第九章 氷海の祠

―レフィル……。
「…ん…んん…。」
 何処からとも無く誰かが呼ぶ声がした様に感じて、レフィルはゆっくりと起き上がった。見回すと、夜に寝付いた筈の船室のベッドは無く、自分は洞穴の中の一枚岩の上に横たわっていた様だ。
「…夢…かな?」
 見覚えがある様で…全くの別の世界…レフィルの瞳にその様な物が映し出されている…。
―わたしの声が聞こえますか?
 頭の中に響き渡るのは…ガラスの鐘の様な透き通った声だった。
「…疲れているのかな、わたし…。」
―これまでも貴女は苛烈な旅路の中で耐えてきたのです。疲れていて当然でしょう。
「…そう言う問題じゃ…。」
 
 洞穴の外の滝壷の前で、レフィルは見えない者と話していた。そして…
―さて…わたしはそろそろ行かねばなりません。またいずれ会いましょう。過酷な宿命を行く者よ。
「…待って!あなたは一体…」
 全てを言い終える前に、周りが音も無く崩れ出していつしかレフィルの意識も暗転した。

「レフィル!」
「!」
 耳元で強く呼びかけられてレフィルはびくっと肩を竦ませた。
「…ホ…ホレス…」
 レフィルは床の上にうつ伏せに倒れていた。ホレスが手を差し伸べつつ、自分の顔を覗き込んでいる…。
「…大丈夫か?」
「え…?…あ…」
 手を取って立ち上がりつつ、ようやくレフィルは我に返って状況を理解した。船の中は割れた皿やガラスの破片がこれでもかと散らばっている。
「…まさか此処で嵐に遭うとはな…。」
「うん…。」
 エジンベアを出航し、ランシールへと舵を進めていた矢先に突然の天候の悪化と魔物の襲撃に遭い、一行は成す術も無くそれに身を委ねるほか無かったのだった。
「船は一応動くようだが、とんでもない所に流れ着いてしまったみたいだぞ…。」
「とんでもない所…?」
 言われて辺りを見回そうとしたその時…一筋の風がレフィルの頬に吹き付けた…。
「…寒……。」
「どうやらレイアムランドに流れ着いたみたいだな…。」
「…え?」
 レイアムランド…極地として知られる無人の雪原…。此処を訪れる者…生きて帰ってきた者は殆ど無く、未だに謎に包まれている。

「ルーラじゃ此処に船を置いていく事になりますね…。」
 あらかじめ積まれていた毛皮の防寒具に身を包み、防護ゴーグルをかけたレフィルは氷の海に浮かぶ船を見てそう呟いた。
「…ですな。まぁそれは最後の手段という事で。此処で船を失ってしまったら…今度は手に入れるのに大変な苦労を強いられますからな。」
 厚手のマントに包まりながら、ニージスはそれに頷いた。
「しかし、ホレス…その格好で寒くないので?」
「…別に。あんたこそそんな厚着で動けるのか?」
「いやぁ、寒いですからな。体が冷えちゃ動けんですな。」
 ホレスはいつもの黒装束にゴーグルをつけただけの格好のまま、特に装備に変わりは見られない。
「と言うより凍傷起こすのでは?」
「…オレの心配より…あいつの心配したらどうだ…?」
 ホレスは間が悪い様子で別の方向を見た。
「き…きあいぃ…やぁああ………」
「おおぅっ!?」
「!?」
「………。」
 ガチガチと歯噛みしながら震えているカリューの声とその様子を見て、レフィルとニージスが思わず仰け反る一方、ホレスは只フゥ…と嘆息した。
「…ななな…何故その格好で外に?」
 笑を隠せないのか、ニヤニヤしながらニージスは尋ねた。
「お…漢ならこないな寒さで音ぇ上げたらアカンって…」
「い…いや、君は女では?」
「き……気の…持ち様…ぶえっくしょいっ!!」
「か…カリューさんっ!!」
 氷点下を切る極寒の大地で…水着並みの露出度の出で立ちで出てくるだけでも大した度胸ではあるが…。
「無謀だろ…あんた。」
「お…お前に言われとうないわ!!」
「……ふん、毒づいている暇があったら外套でも着ておけ。」
 ホレスは何処からか、毛皮のマントを取り出してカリューに手渡した。
「…ふむ、カリューもそう思われているので…。もっとも…彼女も人の事言えた立場じゃありませんがな。」
「…そうですね……。」
 凍て付く寒さの中で口論している二人を眺めながら、ニージスとレフィルは肩を竦めた。
―…こんな寒い中であんなに元気なんだろ…二人とも。

