吹雪の剣がレフィルの胸の前で天を指すように掲げられると共に、皆の視線がその蒼く冷たい輝きを宿した刃へと注がれる。これが魔王を倒した勇者が携えていた名剣である。皆がそう信じて疑わなかった。

 皆が見守る中、レフィルは吹雪の剣を天高くかざした。同時に兵士達が再び楽器を手に取り始める。
 程なくして、ホルンによる晴れやかな前奏が奏でられた。




『これで、本当にいいの?』




 不意に、どこからともなく冷たさを帯びた少女の声がそう告げてくるのが聞こえた。

「………っ!!!」

 次の瞬間、全身を打ち砕く様な激痛が、稲妻が打ち据えたかの様に突き抜けた。




―…え………っ!!?




 最後に見た黒い光と共に、体が壊れる音が内側から響き、血の味が口の中に広がっていくのが感じられる。
 取り落とした蒼い剣が乾いた音を立てながら床に転がったその直後、レフィルの体は力なくその場へと倒れ伏した。

「ど…う…して………?」

 一体何が起こったのかを解する暇もなくそう呟いたその時、不意に光に照らされていたはずのこの空間を暗闇が覆い始める。その中でレフィルが見たものは、天の果てから漆黒の雷が幾つも降り注ぎ、楽曲を奏でていた兵士達を尽く暗き無の内に還した様であった。



 悪夢…そうとしか言い様がなかった。