山彦の塔 第四話

「…あたたた…参ったあるね…。ワタシも修行が足りないある。」
 ムーが去ってから少し経った後、サイはゆっくりと起き上がり…辺りを見回した。
「大丈夫あるか?ジナ。」
 戦いで随所が荒れた地を歩みつつ、彼女は相棒を探した。
「おお、無事で良かったね。…負けたのは口惜しいあるがいずれは…」
 話しながらサイはジナに手を差し伸べた。しかし、当の彼女は微動だにせず、虚空を見つめていた。
「…どうしたね?手ひどくやられたあるか?」
「……何で…こんな所に…。」
「…?」
 まだ動揺しているのか、サイはジナが言わんとしている事が分からず首を傾げた。
「…あのドラゴンに変身していた娘の事あるか?」
 尋ねられた事に、ジナは震えながら頷いた。
「只の魔法使いじゃない…。」
「凄い使い手である事は間違い無いね。」
「…そうじゃない…。あいつは…あいつは……!」
 体を震わせ…目には涙を浮かべるジナを見て、サイはその余りに思い詰めた様子に驚いて肩を竦めた。
「…私の兄さんや友達…ううん、皆を殺した…咎人なのよ……!!」
 幼さが残る顔を憎しみに歪ませて、ジナは強い口調でそう告げた。
「……蛇竜の魔女…メドラ…!!」

 夜も更けて、月明かりが差し込む塔の内壁に螺旋状に繋がっている階段の踊り場で、メリッサはその光を便りに…見慣れた分厚い本を読んでいた。
「さて…どうしたものかしらね…。」
 その中にある一つの見出しを見て、彼女は嘆息した。
「過ぎたる力は己を滅ぼす…か。ニージス君のあの話って…まさにそれよね…。」

―…いいですか?これから語る事は…紛れも無い真実です。
―……。
―ガルナの塔…そこであの子が悟りの書を奪おうとした。それは聞いているみたいで。
―そうねぇ。時々ホレス君や親分さんが話していたかしらね。
―それだけならただ悟りの書と言う門外不出の物を持ち出しているに過ぎない。写本を君が何ら苦無く持っている事がそれを示しているでしょう。
―何を言いたいのかしら?…悪いけど、コレはお母様の物だから…無くしたらお母様にお仕置きされちゃうのよねぇ…。
―ですな。それについては特にどうと言う事はないので。問題はあの子が手にした場合の事です。
―あの子が手にした時?

「…あの子ったら…求めていた物に身を滅ぼされちゃったのね。無茶な芸当したからだけど。」
 メリッサは悟りの書に書かれた一説を暫く惚けた様に見ていた。
「だから私は初めからダーマなんかに行かせないでって言ったのに。…まぁお母様がお母様だからこれはどうしようも無かったかしらね…。」
 そして、書を閉じて…瞑目しつつ俯いた。その様子には、いつもの微笑みは無く…切なげな雰囲気を醸し出していた。
コツ…コツ…。
「…あら。」
 上の方から靴音が塔の空洞に響くのが耳に入り、メリッサは目を開けてその主の方を見た。
「ふぇふぇ。出来たぞい。」
「あら、思ったより早かったわね。だから好きよ。お爺ちゃん。」
「うむうむ、ワシもあと三十若ければのぉ。」
「思えばお婆ちゃんも良い人よねぇ。最後に見た時も元気だったわよ。少し腰痛があるみたいでここまでこれないみたいだけど。」
 先程までの何処か悲しげな様子は何処にやら、メリッサは温かな笑みを下りてきた老人へと向けていた。

チャプン…
「……。」
 篝火の弾ける音が響く中、ムーは溜められた湯の中に身を委ねた。
―……少し寂しい。
 いつもならばメリッサが故郷とやらの話をしてくれるのだが、今日は一人であった。
「山彦の笛……。」
 おそらくは姉であろう彼女は…それを求めて箒に乗って出かけている。
「む〜……。」
 自分に出来ない芸当を軽々とこなすメリッサに羨望を抱いているのか、ムーは軽く唸った。
「おいおい、何唸っているんだよ?」
「…別に、何となく。」
 壁越しに語りかけてくる声の主…カンダタにムーは少し間を置いて返した。
「まぁいいけどよ。それより湯加減はどうよ?」
「……。」
 言われてムーは湯気の立つ水面を見た。
「50度」
「ん?…そんなんか?悪ぃな、相当熱くし過ぎちまったみたいで。」
 返された言葉に、外から間の悪そうな口調でカンダタがそう言った。
「全然ぬるい。もう10度。」
「…おいおい、これ以上上げたら流石に不味いんじゃねえか?流石にドラゴンじゃあるまいし煮えたぎった湯なんかに入れるかってんだ。」
「本当にドラゴンだったら良いのに。」
「…ドラゴン…ねぇ…。図体でかいから居場所に困りそうじゃねえか?」
「……。」
 船旅の間でも少し目を離している間に竜の咆哮が聞こえてきて、直後に船が揺れる事は最早珍しい事でも何でもなかった。
―ま…止めるのはあんまし良い事じゃねえだろうけどな…問題は…

―どわあああああっ!!

