招来 第二話

 それから、幾日か時が過ぎた。

「おお、レフィルよ!気分はどうかの?」

 アリアハン王城の謁見の間。その玉座に座する者が、前に跪いている少女へとそう問い掛ける。

「…お心遣い、感謝いたします。」

 礼を述べながら、レフィルは静かに面を上げた。
「うむ、ワシもそなたの快復、心より願っておったぞ。」
 世界を救う一助となった代償として負った死に瀕する程の深手。それが二ヶ月足らずの短い期間の内に形を潜めているのは、王の寛大な対応があってのものである。命令を下した王自身も、自らの勝手な判断が功を奏したのを見て、実に満足そうな様子であった。

「ワシが申すのもおこがましい話だが…、これまで長きに渡って苦労を掛けたな。」
「………。」

 ふと、王は首を静かに横に振りながら、我が子が病から立ち直った様な喜びを全面に現したその顔を憂いへと染めながらそう告げていた。
「全てをそなたに背負わせる、それしか道は残されていなかった…。」
 過去、世界を滅ぼさんと動く魔王バラモスの出現に際し、王はこの国随一の―世界にまでその名を轟かせる英雄―オルテガをその討伐へと送り出した。彼は、闇を払う光の如く魔王の脅威へと立ち向かい、数々の武勲を積み続けた。
 だが、最後には彼の旅は失敗に終わる事となる。火山の内に落ちて死したという訃報は、彼の名声と同じくして伝わり、希望は絶望へと一気に転じようとしていた。
 その悲しみの渦を止めるべくして選ばれたのが、勇者の娘―レフィルである。この激流をせき止めるべきその一石を投じる事で、混乱の伝播は止まった。替え玉にも等しい彼女を新たな希望の下に、皆は秩序を取り戻し始める事となった。
 
「だが、魔王バラモスを倒した事で、そなたは我らが望みを叶えてくれた。今度はそなたが失われた時を取り戻す番だ。」

 数多の勇士と共にレフィルは魔王バラモスを倒した。だが、その間に経てきた時間は決して短いものではない。勇者であろうとするが故に重ねてきた多くの試練は、彼女を望む道に進む事を許さなかった。

「これよりは思うままに生きるがよい。そのために、ワシも可能な限り力となろう。」

 恐るべき力を持つ魔王に立ち向かう事で世界の希望であり続けんと縛り続けるその宿命の終焉を告げる王の顔から憑き物が落ちた様に力が抜けていくのが見えた。
―王様……
 それは、告げるべき事を表に出した後の安堵の表情に他ならなかった。


―辛い思いをさせたな…。じゃが…もう少しの辛抱じゃ。


 魔境へと乗り出す前の最後の謁見の折に告げられた労わりの言葉が、再び思い起こされる。
―…あれは、…気休めなんかじゃ…なかったんだ…。
 国の全てを込めた剣と共に捧げた言葉。皆が知らぬレフィルの苦しみを知っていたからこその、王がレフィルへと手向けた真なる餞であったと言えた。栄誉よりも平穏こそを望むと知りながら死地へ送り出さんとする矛盾の内で、王もまた苦悩を続けていた事をなんとなしに悟り、レフィルは何とも言えない気分になった。

「冒険の書をここに。」

 そうして物思いにふけそうになったそのとき、王の声が耳に入って現実に立ち返り、レフィルは携えた書物を王の御前へと捧げた。


「そなたが越えてきた過酷なる旅路を見届ける事は叶わなかった。なればこそ、そなた自身が記せしこの書を以って、余も心を共にしよう。」


 アリアハンを旅立ち、今また帰り着いたその時に到るまでにレフィル自らが付けた記録が、この数冊の中に込められている。
 魔王の脅威に対して全てを委ねるだけの待ち続ける者が、苦難の果てに帰ってきた少女に対して今できる事は、その苦難を知り、一欠片でも共有する事である。そう思ったからこそ、王はレフィルへとこの”冒険の書”の完遂を求めたのであった。

「恐縮です……」

 そうした意図を悟ったレフィルの口から、思わずその様な言葉が零れ出ていた。
 確かに、アリアハンの民は、レフィルを追い詰める事しかできなかったのかもしれない。それでも、自分の生還に心からの喜びを表している彼らを、今更憎む事などできなかった。


