魔境 第六話

〜ネクロゴンド 霊峰の頂〜

 世界の最果て―この大地の高みの更に極み。神々が全てを見下ろすが如き最果ての聖地に足を踏み入れた三人の招かれざる者達に試練を与えるように、幾多もの魔物達が目の前に立ち塞がった。

「…しかし、なんて数だ…」

 上からはヘルコンドル、スノードラゴンなどの空の魔物が、下からはトロル、ミニデーモンをはじめとした地上の魔物が、そして…正面には地獄の騎士やライオンヘッドら、霊峰に棲む者達の姿が見られる。
―囲まれたら…終わりだな。
 もともと全ての魔物を相手にしていられる程、余力も残されていない。しかし、悠長に構えていてはその間に多くの敵の接近を許し、前に進むこともできなくなる。そうなっては、今の三人に打開する術はまずない。
「仕方ない…!このまま…」
 今でさえ、正面に何体もの魔物が行く手を阻み、突破はどう見ても困難であった。それでも、前に進むしかないと心得て、ホレスは目の前の障害に切り込もうとした。

「私に任せて。それまで時間を稼いで。」

 その時、彼を止める様に後ろから赤い髪の少女がそう告げてきた。
「ムー?」
 手にした杖の石突を雪原に突き立てて、その柄をしっかりと握っている。その目はしっかりとホレスの顔を捉えて離さない。
「…分かった。頼むぞ!」
 それを見てすぐに信頼できると判断し、ホレスはレフィルと共に先駆けてこちらへと迫る魔物へと身構えた。
「イオラ!」
「喰らえっ!!」

ドガガァーンッ!!

 唱えられた上級呪文と、投じられた爆弾石による爆発が、飛来してきた怪鳥の群れを次々と撃墜していく。
「オレは左をやる!お前は右を!」
「うん!!」
 羽を撒き散らしながら落ちていく同胞の中で、体勢を立て直した数羽のヘルコンドルの群れをみやりながら、ホレスはレフィルへと指示を飛ばした。
―…しかし、とんでもない仕事になるな、これは…。
 後ろでは、ムーが理力の杖を握り締めながら、集中状態に入っている。その間、無防備になるのは彼女とて例外ではない。
「さて、まずは…。」
 怪鳥の群れに混じって、大口を開けて迫り来る氷の龍―スノードラゴンの攻撃を跳躍してかわして、その脳天に変化の杖と雷の杖を叩き込んで注意を向け、自身はその体の上へと降り立つ。

グガァアアアッ!!

 それを厭い、龍は体をうねらせてホレスを払い落とそうとした。
「甘い!!」
 だが、その直前でホレスは素早く飛び上がり、宙に舞う龍の体そのものを足場に、一気にその頭部へと距離を詰めた。

ガギャッ!!

 直後、何枚もの蒼の鱗が花びらの様に舞った。
「浅かったか…。」
 ホレスが左に握るドラゴンクロウから、龍の血が滴り落ちている。魔物の怒気を背後に受けながら、彼は口惜しそうにそう呟いた。

「ライ…デインッ!!」

バシュゥウウウウッ!!!ドゴォオオオオッ!!!

 しかし、その直後、黒雲と共に迸った紫の閃光がスノードラゴンの頭部を撃ち据えた。その衝裂の急襲によって一気に意識を奪われて、龍は力無くネクロゴンドの大地へと墜ちていった。
「助かった、レフィル!」
 ホレスは今の紫電を放った者、蒼の魔剣の切っ先をこちらへと向けている少女へとそう叫んだ。

「其は動を縛りし極地の細鎖…彼が普く地に齎されるは零の静寂……マヒャド」

 同時に、背後で最大の類に属する呪文が唱えられる声が聞こえた。
「二人共、私のそばに。急いで。」
 そして、ムーは前に出て戦っている二人へと淡々としながらもはっきりとそう指示を出した。彼女を中心とした円形の光の魔法陣が旋回し…

ゴォオオオオオオオオッ!!

