慟哭 第三話

「…おいおい、なんだいこの沼は…。」
 日も暮れかけて…ますます暗くなった樹海の中で…ホレスのレミーラの光が照らす先を見てアヴェラはまたうっとうしげにそうぼやいていた。
「猛毒の沼…ですか。」
 毒々しい紫という不気味な色に彩られた沼…不用意に踏み入れた魔物の骸や、毒によって枯らされてしまった木の根等が漂う…まさに死を体現した様なものだった。
「さっきからあちらこちらで見かけるわね。」
「それにしたってデカいよ…。」
 その大きさはこれまでどうにか渡ってきた同じ様な毒沼の比ではない。全く渡る手段が無いという事では無かったが、樹海の中の複雑な地形の中で、他に回り道できるようなルートも見い出せない。

「デュフィーズ・イース・ビヘンド…」

「…あら?」
 その時、先ほどと同じ様に…青年が奇妙な言葉を唱え始めたのを聞き、メリッサは思わず目を瞬かせながら彼の方を見た。
「…?」
「む?また…??」

「マルク・セリクル・ネニ…」

 遅れて振り返ったムーやニージスが首を傾げているのを一瞥もせず、彼…ホレスは淡々と詠唱を続け…

「…トラマナ」

 その呪文の名を静かに…力強く告げた。
「これは……。」
 程なくして、五人の体を不思議な光が包みはじめた。
「……足元が…軽くなったね。」

トラマナ

一定空間を遮断し、大地からの干渉を無力化する呪文。
毒沼や地面に仕掛けられた罠などから受ける影響を失わせ、その上を安全に渡る事を可能にする。また、足場の悪いぬかるみや小さな段差などの歩き難い場にも作用し、楽に渡れる様になる。

 トラマナの効力によって足元を飲み込む柔らかい土から受ける重みが無くなり、他の四人は足元に異変を感じて眼下を眺めた。
「はっは。まぁどうやら成功みたいですな。時に、これは道具なしに使ってた様ですが…。」
 それまで踏みしめていたぬかるんだ地面の感触が無くなった事に奇妙な感覚を覚えたのか首を傾げるアヴェラを横目に、ニージスは満足げに頷きながらも、先とは違い…ホレスが道具を用いた様子が見られなかった事を疑問に思いつつそう尋ねていた。
「ああ。…以前契約していた呪文だったが…今になって使えるようになったらしい。」
 呪文を使うために踏む手続きの一つ…契約。これを行う事によってその呪文を覚える事ができる可能性が得られるが、それは個々によってばらつきがある…所謂適性と呼ばれるものだが。ホレスの場合も例外ではなく、過去に契約を結んでいた呪文が不意に発現しただけの事で…その事自体は大して驚くべき所ではない。
「左様で…。…そんな慣れない呪文に対しても魔法による形質変換までこなしますか…。」
 だが、使い慣れたレミーラの呪文に対してならばともかく…覚えたばかりの呪文に自分なりの技術によって、より自身にあったスタイルでの呪文発動を行った所に、ニージスはまた深い疑問を抱いていた。
「………別に。そうした工夫を知っている以上、使わない理由はない。」
「…ふむ、ですが…トラマナもメラゾーマも相当上位の呪文にあたるワケで…。」
 いかに呪文の適性が高い術者でも、上級の呪文を契約していきなり使える様になるケースは殆どなく…初歩の呪文から段階を経て”覚える”のが普通である。…そのセオリーを無視していきなり高ランクの呪文を操った事に、呪文を知る者が不思議に思うのも無理はない。
「まぁ…確かにな…。」
 しかも…大量の魔力と引き換えに膨大な熱量を持って敵を焼き尽くすメラゾーマ…大地との干渉を失わせるトラマナ…。前者は道具の力を借りての発動とはいえども、どちらも最上級と言える程の高度な呪文にあたる為…尚更疑念を深めるばかりである。
―…こいつの影響か…。
 遠くでシャーマンを理力の杖で殴り飛ばした後、こちらへとゆっくりと歩み寄ってくる赤い髪の少女を一瞥しながら、ホレスは世界樹で最後に放った呪文の感触を思い出していた。
―パルプンテ…か。
 ムーの意識の加護があったとは言え、究極の呪文…パルプンテを含む数々の高度な呪文を放った中で何かが変わったのだろうか。今はあの時使った呪文を再度使えそうには無いが、今のトラマナを初めとするかつて手続きを踏んだ呪文が僅かながら使えるようになるのを感じていた。持って生まれた資質が今になって開花した…という可能性もあるが、あの一件がこの事に関わっているのは間違い無い…と彼は根拠もなくそう思えていた。
「…なんだい。こんなの唱えられるんだったらもったいつけずに唱えてくれてもいいじゃないかい。」
「悪いな、元々あまり呪文は得意ではないからな。」
「…さっきメラゾーマぶっ放したヤツが何をいうんだか…。」
 ホレス自身にとってはシャーマン達を纏めて焼き払ったメラゾーマも所詮は道具を使い捨てているに過ぎない些末事だった…が、その様な芸当を見た影響が大きいか、他の皆はホレスの方を向き呆れた様に溜息をついていた。
「…どちらにせよ一言で唱えられないのが難点だが…。今の詠唱でオレの周りの円範囲にトラマナの効力を固めた。皆、オレの側から離れるなよ。」
 トラマナによって呼び寄せられた不思議な光は、ホレスを中心とした円範囲に広がり…その上に乗る者にその光を与えている…。その加護がある限り、毒沼からの厄を受ける事は無いが…離れ過ぎると効力を失う事を皆に警告しながら、ホレスは毒沼へと踏み出した。
「ふふふふ…ここまで見せ付けられちゃうと…私も黙ってはいられないかしらねぇ…。」
「何?」
 