「さて!今宵の晩餐はそなたの快復を祝い、我がアリアハンの宮廷料理人達が宴の準備をしておるそうだ。」


 冒険の書を侍従の者へと持たせて控えさせたその後に、この場に控える兵士達に聞こえる程に大きな声で、王はそう宣言した。その余韻が一度返る頃には、兵士達の歓声が謁見の間に響き渡っていた。


「…え……えぇっ!?」


 突然に聞かされたその知らせを、レフィルは予感する事ができずにいた。
 湧き立つ喜びの反響の中で、彼女は驚きの声を上げて大きく開いた口元を慌てて押さえた。

「そなたにも是非とも参列して欲しいのだが、如何かな?なぁに、周りの者共の事ならば気にかける必要はない。そなた自身に関心があるならば、心おきなくそれらを味わうだけでも良いだろう。どうかな?」
「え…えっと……」

 正直、レフィルはこの宴の内に身を委ねるのをよしとしていなかったが、改めて思い返せば、勇者たる者が無事に帰還し、皆がその元気な姿を見て祝わずに居られないのも無理はない。

「では、皆の者!宴の準備じゃ!」

 レフィルが曖昧なままに頷いたのを肯定と取り、王は玉座より立ち上がり、皆へと高らかにそう告げた。直後、謁見の間を包む歓声はますます大きくなり、城中へと響き渡った。


 王城の大広間に佇む大きな白い円卓の上に、この城の食を担う者達が次々と料理を並べていく。
 皆で杯を交わした後の王の号令と共に、兵士達はいつもなら目にする事も叶わない程のそれらに歓声と共に手を伸ばしていく。
 働き盛りの兵士達は、瞬く間に一つの皿に盛り付けられた品を食べ残し一つなく平らげて、お代わりを要求し始める。
 美味なるものを無秩序に喰らうその傍で、美酒の入った樽や瓶も瞬く間にその中身を干されていく。

 貪り喰らうその様を、いつになく豪快に笑って見守る王。
 酒に酔った勢いで絡み付いてくる友人たる姫君。

 初めこそ上品な趣を見せていたその宴も、いつの間にか、働ける臣民達の喜びの日に行われる無礼講と変わらぬ気安さを帯び始める。
 それらの喧騒が、やがて遠ざかっていく様に感じられる……。
 やがて、レフィルの意識は闇の内へと落ちていった。





「……ん…。」


 そんな彼女を再び呼び覚ましたのは、やはり朝の光であった。
 閉じられた瞼を通して、その闇の内に徐々に白い光を運び込んでくる中で、レフィルはゆっくりと目覚めた。

「昨日の…夢…か……。」

 遠ざかっていく様に闇の中に消え去った宴の情景。それは昨夜の$記憶を夢の形で呼び覚ましたものであるとすぐに感じられた。
 皆の好意を裏切る事ができず、結局はあの夜も城へと留まる事となった。騒々しいまでの宴の場は、やはり望ましいものではなく、今もその疲れが体の内に残っている。

「でも、楽しかったな……」

 それでも振舞われた数多くの料理の味や、皆の喜ぶ姿はこの先忘れる事はない程に記憶に残っていた。重苦を乗り越えてきた先にある見返りとして、この様なものも悪くない。そう思える出来事だった。


「…あら、レフィル。もう起きたの?」


 ふと、聞き覚えのある声と共にドアが開かれる音がして、レフィルは回想から覚まされた。


「母さん……」


 そこに立つ人物の顔が目に映ると共に、懐かしい光景の内にある事を改めて自覚させられる。
 幼き日より馴染んだ部屋。旅立つその日に一度の別れを告げ、帰り着いたその時にも一度思い出を振り替えさせられた部屋。そして、ようやく戻ってきた自分の大切な帰るべき場所。
 その中に、愛すべき母の姿がある。


「お帰りなさい、レフィル。」
「ただいま…!」


 全てを終わらせた果てに深手を負い、城で看病を受けている中でも、幾度か会いに来てくれた。
 だが、今度はこの場所で、望む形で再び戻って来る事ができた。傷は癒えて、背負った使命によって旅立つ必要ももはやありはしない。
 互いに目に涙を溜めながら、母娘はどちらからともなく抱き合った。