 それは何の前触れもなく、三人を除くこの場の全ての者達へと襲い掛かった。銀嶺の表面より極冷の風が天に向かって吹き荒れると共に、冷たい光を帯びた巨大な氷の刃が次々と飛び出してきた。
 ある者は氷に貫かれてそのまま絶命し、またある者は噴出し続ける無数の氷塊を避ける術なく打ちのめされていた。ムーが放った呪文は集い来る幾多もの魔物を、霊峰の頂からことごとく叩き落していった。
「…よし、これなら…!!」
 力ある者を残して、殆どの魔物が氷の嵐に巻かれてこの場をはじき出されている。それを見てホレスは歓喜を帯びた声でそう呟いていた。

ゴゥ…ッ!!

「…!?」
 だが、その直後、突如として魔物達を襲ったはずの極冷の氷の刃がホレス達に向けて飛来した。
「危ないっ!!」

ガガガガガガガッ!!

 幾十もの巨大な氷塊が、それを引き起こした本人を目掛けて牙をむく…
「…っ!レフィル!!ムー!!」
 巻き上げられた雪によって視界が遮られる中、ホレスは何が起こったか理解する前にただただそう叫ぶしかなかった。
「…私は…大丈夫。でも…」
「!!」
 徐々に視界が晴れていくなか、ムーが指差す先にあったのは…

「レフィル!!」

 積み重なる氷の墓標の中に、彼女はいた。右手を掲げたその姿勢のまま、全く動く気配を見せない。
―まずい…!!
 それは、誰が見ても明らかに危険な…いや、絶望的な状態であった。マヒャドによる極寒の氷の刃をまともに受けては、いかなる戦士であれ命はない。
「……。」
 ムーもまた表情こそ変えずとも、視線はレフィルを捉えて離さない。

「…イオラ」

ガシャァアアアアアンッ!!

 だが、その直後、氷の内側で幾つもの強烈な光が閃くと共に、レフィルを閉ざしていた氷は大きな音を立てて砕け散った。
「レフィル!!」
「…大丈夫か!?」
 氷の欠片が宙を舞い黄昏の陽光を受けて輝く中、二人はレフィルの元へと走った。
「うん…、でも…」
 ムーをかばった際に唱えたアストロンの呪文のおかげで、レフィル本人には大きなダメージは無かった。しかし、その直前にレフィルを守って氷と激突した右手の水鏡の盾は無惨に砕け散っていた。
「…でも…今のは一体…?」
「く…どこからマホカンタなんか…!!」
 今返ってきた氷の群れは、ムーの呪文によるものであった。おそらくはそれを反射してきたものだろうとは察しがついていた。
「あれは…」
「亀……」


 ガメゴンロード

 亀甲で身を固めた竜の魔物、ガメゴンを統べる上位種
 その甲羅は、いかなる呪文をも受け付けぬ力が宿ると云う。


 マヒャドの呪文によって多くの魔物が甚大なダメージを受けている中、全くの無傷でその場に立つ、赤い五体と蒼の甲羅の竜を見て、ホレスはすぐにその正体を知った。
―やはりムーの呪文には…これ以上…
 最初の呪文によって、一気に戦うべき相手を減らす事ができたが、それを逆に利用して反撃してくる魔物の存在がある以上、迂闊に高度な呪文を放つのは危険である。この先、強力な呪文を使おうものならば、その威力がそのまま返ってくる事は覚悟しておく必要はあるだろう。

ガァアアアアアアッ!!
グォオオオオオオッ!!!

「ちぃいっ!!邪魔だっ!!」
 氷の嵐によって傷を負った褐色の巨人と六つ足の獅子が一気に距離を詰めて襲い掛かってくるのを見て、ホレスはすぐに隼の剣を手に迎え撃った。
「遅い!!」
 手負いであったためか、相手の攻撃に込められた殺気は増していたが、動きは間違い無く鈍っている。彼は諸手に握った漆黒の剛剣で、二体の魔獣の急所を確実に捉えてその命を奪っていた。
「ホレス!後ろ!!」
「!!」
 不意に、別の魔物と戦っているレフィルが注意を促すのがその耳に入り、ホレスは思わず後ろを振り返った。
―くそ…!いつの間に…!!
 魔物の気配を察知する事に関しては、誰よりも自信があった。しかし、それを裏付ける感覚…人並み外れた聴力を有する彼の能力も、全くの無音で忍び寄る魔物に対しては、効果を発揮しなかった。