…アブスロート・ニール・スクアル・セロン…ラング・フィベイノ…デリク・アウタ…

ビュオオオオオオオオッ!!!ガガガガガガガッ!!!
「…マヒャドか…。」
 あれから数時間後…艶のある美声が奏でる詠唱が葉のざわめきに消えた瞬間に…巨大な氷の楔の驟雨が森のあちらこちらで降り注ぎ…木々を、魔物達を貫いて、芯から凍りつかせて砕いていた。
「はっは…負けず嫌いなのはこの子と同じですな。」
「…そうねぇ。我ながらどうしてこうなのかしらね。」
 ニージスの言葉にそう返しながらもメリッサの顔に反省の色は見えない…。詠唱によって呪文の本質を最大限に引き出したのだろう。
「……まるで怪物。」
 彼女の目に映る所に敵という敵はおらず…あるのはただ砕けた氷像…魔物やシャーマン達の骸のみだった。
「あら?何か言ったかしら?」
「何も。」
 辺りを覆い尽くす…美しくも残酷な光景に一言呟いたムーにメリッサがにっこりと笑いかけると…彼女は僅かに肩を揺らしながら目を逸らした。どうやら珍しくささやかな恐怖を感じているらしい。
「だが…どうやらこれで終わりじゃなさそうだな…。」
 皆が森に場違いな氷の景色を見回している中、ホレスは遠くから響き渡る大勢の足音をその耳で感じ取っていた。
「さっきのマヒャドの物音を聞いて駆けつけてきたらしいな…。」

ドドドドドドドドドドドドドッ!!!

