第二十一章 三人の休息

 サマンオサ城崩落及び偽者の国王ザガンの死より五日、ようやく帰還した銀獅子王マルテルが目覚め、ハンバークより軍を引き上げる命を出すに至った。同日、既に役割を終えたサイアスは、カリュー、レン、ジダンを伴って父サイアスのいるオリビアの岬の方へと船を漕ぎ出した。
 その一方で、同じくサマンオサの騒動へと大きく関わったレフィル、ホレス、ムーの三人は、深い傷を負って、サマンオサの宿にて休養を取っていた。共に残ったメリッサやニージスの手厚い看護により、既に治癒の状態は良好な状態にはあったが、万全の状態を期して再起するにはもう少し時間が必要であった。


「……この本は…?」
 三人一緒に過ごして所に突然入ってきたメリッサが差し出して来た本を見て、彼らは目を丸くしていた。
「エリックとオリビアのお話は知ってるわよね?それを題材にした物語の一つで特に私が好きなものよ。」
「…オリビア、か。」
 恋人を失い自分も入水してその後を追った悲恋の主人公。オリビアの入り江、岬という地名にもなる程であるから、それが広く知られているのは間違い無い。しかし…

「だが、エリックとは誰だ?」

 ホレスは名前が出たもう一人の人物について尋ねていた。
「…え?もしかして…知らないの?」
 おそらくは知識の偏りに因るものなのだろうが、広く出回っている物語の登場人物を知らない彼を見て、メリッサは意外そうな顔をした。
「メドラは…知ってるわよね?」
「……。」
「あらあら…これはイケナイわねぇ…。」
 記憶喪失以降、カンダタ盗賊団の間でその有名な話すら聞かされなかったのか、ムーもまた知らないらしい。或いは物語そのものさえ知っているかどうかさえ怪しいものだろう。
「わ…わたしは…一応……」
「そうよねぇ。それが普通なのよ。」
 この三人の中ではただ一人、レフィルだけがそのオリビアの悲恋の話…とりわけエリックの名を知っている…つまり、他の二人は物語の内容をそれぞれの理由で全く知らないと考えて良いらしい。
「それで?その本を渡して何とする?オリビアの入り江へと入る方法を探そうと?」
「それはサイアス君達の問題だから気にしないでいいわ。それよりどうせ暇でしょうし、こう言った本を読むのも良いかと思って。」
「えっ…と……。」
 サマンオサの勇者サイモンはオリビアの入り江の中にある牢獄へ幽閉されていると聞いた。だから、その捜索の為に息子であるサイアスが情報を求めるのはごく自然の事だ。しかし、今回メリッサからはその様な意図は感じない。
「特にメドラ、あなたに読んで欲しいと思うの。きっと良い道が開けるわよぉ…ふふふ…。」
「……??」
 ムーの顔に手を添えながら顔を近づけ、ニコリと笑いながらそう告げると、メリッサは機嫌良さそうにこの部屋から去っていった。
「…何を企んでるんだろうな?」
「わからない。」
 今回はどうやら純粋に読書を勧めているだけの様だ。…が、その動機自体は全く読み取れず、ホレスとムーは顔を合わせて首を傾げた。
「……よ…よくわからないけど…わたし達の事をちゃんと考えてくれてるんだ…」
「どうだかな…。あいつも…ニージスと同じか…。」
 実の妹であるムーのみならず、自分とレフィルに対しても姉のように振舞うメリッサの行動の中にひとつの戯れの様なものを、ホレスはなんとなく感じていた。それはニージスにも類するものである。魔術や博学などの学に深く通じたまさに賢者と呼ぶに相応しい彼らが時折催す一興の意図は非常に察しがたい。
「…読んで…みる?」
 メリッサが置いて行った本を手に取りながら、レフィルは曖昧に首を傾げつつ二人へとそう尋ねた。
「「「………。」」」