 ホロゴースト

 あやしい影、シャドーの上位に位置する怨霊。
 数多くの冒険者の命を奪ってきた、凶悪な魔物。


 目を衝く様な鋭い黄緑色の光を発する影の様な実体無き魔物が、ホレスの背後でせせら笑っている。

『ザキ』
「…ちっ…!!」
 不意に唱えられた不吉を招く言葉をまともに聞いてしまい、ホレスは黒い光に包まれた。
「…ホレスっ!!」
 死の呪文と恐れられる恐るべき力を受けたホレスを見て、レフィルは悲痛な叫びを上げた。
「残念だったな。」
 しかし、予期されていた結果は来ず…次の瞬間には、ホレスの隼の剣が発する無数の斬撃が魔物目掛けて迸り、その体をバラバラに四散させていた。
―だが…こいつ一体だけではない…!!
 今は一体のみ、それも呪いを受け付けない自分をたまたま狙ってきたから大事には至らなかった。しかし、もしもレフィルとムーが同じようにして狙われてしまえば、間違い無く無事では済まない。
―くそ…!!
 おまけに、ホレスですらも探知できないと来ている。ここまでの戦いで奇襲をことごとく避けてきたホレスの聴力依存の空間把握能力に頼れない以上、急襲のリスクは高まるばかりである。最悪の場合、気がついたら二人が死の呪文を受けて命を落としていた、なんて事にもなりえる。
「長居は無用だ!!一気に走るぞ!!」
 叫びながら、ホレスはレフィル達が戦っているガメゴンロードに、側面から奇襲をかけた。呪力を纏った草薙の剣が、赤の鱗を痛烈に叩く…
「ぐっ…!」
 だが、それを察知した魔物は、素早く首を振り回し、彼を弾き飛ばした。そして、すぐにその口腔から竜の炎を吐き出そうとする…

『!?』

 だが、それが出る事はなかった。魔物が最後に見たものは、竜鱗の鎧に身を包んだ少女が、最強の剣を振り下ろしている姿であった。
「…ホレス!!」
 無我夢中で放ったバスタードソードの一撃で絶命したガメゴンロードに目もくれず、レフィルはホレスが弾かれた方向へと駆け寄った。しかし、そこに彼の姿は無い。

バチバチッ!!ドガァッ!!
ギギギギィンッ!!

 直後、前方で剣戟と炸裂音がレフィルの耳に入る。そちらでは、先程一撃を受けたはずのホレスが、地獄の騎士と刃を交えていた。

ブワァッ!!

「…!!…いけないっ!!」
 不意に、魔物の口からあの毒霧が吐き出されたのを見て、レフィルは思わずそう叫んでいた。あれをまともに吸い込んでしまえば、体の自由を奪われてしまう。

「同じ手に引っ掛かるか。バカが…」

 しかし、彼は麻痺毒の吐息の中にあっても、平然とした面持ちでそう吐き捨てていた。直後、雷の杖が地獄の騎士の胴を強かに打ち、思い切り突き飛ばしていた。
「これで、終わりじゃない。」
『!?』

ズガァッ!!

 続いて、いつの間にか背後に回りこんでいたムーが、その体を思い切り理力の杖で払い、魔物を上空へと力強く放り上げた。

「…ライ…デイン…!!」

 最後に、空中で身動きが取れない地獄の騎士へと吹雪の剣を向けながら、レフィルはそう唱えていた。

バシュゥウウウウッ!!ドゴォオオオオッ!!

 氷剣を覆う黒雲より、雷鳴と共に紫の電撃が空中に地獄の騎士を捉え、強烈な衝撃を以って一瞬で粉々に砕いた。

ブォンッ!!
キンッ!!
ズンッ!!

 いつしか後ろに迫っていたトロルの棍棒を、レフィルは空いていた右手に取っていたバスタードソードで切り落としていた。
「イオラッ!!」
 武器を失って尚も組み付こうとしてくるトロルへと剣の切っ先を向けて、レフィルは爆発の呪文を唱えた。

ドガァーンッ!!