 ホレス以外の四人にもその音が聞こえるようになった頃…遠くを見やると…別のシャーマン達が一部族単位の規模の人数で、青い獣…ゴートドンを駆ってこちらへと迫ってくるのが木々の隙間から見えた。
「あらあら…それはまずい事になったわねぇ…」
―アンタのせいだよ…。
 ホレスの言葉に暢気に返すメリッサを見て…アヴェラは心中でそう毒づいていた。巨大な氷の塊が幾十、幾百と降り注げば…嫌でもその物音に気付く事である。
「……そうねぇ…どうしたものかしら。」
「…だが、バカな奴らだな。あれだけの力を見せつけた後で尚も向かってくるとは…」
 問題はその後だった。ここで怖れを成して静まってくれればばそれでよかったのだが、逆に排除すべき敵と見なし…こうして戦いを仕掛けてきたのだから。
「あら?さっきのもう一回やれって言っても無理よぉ。…ちょっとムキになっちゃって魔力使いすぎちゃったし。」
「…まぁそんな事だろうと思ったよ。」
 そして、あの強力な呪文を放った張本人…赤い髪の魔女、メリッサは…先ほど見せた圧倒的な力を持つ呪文に力の大半を使ってしまったらしい。
「…おいおいっ!?それじゃあどうするんだいっ!?あれをガチで相手しろってのかい!?」
 先の彼女の呪文なしで…それよりも大人数を相手にしなければならないのか…”赤の月海賊団”を率いる”英傑”として知られ…自身も勇敢な戦士であるアヴェラでも…流石にこの人数でここまで大勢を相手にしたくはないらしい。
「怖気づいた?」
「あぁっ!?何言ってるんだい!?オマエには負けないからね!」
 …が、ムーがポツリと呟いた一言で…負けん気が沸々と沸き出し…次の瞬間には一対のドラゴンキラーの柄をとっていた。
「……!!矢がくるぞ!!」
「…はっ!ナメんじゃないよっ!!イオラっ!!」
ドガァーンッ!!
 アヴェラはドラゴンキラーの切っ先を…矢を放ったシャーマン達の方向に向けて、イオラの呪文を唱えた。それが巻き起こした爆発は、飛んでくる矢の勢いを殺し…或いはそのものを砕き…遠く離れた場で第二射を放とうとしていたシャーマン達を騎乗しているゴートドンから叩き落した。
「ちっ…キリが無い…!」
 だが…それだけではシャーマン達の勢いは止まる気配を見せない。ホレスはクロスボウに何度も矢を番えて、爆発から逃れた敵へと放ち続けながらそう毒づいた。
「だったら、私がカタをつける。」
 先駆けて来たシャーマンを理力の杖で殴り倒しつつ、ムーは舌打ちしているホレスを見て小さくも…はっきりとそう告げた。
「…なに?」 
「背徳の化身にして神の眷属たる者、其の御霊は我が身を汝が魂の器の代と成さん…」
 そして…怪訝な顔を向けてくる側で、彼女は呪文を唱え始めた。

「ドラゴラム」

ブチブチブチィッ!!!
グォオオオオオオオオンッ!!!

 程なくして、金色の鱗にその身を覆われた…巨大な竜が森の真ん中に現れた。 

バギャッ!!!ズガァッ!!

 彼女は変身してすぐに、翼を広げて一気に飛び出し、魔物の群に突っ込んだ。
―…ドラゴン…か。
 ドラゴン…この世で最も強いとされる生物とされる存在…。それが持ちうる頑健かつ雄大な体格と、強力無比なブレスをフルに生かして、ムーは自分に仇名す輩を叩き潰している。敵も槍や矢で応戦するが、柔肌にも似た滑らかな金色の鱗に阻まれて致命傷には至らない。
グォオオオオオオオオッ!!!!
 力任せに大暴れするだけで…地面にしっかりと根を張っていた木々が…竜巻にでも遭ったかのように砕けて、竜の巨体を阻む障害は一瞬で事も無げに失われ…その先に居た襲撃者達を押しつぶした。
「はっは……相変わらず無茶苦茶ですな…。」
「……うぅん、ここまで大暴れしたのはひょっとしたらはじめてかしらね…。」
 その大きな体で立ち塞がる者を存分に蹴散らしているムーを見て、ニージスとメリッサはその余りの壮絶さにただ笑う事しかできなかった…。
―……これが…竜本来の力…か。
 呪文にも頼らず、その腕その脚…その牙、そして…その息吹を以って、敵を殲滅しているムーの姿に…ホレスはドラゴンの本来の戦い方というものを垣間見た様な気がした。その場にあるだけで存在感を感じさせる巨躯から繰り出される圧倒的な膂力…その口から吐き出される獄炎、極寒を始めとする強力なブレス…、それらこそがドラゴンと呼ばれる者達が恐れられる由縁なのだ。
「こっちも来るぞ!!」
 しかし、彼らもそれを悠長に眺めている暇は無かった。
「…ぉおうっ!?とんでもない数で!!」
「あー…邪魔なヤツらだねっ!!」
 ムーが大半をまとめて吹き飛ばしたとはいえ、それでも先程とは比較にならない程の大群が程なくホレス達の下へと至り、怒涛の如く彼らを飲み込んだ。激しい剣戟…ドラゴンの咆哮…人ならざる異形の者達の怒号…ありとあらゆるけたたましいまでの音の応酬が暫しの間森の中に響き渡った。