「母さん…じいちゃん、これって…」

 その足元に、目の前に、はたまた頭上にまで広がらんとしている目を背けたくなる様な情景に、レフィルは二の句が告げずに呆然と立ち尽くしていた。

「ぬぅ…。やはりエリアさんに家事は任せられぬの……」
「あら、ごめんあそばせ。」
「…だが、レフィルが帰ってきた今、これに悩む事もないんじゃのう…。」
「もう、お義父さんたら…」

 長い間手入れのなされていない調理器具や傷んだ食材、捨て置かれた食器、はたまた世話を怠った末に枯れてしまった花々が居間と厨房の随所に点在している。一度帰り着いたそのときにも、レフィルは同じ様な光景を目にした気がした。

「…無難にこなせば、こんなに散らからないと思うんだけどな……」

 一介の主婦とは思えぬ程の家事の拙さを持つ母が招いた相変わらずな我が家の惨状を見やりながら、レフィルは呆れた様に溜息をついていた。




「ふぅ、こんなものかな…?」


 床に散らかったゴミを箒で払って床面をモップで拭き、曖昧な思惑の下に無意味に溜め込まれた小物を纏めて片付け、最後は汚れた食器や花瓶の山を一つ一つ丁寧に洗って元の綺麗な姿へと戻していく。
「大分片付いたのぉ。」
「そうねぇ、やっぱりレフィルがいないとダメねぇ、私。」
「笑い事じゃなかろうに…」
 レフィルがそうした地味な作業に向き合い続けていく内に、先程の酷い有様とは打って変わって我が家に清潔感と秩序が戻り始めるのを、祖父と母は談笑しながら見守っていた。

「こうしてみると…やっぱり変わらないわね、レフィル。」

 手際よく家の内を立て直していくレフィルの姿にかつての記憶を重ねたのか、母の口からその様な言葉が出ていた。
「うん…。」
 長きに渡って戦いの中に身を置いていたレフィルでも、帰ってくればやる事は変わらない。家族と共に暮らすために必要な事を一つ一つ片付けていき、後は穏やかな生活の中に身を委ねる。彼女の表情は、そうした中にあっての事か満ち足りている様に感じられた。

「でも、あのときからあなたは…」

 綺麗に磨かれた窓ガラスを通して、過去と変わらぬ空を眺める母の表情が不意に曇り始める。


―オルテガは死んだのか…。
―もはや、魔王に挑める様な強者はいない…。
―我らの希望は…もう……

―とうさん…とうさんはもう……


 呼び起こされた過去―人間達に滅びをもたらすべく現れた巨悪を討つべくして旅立ったオルテガの訃報が届けられたその日。その報せの場に、レフィルは母と共にあった。

―我らはこのまま、彼奴がもたらす滅びの時を待つ他はないのか…。

 比類なき武を有するが故に英雄となり、アリアハンの―更には世界の希望となりつつあった父の死がもたらす皆の嘆きは計り知れないものであった。

―あれは…オルテガ殿の…?
―…!

 悲しみの静寂に皆が落ちようとしたそのときに、誰かが夜の闇の内に佇む幼きレフィルの姿を見い出した。

―かのオルテガ様の遺児ともあれば、きっと…!
―そうか…!まだ、希望は…失われていない…!
―王!ご決断を…!!

 それはさながら、闇の内に見い出された一抹の希望であった事だろうか。先程とは打って変わって、皆が急に活気付き始めるその様を前に、レフィルはただ怯えた表情を返すだけだった。

―静まれ!!…済まないな、レフィルよ。…だが、確かに…世界は新たな希望を求めしときじゃ。オルテガの遺志を継げる者は、このアリアハンにおいてはそなたを置いて他はない。

 絶望に落ちる事を怖れて闇雲に希望にすがろうとする者達を、王はその一喝で黙らせた。だが、結局は失われたオルテガに代わる、皆の支えとなる存在がそれで返ってくるはずもない。