『!!』
 トロルの懐で猛烈な爆発が生じ、それを大きく後ろへと吹き飛ばした。この隙を見て、レフィルは素早くその場を走り去り、前方で戦っているホレスとムーへと合流した。


――ほぅ、ついにここまで来たというのか。咎人よ。


「!」
 群がり迫る魔物の群れの中央を突破する中で、ムーの脳裏へと”王”の声が届いた。
『ザラキ』
 彼女が立ち止まったその一瞬の虚を突き、淡く光る緑の影が、死の呪文を唱えてきた。

「マホトーン」

ビュォオオオオオオッ!!

 だが、その命を奪わんとする黒い波動は、レフィルが携える氷の剣から迸る吹雪に触れるなり、それに込められた封魔の力によって掻き消されていた。
――そやつが…オルテガの娘とやらか。ふん、少しはできるようだな。
「ニフラム」
 再び王が語りかけてくるが、ムーはそれに応えずに、理力の杖をホロゴーストへと構え、清らかなる光で浄化していた。
「どけぇっ!!」
 前方ではホレスが魔物の群れの中に躊躇いなく飛び込み、武器を振るって活路を切り開いている。最初に放った呪文で与えた痛手も手伝って、彼は獅子奮迅の勢いで魔物を倒し続けていた。

シュカカカカカカッ!!

 倒し損ねた魔物は、レフィルが放つ氷の楔によって貫かれ、止めを刺されていた。

グォオオオオオオッ!!

「……!!」
 そのとき、ホレスの正面に、一体のトロルが立ち塞がる。

ズンッ!!

『ちっ…!!』
 その奇襲をかわす事はかなわず、ホレスは仮面の力で防いで耐えしのいだ。
「ホレス!!」
 それを見て、ムーは叫びながら手にした理力の杖を逆手で持ち上げ、渾身の力で真っ直ぐにトロル目掛けて投擲した。
『…グ…ガ…ッ!?』
 槍投げの要領で投げ放たれた理力の杖は、トロルの顎を捉えて、大きくのけぞらせていた。
「そこ…だっ!!」
 今の一撃で魔物がさらした隙を逃さず、ホレスは両手に握った二振りの刃で、その喉元を思い切り掻き切った。
――ほぉ、こやつ…。
 王が思わず零した歓声は、ホレスの耳に届く事は無かった。
――さて、メドラよ、いつまで斯様なか弱き殻の中に閉じこもっているつもりだ?そなたの真の力を以ってすれば、これしきの獣の群れなぞ、物の数ではなかろうに。
 そして、”彼”は再びムーへと囁いた。
「………。」
 前に血路を開きながら進んでいる中、自分達を囲む魔物の群れとの距離は、徐々に縮まりつつあった。
「ラリホー」
 レフィルが唱えた呪文が、その内の数体の魔物の動きを、睡魔によって封じる。
「ベギラゴン」
 それを援護する様に、ムーもまた、自分が即座に使える最大の呪文を解き放った。灼熱の熱波が、雪原もろとも全てを焼き尽くす。

シュゴォオッ!!

「…!」
 直後、群れの中に数体混在していたガメゴンロードのマホカンタが、ムーの炎をそのまま返してきた。
「ムー!危ない!!」
「…!!」
 反射されたベギラゴンを寸での所でかわしたところでレフィルの警告を発する声が聞こえ、その直後に背後に幾度もの金属音が鳴り響いた。
「レフィル!!」
 そちらを振り返ると、レフィルが黒い髑髏の剣士を、その六本の刃ごと、バスタードソードによる一太刀で斬り捨てたところであった。しかし、彼女自身も相手の剣を受けて、無事では済まず、鎧の隙間から血を流している…
「…ベホマ」
 自らが負った傷を手早く治しながら、レフィルは再び前へと進み始めた。
「…キリがない…!」
 一方、ホレスもまた前に立って戦う中で、ダメージを徐々に深めていた。これまでにない程の死力を尽くしてなお、突破する好機は見えない。
「…こ…こんなところで…!!」
 ただでさえ、長きにわたる山脈の行程による疲労も蓄積している。その上でこの様な激しい戦いに身を投じたとあっては、ホレスやムーはともかく、レフィルの体は既に限界を超えて当然であった。
「………。」
 全てを投げ打つが如き覚悟で望んだレフィルの戦い。しかし、ここで倒れてしまえばその”全て”が無駄に終わる事となる。

――そなたが邪魔をしようと、所詮は人の子に過ぎぬ。”メドラ”が有する力でなければここで朽ちるまで。”ムー”よ。そなたが望まずとも、いずれは必ず通る結末なのだよ。

「…!!」
 本来の名に加えて、今の名を同時に告げられるのを受けて、ムーは一瞬大きく目を見開いていた。

ギィンッ!!

