災禍の申し子 第三話
「……むー……。」
 目を覚ました彼女が見たのは…目の前の空間に…自分の赤い髪が流れるように広がっている様子だった。
「……変…。」
 辺りを見回しても…全てが黒に包まれている…。それは暗闇などではなく……彼女自身の体を改めてもちゃんと四肢は見て取れた。
「………?」
 彼女はゆっくりと立ち上がり何も無い黒ばかりの世界に足を踏み出した。地面など何も無いような状態にも関わらず…足にしっかりとした感触が伝わってくる…。
「……夢…?」
 だが…それに触れる足には…木の床の様な冷たさも、日なたの様な温もりも感じない。
「………。」
 彼女は不思議に思いながらも、暫し無言でその黒に満ちた空間を歩いた…が、何処へ行こうとも何も変わりは無い。
「……歩いてもだめ?…それなら…。」
 何も変わりない風景に…些か疲れたのか、彼女は足を止めて…胸元に手を添えて小さく息を吸った。
「我…人の裡を捨て…」
 そして…その唇をかすかに震わせながら…呪文を唱え始めた…
―…違う。
「?」
 …が、突如として否定的な思考が頭の中を過ぎり、思わず詠唱を中断していた。
―…はい…とくの……その…みたま……?…??

「背徳の化身にして神の眷属たる者…其の御霊は我が身を汝が魂の器の代と成さん…」
 
 かなり混乱している心中と裏腹に…彼女は突然頭の中に浮かんだ呪文を…本を朗読するかの如く明瞭な声で唱え上げた。

「ドラゴラム」

―これは……?
 全てを唱え終わって…彼女は初めて自分の呪文に疑問を抱いた。

グ…グググググ……
 体にたぎる熱い感覚と高まる心臓の鼓動…彼女はそれに呻き声を上げる…、それはいつもと変わらぬ感覚だった。…だが、何かが違う…。
グォオオオオオオオオオオンッ!!!
 その答えを見出す前に…竜の咆哮が黒の中へと響き渡った。
ピシッ……!
 同時に何処からとも無く何かに亀裂が入る様な音が聞こえてきた……