―レフィル……。
―………。

 決断の時を前に、レフィルはこれ以上何も語る事はできなかった。死にゆく者の生命の如く失われていくこの国の希望。それをこれまで支えてくれた英雄たる父はもういない。その代わりとなれる存在は遺児である自分ただ一人。断ればこの国はやがて絶望の内に衰えて、魔王の炎に焼かれる事となっていただろう。
 だが、少女として暮らしてきた自分に希望の礎となる事を求めるのは、これより先の生を全て父と同じく英雄として生ける道を強いる事は、まさしく全てを犠牲となす生贄と何ら変わりはなかった。


「あなたを守る事ができなくて、本当にごめんなさいね。」
「……。」

 語れぬ彼女に代わって是の答えを返し、地獄へ続く二つの分かれ道にレフィルを最終的に追いやった事を、母は改めて詫びながら俯いた。

「ううん、仕方ないよ…、あのときのわたし達にはああする他なかったはずだから…。」
「レフィル…。」

 本当ならば、自分で決めるべき道のはずであった。だが、突きつけられた現実を前に、レフィルは完全に自らを手放して、全てを放棄しようとしていた。自分に母を責める資格などあろうはずもなかった。
 だからこそ、レフィルは全てを受け入れ、旅立ちの時を静かに迎えた。

「でも、もう後悔はしていない。皆がわたしに力を貸してくれた。」

 すがろうとする希望が、心も体も英雄と呼ぶにはあまりにも弱すぎる少女であるとは誰も知らず、それを知ったら或いは蔑まれる事にもなっただろう。だが、その様な不安を他所に、彼女の周りに集った者達は、その弱さを受け入れて手を差し伸べてくれた。

「いつかのお友達も?」
「うん。」

 そして、不思議な成り行きの導きの下に出会った二人の親友達。彼らは壊れようとしていたレフィルの心の確かな支えとなり、いつか運命がもたらす死に巻き込まれようとするのも怖れずに、終焉の別れのそのときまで共に戦ってくれた。今この場にレフィルが帰ってこれたのは、その二人の仲間との絆のお陰である。

「…あの男の子、とってもあなたの事を気に掛けてたじゃない。あなたはどうなの?」
「え…?」

 その一人―銀の髪の冒険者の青年について母に尋ねられて、レフィルは一瞬その動きを止めた。

「そ…それは……その……」
「あの子を見てると、オルテガを思い出すわ。お義父さんの言う通りね。」
「うむ、無鉄砲なところといい、賭け事に敏いところといい…よう似とるわい。」

 少々気恥ずかしそうに頬を赤らめて顔を背けるレフィルを他所に、母は祖父と共に”彼”の話に興じ始めている。

「…まぁ、また出会えた折には、焦らずに想いを告げるがよかろうて。」
「楽しみにしてるわよ、レフィル。」
「もう…。」

 ”彼”と共に一度家に帰り着いたそのときも、レフィルが”彼”に向ける好意は二人ともが見抜いていたらしい。祖父と母が口々に告げる言葉に、レフィルは呆れた様に嘆息した。
―…父さんに……似てる…か。
 だが、その態度とは裏腹に、彼女は自分自身の内に多くの思いが渦巻くのを感じていた。
 肩書きだけの勇者の称号を冠した自分ではなく、仲間の一人に過ぎない”彼”が父を思わせる立ち振る舞いを見せていると語る二人の言葉に、レフィルはその毅然とした姿を思い起こしていた。一介の冒険者でありながら一度戦の場へ赴けば、先頭に立って自分達を守り続けてきた。その勇猛な様と秘めたる優しさが、或いはオルテガと重なるのかもしれない。

―どう…なのかな…。

 旅は終わり、仲間達とは別れてもう随分経つ。その中でも、如何なる危険にもずっとそばに居てくれた頼れる青年―”彼”へと抱く想いはずっと薄れる事なく残り続けていた。
 だが、”彼”自身は例え友人であろうとも他者と距離を置こうとし、自らの目的に向けて全てを注いでいる。その様な”彼”が、果たして自分の事をどう思っているだろうか。


 それは、思わぬ形で裏切られる事になるかもしれない。


 内に秘めた闇がそう囁くのを、何処となしに感じた気がした。