第二十五章 招来


 朦朧とする意識の中、視界がだんだんと白く染め上げられていく。


「ん……」


 ゆっくりと目を開けると、その内に光が差し込んでくるのを感じられた。


「……もう、こんな時間…か……」


 窓の隙間からの日の光を感じながら、彼女は半身を起き上がらせて辺りを見回した。ゆったりと寛げる様に広く作られた部屋の石造りの壁と床は金糸の裾を持つ絨毯や掛け布によって飾り立てられており、白いテーブルも上質な素材で仕上げられている。

「……ん……。」

 そして、天蓋が付けられた可憐とも言える様なベッドから降りながら、少女は両手を上げ、背を逸らして体を軽く伸ばした。その身を包む純白の寝間着、それもまた、一介の人の子が纏う事さえも許されない様な、繊細で優美な逸品である。


「あら、レフィ。今起きたの?」


 そのとき、部屋の隅から一人の女性の声が語りかけてくるのを感じられた。
「姫…さま……」
 少女はそれに弱弱しい声で応えながら、その方向へと向き直った。

「ふふ、大分良くなったわよね。帰ってきたときはどうしようと思ったけれど。」

 鼻腔をくすぐる芳しい香りが柔らかな風の様に流れてくる先に、姫と呼ばれた彼女はいた。花を感じさせる様な薄い桃色のドレスに、金色の髪を彩る銀色のティアラ、そして慈愛に満ちた温かな顔立ちが、在るべき地位に違わぬ気品を感じさせる。

「今日もいい天気よ。散歩にでも出かけない?」

 王家の者に相応しい雰囲気を纏った女性―アリアハン王の姫君は少女に優しく微笑みかけながら手を差し伸べていた。

「…また、勝手に抜け出すつもりなの?姫様…」
「もう、レフィったら。そんな事心配しなくていいでしょ?あなたのためならお父様も断れないわよ。」
「……相変わらず、そういうとこだけは調子良いんだから…。」

 申し出の裏にある目論見を見抜いた少女の遠慮のない言葉に、姫は可笑しそうに苦笑した。その一連のやり取りには、二人の担う身分の差というものなど関与しない、九年来の友人同士の絆を感じさせられる。
「でも、あなたも少しはお日様に当たった方が良いわよ。」
「うん…ありがとう。」
「じゃあ決まり。今着替えを持ってこさせるから、少し待っていて。」
 了承する様に少女―レフィルが頷くと、姫はくすりと笑いながら部屋を後にした。



 辺りに咲き誇る花々は壇の内に収められ、小さな葉を茂らせる低木は球の様な形に刈られて並び立つ。人の手により整えられた庭園は、旅先で目にしてきた美景とは違う美しさを醸し出している。

「うーん、やっぱりお外にまでは出してはもらえなかったわね…」
「…勝手に抜け出したりしてたからでしょ、姫様。」

 石垣の内に囲われたその中庭の道に連れられながら、少女はわざとらしい口を利いている姫に呆れた様子で嘆息した。
「だってぇ、あなたが可愛くて仕方無かったんですもの。」
「…もう、それでどれだけわたしが心配したか、分かっているの?」
「流石にお堀に落っこちたときは焦ったわ。溺れちゃうかと思ったもの。」
 姫という立場にありながら、王宮の中で過ごす事をよしとせず、強引に抜け出そうとして度々無茶を重ねてきた事が、二人の間で思い返されている。

「笑い事なんかじゃないわよ…。」
「あはは、ごめんごめん。」

 勇者として崇められていた男の娘であるが故に、レフィルは幼き日よりその影に苦しむ事となった。だが、その代わりに高みに位置する王族である姫と出会う事ができた。そこより親交を深めて、こうして気兼ねなく笑い合える仲にまでなった。その再会は、全てを終えた彼女にとっては喜ばしい見返りであった。


「…もう、一月になるのね。」



 数多くの勇士達と共に、この世を滅ぼさんとする巨悪―魔王バラモスを討ち取り、与えられた使命を全うした最後に、レフィルはアリアハンの平原へと送られた。死闘の果てにその体は限界へと達して、動く事もままならずにあった。誰かの手によって発見されると、彼女はアリアハンの王城へと運び込まれたらしく、目を覚ますと姫の私室に寝かしつけられていた。
「レフィ、もうここの暮らしには慣れた?」
「…うん。」
 英雄という事で、王城の医師…ひいては姫自らの手厚い看護を受けて、レフィルは魔境の旅路で衰弱し切った体をこれ以上望まない程に休まされた。
「あなた、小さいときにずっとお姫様に憧れてたでしょう?少しでも気に入ってくれればいいのだけれど。」
「ありがとう…。でも、そろそろ出ないと…母さんとじいちゃん、今何してるかよく分からないし…。」
 この様な国を挙げての治療に、そして姫の深い心遣いに恐縮しながらも、レフィルは時折会いに来てくれる二人の家族の事が気にかかっていた。
「お医者さんはもうすぐよくなるって言ってたわよね。だから、きっと近い内に帰れると思うわ。」
「そうだといいな…。」
 治療の甲斐あって、レフィルは既にこうして歩けるまでに回復した。旅を続けてきたときに比べると大きく感覚が鈍った様な気もしたが、これならば日常に支障をきたす事はない。死に瀕するまでに追い込まれた彼女にとって、これ程の奇跡は他にないだろう。