オリビアの悲恋 外説

著者 不明


 何とも言えぬ不安を感じながら、レフィル達は本を開いてその周りを囲む様にして覗き込んだ。

 
 今より遥か昔、この世では人と人とが争いを繰り返し続けておりました。
 田畑に満ちる豊穣のもとに数多くの作物がもたらされ、雨風を凌ぎ人を守り続ける家も建ち並び、人々の暮らしは次第に豊かなものへとなり続けました。それにも関わらず、まだ多くを求め続け、繁栄を巡る欲望の下にいさかいが起こり、やがてはそれを奪い合う様にもなりました。かくして強い者達がより多くの富を手にする事となりました。ですが、その争いにより新たに失うものが現れると言う事は、この時は誰も知りませんでした。

 ここ西の国と東の国も同じ様に争い続けて、長きに渡る戦いの最中に数多くの命が失われました。それでも、これら二つの国は相手に勝とうと必死になって戦いを止める事はありませんでした。繰り返される戦争によって、やがてそれぞれの国の人々は、口々に相手の国の人々を罵りあう事になりました。


「……ふん、成る程な…。」
「…ホレス?」
「満ち足りている所に余計な欲を持ち込んだか。全く以って下らない。…まぁ、そうした方が物語は作り易いのだろうけどな。」
 本のページに書き綴られる物語の序章、魔王が現れる以前の話…。その時でさえ人は、戦争と言う名の脅威にさらされていたと言う事だ。
―…まぁ、確かに間違ってはいないか。歴史では、バラモスが台頭する前から戦争状態にあったらしいからな。
 今でこそサマンオサ軍の侵攻があったものの、全体としては人間同士の争いの話は殆ど聞かなかった。やはりバラモスという最大の脅威を前に、各々の国も戦争どころではなくなった現状がそうさせたのか。

「……暴飲暴食。」

 ふと、話を読んでいて何を思ったか、ムーはぽつりとそう呟いていた。
「…え?」
 耳にした言葉の意図が読めず、レフィルはきょとんとした様子で彼女を見た。
「…ああ、成る程な。…少欲知足とはよく言ったものだ。」
「しょうよく…ちそく…??」
 少欲知足…欲が小さい為に、得る物が少ない所でも満足できる境地。逆に言えば、貪欲であれば…いくら豊かであっても満たされないと言う事だ。この話で言うならば、欲を満たさんとするばかり、互いに戦争を繰り返す様な状態も…きっとそういう意図で綴られているのだろう。
―…なりたいわたし…。それを願うのも…贅沢な欲なのかな……。
 ラーの洞窟でも垣間見た”心の闇”の囁き。自分の全てを捨て去り、心が赴くままに振舞おうとする事も、あまりに大きすぎる願望なのだろうか。
―……このまま、”勇者”なんか…止めて……ずっと……できたらいいのに…
 今の自分の置かれている立場を、それが導く未来をレフィル自身が憂いているのは紛れもない事実。到底叶わぬ願いを胸に、レフィルは本の次のページをめくった。

 
 かつて、東の国のはずれで一人の少女が住んでおりました。名前はオリビアといい、好奇心溢れる優しい子供でした。ある日、オリビアが川の辺へ水汲みに行くと、岸に一人の少年が血を流して倒れているのを見かけました。心優しいオリビアには彼を見捨てる事など出来るはずも無く、すぐに助けを呼ぶ事になりました。



「…これが、出会い…か。」
 恋物語ならではの印象的な出会いが話に華を添える。
「……。」
―…そうだ、ホレスも…
 旅立ちの時に致命傷を負った時…自分を救ってくれたのはホレスであると、レフィルはいつからか…知れず知れずの内に気付いていた。偶然ながら、同じ様な話を聞いているとそれを思い出さずにはいられない。
「レフィル?」
「…ううん、何でもないの。」
 一方で、ホレス本人はそれも過去の事でしかなく、漠然と文章を目で追うだけだった。憶えていない、というよりは然程気にした様子ではないと言うべきか。


 やがてオリビアの頑張りが報われて、少年は目を覚ましました。その時、彼の名をエリックといい、オリビアのいる東の国とは異なる西の国からやってきたという事を知らされます。東の国と西の国は互いに争い続ける相容れぬもの同士。ですが、エリックはそんな事は全く気にせずにオリビアへ感謝の気持ちを忘れずに伝えておりました。そんな彼の純真さに、オリビアは次第に惹かれていく事となるのでした。