「ただいま、お父様。」
 石造りの祠をそのまま家とした自宅のドアを開き、メリッサは中に居るであろう父に呼びかけた。
「おお、帰ったかメリッサ。」
 すると、奥の方から木こりの様な身なりの…しかし何処か必要以上に鍛えたようながっしりとした体つきの小柄な老人が出てきた。
「ええ。お客様を連れてきたわ。」
「ほぉ、そうかそうか。何も無い所じゃがゆっくり寛いで下され。」
 娘よりも上背の低いメリッサの父、モーゲンはレフィル達に穏やかな笑みを見せて、自分の持ち場へと戻っていった。
「お客?誰だい?」
 彼とすれ違いに、もう一人の野太い声が聞こえてきた。
「…あんたは……?」
「ん?…お前さん……どっかで…」
 その男とホレスの目が合い…何処か心当たりがあったが…互いに首をかしげるだけで、何も分からなかった。
「マリウスさん…、お久しぶりです。」
 そんな二人の間に入って、レフィルは彼…マリウスに頭を下げた。
「…ああ!レフィルって姉ちゃんじゃないか!」
「そう。そのお仲間さんもね。」
 黒い髪の少女の後ろから…蒼い髪の線の細い青年や、水着の様な大胆な意匠の鎧を身に付けた女戦士が現れてきた。
「おひさですー。マリウスはん。」
「はっは、久しぶりですな。」
「よおっ!元気そうじゃねえか!」
 彼ら…レフィルにニージス、カリューを見回し、マリウスは顔面の半分以上を覆う兜の…露になっている口元を歓喜に歪ませて親しげに呼びかけた。
「…すまない、あんたの事まるで覚えていなかった。冒険者リストに載るだけの凄腕なのにな。」
「いやいや、俺だって…。お前さんの無茶はメドラから聞いてるってのに…すっかり忘れてたぜ。」
 その一方で…何故か銀髪で黒装束なるある意味で一番目立つ出で立ちのはずのホレスの姿だけは思い出せず、その彼もまた…赤い鎧とそれを元にした二つ名を持つ男を忘れていた事に…それぞれ腑に落ちない様子だった。
「…しかしまあ…お前…ホレスって言ったか…?」
「?」
 そんな中…マリウスはホレスが色々な武器…雷の杖にドラゴンテイル、隼の剣など、多くの武器を背負っている様子を見て…
「そんだけの重装備で…よく普通に歩けるな…。」
 呆れた様にそう告げたが…
「…いや、あんたも家の中で甲冑…って…人の事言えないだろ…。」
「…は…ははは……!」
 その本人にも…自分の出で立ち…全身を覆う真紅の甲冑を指摘されて、苦笑いしながら肩を竦めた。
「……??」
 その笑いにいかにも余裕が無い様に思えたが…何が彼をそういう状態にしているのかが解せず、ホレスは訝しげに目を細めた。
「……んん?よくみりゃその仮面…」
 ふと…マリウスは、ホレスが横向きにつけている黒い仮面に注目した。
「ああ、これは…”魂封じ”の呪いとやらが施された仮面らしい。」
 仮面を外して手にとりつつ、彼はそう返した。
「…おいおい、何だってそんな危ないものを…ってお前…!?」
 ”魂封じ”…聞くだけでも十分危うさを感じる響きであるが、何より呪いが込められている仮面を平然と身に付けている様子に、マリウスは絶句した。
「…オレに”呪詛の類”は通じない…と、ヒミコは言っていたが…。」
「……何だってぇ!?聞いたかメリッサちゃん!?」
 ホレスが手にした仮面を眺めつつ告げた言葉に、マリウスはバイザーの奥の目を見開きつつ、メリッサに振り向いた。
「そうねえ…。うーん…魔物の頭蓋骨を少し削って作られた物らしいけど…呪いを施したのは…そのヒミコって女王様みたいね。」
「……だろうな。」
 その彼女はホレスに手を伸ばして、仮面を受け取り…それを興味深く観察している所だった。論じるように語られる言葉に…彼もまた聞き入っている。
「こいつが呪いを受けてない原理が分かれば、俺も…!」
「…うーん、でも、これってこの子の元々の体質じゃないかしら?それがあなたに応用できるとは限らなくてよ。」
「あー…そうか…。…でも気になるなぁ…。」
 同じ呪いの装備を付けている者…だが、真紅の鎧で呪いの効果を押さえているマリウスと違い、ホレスは殆ど制約を受けていない。
「体質…か。」
 八岐の大蛇を単身で仕留めた後…火の山で対峙したとき、ヒミコはあらゆる呪術をホレスへと仕掛けた。だが、そのいずれも彼に厄をもたらす事はなかった。すなわちマリウスとの決定的な違いが…本人の体質にあると言うのであれば…彼にその理解した成果を活用できるとしても、かなりややこしい事になろうか。
「よくある話よ。呪文があんまり効かない人なんて、珍しくないわよ。ラリホーやマヌーサを使う強い魔物の群れの中でたった一人生き残ったそうした人もいたぐらいだし。」
「まあでも…滅多にお目にかかれねぇじゃねえか…。」
「うーん…そうかしら?そうした人って大抵魔法や呪文なんかの適性があるし…魔道士やってる人が多いからかしら?」
 呪文の使い手の多くは、日々魔力を扱い…それに触れ合う事が多い為か…自ずと呪文に対する耐性が出来るらしい。多くはマヌーサやメダパニなど…直接生物の感覚に作用する精神的な効果を及ぼす呪文に対しての抵抗力が殆どだが、メラやギラ等の直接的に殺傷能力を及ぼす呪文の耐性を持つ者も存在すると言う…が、やはりごく僅かに過ぎない様だ。
「メリッサ、…オレも…やはりそうなのか?もっとも…呪文にはまるで適性は無いから違うと思っていたが。」
 ホレスもそれを頭の片隅には置いていた。だが…自分は呪文は得手ではない。
「そうねぇ…よく分からないところもあるけど、あなたってどちらかと言うと戦士に似た感じだし…、でも全く使えないわけじゃないのでしょう?さっきだって魔法技術を応用したレミーラの呪文で私を呼ぼうとしていたし。レミーラだけならよく使ってるみたいじゃない。」
「ハッ…、成る程な…。」
 今までの旅でも、松明を持つ手間を省く為に灯明としてレミーラを使ってきた。確かにそうして多用はしてきたが、然程呪文に馴染んだ…とも言い難い。呪文技術を知っていたのは読書の賜物に過ぎず、興味本位で少しかじった程度で…大して練習もしていない。
「あなた程の精神力があれば死の言葉も届かないとも思えるけど…そう上手くいくわけないし……やっぱり他に考えられないわねぇ…。まぁそうだとしても過信しちゃ駄目だけど。特に命を奪うザキなんかは高度な呪文に位置付けられているから、並みの存在では発動できないどころか、自分を傷つける事だってあるし。」
「そうなのか…?受けたのがそのザキに類するものとニージスに聞いたが…。それに、ランシールでも一回ミミックからザキを受けたんだ。」
「…なにぃっ!?」
「あら!?そうなの?」
 地球のへその初めの方の階層で、ホレスは確かにミミックのザキを受けた。
「”ザキは死の言葉が届かなければ効かない”と言うのも…あまりアテにならない迷信の様なもの…か。そうだな。体質とやらもあるのだろうが、案外オレは運がよかったのかもしれないな。…まぁそう言うと楽観してる様にも思えるがな。」
 いずれにせよ、ザキを呪文の防御もなしでまともに受けて全くの無事…という事象はあまり無く、二度までもその例外となりえただけでもホレスは少なくともかなりの幸運ではあるだろう。
「…うへぇ、たまげた…。ザキなんて一生に何回も聞ける言葉じゃねぇぜ…。」
「聞いたって嬉しくないわよねぇ、ふふ。」
「……あんたらな…。」
 ザキ…直撃すれば命の危険はほぼ免れない死刑宣告に近しい程の恐怖の代名詞…。或いは自慢話には出来るかもしれないが、ホレスには少なくともそれをする程器量は狭くなかった。
「…というか…あんたの鎧…呪われているんだな…。」
「……は…ははは…」
 ポルトガで別れるも鎧を着たまま調理に励む様子が見られた。…それは彼の本業への仕事熱心さから来る物では無かった様だ。