「ねえ、これをあげたときの事を覚えている?」

 ふと、姫はその華奢な左手の上に乗せているものをレフィルへと見せていた。
「…うん。」
 一度、サマンオサの王子の下に嫁がされようとした事によって呼び起こされた別れのときに、最後となると思われていたひとときの折に手渡された誕生日の贈り物。青色の小さな魔物、スライムを模した耳飾りが、その手のひらの上で静かに佇んでいる。苦しい旅路を共にしてきたにも関わらず、傷一つ付いていないとも言わしめる程に綺麗な艶を醸し出していた。

「あのときね、私がいなくなって、あなたはきっと寂しがるだろうな…って思ったの。」

 そのときの別れは、当時のレフィルにとっては大きな衝撃であった。数少ない心を許せる友人である姫が、このアリアハンから去ってしまう。二度と会えなくなる不安から、レフィルは心を引き裂かれる思いであった。
「でも、あなた…不器用だから、他の子達を避けてきたでしょう?それに、あのときもケンカだってしてたじゃない。そのままだと本当に一人になってしまう。だから…」
 幼き日のレフィルは、オルテガの娘という事につけて何かとからかわれ続ける事に嫌気が差し、皆と距離を離して生きてきた。その様な中にあるままで、唯一の理解者である自分がいなくなってしまえば、彼女はどうなるだろうか。遠い日の過ぎた憂いを思い返す様な満ち足りた表情で、姫はスライムピアスをレフィルの前に差し出した。
「だから、スライムを…?」
 スライムはか弱さ故に友を求めて群れをなす事が多い。その事からか、人々は孤独を嫌う彼らをしばしば友情の象徴と見る事が多かった。それが意味するものは…


「あなたが話してくれるお友達の話、聞いててすごく安心したの。」


 他人を嫌い、自ら一人であろうとしたレフィルが、別れてから、そして旅立ってから、心を許せる友人の話をできる様になった。それだけでも、姫は実に嬉しい気分であった。

「もう、あなたは一人なんかじゃない。その子達も、あなたの事はずっと忘れない。そうある限り…きっと…」
「……。」

 今はその苦楽を共にしてきた二人の友はもういない。それでも、彼らと共に過ごした日々は脳裏に強く焼き付いており、一生消える事はないだろう。

―そうだと…いいな……。

 あの二人もまた、同じ様に自分の事を覚えていてくれる。そうありたいと願いながら、レフィルは大空を仰いだ。雲がゆったりと流れ行く青い空。その果てで、友人達は何をしているのだろう。





 

「……ふぅ…」

 湛えられた温かい湯の内に身を委ねながら、レフィルは一息ため息をついていた。
―ちょっと…無理し過ぎたかな……。
 長きに渡る休息のお陰で、殆ど問題ないと言えるまでに快復していた。だが、ベッドの内で過ごす時間が少々長かったのか、当然ながら魔王討伐へ向かったときには程遠い調子であった。

「…ん……」

 顔を拭おうと無意識に上げられた手によって湯が払い上げられて小さく水音を立てる。それに満たされた浴槽の内に、レフィルは静かに佇んでいた。
―……お風呂、か…。
 傷が十分に癒える前は元より、魔境の内でも湯浴みをする機会などあろうはずもない。だが、今は城の従者達が決まった時間に湯を炊いて、自分のためにこの場を用意してくれている。


「……いつ見ても…、すごいな…」


 香水の匂いを纏った湯気が気持ちを楽にさせ、浸された薬草の薬効が体にじわじわと効いてくる様な気がする。浴室の豪華な雰囲気を漂わせる内装も相まって、この世にある天国とも紛う程の異彩さがあった。

―…こうまで、わたしに……

 この様なものは、この旅路で立ち寄った宿では味わえないものだった。療養のためとは言え、王家の浴槽に浸かる日が来るとはどうして予想できようか。

―勇…者……

 父が功を上げなければ姫と出会う事もなかったのと同じ様に、レフィルは魔王を倒す事ができたからこそ、その身に余るまでの対偶を受ける事ができている。

「でも…」

 顔に憂いの表情を浮かべながら、いつしか胸元へと寄せられていた手が握り締められる。そこに、自らの命を護り抜くべく鍛え抜かれてきた力は殆ど残されていない。そんな弱弱しさに虚しさを覚えながら、レフィルは浴槽の内から立ち上がり、その身を鏡へと映し出した。


「………。」


 湯に濡れて重みを増した艶やかな黒髪を垂らした己の顔。闇の如き深みを持った紫の双眸に、湯の温もりによって微かに紅く彩られた白い肌。儚さを湛える顔つきは、年頃の少女とも、妙齢の女性とも言える程に不思議な雰囲気を醸し出している。だが、その紫の瞳が見つめている先はそこではない。

