招来 第三話


 空に開けた蒼穹の内に、幾つもの小さな白い雲が流れに身を委ねるままに流れていく。その様に荒れる事ない静かな天と歩調を合わせる様に、大地に広がる緑はそよ風に揺られて漣の如き清音を奏でて、静寂の中にささやかな彩りを与えている。


ピュイイイイイイイイ…


 善き日を思わせるその平穏の中から、大空へ向かう一つの音色が草原に広がって、やがては草むらの中へと消えていった。その余韻は、さながら呼び声の残滓とでも呼べるものであり、空を見上げる少女の意思をそのままに表わしているかの様であった。


キュウウウゥ……


 太陽は今日も、その御許に在りし全ての者達へと天の恵みを与え続けるべく遠くに輝いている。その光を背に受ける様にして影を作る大きな存在を見上げると、手のひらの内に虹色の光を帯びた一枚の羽が舞い降りてくる。


「おはよう、ラーミア。」


 やがて地上へと降り立ったそれ―伝説の不死鳥と呼ばれた鳳・ラーミアへと、レフィルは微笑みを浮かべながら歩み寄って、降ろされたその首筋を優しく撫で上げた。

『ゲン…キ…、ナイ…?』

 すると、ラーミアはつぶらな瞳をレフィルへと向けながら、その長い首を傾げる様にして、不器用な声でそう尋ねてきた。

「ありがとう、心配してくれて…。ちょっと、色々やってたから疲れちゃっただけ…」

 全てを―命さえも掛けたあの戦いを生き延びてアリアハンへと帰り着いたものの、戦いで負った傷が癒えた今も、奪われた体力は思った程戻ってはいなかった。訪れた平穏の中で生きる事の一つ一つに未だ順応し切れていない。人に見せない小さな弱さを見抜いた純粋な心を持つラーミアを、レフィルはその腕でしっかりと抱きしめていた。


キュウウ……


 悲しげな声で鳴きながら、鳳は体の力を抜いて大地へと身を委ねた。この世に生まれる以前より、ずっと呼んでいた少女が傷ついた果てに弱っていく儚さに、ラーミアは何を思ったのだろうか。

「今日も、一緒にいていい?」

 それを他所にそう尋ねるレフィルの声に、ラーミアは体を更に低く屈めて翼を差し伸べる様にして地に降ろす事で答えを返した。

「ありがとう。」

 全てが終わって尚も去る事なく共にいてくれる我が子にも似た幼き鳳と戯れる事。いつしか、それがレフィルの楽しみとなっていた。羽の先へと少女が静かに乗ったのを認めると、ラーミアは彼女を引き寄せる様に翼をゆっくりと身に引き寄せて背中へと運んだ。
 そして、大空へと嘶く様にして鳴き声を上げると共に、七色の光がアリアハンの空へと優雅に舞い上がって行った。



 かつて厳しい生存競争を生き抜き文明を築き、今もまた存亡の危機を乗り越えた人類。だが、その数ある叡智を以ってしても翼までは未だ作れずにある中で、空は決して人の届かぬ領域であり、天にある神はおろか、鳥達がある境地に至れぬ事は自明である。

「…ずっと、わたしの事を見ていてくれたんだね…。」

 その空を舞った先にあるのもまた、人が辿りえぬ高き山。逞しき緑樹が幾つも立つ側にある岩肌が作る空洞の前で、レフィルはそこより見渡せる景色を、尽きる事の無い情動と共に眺めていた。

「ありがとう、ラーミア…」

 鷹の紋章が縫いこまれた紅き旗がはためく大きな城の下に纏め上げられた一つの国。その全貌が一望できる高き山の一角に、草木の蔓などで編みこまれた巨大な鳥のねぐらが悠然と佇んでいる。ラーミアはそこから、アリアハンの城の中で療養していたレフィルをずっと見守ってきた。それを知った時の感謝の気持ちが、今も色濃く残っている。


「あ……」


 ふと、小さく弱弱しくも甲高く耳に届く音を感じ取り、レフィルはその方向を見やった。
「怪我…してる……。」
 そこには、手のひらの内に収まる程に小さな白い小鳥が、純白の羽を血で紅く染めた姿で、よろよろと歩みよっていた。体を改めると、小さな木片が微かに残るその側に大きく傷つけられた跡があった。
「ちょっと…待っててね…。」
 どうやら木々の内で飛び回っている時に、不意な風の変化を受けて吹き飛ばされ、運悪く木々に引っ掛けてしまったのだろう。痛みを訴える様に小刻みに体を震わせる小鳥を宥める様にさすってやりながら、レフィルは傷の手当を始めた。
「…これで、いいかな…。」
 幼き日より動物達と接してきたその経験からか、実に手馴れた手つきであった。突き刺さった木片を丁寧に引き抜いて、傷口を軽く濯ぎ清潔な布を押し当てる。

