慟哭 第七話


「どういう事だ…この感触は…さっきと…」
 食堂の机に触れた手に残る感触…それは先程まで何も無かったとは思えない程に実感溢れるものであった。
「ですな…。幻にしては…些か…」 
 何者か…或いはここに存在する何かが起こしている幻覚…そう捉えるのが普通だろうか…。ニージスもいつもに比べて余裕の無い笑みを浮かべながら辺りの様子を窺っていた。
「…そうねぇ…。だったらコレ…行ってみようかしら。」
 メリッサは腰に帯びた袋から山彦の笛を取り出した。
「…そうだな。」
 二人が頷いたのを確認し、彼女は笛の吹き口に唇をあて、瞑目した。

 直後、その場にあるものを魅了する透き通った音色が、辺りに響き渡った。

「お、良い曲だねぇ。今日は調子が出そうだよ。」
「はっは、お褒めに預かり光栄ですな。」
「あんたじゃなくて、そこのお嬢ちゃんに言ってるんだけどねぇ。」
「いやいや、手ならぬ口が離せない様ですので。」
 厨房のカウンターごしに、料理に精を出している宿屋の主が笛の音を賞賛してくるのに軽く応じながら、ニージスはメリッサとホレスに注目していた。

「…!」
 演奏を始めて暫く経った後…ホレスの耳が微かに動いた。

「笛の音が…!」
 メリッサもまた、異変に気付いて演奏を止めて、目を開いていた。 
「……オーブの…反応…?」
「…やはりここにオーブが!?だが…何故今…!?」
 初め訪れた時には、”山彦”はホレス達のオーブからしか返らなかった。だが、今…確かにオーブと同じ様な反応が…小屋の外から聞こえてきたのだ。
「ふむ…まだ何かあれば…」
「…そうねえ、この辺り全部…」
「全部…?」
「この小屋も、辺りを覆う空気も、その外からも…全部に違和感を感じるわ。…といっても、山彦の笛の音からそう判断したに過ぎないけれど。」
「いや…笛の音が無くとも十分異常だろうが…。それより…何が…起こっている?」
 オーブを思わせる反応以外にも、数多くの異常を山彦の笛の音色が知らせている。ニージス、メリッサ、ホレスの三人はそれが何かを計り知れず、その場に留まっていた。

「おーい、兄ちゃん達、メシ出来たぞー!!」

 その時…不意に、厨房の方から男が自分達を呼ぶ声が聞こえてきた。
「…だそうですが、如何なさいます?」 
「…うーん、でも…変な物食べさせられたりしないかしら…。」
 幽霊が作った得体の知れないものなど食べたくはないのか、メリッサはまた引きつった笑みを浮かべながら後じさった。
「……一応、ここに泊まろうとしている身としては、避けられない事と存じますが…。」
「…冗談じゃない。…ムー、間違っても…」
 ホレスもまた同意見らしく、ニージスの言に首を振った。そして、ムーにも釘を刺そうとしたその時…
「…って、あいつ!?」
 そこに彼女の姿は無かった。
「おい!!ムーっ!!」
 ホレスは慌ててムーを探しつつそう怒鳴った。

「……何?」

 しかし…そこには、並べられた料理を何事も無い様にパクパクと食べている赤い髪の少女の姿があった。彼女は、自分の姿を目認するなり食事の手を休めてこちらをじっと見つめてきた。
「…そ…そんな得体の知れないもの食べて…」
 見てくれは実に豪華なご馳走のフルコースであったが…果たしてそれを食べて無事でいられるのか…。
「大丈夫。ちゃんと食べられる。」
「だ…だが!!」
「好き嫌いは良くない。ホレスも食べたら?」
 有無を言わせずに言葉を続けて、ムーは料理の一皿をホレスの方に押し出した。
「このソテー、すごく美味しい。あなたもきっと気に入ると思う。」
「………。」
 その行動に…最早彼には二の句も継ぐ事が出来なかった…。それが呆れなのか…それとも諦めなのか…
 