「……!!」
 直後、レフィルの吹雪の剣が魔物の堅牢な外殻にはばまれて甲高い音を鳴らすのを聞き、ムーは我に返った。数体のガメゴンロードが目の前に立ち塞がり、背後からは捨て置いてきた魔物達が迫り来る。
「…く……!」
「…囲まれた……」
 流石のムーも、この絶望的な状況を前にしては、弱々しくそう呟く他無かった。戦いが長引き、ついに怖れていた事態になってしまった。

「レフィル!!ムー!!」

 こうなってしまっては、もはや強行突破に意味をなさない。ホレスはすぐさま後ろへと振り返り、一気に二人のもとへと駆けた…、がその時…
「…!!」
―…ホロゴースト!!
 突如として頭上に現れた幾つもの影を見て、ホレスは瞠目した。それらは、眼下にいる彼ではなく、魔物と対峙している二人の少女へ向かって飛んでいく。
「…く…やめろ…!!」
 身につけた星降る腕輪の力と、なけなしの体力を振り絞ってすぐさま追いすがり、ドラゴンテイルで数体を切り刻むが、それでも勢いは止まらない…。
―まずい…!!
 レフィルとムーは取り囲む魔物達と戦っており、死を招く影の存在に気がついていない。しかし、少しでも気を抜けけばすぐに魔物の爪牙にかかる様な、極めて危険な状態であった。

『ザラキ』

 そして、ホレスの必死の思いも虚しく、その呪文は唱えられた。

「「……っ!!」」
 程なくして、二人が驚きのあまり息を呑む音が、ホレスの耳に届いた。

ガァアアアアアアアッ!!
ゴァアアアアアアアッ!!

 直後、彼女達に群がっていた魔物の群れが、その中心へと一気になだれ込んだ。


―……あ……ホレ…ス……
―……!!
―…ホレ…ス……


「―――っ!!!」
 立て続けに起こる絶望的な状況と共に呼び起こされた遠い昔の記憶が脳裏に走り、ホレスは声にならない叫びを上げていた。その目は大きく見開かれ、表情は驚愕で歪み切っていた。
―レフィル…ムー…
 与えられた衝撃は、ホレスが押さえつけていた感情を呼び起こすには十分過ぎた。

「………皆…殺しだ……っ!!」

ゴォオオオオオオオオオオッ!!

 ホレスがそう呟いた直後、その体から紫のオーラが纏い始めた。冷風に乗って周囲へと一気に拡散したそれに中てられた魔物達は一瞬我を失って、眩いまでの黒い光が放たれるその源を見て動きを止めていた。

「素なる子に至る簒奪の災禍、其が貪りし物に有形も無形もなし。眩き滅光と暗き深淵の狭間に在りし混沌に、総てを喪いし者を誘わん…」

 魔石に輝きを湛える変化の杖から受ける力を全身から黒光の容で吐き出しながら、ホレスはその口から力ある言葉を紡ぎ続け…

「ザラ…キーマ…!!!」

 そして、その呪文が唱えられると共に、彼の前方へと黒い風が巻き起こり、魔物達へ向けて吹き荒れた。
『『『『…!!?』』』』
 次の瞬間、それを浴びた者達の体が突然黒く染め上がり始め、その部分から塵と化して、瞬く間に消え去った。数多くの同胞が目の前でただの一瞬で儚く命を奪われた事に対して本能的な危険を感じたのか、周りの者達は身動き一つ取れなかった。

「…デリク・ヒンデ・フェネグ・フュスク……」

 その様な中で、尚も迫り来る魔物達を横目に、ホレスはさらに詠唱を続ける。魔物の牙が彼の喉元を捉えようとしたその時…

ズンッ……!!