 西の国へと帰る事が出来ないエリックを、オリビアは快く迎え入れて一緒に暮らす様になりました。共に笑い、共に哀しみ、時には喧嘩する事もありましたが、二人はいつしか互いをかけがえの無い人として見る様になっていました。


「…仲…悪い国なんだよね…」
「……そうだな。それだけに…殊勝な心がけだな…」
 互いに国というものに守られているのは確かだが、その対立に巻かれて人としての心を失う事もまた多い。その中で如何に命の恩人とはいえ…敵国の人間に対して偏見をもたずに接するエリックの様な者は、そう多くはないだろう。そして、同じく彼のもつ魅力を素直に受け入れられるオリビアの様な女性も…
「…これは…断じて間違いではない。」
「私もそう思う。」
 国というだけの巨大な集合となった事で、含まれる個人もまたその意に添わなければならない様な時世の中、自らの思いを貫いて生きていく恋人達は、輝いて見えた。


 しかし、その幸せも長くは続きませんでした。オリビアに好意を抱いていたのはエリックだけではなかったのです。勿論、オリビアとエリックの二人の間で交わされる愛を暖かく見守ろうとする人達もおりました。ですがその頃、西と東の国が再び争いを始めました。いつしか西の国に多くの災いが巻き起こり、衰えたのを見て、東の国が攻め込んだのです。

 かくして、西の国は滅ぼされて、そこにいた人々は皆奴隷となってしまいました。そして、ついにエリックも、西の国の人である事が知られてしまい、奴隷の身分へと落とされてオリビアと引き離されてしまうのでした。彼は、世界中を旅する船の漕ぎ手として死ぬまで働き続ける様にされてしまいました。


「ひどい…」
「全くだ…下らない。」
「いい迷惑。」
 ここまで事態が進んでしまった以上は止む無き事ともいえるが。それも元を辿れば人間同士が争いをやめようとしなかった事に原因がある。上の世代の不始末で、若者達が不幸な目に遭う…経過はどうあれ悲しい結果にも程がある。
「…だが、どちらかの国がこうなる…という事は……当然の結果なのかもな…。」
「当然…?」
「……どちらが勝ったとしても結果が同じ…と言う事さ。」
「じゃ…じゃあ…」
 もし、勝敗が逆転したとしても、そうなると今度は東の国が隷属させられる事となる。つまり、オリビアが奴隷の身分に身を落とされ、結局別れざるを得ない状況となる。


 エリックと二度と逢えないと分かっていても、彼が忌むべき東の国の人である事が皆に知られていても…それでも、オリビアはずっと待ち続けました。彼が船旅から帰って来るその日を…。


 時の権力者の手によって、二人は高くそびえる巨壁によって隔てられたが如く、触れ合う事はおろか…目にする事も、話す事すら禁じられてしまう事となった。
「……生きていれば…生きていればまた会える………そう…そうよ…ね…。」
 だが、それでも互いにまだ元気に生きている。生きている限り…まだチャンスはある。いつかまた会える時を信じて、過酷な日々を耐え抜く事だってできる。
「…レフィル?」
 思い詰めた顔をして一人ごちているレフィルを見て、ホレスは怪訝に思って首に傾げた。
「………。」
「ムー?」
 一方…ムーもまた…無表情の内に同じ様な雰囲気を漂わせつつ俯いていた…

「「……死なないで…。」」

 直後、二人は同時にホレスを見て、全く同じ言葉を投げかけていた。
「……!?」
 異口同音に…衝撃的な言葉を受けて、流石のホレスも吃驚した様子で目を見開いて、無意識の内に後じさっていた。
「あ…当たり前だ!そ…そう簡単に死んでたまるか!」
 あたかも自分がこれから死んでしまう様な言い振りに、複雑な感情が湧いて出てくる。ホレスは思わず声を荒げてそう怒鳴ってしまった。
「…でも、無茶な事はやめて…。」
「あなただって人間。だから限界はある。」
 生ある限りずっと待ち続けるオリビアの姿勢に心打たれたのだろう。それ故に、死に対して敏感になっている様だ。
「…それは……悪かった…。」
 二人の剣幕に、ホレスは思わず歯切れ悪くそう謝っていた。彼自身も目的の為とはいえ、幾度と無く死の極限まで自らの意思で踏み入ろうとしてきたのは事実である。