「…ふむ、問題は無い様で…。」
「……ほ…ホントに食べられるのね…。」
「……はっは、体調崩しそうで怖いですがね。」
 
「……馬鹿な。こんな有様で…何処から食材を…」

 ムーに続いて三人も幽霊が作った食事を採ったが、いずれも格別とも言える味わいであった。

「…ふむ、一応万が一の時に備えてキアリーは施しましたが、皆さん…大丈夫で?」
「おいしかった。でも、レフィルのには劣る。」
「然様で…。君達は?」
 平らげた料理の皿を山積みにしているムーがさらりと言ってのけた言葉に肩を竦めながら、ニージスはメリッサとホレスにも尋ねた。
「……美味しくいただけたけど、やっぱり不気味よねぇ。」
「全くだ…。ろくなもの使っていないだろうに…何故…」
 ここに来た時は、厨房には腐っているどころか完全にボロボロになって使い物にならない食材しかなかった。だが、今食べた食事は…新鮮で上質な山菜や肉をふんだんに使った最高級の味を持つ品々だった…。
―…レフィルには劣る…か…。 
 熟練の料理人が丹精込めて作った料理…その経験は如何に優れた才能を持ってしても打ち砕く事が出来ないはずだが、ムー曰くレフィルが織り成す味はそれを覆している…。
―……少なくとも…まぁ…人間が食するものであるとして良い…と言う事か…。
 あまりに異常な味…例えばそれが人が作る分を超えての美味であろうものならば、もっと不安は深まっただろう…。完全に安心できるという訳ではないにしろ、それがせめてもの救いだった。
「…それより、さっきの山彦の笛の反応が気になるな。」
「ですな。…一旦外に出てみますかね?」
「そうね。」
「賛成。」
 オーブが発したと思しき”山彦”も、急に随所にあらゆる物が実体化した事と何か関係があるのだろうか。四人は席を立って外に出ようとした。

「…おっと、そろそろこの辺りも物騒になるから今外に出るのは止めといた方が良いよ。」

 しかし、それを男の言が遮った。 
「…なに?」
 ホレス達は足を止めて、彼へと振り返った。
「今度は魔王とやらが来るって話だからねぇ。」
「…バラモス…か。」
「…ほぉ、魔王…ですか。はてさて…」
 魔王が来る…という情報は一体何処からきたのか…そもそも魔王自らがこの地に赴く様な意味が果たしてあるのだろうか、だが…”物騒になる”と言わしめたのはそのせいだろう。少なくとも只事ではないらしい。 
「皆追い返そうと躍起になってるからな、魔物と間違えられたらあんたらも嫌だろう?」
「…ああ、それはごめんだな。」
 盗賊に間違われたり、ジパングでレフィルの力を付け狙われた時にヒミコの刺客として追われたり、一度返り討ちにしてやった良からぬ店の番人に目を付けられたり…と、ホレスも身をもって勘違いの面倒さを思い知ってきた。…そして、つい先程もまた……。
 
「クルアスさん達のお陰で村の間での争いは無くなったけど、相変わらず気が立ってるからね。」
「!」
 
―ク…クルアス…!?
 男が挙げた名前にホレスは何を思ったか…目を見開いてその場に固まった。
「…クルアス…ですか。ふむ…どこかで聞いた気が。その人は?」
「ああ、俺らの英雄だよ!さっき言ったとおりだよ!あの馬鹿どもをとっちめてくれたんだからな!」
「………。」
 村の間の争いが無くなった…と言うのは、そのクルアスという男が他の村を殲滅して、反乱分子をまとめて取り除いたからだろう。それだけの力を個人が有するのか、それとも智謀によって事を上手く運んだのか…或いは……。だが、あまりに感情に走りすぎる男の言葉に、さしものニージスも口を閉ざしてただ言葉の続きを待っていた。
「…もっとも…あいつは……」
「あいつ?」
「…っと、今のは忘れてくんな。じゃ、狭い所だけどゆっくりしていっておくれ。」
 口が滑ったか、男は気まずそうに言葉を切りながら宿の奥へと戻っていった。
「……。」
「…?どうましたムー?」
 去りゆく彼の背中をどこか不機嫌そうに見つめるムーが気になり、ニージスはそう尋ねた。
「……なんでもない。でも、気に入らない。」
「同感だな。」
 簡単に人を馬鹿にする様な輩は基本的に嫌われる傾向にあるが、二人は男に対してそれ以上にもっと大きな嫌悪感を感じていた。
「まぁ…世の中その様な人も沢山いるもので…。ここで根に持っても仕方ないでしょう。」 
「分かっている…!」
「…!ぉおうっ!?…そ…そこまで怒らなくても…」
 宥めようとした所をホレスに凄まれて、ニージスは大仰に仰け反った。
「…いや、別に…。」
 だが、本人もそこまで怒りを示したつもりも無いらしく、小さくそう返した。
「だと良いのですが…。」
 そして、それ以上何も言わなかった。
―…ここに来てから……随分とおかしいですな…。
 一瞬垣間見たホレスの憤怒がこもった凄まじい形相…それに立ちすくんだ時に流れた冷や汗を拭いながら、ニージスはゆっくりと近くの席に腰を下ろした。
―君は…やはり……
 バース達が言っていた事、ホレス自身が時折見せた苛立ち…、結論付けるにはまだ早いと思われる推論が、自分の頭から離れなくなるのを感じながら、ニージスは一人物思いに耽っていた。
―はっは…学者失格ですな。

