山彦の塔 第六話

『……。』
 置かれている状況が分かっていないのか、ひびが入った氷の壁をムーはぼーっと見ていた。
「な…何してるんだ!早く逃げろ!!」
 カンダタは、地面に降り立って目の前の様子を眺めているムーに怒鳴った。
『ヤダ。』
 しかし、ムーは一言そう呟くだけだった。
「…お…おいっ!!」
『今のは小手調べ。』
「…!?」
 そして、再び氷の息吹を崩れかけた氷の壁に吹きかけた。しかし、先程と特に状況は変わらず、更に凄まじい激流が氷の壁を圧倒した。
「く…!…そんなんじゃジリ貧になるだけだ!」
 カンダタに呼びかけられても、ムーは変わらず氷の息を吐き続けた。そして…
バキィッ!!
 塞ぎ様のない亀裂が氷の巨壁に走り、それを合図に抑えられていた水流と氷塊が一気に彼女を飲み込んだ。
「ムーッ!!」
 カンダタはすぐにムーの下へと駆け出そうとした…が、すぐにマリウスが腕を掴んだ。
「ま…待て!オッサン!!竜に変身したあの子ならともかく、あんたが行ってもただの自殺行為だ!!」
「くそ…っ!!」
 既に一部の家が巻き込まれて木片と化している。確かにいかにカンダタと言えども巻き込まれたらただでは済まないだろう…。
「まずいぞ…!」
 金色の竜の形態の状態ならまだしも…ここでもしドラゴラムが解けてしまったら…おそらく死は免れえない。
「…!離れて!!親分さん!!」
「!?」
 そんな中、突如メリッサがカンダタの手を引っ張った。
ボジュォオオオオオオオオオオッ!!!
 驚くまもなく…、辺りが熱い蒸気に覆われた。
「ぐあああッ!!?」
「…な…!?」
 いきなり発生した熱気が無防備に目へ当たり、カンダタは左手でそれを押さえた。
『其は動を縛りし極地の細鎖…彼が普く地に齎されるは零の静寂。』
 書を読み上げるような抑揚のムーの声が、白い煙の向こうから聞こえてきた。
『マヒャド』
「!」
 呪文と共に、切り裂くような冷気がこちらにまで吹き荒んだ。
「…っ!?…これは…!」
 それだけの話ではあったが、それでも…今放たれた呪文の強さを知らしめるには十分だった。

 そして…視界が晴れると、カンダタ達は金色の竜の前にそびえ立つ巨大な氷の壁を見て、各々異なった…されど同じく驚きを見せた反応を示した。
「…一体何なんだ?今の呪文は…?」
「マヒャドよ。今のところ最大の威力を持つ呪文の一つね。」
「……そりゃ凄いわな。」
 最大の威力を持つ呪文…それはただ知識があれば使えると言う生易しいレベルの物では無かった。強大な力をコントロールする為のセンスと強い精神力、そして体力…その全てが揃ってこそ使いこなせる代物であった。
「よぉ、ムー。やるじゃねえか。」
 カンダタは金色の竜に歩み寄り、金色の鱗に覆われた体に触れた。
『…この壁は何?』
「おいおい、お前がやった事だろうが。それとも何か?照れてんのか、オイ。」
 その言葉を彼女なりの冗談と取り、カンダタは覆面の下で口端を吊り上げながらからかうような口調でそう言った。しかし…
『ベギラゴン唱えたのに、どうして凍ってるの?』
「……はぁっ!?」
 突拍子の無い言葉を返されて、彼は素っ頓狂な声をあげた。
「ちょと待て!?…お前…マヒャド唱えたんじゃなかったのかよ!?」
『マヒャド?』
 言われも…その言葉が意味するところが分からないのか、ムーはその長い首を傾げた。
『ベギラゴン唱えて洪水止めたと思ったのに…どうして?』
「…お前…まさか、あの呪文唱えた事…覚えてねぇのか?…ん?待てよ…?」
 元々記憶喪失であった為に、そうした記憶が不安定になる事は考えられるが…それはともかく、以前にも同じような事があったような気がしてならなかった。
「ああ。…やっぱりその様子じゃあ覚えちゃいねぇんだな…。」
 尋ねられて、カンダタは頷きつつ、ある一つの結論を導き出した。
―…あの時の戦いでも…ザキだかベギラゴンだのを唱えた記憶が無かったんだよな?
 彼女らしからぬ残虐な戦いを繰り広げた海賊のアジトでの出来事…。そこで見たものは…
『マヒャド』
 しかし、思考はムーが口ずさんだ言葉に遮られた。
「あ?」
 試し撃ちのつもりなのか、ムーは突然呪文を唱えた。先程と同じように、冷気が辺りを覆い始めた。
コォオオオオオ……
「…お…おい?…何だ…心なしかさっきよか寒くねえか…?」
 切り裂くようなささやかな寒さではなく、芯から凍りそうな冷気がカンダタ達の周りを覆いだした。
『……。』
 冷気は次第に強くなっていくばかりで、一向に留まる気配は無い…。
「…まさか…」
『…寒い……。』
「寒い…って、お前が…」
ビュオオオオオオッ!!シュカカカカカカッ!!!
 そしてその時は急に訪れた。無数の氷の楔が空から舞い降りて来たのだ。
「ぎゃあああっ!?なんだぁ!?」
『……失敗…。』
「失敗だとぉおっ!!?」
 空からの脅威を斧でどうにか受け切りながら、カンダタはムーの言葉に絶叫した。
ビキビキビキビキ…ッ!!
「どわぁっ!!」
 今度は地面からも氷の突起が現れてカンダタはその場を飛びのいた。
「ちょ…ちょと待てぇっ!!?」
ぴきぃーん…
 そう叫んだのを最後に、カンダタはムー共々凍りついてしまった。