 それに合わせて突き出された彼の左手が、魔物の体をあたかも紙の様に貫いていた。直後、その体は瞬時に黒く染め上がり、風に吹かれて埃の如く散っていった。
「………。」
 何の感慨も無く払われた左手には、亡骸はおろか、血の一滴すらない。魔物を完全に消し去ったザラキーマの力を前にしても、ホレスは表情一つ変えず、静かにそこに佇んでいた。
「…ラング・ネニ・…」
 再び詠唱を始めるのに共鳴するかの様に、変化の杖が淡く光り始める。いかなる死の象徴よりも、恐ろしく、神々しい破滅の力を躊躇無く用いるホレスの顔には狂喜も悲哀も…そして、先程の様な憤怒すらない。
「フィート・ギルト・レナ…」
 その様な情を全く挟む余地の無い覚悟ある信念…ただ純粋な殺気だけがそこにあった。
「カムド・デリク・オ・サルス・バルド…」
 いつしか左手には草薙の剣が握られ、天へ掲げられている。それに力を伝えるイメージと共に彼は最後の詠唱を終え、神剣を振り下ろした。同時に、幾筋もの光が雨の様に魔物の群れへと降り注ぐ。
「くらえ…!」
 ホレスが剣を振るうたびに、命を奪う光が招かれる。それに貫かれた者達は程なくして死に至り、雪原へと伏した。
「邪魔を…するな…」
 それはまさに、ザラキーマの力による一方的な略奪ともいえる光景であった。ホレスの振る舞いは、力に溺れた者のそれであると言っても過言ではない。しかし、そうして数多くの魔物を滅しながらも、彼の動きはまるで淀みないものであった。
「邪魔だ…、失せろ…!!」
 弧を描く要領で刀身を翻し、剣を前に突き出すと、切っ先から一際大きな一条の黒光が迸り、前方を薙ぎ払った。光を受けて数多くの魔物が消滅し続けた後、そこに残っていたのは、緑の鎧を纏った少女と、赤い髪の小柄な魔法使いだけであった。
「……。」
 ホレスは倒れている二人の仲間を、ただ黙って見下ろしていた。動かぬ彼女等の姿を見ても、彼の表情は変わらない…。
―…魔力が…尽きたか……。
 草薙の剣を覆う滅びの力は消え、体中に力をみなぎらせていた漆黒のオーラもまた無くなっていた。
―流石に…無理があった…か…。
 嘆息しながら、今は光を失っている変化の杖へと視線を移す。ザラキーマを使うだけの力を補っていた杖の力を引き出すだけの力が、ホレス自身にも既に残っていない。

――ほぅ…今の呪文は…

 その一部始終を見ていたバラモスがそう呟く声が倒れているムーの頭の中で響き渡る。その声色は、素直に驚きを隠せぬ様子であった。
――よもやワシが編み出した呪文を使いこなす者がおろつとはな。だが、己が身を弁えられぬ様では、まだまだよな。
 ホレスは確かにあの絶大な力―純粋な殺傷能力そのものを追求した命滅の禁呪を有効に使ってのけた。だが、それも長くは続かず…結局まだ数多くの魔物を残している。
――…あと一歩…と言いたい所だが、本当にその程度か?そなたらの力は?
 山の頂に集った魔物の群れを突破しようと力を振るった果てに待っていた結末。レフィルとムーは地面に倒れ、ホレスもまた秘めたる力を出し尽くして、もうこれ以上戦えない。その様な彼らを見て何を思ったか、王は嘆息していた。

「うるさい。」

 その時、不意にムーはそう呟きながら頭を上げた。気を失っているレフィルを横目に理力の杖を支えにゆっくりと起き上がる。彼女もまた、満身創意と言える程の傷を負っており、そう長くは戦えそうにはなかった。
――ほぅ…。それでいい。さぁ、見せてみよ…そなたの力を…
 深手を負いながらも取り囲む魔物の群れへと身構えるムーを見て、王は面白いものを見る様な愉悦に満ちた口調でそう囁いてきた。
「…だからうるさい。」
 しかし、ムーはわずらわしそうにそう反論した。
「あなたが望む力?それは私の力なんかじゃない。”メドラ”の力。だったら残念。私は私の力で戦うだけ。」
―…ふ、そなたごときに何ができる。
 夢現の世界の中で、彼女は”メドラ”に全く敵わずに終わっていた。本来の自分よりも劣っている事など、自分が一番良く理解していた。だが…