「魔物どもが明日あたりここに来るって本当ッスか!?」
「…ああ。さしずめ魔王の先鋒隊と言ったところか…。まぁ、魔物どもに知性があるとは考え難いが…」
「ただでさえシャーマンどもにさえ散々てこずってるってのに、何て事だ!!」
 村人達が槍を手に慌しく動いているその真ん中で、数人が集まって切迫した様子で何かを話し合っている。
「……数自体は少ない様だ。だが、お前の言う通りシャーマンと同時に攻められると…少し厳しいかもしれない。」
「…だったらどうすりゃあいい?クルアスさん。」
 村人の一人が、黒いマントと広鍔の帽子を目深に被った長身の男にそう尋ねた。
「…そうだな。まずは女子供の安全を確保だ。思う存分戦うにはその方が良い。」
 その男…クルアスは、左手に握った他の村人が持つものとは比較にならない程の力を感じさせる…雷を思わせる金色の装飾が為された槍を弄びながらそう返した。
「……シャーマンどもは例によって罠を仕掛けて対処する。まぁ…二度も三度も引っ掛かった罠にまた面白いように掛かってくれるとも思えないが、足止めにはなるだろう。」
「そこを狙い撃ちですね。」
「…問題は数だ。相手が余りに多いとそれだけじゃ押さえ込まれる可能性がある。」
「でも、クルアスさんの呪文の前じゃ殆ど意味無いんじゃ?」 
「…おいおい、俺だって人間なんだ。イオナズンを二回も三回も唱えて平気でいられるわけが無いだろう。」
「…あ…そりゃすいません…。」
 皆が自身にかける期待の大きさを理解しながらも、その強さと限界を弁えているだけに、クルアスと呼ばれる男が呪文の使い手として相当な実力を持っている事は傍から聞いていても明らかであった。
「それよりも、新手の魔物とやらが気になるッスね。」
 黒い衣装に身を纏い、金色の槍を手にする男に、村人の一人がそう問い掛けた。
「俺が張った探知結界に今になって引っ掛かった。だが、一度確認出来る様になった途端、奴の力は急に増大し始めた。」
「?」
「かなりの使い手かもしれないな。俺よりも上手だとしてもおかしくはないか。」
「…!?クルアスさんよりも!?」
 高い実力を持つが故に皆の期待…おそらくは賞賛をも集める男にそう言わしめる未知の相手に、その場に集った村人達の間に戦慄が走った。
「……まぁ、そもそも詳しく比較できる訳ではないから、気にしたところで仕方が無い。…どの道俺に仕留められると知らずにここまでノコノコとやってくる間抜けである事には変わりないんだからな。」
 しかし、傲慢とも言える程に自信に溢れたクルアスの言葉によって…皆の不安感は溶ける様に消えていった。これもその男の力を知っているからこその事か。
「…気を引き締めて行けよ。これはお前たちだけの問題じゃない…皆の命が懸かっているんだ。」
「「はい!」」
 最後にクルアスが発した激励の言葉に、若者達は顔を上げて、力強く返答した。