 激しい吹雪と見渡す限りの白銀の世界…その過酷な環境の呵責を受けて飢えた魔物が四人に牙を剥いた。
「な…なめんなやぁーっ!」
 カリューは寒さに顔を歪ませながらも、背負った魔剣を抜いて魔物の群れに向けて振り切った。
「声震えてるな…」
「ですな。」
 衝撃波で魔物達が吹き飛ばされて怯むのを横目に、ホレスとニージスは普段の出で立ちにマントを羽織っただけのカリューの姿を見て呆れたように呟いた。
「しかし…今回の嵐でかなり遠くまで流されてしまったようで…食料だか何かはもう少し調達した方が…」
「それはそうだが…ここでどう手に入れる…?…やはり獣肉か魚か…?」
「でしょうな。ほら、出た。」
「…あれは…」
 カリューの攻撃の余波をかわしながら、三人は青い獣の一団がこちらに向かってくるのを見た。
「ゴートドンか。」
 くるりと曲がった雄雄しい角を生やしたトナカイのようなフォルムの獣…ゴートドンの群れが凄まじい勢いで突進してきた。
「おうおうおう…とりあえず落ち着いたら如何で…」
「…そう言っても聞かんだろうな…。」
「そ…そう言う問題じゃ…」
 やれやれと肩を竦ませてホレスは無造作に左手に持った物を魔物に向けて投げつけた。
ドガーンッ!!
 爆発で氷の大地が砕かれて、その破片があたりに飛び散った。
「…まだ勢いは死んでいないようで…ならば…」
 爆発に揉まれて尚一体のゴートドンが三人へと猛進するのに対してニージスは掌を構え…
「イオ」
 爆発の呪文…イオを唱えた。
ドドドドッ
 規模の小さな爆発音が突進の音にまぎれて小さく鳴った。直後、ゴートドンは滑り込むようにして地面へと崩れ落ちた。
「やるな。」
 小さな爆発が起こす力を上手く操り、相手を転ばせたのだった。難しい事ではないにしても、確信が無ければあまり気軽にできる芸当では無かった。
「はっは、あまり手荒な真似は得意では無いので…」
「ムーを止めておいてよく言う…。」
 口調にはどこか余裕が感じられる…状況からも言うまでも無く本気ではなかったのだろう。
「…それよりカリューの方は大丈夫なので?」
 二人は言われてハッと振り返った。
「……。」
 魔物の群れの成れの果てのど真ん中で、カリューはマントに包まって動く気配が無かった。
「凍ってる…。」

「ぶえっくしょいっ!!…あ〜…マジ死ぬかと思ったわ…。」
「それなら初めからやめとけよ…。」
 氷の上の円陣の上の炎を囲んで四人は佇んでいた。カリューは炎に手を当てつつ震えている…。
「ふむ…一応は魔法の理論についてはおわかりの様で。」
「…興味半分で少し齧っただけだ。」
「…フバーハとメラミの二重の魔法陣なんて…どれだけ極めてるので…。」
 フバーハの光が魔法陣の中から静かに溢れて一行を包み込んでいた。その外の激しい寒さとはかけ離れている快適な環境の中で四人は身の振り方を話し合っていた。
「実際に使ったのは初めてだが…あんたの魔力が無ければ意味を成さなかったんだよな。」
「…適性の問題が無ければ君も立派な魔法使いになれたでしょうに。」
「……。」
 魔法理論だ何だと聞いても、レフィルとカリューには何の事だかさっぱり分からなかった。
―…ホント…凄いよね…。
「…あれから一時間近くになるのに魔物の襲撃はありませんね…。」
 レフィルは手元で包丁を使って獣肉を少しずつ捌きながらそう呟いた。
「ああ、苛酷な環境だけにそもそも住む個体数がそこまで多くないからじゃないか?」
 焼きあがった肉を頬張りながらホレスは彼女に言葉を返した。
「…ん〜、せやけどごっつうしんどかったな。」
「それは君が万全で無かったからでは?」
「何言ってんねん!ヘルコンドルやら豪傑熊だかが寄ってたかってたんや!クマなんかは一匹でも十分危険やろ!?」
「…ですな。」
 魔法陣の外には氷の大地が抉られた跡が数多く残り、激しい戦いが想像できた。
「追っ払うのも大変だったな…。」
 仕留めたのは結局…今肉として食べているゴートドンのみで、他は撃退と云う形に留まった。
「…まぁ、一応これで結構な日数の食料は確保できましたな。」
 レフィルとホレスによって捌かれたゴートドンの肉の塊を見て、ニージスは上機嫌そうに言った。
「もう暫く探索してみるか。…それにレイアムランドにも何かあるかも知れないしな…。」
「おおぅっ!??それはつまり…此処を探索すると言う意味で…!?」
「ああ。極地だけあってレイアムランドについて何も分かっていないのだろ?」
 帰らずの海の別名を持つだけに、前人未踏に等しい…。
「そ…それは分かるのですが、カリューを殺す気で…??」
「…む……あんた、いい加減ちゃんと防寒具着たらどうなんだよ…。」
「心配しなや。今度は大丈夫や。」
「目が大丈夫で無い気が…」
「命掛かってる事忘れるなよ…。」
 数々の名だたる冒険者達が命を落とした過酷な環境の中で余りに無防備な格好をしているカリューを見て、三人ともが嘆息した。