「よろずの道、其が示すは如何なる惨禍か福音か…」

 それでも、自らのありのままの力を信じつつ、ムーは力ある言の葉を紡ぎはじめた。
――愚かな…。後ろがガラ空きではないか。
 呪文を唱えている最中、ムーの背後から地獄の騎士が放つ六本の剣が迫る。

ズンッ!!

 しかし、その魔物は、不意に突き出された理力の杖によって胴を突かれ、くの字に体を曲げて後ろへと吹き飛ばされた。続いて迫るライオンヘッドの頭部にそのまま理力の杖を叩きつける。
「然れど我は乞う、此処に正しき定めが現る事を…」
 その間にも、彼女が詠唱を止める事は無かった。

「パルプンテ」

 そして、その呪文は唱えられた。

「知と力の最果てより流れ落ちる生命の瀑布、我は其の器となりて、現世に還らん。」

ゴォオオオオオオオオオオオオオオッ!!!

 続けて更に長い詠唱が唱え上げられたその瞬間、ムー目掛けて一筋の眩い光が降り注いだ。

ドクンッ…!!ドクンッ…!!

「…ぁ……っ!!…ぅぅ……っ!!」
 灼けつく様な痛みと共に襲い来る、異常なまでの激しい拍動に喘ぎながらも、ムーはその場に踏みとどまった。
―……力が…みな…ぎる……!!
 体が自分のものでないかの如き感覚に、ムーは吐き気さえ覚えていた。しかし、やがて…彼女の体はそれに同調する様に順応し始めた。そこでようやく、この光が…決して害になるものではないと理解して、ムーはその力に完全に身を委ねた。

ゴァアアアアアアアアアアアッ!!!

 そして、光が膨れ上がると同時に、金色の輝きを宿した巨大な竜が、ネクロゴンドの山頂へと姿を現した。
「…これは……」
 現れたドラゴンは、ホレスが見慣れているものとは更に違うと言っていいものであった。
――…なんと……
 神の如き風格を漂わせた金色のドラゴン。それは、魔王バラモスの部下たる魔獣ラゴンヌに組み伏せられた程度の子供の竜の姿とは全く異なる物であった。
「……ムー…」
『大丈夫。…あなた達は私が必ず守るから。』
 近くで何か言いたそうに目を向けてくるホレスを宥める様にそう返しながら、ムーは大きく息を吸い込んで、口を大きく開けた。

コォオオオオオオオオオオオオッ!!!

 その中から、冷光を宿した輝く息吹が吐き出され、彼女に仇なす者達全てを飲み込んでいた。そのブレスをまともに浴びた者達は、芯から凍りつき、銀嶺の一部と帰していった。



「……終わった……か…。」
 集い来る魔物の全てを倒し尽くし、心の底を掻き回すほどの死闘はようやく終わりを告げた。光り輝く竜の前にも既に何者も立ち塞がる気配は無い。
―……無事で…良かった…。
 失われそうになる意識を必死で支えながら、ホレスは倒れているレフィルを助け起こし、傍らにいる輝く竜を見上げた。禁呪に手を染めてでも守りたかった者達が、確かに側に存在している。
「あれが……」
 漫然と体に蓄積した疲労に苛まれる中、三人は山頂より、魔境の中心を見下ろした。霧が立ち込める内海の中央に、大きな城が建っている。改めてよく見れば、それもまた、至高の領域に立つ者が住まうに相応しくも見える。

「………もう少し……もう少しで……。」

 まもなく全てが終わる。レフィルは震える声でうわ言の様にそう繰り返していた。だが、彼女は知らない。本来あるべき宿命に逆らう事で待ち受ける、背徳者のあまりに残酷な未来を。間もなく訪れるであろう絶望的な状況の大きさを。そして、全てを終わらせる……それは、叶わぬ願いだからこそ、誰しも望むものである事を…。