深淵への道 第十一話


ガァアアアアアッ!!
「…!」
 巨大な熊…グリズリーが振り下ろした腕を紙一重でかわし、そこに手にした武器を突き刺した。
グ…ゴガァアアアッ!!!
「…く……!!」 
 しかし、力が入らず浅かったのか…一瞬怯ませただけでグリズリーは再びこちらへと躍りかかってきた。
ドゴォッ!!
「ちっ…!!」
 巨体に似合わぬ瞬発力で徐々にこちらを追い詰めてくる巨大な熊に舌打ちしながら、後ろに下がっていたその時…
ポタ……
 口端から赤い液体が垂れて、地面に落ちて弾けた。同時にその主もまた…糸が切れた操り人形の如く地面に崩れ落ちた。
ガァアアアアアアアッ!!!
 雄たけびと共に、グリズリーは倒れた者へと爪を突き出した。
「ホレス!!」
「……!」
 しかし、突然走ってきた少女の一声によってその動きは止まった。
―…レフィル…!?……な…何故ここに居る…!?
 地面に倒れながら、ホレスはここに居るはずの無い少女の顔を見て目を見開いた。
―……くそ…、時間が無い……。
 
 ホレスに迫った大熊の爪を大きな氷塊で受け止め、レフィルは剣をその魔物へ向けて構えた。
「ライデイン!」
 剣先から雷鳴が轟き、それから生じた衝撃波がグリズリーを打ち据えた。
ガァッ!!
 顔に凄まじい打撃を受け、大熊は後ろに仰け反った。
「ホレス!」
 その隙に、レフィルはホレスへと駆け寄った。意識はあるらしく、近寄ると…ホレスは双眸を彼女へと向けた。
「………?」
 ズタズタに引き裂かれながらも、辛うじて生きてはいるようだ。だが…既に顔色は悪く、かなり衰弱しているのが見て取れた。
「……どうしてこんな事に……」
 血に汚れるのを気にした様子も無く、レフィルはホレスの背中を起こして涙を流していた。
「………す…まな…い…。だが…な…ぜ…、…っ!がは……!」
「喋っちゃだめ!…すぐに……」
 視界が涙で霞む中、レフィルはホレスの体に掌をあて…回復呪文を唱える為に念じた。
「…!後ろ!!」
「…え?」
 しかし、その集中は背後に迫る影を察したホレスの声によって断たれた。
ガァアアッ!!!
―もう動けるの…!?
 近くにホレスが居たため吹雪の剣の力を借りる事が出来なかったのが大きいのか、グリズリーは衝撃波を堪えてすぐにこちらに牙を剥いてきた。
「…く!」 
 すぐに吹雪の剣を目の前に翳し、氷の盾を築いたが…大熊の勢いはそれを上回った。
ガシャーンッ!!
「きゃあああっ!!」
 砕けた氷の盾を貫通した鋭い爪がレフィルを傷つけ、ぶつかる巨体が二人を壁に打ち付けた。
「…ぐ…!……くそ…!」
 既に力尽き、立ち上がることもままならないホレスは…地面に伏せたまま舌打ちした。
「ホレス!…っ…う…!」
 レフィルもまた、今の一撃の当たり所が悪く…地面に片膝をついた。
「……まだ…!」
―アストロン使ったら…ホレスが……
 自分が完全に攻撃を受け止められるとしても、後ろで倒れているホレスを守りきれるとは限らない…或いは彼が先に襲われてしまうかも知れない。
「…レフィ……ル…」
 ホレスは遠のく意識を辛うじてとどめながら、レフィルを見上げた。
「く……!」
―…どうして…こんな時に…
 払拭しきれない葛藤に陥り、レフィルは自分の震える手を見てうめいた。
ゴガアアアアッ!!!
 中途半端な精神状態は大きな隙を生み出し、彼女は次第にグリズリーに追い詰められた。
―……すまない…、オレは…もう…
 全身の力が次第に抜けていくのを感じながら、ホレスは意識を手放した。

―…あなた、まだ動物を殺したくないって躊躇ってるでしょう?
 剣を振る暇すら与えてくれないグリズリーの本能任せの猛攻にさらされる中、レフィルは再び頭の中に声が響いてくるのを感じた。
「……。」
―ほら、やっぱり。さっきまで沢山殺してきた癖に。
「…そ…それは…」
―…だったら今度はどうなの?さっきと何にも変わらないでしょう?なのにどうして躊躇うの?
「…分かってる…分かってるけど…どうして……!?」
 ホレスを助けるため、今こそ正念場であるのだが…この肝心な時にレフィルは体が動かない。
―……そんなに殺したくないなら、彼を見捨ててあなただけ逃げればいいじゃない。彼を餌に使えばあなた、リレミト使えるでしょう?
「………!」
 絶対にしてはいけない…禁じ手をその闇からの声は平然と告げてきた。
「…何を…今更……」
―今更なんて無いでしょう?…割り切る…といえば聞こえは良いでしょうけど、あなただって簡単に何でも諦めてるじゃない。
「……!」
 その言葉に…レフィルは完全に動きを止めた。

簡単に……何でも……?