 話が途切れたところで、三人は再び本へと目を向けた。


 しかし、遂にその夢が叶う事はありませんでした。たった一人帰ってきた船員が、エリックの乗る船が沈没したという知らせを届けて来たのです。それを聞いたオリビアは、悲しみのあまり大きな声で泣きました。もちろんそれだけではエリックを失った悲しみは収まらず、彼女の心には深い傷が残ってしまいました。

 オリビアが恋人を失ったのを見て、ずっと花嫁に迎え入れようとしていた男がしつこく言い寄ってきますが、彼女はそれを拒絶します。しかし、不幸にも彼は貴族の子でした。怒った男は、家来達に命じて、無理矢理オリビアを自分の下に連れてきて、彼女を酷く傷つけてしまいました。

 やがて、オリビアはもう生きる事に疲れ果ててしまいました。遂にはエリックの後を追って、遥か高い岬より、海へと身を投げてその短い命を終わらせてしまいました。



「……結局、こうなるのか。これが悲恋…という事か。」
「そんな……。こんな事って……」
 エリックの死を知って以降、オリビアは周囲に振り回され続けながらもどうにか生きてきた。だが、恋人を失い既に生きる気力を失った彼女に、度重なる呵責を乗り越える事は出来ず…絶望のあまり命を絶ってしまう結果となった。
「…メリッサ。あんたはこんな下らない結末の話をわざわざ読ませて何をするつもりだったんだ…?」
―案外…何も考えていないのかもしれないがな。
 単にサイアス達がオリビアの入り江に向かったと考えるのが普通である。だが、あまりの壮絶な結果に、ホレスはそう様に呟くしかなかった。
「…でも、ちょっとした事で……それが理不尽でも…簡単に人を引き離せるものなんだね…」
「…そうか…そうだな。だからこそ、今を大切に生きる…か。」
 嫌な出来事は気分を消沈させてしまう反面、当人の印象に残りやすい。この本を通じて学べる事は幾つかある。そうも感じさせられる。



 そして今でも、海の底へと沈んだエリックへの想い、そして彼を失ったその悲しみが癒される事は無く、死して尚も幽霊となって、岬を通る船を見つけては海の流れを操って押し流して沈めてしまうといいます。


「……これで、おおよそ終わり…か。」
 本のページも残る事あと僅かとなっていた。
「しかし、相当なものなんだろうな…。」
 海峡の間で起こる異常な潮流を起こしているのが、嘆きのあまり怨霊と化したオリビアという話だが…その様な噂が流れる程までに、さぞや強烈な海流なのだろう。



 その頃、オリビアの入り江と海峡の境界に…一隻の船が到達していた。両脇を山と森に囲われた狭い海の道を進んでいく…。だが…

…リ…ク……エ……ク…

ザバァアアアアアアアアッ!!!

「どわぁあああっ!?」
 すすり泣く様な消え入りそうな囁きが聞こえてくると共に、突如として巻き起こった潮の逆流に阻まれて、その船は急激に後ろへと押し流された。
「…な…なんじゃあこりゃあ!?とんでもねぇ流れだなぁオイ!?」
「……ひぃいい…っ!!こ…腰がぁああ…!!」
 あまりの激流で転覆さえしそうになる程の揺れに翻弄されて、船に随員していた者達の間で動揺が走った。それは、勇者と呼ばれたサイアスでさえも例外ではなかった。
「……進めねぇな…こりゃ…。…つーかさっきの変な声といい…、こりゃあ…どう見ても呪い…だわな…。」
「せ…せやなぁ……。こんだけごっつ凄い潮の流れ初めて見たなぁ…」
「…シャナクでも消えんぞい…こりゃ。」
 現状、打つ手なし…という状況であった。
「まったく…さっさと成仏しとけっての!死んどいて迷惑かけんなゴラァッ!!」
 今も尚、船を押し流し続ける潮流の先に向かって、サイアスは大声でそう怒鳴った。それは怒気さえも孕む程の激しいものだったが、本人の顔には…その欠片も見えず、寧ろ愉悦に口元を歪ませている様にさえ思えた。