「ホイミ」

 その上から手を添えながら、レフィルはそう唱えた。癒しの光が布を通して小鳥の体へと注ぎ込まれて、整えられた傷口が綺麗に塞がっていく。
「…良かった……。ちゃんと飛べたね…。」
 包み込んでいたその手を離すと、小鳥は不思議そうに小首を傾げながら傷を見た後に、小さな翼を羽ばたかせて軽快に空を舞った。やがてその手のひらの内へと舞い戻ってくるその姿を見て、レフィルは胸を撫で下ろしたと言うようにほっとした表情を見せた。

「あ……」

 そうしていると、傷ついた白い小鳥の周りに仲間と思しき小鳥達が群がってくるのが見えた。そして…

―今のわたしでも…ちゃんと……。

 いつしかレフィルを囲む様に、山や森に住まう者達が集ってきていた。魔王へと続く道の最中に多くの血を流してきたこの手を見て尚も、彼らは全く怯えた様子を見せずにゆったりと近寄って来た。そんな動物達の姿を見回しているうちに、レフィルはこれまでずっと抱いてきた不安が晴れていく様に思えた。


「今日も…いい天気だね。」


 皆がこの場に差し込む日の光に身を委ねる様にして身を横たえて、日向ぼっこをしている。自らもまた、その春の陽光の温もりを感じながら、レフィルは膝の上で眠る青い雫の如き形の小さな魔物―スライムの体を撫で上げた。

『うむ、画竜点睛とはこの事かのぉ?』

 そのとき、洞穴の奥底から竜頭の如き厳つく巨大な緑の蛇が現れると共に、そう語りかける声が聞こえてきた。

「大蛇…。」

 それは、八つ首の大蛇―八岐の大蛇の呼びかけだった。おおよそこの穏やかな雰囲気の中に相応しからぬ程の威圧感と裏腹に、この平穏の内に溶け込んでいる様子。暁を象徴とするかの国より行動を共にして以来、彼女もまた大切な仲間の一人と言うべき存在であった。

『いずれは我が故郷の山へと帰ろうと思っておったが中々どうして、そなたの郷も見事なものよのぉ。』

 十六の瞳が見やる先にあるのは、アリアハンの大陸に広がる大平原や豊かな森であった。過去、勇者オルテガの名の下にアリアハンの精兵達がこの地を荒らす魔王の手の者に立ち向かい、打ち破ったとも言われていた。その勝ち得たものに自らが溺れる事なくこの自然のままの大地を色濃く残した結果が、八岐の大蛇の心を動かしている様だ。

『この地にようやく落ち着く事ができる今、もはやこれ以上思い悩み、絶望などに身を委ねる事はない。そなたが思うように生きるがよいぞ。』
「あ…ありがとう…大蛇…。」

 数多くの地獄を見てきた中で帰り着いた故郷。それが有する秩序の内へとレフィルは還ろうとしている。ずっと苦しんできた自分を労う様に告げる八岐の大蛇の言葉に、彼女は恐縮する様に肩を竦めた。ジパングなるかの国の守り神と呼ばれた大蛇の優しさは、確かにレフィルへと伝わっていた。


「…あ、もうこんな時間…。…もう行かなきゃ。」


 温もりの中で動物達と共に暫し過ごしたその後に、ふと、太陽の位置が南から僅かに西の方へと傾いできた事に気がついて、レフィルは膝元で眠りについていたスライムを降ろしながらゆっくりと立ち上がった。僅かに空色が変わり、既に昼を過ぎた事を静かに伝えてくるのを感じられる。この場を立ち去ろうというレフィルの意思に呼応する様に、ラーミアもまた浅い眠りから醒めて、その背中へと彼女を誘った。



 アリアハン城下を覆う石壁が見える町のはずれの前に、虹色の光がゆったりと舞い降りる。

「ラーミア、今日もありがとう。」

 その中から姿を現した鳳の背より地に降り立ちながら、レフィルは平穏なる時を共に過ごしてくれた友に対してそう礼を告げた。


キュゥウウ………


「大丈夫よ、また会いに来るから。寂しがり屋さんだね、ラーミアは。」

 立ち去ろうとするところで力なく悲しげな鳴き声を上げるラーミアを見て可笑しくなって、レフィルはからかう様な口調でそう言いながら、降ろされた頭を優しく抱きしめていた。