グガアアアアアアアアッ!!!
 隙だらけのレフィルに向かって、覆いかぶさるようにしてグリズリーがのしかかってきた。
「アストロン」
ズウウウウウウウンッ!!
 巨体が地面に激突し、辺りを土埃に包んだ。
グギャアアアアアアアッ!!!
 しかし、直後…大熊はつんざくような悲鳴を上げてのた打ち回った。
「……ラリホー」
 しかし…続いて少女が紡いだ呪文によってそれは収まった。
ググ……
 大熊は意識を失ってその場にだらんと横たわったが、苦しそうなうめき声を上げていた。

「……ホレス…。」
 目を閉じ、微動もしないホレスを見て…レフィルは物憂げな顔をした。
―………ごめんね…。
 涙で霞む視界を血が染み込んだ黒装束に包まれた体を起こして、彼の手を肩に回した。
「…リレミト」
 そして、迷宮脱出の呪文…リレミトを唱えて彼を外へと導いた。

「レフィルちゃん!」
 脱出した先…神殿の入り口で待ち受けていたのは…カリューとニージス…オード、そして一匹のスライムだった。
「…ご無事で何よりですな。…ん?…ホレス…?」
 座り込んでいる体勢でレフィルが抱えている者…それは地球のへそへ単身踏み入り、命を落としたはずのホレスその人であった。
「……大丈夫…、眠っているだけだから……。」
「…な!?…ちょい待ち?ホレス…死んでへんのか…?」
 体中にこびりついた血と、痛々しい傷…顔色も死人のそれであったため、誰が見ても…最早生きていないと思って当然の状態だった。
「………く……」
 カリューがホレスの体を改めていると、突然ピクリと動いて…その主が目を覚ました。
「……ど…」
「ど?」
 口をぱくぱくさせているカリューに、その場の全員がオウム返しに言葉を返しながら彼女を見た。
どっげぇえええええええええっ!!?
「「「「っ!!?」」」」
 大音声でのカリューの悲鳴に、レフィル達は思わず立ちすくんだ。 
「…うる…さい……な。」
 神殿内に仰々しい悲鳴が木霊する中、ただ一人微動だにしなかったホレスは掠れた声でそう呟いた。
「ホレス……。」
「レフィル……か…。…やは…り…お前…が…」
 目を覚ましたものの…見た目相応のダメージを負っているためか…
「ゆ…ゆうりぇい…とかじゃ……」
「…何だ…それは…」
「ゆう”りぇ”い…?ふむ、幽霊の間違いでは?」
「だ…黙っとれぃっ!!モヤシ!!」
「…いいから…静かにしてくれないか…」
 喚くカリューと…傷に響く為か、その度に顔をしかめるホレスを横目にニージスはレフィルに向き直った。
「ふむ…意識が戻ったのであれば、回復呪文を使うのが良いですかな?」
「……。」
 彼女は神殿の床に横たわっているホレスを見た。
「回復……か…。」
 彼はその話を聞いていたのか、何処か含みのある口調でそう呟いた。
「…大丈夫…。すぐ終わるから…。」
 レフィルはホレスの額に手を当てて安心させるためか、微笑を浮かべながらそう言った。
「……。」
 優しく呼びかけられて…ホレスは表情こそ変えずとも、その気持ちを汲んでの事か、僅かに頷いた。
「いくよ…。」
 掌をホレスに当てながらレフィルは呪文を詠唱した。
「ベホイミ…!」
 癒しの光がホレスの体を包み込んだ…。じきに体中の傷が塞がり始めた。…しかし…
「……すまない。…どうやら……」
「……え?」
 ホレスは瞼を閉じて…疲れた様子で何かを言いかけた。
「……ホレス?」
 しかし、彼は目を閉じたきり…何も言わなくなった。体も動いていない…。
「ホレス!!」