「…おぉい、いつまで話し込んどるんや?」

「…ん?」
 玄関近くで話し込んでいる三人に、カリューがそう横やりを入れた。
「……ああ、すまないな。聞こえてはいたが。」
「…あちゃあ…せやったな…。コイツのいるとこでヒソヒソ話は出来へんかった…。」
「いや、こちらも悪かったんだ。気にするな。」
「…まぁそれならそれでええんやけど。うーん…こらあかんなぁ…。」
 ホレスはメリッサ達と会話しながらも、カリュー達の言葉をその耳でしかと聞いていた。
「……そうだな、ムーは今どうなっている?」
「モーゲンはんに言って見させて貰ったけど、眠っとるね。」
「…大体聞いた通りか…。まぁこれだけ狭い家なら…」
 
―…んん?こいつ寝とるやん。
―三日前から寝込んだきり目を覚まさぬ。
―……ムー…。どうして…
―………ふむ…、これは……。

「オイ、ホレス…、さり気なくマズイ事言うなよ…。」
「…?」
 カリュー達がムーの様子を見ているであろう時に聞こえた言葉を思い出している途中で…マリウスがホレスに耳打ちしてきた。
「……ふぅん…やっぱり狭いのね…ふふ…。」
 他人の家を狭い…と言うのは失礼に値する…しかも悪いことに、その主の由縁の者の耳に届いている。 
「まぁまぁまぁ…、落ち着けよ、メリッサちゃん。」
 にっこりとした表情をしているが何処か影が差している気がする…。どうやらかなり気を悪くしている様だ…。
「と…とりあえず…メドラの様子を見に行ってやろうな…な?な?」
「ふふふ…そうねぇ…。」
―…成る程な。流石に血は争えない…と言う事か。
 マリウスがどす黒い雰囲気を振りまきながらにこにこと笑うメリッサをなだめる様子を見て、ホレスは砂漠にて地獄のハサミとキャットフライを初めとする敵に対して執拗な仕返しをしていたムーと、バクサンに匹敵する程の威圧感ある高笑いを繰り返し…圧倒的な力さえ感じるその母…メルシーを思い出し、両者とも彼女に類するものがあると思い、疲れた様子で嘆息した。


グルゥ………!
『………!』
 目の前に…自分よりも遥かに巨大な褐色の鱗を持つ竜が立ち塞がるのを見て、彼女は目を細めた。
―…ドラゴン…!本物の…!
 糧となる獲物を見るような殺気以上に身を凍らせる程の恐ろしさを感じさせる視線に…彼女の体に戦慄が走った。

ガチンッ!!

『…!』
 ほんの僅かな間を置いて…ドラゴンは何の前触れも無く噛みついてきた。
『……く…!』
 目の前に巨大なねずみ捕りの如く閉じた竜の顎から飛び退き…
『…バイキルト』
 自身に攻撃補助呪文を唱えた…
『……?』
 が、しかし…その効果が感じられず、次いで振り下ろされた爪を辛うじて避ける事しか出来なかった。
―呪文が…発動しない…?
ゴオオオオオオオオオオオッ!!!
 何故…と疑問に思う間も無く、ドラゴンが吐き出してきた灼熱の業火を目の当りにし…一瞬立ちすくんだ。
―…避けきれない…。
 数テンポ遅れて避けようと空を飛んだが、全面へと広がる炎に死角は無く、彼女はなすすべも無く奔流へと飲み込まれていった。