「じゃあ、また明日…」

 そして、離れながら僅かな別れの言葉を口にすると、ラーミアは暫く躊躇う様子を見せていたが、やがては大空へと飛び立って、虹の軌跡を残して去っていった。


「さて…、そろそろかな……」


 城下町へと続く門をくぐりながら、レフィルは次に向かうべき先を見やった。



 今日という日を確かめ合う様に交わされる世間話と注目を集めるために張り上げられる店番の客寄せの声。それは人通りが多い市場へと賑わいをもたらしていく。漁師や農夫達が提供する多くの糧が、銅や銀の、はたまた僅かばかりの金の貨幣で買われて、それぞれが担う棚に並べられてるその数は次々と減っていった。


「あ、レフィルさん。いらっしゃいませ。」


 そんな喧騒のはずれにある小さな道具屋へと、レフィルは訪れていた。

「…こんにちは。」

 入店するなり親しげに出迎える、この店の主たる人の良さそうな中年の男の呼びかけに、レフィルは少々気恥ずかしそうにそう返していた。

「こうして買い物に来て下さるのも、随分と久しぶりですね。本日は何をお求めでしょう?」

 ここは、旅立つ以前より幾度となく寄った行きつけの雑貨店であった。幼き日より、食糧や日用品などをよくこの店で買い、この場でサークレットを授かったのもそうした縁があっての事だった。

「これらの品、合わせて40ゴールドになりますね。よろしいでしょうか?」
「…はい。」

 今日もまた、夕食のために必要なものをこの店で取り揃えるつもりでいた。レフィルは目に付いた品物を選んで店主へと持ち寄って、提示された値段の分だけゴールド金貨を差し出した。
「娘共々、あなたがお帰りになるのをずっと楽しみにしておりましたよ。」
「…ポーラが?…そう、ですか…。」
 商品を一つ一つ丁寧にバスケットの中へと詰め込みながら、店主と客の間で深い親しみを感じさせる言葉のやり取りは続いていた。
「いつもいつも、レフィったら気弱なのに本当に大丈夫なの?と聞くのも茶飯事なものでして…」
「……そこまで心配されてるとは思わなかったな…。でも、もう大丈夫です。」
「お具合も宜しいみたいですね。安心致しました。」
「はい、お陰様で…」
 英雄の娘だからと偏見の目を向けてくる同年代の子供達。その多くが在りもしない期待をしたり、力不足を責めたりするかと思えば、実際にそうした手合いは果たしてどれだけいるのだろうと気に掛かる。だが、この店主の娘を初めとして、父の影を重ねずにレフィル自身の姿を見てくれた者達は、純粋にその身を案じていたのだろう。


「ときに、もうすぐお誕生日ですね。」
「……あ、はい。」


 ようやく商品を収め終わろうとした頃に店主の口から流れた言葉に、レフィルは忘れていたものに気づいた様に顔を上げて応えた。

「国を挙げての祝典となると、さぞや立派なものとなるでしょうね。」
「………。」

―そうだったな……。
 自分の誕生日に祝典が挙げられる事は、療養の最中にあるいつかから王より聞き及んでいた。

「私達も参列したいところですが、何でも世界中から人が集められるそうで…どうにも混み合いそうで、難しいものです。」

 オルテガの名声はアリアハンのみならず、世界にも及ぶ。その遺志を引き継いで、魔王を倒すという偉業を成し遂げたレフィルにその目が向けられないはずもない。アリアハンの内輪のみで行った先の日の宴とは比較にならない程の来客が押し寄せると見ていいだろう。
―そっか……もう、誕生日も……
 正直なところ、レフィルはそんな煌びやかな祝い事の内にはありたくなかった。だが、自らが拒んでも国の皆が黙ってはいてくれないだろう。辿り得たその時より過ごしてきた平穏の中で、気づかぬ内に何気なく失われたものを感じて、彼女は微かに表情を曇らせていた。

「ですが、私達も影ながらお祝い申し上げます。ほら、これをご覧下さい。」

 物思いにふけろうとするレフィルの心を他所に、店主はずっと言いたかった事を言葉にすると共に、店内の一角を指差した。

「これは……」

 鬼の首でも取ったかの様な自慢げな笑顔に釣られるままにそちらを見やると、この店に関する色々な情報を記した貼り紙が壁に張り付いていた。その中央に、一際目立つ派手な絵柄のチラシが目に映る。


 国家英雄誕生日記念大セール


「どうです?」
「……。」

 それは、勇者としての自分の威光にあやかった、この店の一つの大きな催しであった。その紙面には、とても目を引く様なあまりに魅力的な内容が書き連ねられている。おそらく、これとない機会に飛びつかない客はいないであろうものであった。そs