 翌日、カンダタ達はスーの村の入り口へと集った。
「…ったく、ひでぇ目にあったぜ…。」
「…くしっ!」
 呪文のとばっちりを受けた事をぼやくカンダタの傍に、小さなくしゃみをしつつ、垂れる鼻水を鼻紙で拭き取っているムーの姿があった。
「初めて見たぜ…。コイツが呪文失敗した所なんてよ…。」
「でもメドラ、あの呪文って初めて唱えたのよね?」
 メリッサに尋ねられた事に、ムーはコクリと頷いた。
「この子がかつて咎人と呼ばれるまでに力をつけていたとしても、今まで長い間”ムー”として生活してきたのでしょう。適性が強いドラゴラムならともかく、長い事存在すら認識していなかった最大呪文なんか、一朝一夕で唱えられるものじゃないわ。」
「…だろうな。ったく、面白半分であんな危ねぇ呪文なんか唱えるからカゼひく事になるんだ。」
「くしっ!」
 未だにくしゃみと鼻水が止まらないムーを見やり、カンダタは嘆息した。如何にドラゴンの状態でも、失敗とは言え最大呪文の冷気はこたえたようだ。
「…でもよ、オッサンはよくカゼひかなかったな。」
「おうよ!この程度でカゼなんかひいてちゃ漢がすたるってモンよ!!」
「あんな地獄みたいな寒さの中心にいて生きて帰るだけでも凄ぇのにな…。」
「…バカは風邪ひかない。」
 マリウスがドラゴンでさえ厳しいと思われる冷気に耐え切ったカンダタに心底感心していた所に、ムーが鼻声で一言呟いた。
「ご…ごらぁっ、ムーッ!!?何言ってやがる!?」
「……ああ。そうかそうか。そう言う考え方もあったなぁ。」
「…くしっ!」
「さすがメドラだぜ!」 
「て…てめぇも納得してんじゃねぇっ!!」
 カンダタが怒鳴り散らす傍で、ムーはまたくしゃみをしていた。心なしか少し顔が赤い気はしたが、相変わらずの無表情で成り行きを見守っている。

「…そう。そんな事が。」
 ジナは宿の一室で、昨日の一部始終を聞いた。
「…メドラである事は間違い無い。この前のあの戦い方…メドラじゃなければ誰が出来るって言うのよ…。」
「でも、ジナが言うような邪気は何処にも感じなかったね。」
 身を震わせているジナを宥めるような口調で、サイは言葉を続けた。
「ジナが言うメドラは、他者の死を感じない人形の様な冷徹さを持っていると聞いたね。村を救う為に身を張ったあの子とは違うある。」
「……。」
「きっとメドラは記憶を失って二度と戦えない状態になったある。あの子はムーと名乗っていたね。今はカンダタさんの妹分ね。」
「…カンダタ!?」
 悪名高い大盗賊の名を聞き、ジナは目を見開いた。
「人は見かけに因らないみたいある。良い人だったね。」
「…そう。……あの女…、今度は盗賊団に…。」
「盗賊団と言っても、あの人は何処ぞのインチキ神官なんかとは次元が違うね。」
「それでも…所詮は泥棒よ。私達商人の一番の敵だわ。それに、盗賊なんていつ裏切るか分からない下衆ばかりじゃない。」
「……。」
 これ以上言っても無駄と思い、サイはそれ以上何も言わなかった。
―…会ってしまったのが運の尽き…あるか…
 あの赤毛の少女に会わなければ、相棒が忌まわしい記憶に真っ向から翻弄される事は無かったであろう。しかし、仇とするべき当の本人は居ても、既にかつての咎人としての思念は失われ…力だけを残した無垢な少女でしかない。それでも尚…肉親や友人を殺された怨恨を持ち続けるジナを、サイは密かに哀れに思った。

「…また、”メドラ”…何だろうな。」
 スーの村を出航した船の甲板にある椅子に踏ん反り返りながら、カンダタは物思いに耽っていた。
「そうねぇ…今度は何で出てきたのかしら…?」
「…追い詰められたからか?」
「ううん…どうかしら?」
 前回はアヴェラに瀕死の重傷を負わされて、その後で理性を失い暴れ回り、衰弱した状態でザメハを受けた事で…もう一つの人格が目覚めたが…。
「何にせよ…驚いたぜ…。まさかムーのヤツ…冗談抜きに咎人…だったのな。しかも大物の。」
「そうなのよねぇ…。あそこまで大きな騒ぎになっちゃってねぇ…。」
 死人まで出たダーマで起きた大騒動…大惨事を巻き起こした…”蛇竜の魔女”メドラ。今では記憶を失い、カンダタ盗賊団の魔法使い…ムーとして生きているが、かつての力の片鱗が…追放されて間もなくの頃から既に現れていた。そして、アヴェラや今回の洪水によって…秘められていた力が徐々に引き出されつつある…。
「だが…今回のも…あの時出てきたムーのもう一つの人格とやらと同じなのか?」
 圧倒的といわれている咎人としての力…今回得たマヒャドも、そこから起因するものであるのか…。
―…とすると、もし…あいつの記憶が完全に戻った時はどうなっちまうんだ?
「…らしくねぇな。」
 漠然とした不安をその一言で消して、カンダタは海原を見やった。

「…くしっ!!」
 船室のベッドで、ムーは先程からくしゃみを繰り返していた。
「……。」
 ゆっくりと起き上がると、彼女はベッドの傍らに置いてある魔法の封筒を見た。
「…レフィル……ホレス……。」
 そう呟くも…それに手を伸ばす事はしなかった。そして、再びベッドの中へと沈み…眠りについた。

(第十一章 山彦の笛 完)