―……あの時マリウスのヤツがアレだけの代物を持ってなけりゃ危なかったぜ…。
 風神の名を冠する盾がアヴェラの攻撃で瀕死の状態に陥って暴走したムーのブレスを逸らしていなければあの場で氷に身を貫かれて死んでいたかもしれない。
―お前はそれに気付いているのか…?
 完全と思われたムーのドラゴラムの思わぬ落とし穴…。術者である彼女自身は何を思うのか…。

 カンダタが思案に耽る一方で、ムーもまた、湯の中に揺らめく自らにつけられた傷跡をじっと見ていた。カンダタによって癒されたが、それでも痛々しく痕がまだ残っている…。
『…疼く。』
「……?」
 自らの声色で呟く声が何処からか聞こえてきたのを感じ、ムーは辺りを見回した。
―………幻聴…?
 それ以後は…特に何も聞こえなかった。

「…ふむ、その様な事があったのか。」
「ええ。」
 蜀台に差された蝋燭の明かりの中、メリッサは老人と向き合って話していた。
「そなたの妹…儂は目にした事が無いが…さぞや美しい娘なのであろうな。」
「ふふ、見たい?昔も今も…顔見られたくらいじゃあの子は全然気にしないから。」
 メリッサは水晶玉を取り出すと、それに手を翳して念じた。
「ほほぉ…。随分幼いのぉ。」
 映し出されたのは甲板に立つムーの姿であった。
「これでも17歳なのよねぇ…。」
 顔立ちの無機質さと端正さが相まって…実年齢より数歳年下に見られることはこれまでも少なくなかった。
「聞いた話だと、12歳で事を起こしたみたいだけど…まるでその時のままね。」
「ほんにのぉ…。斯様な幼子があのような事をしようとは思わなかったわい。」
「…万死に値する所をニージス君が助けてくれなかったらどうなっていたでしょうね…。」
「じゃが…それでもその娘に宿る力の本質は残っておるのだろう?…そなたには悪く聞こえるやもしれんが…その小童も相当甘いのぉ。」
「そうね。…でも、どんな酷い事をしても家族は家族だもの。やっぱりあの人には感謝してるわ。初めて聞いたときは少し恨みもしたけど…記憶ばかりか命が掛かっているなら…あの子は本当に苦労したでしょうけど、私としては素直にホッとしたわ。」
「…素直に…か。」
 記憶を失う…それがどの様な感覚であるのかを知る者はそう多くは無い。だが、物事と向き合う術さえ忘れてしまっているならば…苦労する事は恐らく避けられないだろう。そして…存在を忘れ去られてしまっている残された側の悲しみを見て、メドラ…ムーは何を思うのだろうか。

「…その様な事があったあるか。」
 スーの村にある宿の一室でサイは話に聞き入っていた。
「二度と見たくない顔だったわ…。」
「……それはそうある。何故その様な事をしておいておめおめ生きているのか訳わからんね。」
「…ええ。ニージスが記憶を封じたんだったら魔法も使えなくなってしまうはずなのに…どうして…!」

―兄さん!!
―邪魔するから。
―…このぉっ!!
―…あなた達なんか相手にしてる暇は無い。邪魔するならいなくなって。
―!!
シュゴオオオオオオッ!!!
―いやはや…何か凄い事になっているようで。
―…に…ニージス…!兄さんを助けて!!
―…ふむ…これは…。残念ですが手遅れですな…。
―そ…そんな…。
―ですが、今の彼女の行く手を阻む事そのものが無謀と言うものでしょう。おそらくは実力派の九代目の賢者殿も手に余る相手でしょうな。
―簡単に言って!あなたに何が分かるって言うの!?

「ひと思いに殺してしまえばよかったのよ…!あんなの生かしておく価値なんて何処にあるって言うのよ!!」
「確かにわからないある。どうして記憶を奪うと言う様な回りくどい真似なんか…。」
「…あいつ…ニージスとだけは仲良かったのよ…!どうせお人よしなあいつの事だから情けをかけたに違いないわ!」
 歯に衣着せぬ物言いとはこの事であろうか、ジナは過去の怒りに囚われながらまくし立てている…が、親友の言葉を聞くうちにサイもまたその理不尽さに何とも言えない気分になった。
「…ところで、ニージスって誰あるか?ダーマの賢者その人でいいあるか?」
「ええ…!賢者って肩書きだけのダメ人間よ…!」
「ダメ人間…あるか…」
 容赦ない中傷に、サイは思わず肩を竦めた。それほどまでにジナの怒りは凄まじい物であるのか…。肉親や親友を奪われた事の痛みを知らぬ彼女にはそれを知る術は無かった…。