「あなたの名にかけて、きっとこの日は成功させてみせますよ!」

 いつもながらの真心込めた品々はもちろんのこと、思い切った値引きやその日限りの大胆な特別な商品。店の奥には前もって準備されようとしている大きな看板や、幾つもの伝票が静かに佇んでいるのが見える。城の中が世界から来る人々で賑わうその時にこれらもまた目覚めの時を迎え、祭りの雰囲気にある人々を惹きつける事だろう。

「………。」

 店主の笑顔の見送りをその背に受けながら立ち去るレフィルの―奉られる対象たる少女の表情に、複雑な思いが込められている事を知るものは誰もいなかった。




 日が西に沈み、空が燃える様な赤と夜の青に染まり始める。

「あら、お帰りなさい。レフィル。」

 一日もあとわずかとなろうとしたそのとき、レフィルは荷物を手に家へと帰り着いた。すると、扉が開いて母が出迎えてくるのが見えた。

「ただいま、母さん。早かったね。」

 その姿を認めると、レフィルは少し不思議そうに首を傾げた後に、微笑みを返してそう告げながら家の中へと入った。

「ええ、今日はもう終わり。ふふ、ちょっと頑張り過ぎたかしらね。何だか皆忙しそうよねぇ。あんなに沢山の小物作ったの初めてだもの。」

 旅路についている間の惨状など微塵も見せない、隅々まで清潔に保たれた我が家の居間の机に無造作に荷物を降ろすレフィルに、母は苦笑しながら己の手のひらを娘へと見せた。
「うん…、お疲れ様。」
 人差し指と親指の先にできた少しばかりの跡。それは、母が今日成してきた仕事の証と言えるものであった。英雄として旅立ったオルテガがいないそのときより、彼女は老いた義父と二人だけで生活を支えなければならなかった。その忙しさ故に、家事を満足にこなす事もできない―その成果が先に見たあの惨状と言えた。もっとも、余りに基本的な事もできないのはまだ疑う余地があるものだったが。

「じゃあ、夕飯の支度するから。」

 仕事より帰ってきた母を一瞥すると、レフィルはバスケットの中の品を丁寧に棚に納めていきながら必要なものだけを取って、台所の方へと向かった。

「あら、じゃあ私も手伝おうかしら?…どうもいつも上手くいかないのよねぇ。そっくりそのまま真似するだけというのも難しいから色々やっちゃうんだけれど…。」
「…もしかして、それがいけないんじゃ…?」

 レフィルの旅立ちが決まったそのときから、母へと家事を伝える機会は多くなった。だが、その長きに渡る間を経ても、相変わらず拙いばかりか、弊害さえも起こしてしまう。その原因を一言から感じ取って、レフィルは間が悪そうにぽつりと零していた。

「おお、やっとるのぉ。」
「あら、お義父さん。」

 レフィルが流れる様に手馴れた様子で夕飯の支度をしていると、香ばしい匂いに引かれて祖父が二階から降りてきて、居間の中へと入ってきた。
「ふぇふぇふぇ、腹が空いたわい。」
「もうすぐできるよ、じいちゃん。」
 常々自分の作る食事を楽しみにしてくれる者がいる。カラカラと笑いながら席について見守る祖父の姿を見る度にそう感じさせられる。何気ない平穏に日々の繰り返しの中で、レフィルはここに一つの充足を見い出していた。

「しかし、間もなく誕生日か…。」
「うん……。」

 ふと、間もなく来る特別な日の事をぼそりと口に出したのを受けて、レフィルは少し力なく応じた。奇しくも道具屋の店主が出した話題と同じ事を、ここでも語られる事となった。

「そうねぇ、流石にちょっと羨ましいけど…あなたには向かないかしらねぇ…」

 だが、祖父も母も、自分がそうしたものを好まない事をよく知っている。

「ありがとう、心配してくれて。」
「なぁに、お前はワシの可愛い孫じゃ。困った事があれば何でも言えば良かろうて。」
「そうね。まあ、緊張する必要はないでしょう。王様もあなたの事を理解して下さってるみたいだし。」

 元より抱える悩みを和らげようと二人がその話を持ち出した事は、レフィルには十分よく分かっていた。旅路の中で幾度か理不尽に憎んでしまった事もあった。だが、自分の事を良く知り、かつ一番心配してくれるのは或いはこの母と祖父であったのかもしれない。

「わたし、頑張ってみるよ。」

 愛する二人の家族に向けて、レフィルは心の底からすっきりした様子で明確にそう告げた。迷い無きその一言を受けて、二人は頷きながら満足そうに笑みを浮かべた。


 この世に生を受けている限り、苦難は決して潰える事はない。
 それでもこのときレフィルは本当に幸せなときを過ごしていた。
 闇の中で生きてきたからこそ、小さな光でもより大きく感じられる。

 それは、幼き日には決して解する事のできない幸せであった。