「今は…もう……」

 すらりと伸びた長身の体が帯びる女性特有の丸みは、長い間伏せっていたとも思えぬ程に綺麗なものだった。だが…誘いの洞窟の刺客の放った炎によって左腕と脇腹に負った大火傷を初めとした旅路の中で受けた幾多の傷。そして、憎しみに任せて禁を犯した代償に受けた黒い雷の傷跡が身を引き裂く様な形で幾筋も走っている。それらは瑞々しい白い柔肌へと厳しく焼き付き、見るに痛々しいものであった。


「痛い……」


 思い返すたびに上がる疼きは、消える事のない烙印として彼女の体へと刻み込まれているかの様にも感じられる。全てを終わらせて元の望むままの生活へと戻ろうとしている中で、これらが知らしめる以前との大きな違い…

―…何か…不安だな……

 世界を旅する内に得てきた力など、時と共に容易く失われていく。だが、もしも再びバラモスの様な巨悪が現れたとすれば、皆はまた”勇者”へとすがる事になるだろう。そのとき自分はどうなってしまうのか。
「考え過ぎよね……。」
 そうして感じてきた不安が頭を覆い尽くしたところで、レフィルは自分の考えが行き過ぎたところまで達した事を悟り、小さく溜息を零しながらそう呟いた。

「やっぱり…ちょっとやり難そうだけど…」

 少女としての生活へと立ち返ったところで、世界を救った勇者と言う肩書きはずっと残り続けるに違いない。会う人会う人が、無力となろうとしている自分を勇者様と呼ばわる様がすぐに思い浮かぶ。
―…怖がられても、仕方ないし……。
 そして逆に、魔王を倒したという人では到底成しえない事実を支えた力は、畏怖の対象となるのも道理である。穏やかな生活を望むレフィルを無為に怖れる者が現れたとて不思議な話ではない。

「こんな…わたしでも……」

 英雄となるに至るまでに続いていた、覇道の如き険しく凄惨な道。そこを歩むに際して数多くの敵の命を奪い、血に染めてきた手のひらをじっと眺めた。幾度となく振るってきた剣閃と、今も尚残る剣士の証―斬撃の度に磨かれる様に擦れ合った末にできた堅い皮に覆われた指の付け根。

「…皆も、まだ友達でいてくれるかな……」

 それらも相まって、未だに血の匂いが消えないかの様に錯覚させられる。あまりに変わり過ぎた自分を前に、かつての友は果たして何を思うだろうか。



「ホレス……、ムー……きっと、大丈夫……だよね…。」



 レフィルは思わず頭に浮かんだ二人の友人の名を呟きながら、水瓶に汲み置かれている冷水を浴びた。熱水の内で火照った体を冷やして水飛沫が飛び散る中で再び目にした自らの闇色の双眸には、一点の曇りもなく鏡に映った己の姿を映し出していた。それは、何度も傷つき迷い、打ちひしがれ続けた中でも決して変わらない大切なものを表わしているかの様に思えた。




 日はとうに沈み、宵闇が完全に覆いつくした空に、弧状の金を湛えた月が揺蕩う。その目下にある城の門は閉ざされ、僅かな兵士達だけが焚かれた火を頼りに見張りに立つだけの静寂に包まれている。


「…もうすぐ、終わりだな…。」

 既に夜も更けた中で、城の窓から灯火の光が微かに漏れている。その中で、レフィルは黒い瓶の中へと右手に取った羽の先を差し入れていた。
「…思えば…長かったな……」
 辺りには、十数冊にも及ぶ程の記録が無造作に置かれている。


 冒険の書

 旅人にひとときの安らぎと幸運をもたらすとの云われから、冒険者達の間で好んで付けられる様になった手記の総称。
 記された数多の見識や経験は、名のある玄人から駆け出しの者に至るまで様々であるが
 総じて第三者からは貴重な記録となっている。


 城中での療養の生活に入ったレフィルに唯一王が命じた事、それはこの冒険の書の完遂であった。これまでも無意識の内に続けてきた自らの旅の記録。彼女は今、その最後の仕上げへと入っていた。

「ふぅ……」

 魔境の内での冒険の一部始終を今書き終わり、最後の日付を終わりのページへと記したところで、彼女は羽ペンを手放して椅子の背もたれに身を委ねながら一息ついた。

―……本当に、色々あったんだな……

 こうして終わりを迎えてみると、莫大の量の記録が目の前に積み上げられている。死と隣り合わせの苦しい旅路の数々、それを乗り越えて記録にまでできている事実に、妙な感銘すら覚えてくる。
「…でも、これも…悪くなかったんだな…」
 だが、その中に記されているのは苦しみばかりではない。


「ありがとう…。ホレス、ムー…」


 ただ一人で旅を続けてそのまま朽ち果てるはずだったレフィルに手を差し伸べ、最後まで共に戦ってくれた二人の仲間。この広大なる世界の中で、まさに奇跡の巡り合せとでも言うべき出会いに感謝しながら、レフィルは穏やかな金の月が浮かぶ空を仰いだ。